奥州街道(14)



花巻−石鳥谷郡山盛岡渋民沼宮内
いこいの広場
日本紀行

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花巻

旧街道は円通寺の先で国道4号バイパスによって分断される。左に迂回して国道4号を横切る交差点でそのまま国道を東に進んでいった。大まかな目算でこの付近が
東京から500km地点であると踏んでいたからだ。果たせるかな北上川にかかる鉄橋の手前に500kmの標識をみつけた。ただしこれはバイパスであって本来の陸羽街道国道4号ではない。

交差点に戻り広い道を北に向かうとすぐに右から復活した旧道と合流する。南城小学校の手前、右手のがけに枝を垂れる笠松は、その先小学校の庭に残る三本の松とともに
「奥州街道なごりの松」である。南部藩士・奥寺八左衛門定恒が寛文5年(1665)、自費で苗木を買い入れ花巻から鬼柳(北上市)まで松並木を整備した。

南城小学校一帯は「上館」跡で、奥州の俘囚安倍頼時が中央支配に反乱して起こした前九年の役(1051〜1062)で、政府軍の源頼義がこの付近に陣所を置いたと言われている。

その先、左後方に出ている細い道は
旧岩崎街道である。ここから南西に向かい、山ノ神・飯豊・門屋・新平(にっぺい)を経て江釣子(えづりこ)佐野から和賀川を渡り、岩崎で旧秋田街道(平和街道)に至る全長15.6kmの道で、江戸時代前期に奥州街道ができるまで本街道と呼ばれていた古道である。平和街道は平鹿郡横手町(秋田県横手市)と和賀郡黒沢尻町(北上市)を結ぶ街道で、二つの郡名の頭文字をとって平和街道と名付けられた。国道107号にほぼ沿った道である。

「賢治詩碑前」バス停で街道を離れ右にはいっていく。最初の十字路を右に折れた所に萱葺の
同心屋敷が二軒残されている。共に江戸時代末期の建物で、街道両側に15戸つづあった足軽同心屋敷のうち2軒がここに移築復元された。天正19年(1591)、豊臣秀吉による九戸政実攻略後、浅野長政配下の一隊30人が当地に残り南部氏に仕え花巻同心組となった。

その先を左におれて森の方にむかって進むと森の中に
賢治詩碑が建つ。この場所は元々賢治の祖父宮沢喜助翁の隠居所があったところで、賢治は大正15年に花巻農学校を30歳で退職したあと、この家に「羅須地人協会」を設立、独居自炊をはじめた。説明板に「下ノ畑ニ居リマス 賢治」とあるその畑は、今は水田になっている。賢治はここに農家の青年を集めて、農業・化学について講義をし、種や作物の交換会を開き、レコードを鑑賞しようとした。金持ち息子の道楽とも映った文学青年の理想主義は農民の共感を得られずに数年で頓挫した。

賢治の没後、曲折を経て羅須地人協会の建物は現在の花巻農業高等学校敷地内に復元され、跡地には「雨ニモマケズ」の詩碑が建てられた。高村光太郎の揮毫で賢治詩時の第1号である。碑の下には遺骨と経文が納められていて墓碑でもある。「雨ニモマケズ」の詩は小学生の時、兄が宿題で暗唱しているのを聞いて覚えた。詩の原体験であった。

雨ニモマケズ  風ニモマケズ  雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ  丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク  決シテ瞋ラズ  イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト  味噌ト少シノ野菜ヲタベ  アラユルコトヲ  ジブンヲカンジョウニ入レズニ  ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ  小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ  行ッテ看病シテヤリ  西ニツカレタ母アレバ  行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ  行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ  北ニケンクヮヤソショウガアレバ  ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒド(デ)リノトキハナミダヲナガシ  サムサノナツハオロオロアルキ  
ミンナニデクノボートヨバレ  ホメラレモセズ  クニモサレズ
サウイフモノニ  ワタシハナリタイ

街道に戻り、国道4号を横切って豊沢橋を渡り花巻市街地に入る。最初の信号交差点の北西角に「豊沢町一里塚(錦塚)」の立札がある。江戸日本橋から130番目の一里塚である。東京からおよそ510km。そんなところだ。

街道は次の信号を左折して松庵寺に突き当たるのだが、交差点を直進したすぐ左手に
「宮沢賢治生家」があるというので寄った。宮沢賢治の父方の実家である。賢治の弟清六が家を継いだ。建物は新しく、往時を偲ぶものはない。隣にある海鼠壁の土蔵は実家とはなんの関係も無いが、賢治記念館的な建物で賢治関連資料の展示館と土産品売り場を兼ねた施設になっている。品の良いご婦人がお茶を出してくれた。

街道にもどり
松庵寺をたずねる。境内右手に両刃の大型石器のような芭蕉句碑がある。「物言えば唇寒し秋の風」と刻まれ嘉永5年(1852)の建立である。

境内の左手には3基の
餓死供養塔が並ぶ。一番右が文化2年(1805)建立の飢饉疫病死供養塔で、宝暦6年・天明3年の大飢饉の死者を弔うもの、中央は文化12年(1815)銘の餓死供養塔、そして左は天保4年(1833)の飢饉供養塔である。宝暦の飢饉には藩内の死者6万人にも達し、人々は野山にある草木ことごとく食べ尽し、犬、猫、鼠にすら値がつけられ食したと伝えられている。

古めいた飢餓供養塔の傍に趣のことなるモダンな
高村光太郎の文学碑がある。光太郎は東京と花巻で二度の戦禍を受けたのち太田村山口(現花巻市太田)の山小屋で7年間にわたる独居生活を送った。その「山林孤棲」の間、智恵子の命日10月5日に松庵寺を訪れて、一文を残している。
奥州花巻というひなびた町の浄土宗の古刹松庵寺で秋の村雨ふりしきるあなたの命日にまことささやかな法事をしました。(中略)限りなき信によってわたくしのために燃えてしまったあなたの一生の序列をこの松庵寺の物置御堂の仏の前で又も食い入るやうに思ひしらべました。

街道は松庵寺の前を北にすすんで市役所にむかうのだが、ここで西に方向を変えて寄り道することにした。

二葉町交差点を左折して県道12号にでてすぐ先左手に
「宮澤賢治の母イチの実家(賢治誕生の家)」、宮澤商店がある。外から店内の人に会釈を送って敷地内に入らせてもらった。すぐ前に賢治の産湯の井戸がある。ツルベ井戸を相手にカメラを縦、横、斜めに構えていると店内から当主と思われる老紳士が書類を手にして現れ、敷地内を丁寧に案内してくれた。書類は宮澤家の家系図と、花巻城下町鍛冶町の説明、賢治の母イチの実家、産湯の井戸の説明書である。賢治の父宮澤政次郎の実家は豊沢町でみたところである。ここは母イチの実家宮澤善治家である。偶然宮澤姓同士が結婚した。宮澤善治家は寛永時代創業という老舗商家で、塩・タバコの専売品の他灯油、雑貨、砂糖など幅広い商品を扱って財をなした。家系図によると現当主宮澤啓祐氏は花巻商工会議所会頭という重鎮である。賢治は豊沢町で生まれたことになっているが、イチはここ鍛冶町でお産したのだからここが賢治生誕の家だという。まさにその通りである。今流にいえば、ほとんどの人の生誕場所はいずれの実家でもなくて某病院の出産室ということになろう。

井戸の奥には土蔵がならびその裏の一段低い場所に鯉が泳ぐ小さな池があった。産湯の井戸の水位と同じだという。鍛冶町地区には豊沢川の伏流水が地下水脈を形成しており井戸が各家にあった。屋敷の裏側にまわる。旧家の趣を擁した建物と色付き始めた裏庭の植栽が好ましい調和を見せていた。

県道12号を西に1km余り進んだところ、稲荷神社の先の三差路を右折して花巻市文化会館をめざす。坂道の途中左手にある
身照寺には宮沢家の墓に並んで宮沢賢治の五輪塔の墓がある。文化会館と隣接するぎんどろ公園は、元花巻農学校(現在の岩手県立花巻農業高等学校)の跡地で宮沢賢治は大正末期の3年間ここで教壇に立った。

街道に戻り花巻市役所前の交差点に出る。市役所前を右にはいっていくと
花巻城大手門跡の標石と花巻城時鐘がある。市役所、裁判所、花巻小学校周辺一帯が花巻城跡である。時の鐘は正保3年(1646)盛岡城の時鐘としてつくられたが、小さいので弟分の花巻城に移されたのだという。仙台青葉城の伊達政宗像が地元で人気無く、新しく建て替えられたのを機に子分の岩出山城
贈られたという話を思い出した。末弟だった私は何でも兄の古手をもらい受けることが当たり前になっていてそれを不満に思わなかった。そんなことを思いだしながら時の鐘を見上げる。櫓が立派でその中にある鐘の小ささには気がつかない。今も夕刻6時には時を告げるそうである。

花巻城は10世紀のころ鳥谷ヶ崎(とやがさき)城と称し安倍氏の居城であったといわれている。中世に入り稗貫氏の居城となったが豊臣秀吉の小田原攻めに加わらなかった為に滅び、その後南部氏の一族北秀愛が稗貫・和賀2郡を領する城代となり鳥谷ヶ崎城を花巻城と改め城と城下町が整備された。

盛岡地裁前の道を東に進んで行くと左手に鳥谷崎神社がある。入口に立ち構える櫓門は
円城寺門と呼ばれ当時の花巻城三之丸搦め手門であった。慶長19年(1614)の建立で花巻城に唯一残る遺構である。頑丈な高麗門の上に白壁の箱を乗せただけの実直素朴な佇まいである。

神社の西側を北にむかうと土塁が残っていて
東御門跡、焔硝御蔵跡の標識が立っている。そこを左折すると小学校のグラウンドにでる。このあたりが本丸跡で、一部は鳥谷ヶ崎公園になっている。近所のグループが家族連れでピクニックを楽しんでいた。学校前の通りから坂を下るところの早坂御門跡に石垣の遺構が残っている。そこは城内から花巻宿場街につながる出入口になっていた。

坂をくだり県道116号との交差点に出る。街道はこのまま直進して仮屋(本陣)等があった宿場街一日市町(ひといちまち)に入っていくが、ここで県道を東に向かい賢治由緒の
イギリス海岸を見ることにした。小舟渡橋で瀬川をわたると左手に公園、右手北上川との合流地点付近がイギリス海岸である。河床、河岸に現れる泥岩盤が石灰岩で知られるイギリスのドーバー海峡に似ていることから宮沢賢治が名づけたといわれる。水量が多くて岸辺にその片鱗を見ただけであったが、河床が露出するほどに川の浅いときはさぞかしもっとイギリスらしい風景を見せてくれるのであろう。賢治はよく生徒をここに連れてきて化石探しを楽しんだ。

街道にもどり本丸橋西詰めで右折して一日市町に向かう。南北に走る県道116号が街道筋である。一日市バス停の先、花巻信金の交差点を左折し曲尺手状にすぐ一筋目を右に入る。県道に並行した裏道が旧道であった。四日町1丁目の200mあまりの路地の中央辺り、花北地区コミュニティー消防センター脇に
明治天皇御聖蹟の碑が建ち、街道沿いに「花巻城下町発祥の地 四日町 一日市町」と書かれた標柱がある。明治天皇は明治9年7月5日一日市の渡辺弥四郎宅に、明治14年8月18日には四日町伊藤儀兵衛宅に宿泊している。碑文によれば、渡辺宅の1棟は稲荷神社社務所として、伊藤家住宅は焼失後瀬川氏所有地に復元保存されているとある。

「花巻城下町発祥の地 四日町 一日市町」の標柱には三枚の引き出し式ミニ説明板が仕舞い込まれていて、引き出してみると一日市町制札場絵図、花巻城下図などがあった。面白いアイデアだ。

街道は突き当りを右折し県道にもどるが、古道はそのまま北上していたようだ。宅地化で道は失われた。

四日町2丁目バス停付近に一、二階共に見事な格子造りの家が残っている。

その先四日町3丁目信号の三差路を右折するのが江戸時代中期以後の奥州街道だが、それ以前の古道が四日町3丁目交差点から県道123号で左にまがったところ、コンビニの西側に残っている。四日町1丁目にあった明治天皇御聖蹟碑先の突き当りからここまでの古道跡は宅地開発で消失した。この古道は途中光林寺の前を通り北寺林を通って次の宿場石鳥谷の先まで鎌倉街道とよばれて部分的に残されており、のちほど2回に分けて寄ることになる。ここではその最初の部分を400mほど辿ってみた。

県道から右の細道に入り本館橋を渡ると、右手民家の前に寛政5年(1793)の庚申供養塔や馬頭観世音碑等が並んでいる。釜石線のガードをくぐると道が二手に分れ分岐点に
「浅沢の道しるべ」がある。右の小さな石は嘉永5年(1852)の道標で「右ハ松林寺 左ハゆみち」と刻まれ、左の文政2年(1819)の念仏塔にも「南無阿弥陀佛」の両側に「右松林寺みち」、「左ゆみち」とある。湯道とは花巻温泉の源泉である台温泉方面を指す。右の松林寺道が奥州古道である。200mほどで広い車道に合流した。その後北に真直ぐ向かって光林寺に至る1本道までの道筋は無くなった。

四日町3丁目交差点にもどり、東にむかうとすぐに国道4号に出る。この道は江戸時代に開かれた奥州街道新道で、石鳥谷の先まで14kmにわたって一直線の道が作られた。

街道は瀬川をわたり花巻空港を右に見て北上する。空港の北端、花巻空港駅口交差点の南西角に
新旧二基の道標が保存されている。石柱は明治23年のもので「土佛観世音道」と刻まれている。土仏観世音は石鳥谷大興寺にあり、古くから土仏観世音信仰が盛んで、ここで土仏街道が分岐していた。右側の自然石は享保9年(1724)の追分石で、「右ハはやつ祢みち」「左ハもりおかみち」と刻まれている。もとは道の東側にあった。早池峰(はやちね)山は川井村・遠野市・花巻市の境界にある標高1917mの北上山地最高峰である。古くから霊山として崇拝されてきた。

この交差点を東にとって花巻空港の東隣にある花巻農業高等によっていく。ここに宮沢賢治の建てた
羅須地人協会が復元されている。やや右肩を下げ、手を後ろに組んでうつむき加減に歩く賢治の像が前庭に立つ。サムサノナツにオロオロアルいた賢治の姿かと思ったりした。家は祖父の別荘だったという、随分と立派な建物である。実家を弟夫婦にわたして独身の自分は別荘での独り暮らしを選んだ。

学校敷地の西隣は空港である。爆音が近づいてきたのでカメラを構えると着陸体勢のチャイナエアラインが目の前を降りてきた。

おなじく学校の敷地内、賢治の家の北側は
「方八丁遺跡」になっている。平安時代初期の遺跡で胆沢城志波城の中間に位置して東北蝦夷開拓の拠点であったと考えられている。

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石鳥谷(いしどりや)

花巻空港駅口交差点から花巻市石鳥谷町に入る。国道の西側が南寺林、東側が江曽地区である。長楽寺への案内標識がある信号交差点手前右手に「江曽一里塚」があり、傍に一里塚碑と明治天皇江曽御小休所の碑が並んでいる。一里塚の説明板に、花巻四日町1丁目で奥州街道が二つに分かれた経緯が触れられている。光林寺を通る「古道」とよんでいる奥州街道は慶長15年(1610)頃に開通した。その後南部第28代藩主重直の時代明暦4年(1658)に、古道の勾配・屈曲をなおして一直線の「新道」に付け替えたのだという。古道の東1kmほどのところに新しい真直ぐな道をつくったのであるから、古道は改修しなくてもいいのではないかと思うがどうか。古道改修と新道建設の二つをやったということか、判然としない。とにかく、そのときに花巻四日町3丁目交差点を東に折れる道が開かれた。

すぐ左手の林に
「小森林(小森)館跡」がある。中世に稗貫郡を統治した稗貫氏の家臣・小森林氏の居館跡と伝えられる。

その少し先に
「逆(さかさ)ひば」とよばれる古木が寿命を存えている。サルスベリのような滑らかな幹にいくつもの穴があいていて痛々しい。弘法大師に絡む伝説があるというから非常に古い。上部の方が根元より太いことから逆ひばという名がついたというが、そんな風にもみえなかった。

滝沢橋と耳取川を渡り、国道4号は石鳥谷バイパスとして左に分かれ、奥州街道は県道265号となって直進する。あくまで奥州街道新道は真直ぐなのだ。光林寺によるためバイパスに入り最初の十字路を左折、直線的な農道をみちなりに西に進むと石積みに白壁をめぐらせた時宗の名刹
光林寺が風格ある佇まいを見せている。のどかな田園風景の中に孤高をたもつ風景である。創建は弘安3年(1280)、宗祖一遍上人の従兄弟河野通次によるといわれ、時宗総本山遊行寺よりも古いことになる。

元禄14年(1701)、光林寺16代円護が総本山遊行寺45代尊遵上人となったとき、東山天皇より勅額を賜って門前に
下馬札が立てられた。奥州街道新道の建設は、参勤交代の大名がこれを嫌って光林寺をさける道を作ったという説もあるそうだが、新道建設が勅額拝受よりも40年先行して、つじつまがあわない。下馬することになった以前から光林寺が嫌われていたとするなら別であるが。

参道入口に長慶天皇ゆかりの腰掛石と手撫での松がある。冠木門の前を古道が戸通っていた。

国道沿いの道の駅石鳥谷にある
南部杜氏伝承館に寄るため、旧道にもどらずに国道4号を北に向かう。道の駅敷地の北側に海鼠壁の酒蔵がある。石鳥谷は、越後、丹波と並ぶ三大杜氏の一つである南部杜氏の里として知られる。南部杜氏のルーツは近江商人にあった。五個荘、八幡、日野にならんで近江商人4大発祥の地の一つが西近江路の高島で、高島商人は古代北陸道の駅家があった和邇の小野氏にはじまる。

小野氏の祖先ははるか飛鳥時代の敏達天皇に遡る。その子春日皇子の下に小野妹子、小野篁、小野道風、小野小町等そうそうたる歴史的人物を輩出した。下って江戸時代の初め、その遠い末裔に
小野正則がいて、長男は村井家となり次男則秀が大溝十四軒町に井筒屋を開き初代小野家当主となった。則秀の次男が小野権兵衛で、寛文2年(1662)盛岡本町(京町)で近江屋を開いていた同郷の村井新七宅に草鞋を脱いだ。村井新七は南部藩にやってきた最初の近江商人で、はじめは遠野の砂金集めが目的だったようである。3年後に盛岡城下に定着、近江屋は高島商人の面倒をみる草鞋脱ぎ場となった。小野権兵衛はその後村井と改姓し、盛岡から南の志和に移って近江屋と号し木綿・小間物の商いを始めた。さらに村井権兵衛は上方の「すみ酒」(それまでこの地方は濁酒を飲んでいた)製造技術を生かして酒造りを始めた。延宝5年(1677)のことである。これを初めとして志和、郡山、盛岡に近江商人による酒造ラッシュが始まった。

村井権兵衛の近江屋はその後天明元年(1781)「志和酒造店」として受け継がれ現在の吾妻嶺(あづまみね)酒造店に繋がっている。「三方よし」の旅としてぜひ寄りたかったが所在地紫波郡紫波町土舘字内川5番地(志波IC近く)が奥州街道からはかなり離れているため断念した。南部藩の財政を一手に引き受けるに至った盛岡における近江商人の足跡は後ほど詳しくみることにしよう。

そのまま国道を北に進んで石鳥谷交差点に出る。左から国道に接近する細道は光林寺から延びて来た
古道である。国道で分断されるが、交差点のすぐ先で右手に復活して石鳥谷小学校の西側に沿った雑木林に消えている。林中にある窪地が古道の痕跡である。この道は鎌倉街道、古街道、弾正下りなどと呼ばれている。

小学校の西側の道をすすんでいくと雑木林の北端近くに
好地旧一里塚が残っている。溝をはさんだ林はあたかも旧道の並木のように見える。ここの説明板にも新道切替の事情が記されている。「曲折の多い道は直線に改修するとともに、山道は平坦部に移し」とあるが未だによくわからない。

県道109号で東北本線をまたいで奥州街道にもどる。駅前通りの少し手前左手、三又美容室の看板の下に新道の
「好地一里塚跡」説明札が立っている。江戸から133番目の塚とある。築造は明暦4年で、新道付け替えのときである。

一里塚の街道向かいに
「石鳥谷肥料相談所跡」の説明板がある。昭和3年3月15日から一週間、宮沢賢治はここで肥料相談所をひらき農民に今年はどの肥料が適当であるかを教えた。賢治はここから眺めた一里塚の情景を詩「三月」として残している。

一里塚 一里塚 塚の下からこどもがひとりおりてくる つヾいて ひとりまたかけおりる 町はひっそり 火の見櫓が白いペンキで 泣きだしさうなそらに立ち 風がにはかに吹いてきて 店のガラスをがたがた鳴らす

薬師堂川を渡り右に折れて川沿いに北上川に出る。水門のある堤防に沿って土手下に蔵のある立派な家が散見される。このあたりは
石鳥谷河岸跡で、酒や米の積み出しで繁昌した。

街道にもどる。左手に見える高い煙突は
菊の司酒造七福神工場である。松坂商人の流れをくむ
六代目平井六右エ門が盛岡で酒造業を始めた。盛岡工場で菊の司、石鳥谷工場では七福神を製造していたが平成17年両銘柄とも盛岡工場に集約した。軒下にぶら下がる杉玉がこころなしかわびしい風采であった。石鳥谷の宿場がどこであったのか、銀行があるところからこのあたりが旧宿場街だったのであろう。家並みに往時の面影は見当たらない。

街道は家並みをでて花巻市と紫波郡紫波町の境界にちかづく。

左手に菊池数馬の墓がある。菊池家は肥後国の名門。数馬は石鳥谷に住居して地元の開発に尽力し石鳥谷の恩人として崇敬された。

そのすぐ先に
境塚がある。花巻市石鳥谷町好地と紫波郡紫波町犬渕の境界である。共に盛岡領内であったから好地村と犬渕村の村境として造られたものだという。16基の塚が築かれ9基が現存しているという。仙台・南部の藩境塚は一里塚のように立派だったが、ここの塚は高さ50cmから1mほどという低いもので、何度も標識の周辺をみなおしたが塚の高まりは認められなかった。

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郡山

街道(県道265号)は犬渕信号で国道4号に合流、ひきつづき五郎沼あたりまで真直ぐな道筋を保つ。次の信号手前、盛岡建具センターのある丁字路を左折して古道を訪ねる。細い砂利道をまっすぐ進むと突き当たりに
「鎌倉街道跡」の標識が立っている。明暦4年以前の奥州街道である。

付近は雑木林と田畑の中に民家がまばらにあるだけで、ひっそりといにしえの記憶を守る古街道にふさわしい情景であった。古道を南の方へすこし辿ってみると傾きかけた西日に霞んで一層趣をました景観があった。傍を通る東北本線に半シルエットの二両編成電車が日暮れ道を急いでいった。北方面はまっすぐにのびているがまもなく道は消失して、「古道」という地区の東端をかすめ上田で国道に合流している。ここから花巻四日町まで付け替えが行なわれたのである。

ところどころに残る松並木の名残をみながら滝名川をわたると南日詰にはいる。蔭沼集落の終わり辺りに一里塚跡を示す「塚」屋号の高橋家があるとのことだが、見つけられなかった。

やがて左手に大きな
五郎沼が見えてくる。地元の人が散策するだけの静かな沼である。北側に古代ハス池がある。大賀ハスで知られる古代ハスを現代に蘇らせた元はこの五郎沼にあるという。

五郎沼と
薬師神社、赤石小学校の周辺一帯は樋爪(ひづめ)館の跡地で、奥州平泉初代の藤原清衡の4男清綱の子太郎俊衡・五郎季衡が居を構えていた。五郎沼は五郎季衡に由来する。文治5年(1189)源頼朝は陣ヶ岡に陣を敷き平泉藤原氏を滅ぼした。藤原泰衡の首は陣ヶ岡にさらされたのち、中尊寺の金色堂に安置された。その時だれか泰衡の首桶に五郎沼のハスの実を入れたものがいた。昭和25年(1950)泰衡の首桶からハスの種が発見された。大賀博士が保存し教え子が平成6年に発芽させ、平成11年中尊寺に移植して開花させた。平成14年(2002)に中尊寺から株分けされ五郎沼の地に移植された。813年ぶりに古代蓮が五郎沼に里帰りしたのである。

東北新幹線をくぐりその先桜町交差点手前の二股で、左にカーブしていく国道4号と分れ、旧街道はそのまま直進していく。1kmほどいって道が左に曲がるところに
志賀理和気(しかりわけ)神社(赤石神社)の参道が出ている。参道には30本ほどの樹齢500年を越える桜が並木をなしている。「南面の櫻」と刻まれた石碑が立ち次のような悲恋物語が伝わっている。14世紀前半の元弘の頃、都から当地に下った藤原頼之がこの地の領主の娘桃香と相思相愛の仲になり記念に二人で1本の桜の苗を植えた。ところが頼之は急に都に戻ることになった。歳月は流れ、かって植えた桜に花が咲いた。花は南面に向かって咲いていた。桃香のやるせない思いが桜に宿ったものであろう。

   
南面(みなおも)の桜の花は咲きにけり 都の麻呂(ひと)にかくとつげばや  桃香

志賀理和気神社は全国最北端の延喜式内社で、南部の一の宮である。社名のシカリとはマタギ言葉でマタギ集団の統率者の意味があるという。坂上田村麻呂が東北遠征に際して香取、鹿島の武神を勧請した。境内に玉垣に囲まれて
赤石が祀られている。天正(1573〜1593)の頃この地を治めていた斯波詮直が、北上川を遊覧中に川底に輝く赤紫の大石を見て、

     けう(今日)よりは 紫波(しわ)と名づけんこの川の 石にうつ波紫に似て

と詠んだ。以後、それまで子波、斯波、志和などと呼ばれていたこの地は「紫波」と定まった。赤紫の大石は引揚げられここに祀られた。黒い部分もあってなんとなく紅殻を雑に塗ったように見えなくもない。玉垣の鉄パイプまで同じ色なのはやりすぎではないか。

参道の途中に北にのびる細道がある。民家脇をすりぬけ水路をこえると運動公園の土手に出る。右手のグラウンドに降り川岸にでたところが
郡山河岸跡である。今も小舟渡(こぶなと)とよばれる船着場があり、そばに「北上川の舟運と郡山河岸」と題した標石が設けられている。盛岡藩では盛岡新山河岸を起点とし郡山、花巻、黒沢尻に河港を開いて舟運の便を図り南部からは米・大豆が江戸に運ばれ、上方や江戸で仕入れた古着・反物・陶器・書籍などが送られてきた。

参道入口までもどり旧道を北にむかう。途中旧道は左に入って行き国道4号に近づいたところで右にまがって元の道にもどる道筋になっている。桝形でもなさそうで、何のためかわからない。道筋も明確でなく、とりあえず富岡鉄工所の角を左折し水路をこえたところで右におれて街道筋にもどった。途中なにもなかった。大きな交差点をわたって県道25号にのる。ここからが旧宿場の繁華街のようである。

左に煉瓦造りの塀を廻らせた二階建の立派な屋敷がある。豪商
平井六右衛門宅(平六商店)で、大正10年、12代目六右衛門が当時の首相原敬の帰郷を歓迎して建てたものだという。初代平井六右衛門(伊勢屋六右衛門)は伊勢松坂の出。元和年間(1615年〜)郡山に移り伊勢屋を開き米や雑穀の仲買を始めた。二代目六右衛門のとき八戸藩の御用商人として「御蔵宿」の宿元を勤める。その後、安永年間に六代目が酒造業を始め今日の菊の司酒造に至る。石鳥谷ではその七福神工場を見たところである。

産金、舟運の拠点として郡山は盛岡より古くから商業が盛んな町で、多くの商人が集まってきた。中でも活躍したのが近江
高島商人である。南部杜氏の祖といわれる村井(小野より改姓)権兵衛は志和で酒屋を起こす前の寛文7年(1667)に郡山に土蔵を建てて行商の基地としている。

この志和近江屋の二代目となったのが村井権兵衛の兄小野善五郎の次男で養子となった
小野権右衛門(二代目村井権兵衛)だが、志和近江屋を三代目にゆずった後、自らは日詰に移って井筒屋をおこした。小野権右衛門はのち京に移って名門鍵屋を買収、鍵屋小野家を起こした。後の小野組の祖である。日詰井筒屋からは井筒屋・大和屋・福地屋・村谷屋・鍵屋・鍋屋の屋号で13軒もの分家が出て日詰に定住した。分家のなかでも筆頭格は高島郡音羽村出の井筒屋彦兵衛で、元禄4年(1691)15才で日詰井筒屋権右衛門に奉公し支配人にまで上がった後、正徳3年(1713)井筒屋の家号を許されて分家した。彦兵衛家の同族には音羽屋・村谷屋・井筒屋・白木屋・関本屋などがある。

右手、
ヒノヤ呉服店も近江人の末裔である。近江国日野の歌人祝清風が500年ほど前、諸国遍歴の末日詰に落ち着いたといわれる。江戸時代には「日野屋」の屋号で旅籠、茶屋などを営んだといわれる。その末裔にヒノヤ呉服店、大正13年大野宗三が日野屋古物商から自立したヒノヤ自動車(本社は盛岡に移転)がある。

その先、右の音羽、左の村谷屋も井筒屋権右衛(郡印)から分かれたものである。

右手、東北銀行駐車場に
銭形平次を演じた北大路欣也の手形と銭形平次会館がある。紫波町は、「銭形平次捕物控」の作者野村胡堂の生誕地である。手を合わせるとピッタリだった。自動的に音声ガイドが流れる仕組みになっていて面白い。

左手の
幾久屋(きくや)呉服店の祖は美濃国武儀群関の金子七郎兵衛で、寛文12年(1672)に日詰へ移り美濃屋を開いて呉服、砂金の売買で財をなした。特に4代目金子七郎兵衛は天保15年(1844)に南部藩御勘定奉行元締役となる。また一万両を出して承慶橋を架橋、美濃屋は後に幾久屋と藩命によって変わる。所有する田畑は三31ヶ村にわたり、家屋敷は日詰に37軒あったという南部領内の豪商の一つであった。また、金子七郎兵衛の子孫に金子キンがおり花巻の宮澤喜助に嫁いだ。宮沢賢治の父、政次郎の母親である。

左手ふれあいパークに
「明治天皇聖蹟」碑がある。明治9年と14年の御幸の際はいずれも幾久屋が昼食の場所となった。

このあたりの地名は「郡山駅」という。天正16年(1588)、南部氏によって斯波氏が滅ぼされ、高水寺城が郡山城と改めらた。やがて郡山城下の日詰町を中心に奥州街道の宿駅が設けられた。継立業務は二日町、日詰町、下町が10日ずつ分担した。
本陣は日詰町の桜屋と井筒屋、上町(二日町)では御仮屋(代官所)が利用された。

南部藩時代には領内でも屈指の商店街で宿場町として栄えた郡山日詰も、井筒屋の領外追放と明治にはいって幾久屋、桜屋の没落、再三の大火で郡山商店街は衰退の道をたどった。鉄道駅を避けたのが致命的となる。現日詰駅は南に2km離れた赤石地区にあり、近くにある紫波中央駅は住民の寄附を集めて平成10年に開設されたばかりである。日詰駅からわずか2kmしか離れていない地点に、住民の反省をこめた懇請によって造られた。

近江商人とあって、随分道草を食った。街道を急ぐ。

突き当りヒノヤタクシーの前を左折する。右手駐車場も銭形平次風に造られている。国道4号の手前を右に折れて200mほど進んで国道に合流する。道向かいに楼門が立派な
勝源院がある。本堂の裏に逆(さかさ)ガシワがある。地際で四本の支幹に分かれ、それぞれ地面をはうように伸びてから立ちあがっている。根が枝のように見えるので、逆(さかさ)ガシワと呼ばれている。

街道はすぐ先の信号を右折する。左手高台の民家敷地内に二日町一里塚跡の白い標柱が立ち
「奥州街道百三十五番目一里塚跡」と記されている。右に出ている道は「大元帥陛下御幸新道」とよばれ、明治に整備された道である。街道はすぐに左に折れるが、そのまま進んで丘の上にある高水寺城跡に寄っていく。

高水寺城は南北朝時代、足利尊氏が南朝方の八戸南部氏や北畠顕家を抑えるため斯波家永を奥州管領に任ぜた頃に築城された。天正16年(1588)、南部信直が領有してからは郡山城と改められた。盛岡城築城中の一時期、南部利直が居城し南部藩の本拠となったが寛文7年(1667)盛岡城の完成にともなって郡山城は廃城となった。丘にあがると城山公園の奥の方から都はるみの演歌を歌う女声が聞えてきた。近づいてみると車椅子で車座になった老人の一団があった。丘の頂上には「御殿跡」「高水寺城址」の碑がある。石垣が残っているのは復元か、オジリナルか、説明板は無い。

街道の丁字路にもどる。二日町向山集落にはいって道が右に曲がるあたりに「日詰長岡通代官所役屋(御仮屋)」があり、本陣としても利用された。家並みがきれたあたり、右手高台に
高水寺と走湯(そうとう)神社が並んである。走湯神社は文治5年(1189)源頼朝が藤原泰衡征伐のため陣ヶ岡に滞在したとき、高水寺の鎮守として伊豆の走湯権現を勧請したものである。社殿回廊の片隅に逞しい男根木像が人目を避けるように立っていた。

横屋酒店で突き当り、左折して国道4号の手前で右折する。右折せずその道をまっすぐ国道を横切って西に2kmあまり行ったところに
陣ヶ岡がある。その名が示すとおり歴史上数々の戦いにおいて陣が張られた場所である。延歴22年(803)、坂上田村麻呂が志波城を築いたときの宿営地であり、源頼義・義家父子が前九年の役で3万人の軍勢を常駐させた場所である。頼義は池に月の輪と日の形をした中島を造った。さらに文治5年(1189)源頼朝が藤原泰衡を滅ぼしたときここに布陣し、もたらされた泰衡の首を実検した。「藤原泰衡首洗いの井戸」なるのもがあるという。後に泰衡の首が平泉中尊寺に送られる際、首桶にハスの実が入れられた(混じっていた)ことは五郎沼の古代ハスで触れた通りである。また男根木像があった走湯神社が創建されたのもこのときである。近世になって天正16年(1588)南部信直がここに布陣して斯波氏を壊滅した。格別な地の利でもあったのか、陣ヶ岡は寄っていくべきであった。

右折した道は砂利道となり国道4号に出たところで右側の歩道を進みそのまますぐ右手に復活した旧道に入る。蟠龍寺の隣に
「月の輪」横澤酒造店が広い敷地に趣ある佇まいを見せている。一升瓶を抱えた木彫の月の輪熊がかわいい。「月の輪」の銘柄は陣ヶ岡の中島からきているのか。


古い家並みをぬけ五内川をわたって国道4号に合流する。三枚橋で紫波町から矢巾町に入る。広々とした田園地帯を3kmあまり進むと
徳丹(とくたん)城跡に至る。「トクタン」はアイヌ語のト・コタン(集落、村)に由来する。徳丹城は弘仁4年(813)、征夷大将軍文屋綿麻呂が築いた大和朝廷蝦夷地支配の最後の城柵である。803年に坂上田村麻呂が造った陸奥最北端の志波城が雫石川による度重なる水害で被害を受け、解体され遷し建てられた。

城跡は国道の両側に公園として整備されている。平成19年と20年の発掘調査では古代官道であった東山道のものとおもわれる側溝が発見された。大和から発した東山道の最北端に位置するものである。発掘調査はまだ続いているようで、調査員は肌を撫でるように土を取り除いている。矢巾町歴史民俗資料館の隣に萱葺の
佐々木家曲家が復元されている。村役を務めた農家とあって堂々とした建前である。

徳丹城跡から3kmほど北上したあたり、右手日産ディーゼルの北側の細道を東に進み、突き当りを右折してみちなりにゆくと北上川の堤防に上る。その先河川敷におりたところに小さな高田グラウンドがあってその南端をすすむと石ころ河原に出る。このあたりに
高田渡船場があり、対岸の遠野街道(国道396号)とを結んでいた。

国道4号にもどり見前(みるまえ)川で盛岡市に入る。

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盛岡

右手今宮神社の道路脇境内に「見前町と御制札」と題する案内板がある。見前町は宿場町で制札場、検断があったという。またこの町は「塚根」といわれ、この地には明暦3年(1657)に築造した一里塚があった。

しばらく歩いていくと津志田信号の北西角に八坂神社と
大国神社が並んである。この辺りはかつて津軽町とよばれた遊郭で繁昌し、大国神社には遊女や楼主たちが奉納した絵馬があるという。拝殿の献額を仰いでみたが見えたのは木地のみで、絵の痕跡も認められなかった。場所がちがったか。

南仙北2丁目歩道橋に差しかかる。左手、歩道橋の手前に
「川久保一里塚と稲荷街道」の説明板がある。左手後方に分岐する道が稲荷街道で、赤林、和味、松本の一里塚を経て志和稲荷神社に通じる16kmほどの参詣道である。天保5年(1834)13代藩主南部利済が日光街道を模して整備した。両側に土手を築き松並木を植えた。

歩道橋の先で道は二つに分かれ国道は右へ、旧街道は県道16号となって左方を直進する。国道側駐車場の端に小祠に並んで
明治天皇小次遺趾の碑がある。

旧道を進み、左手CINビルの手前に
小鷹処刑場供養塔がある。天保7年(1836)、小鷹刑場で処刑された罪人を供養するために北山法華寺により建立された。

仙北3丁目の大きな交差点で街道をはなれて西に4kmの
志波城古代公園に寄ることにした。広い道はすぐに東北本線と新幹線をくぐり国道46号となって西進する。イオンショッピングセンターを過ぎたあたりで左斜めの道に入り、右手に大宮神社をみて飯岡十文字交差点で県道13号を横切る。200mほどいくと中央の櫓門の両翼に暖色の長い築地塀をめぐらせた志波城がみえてきた。途中であった通り雨が古代の情景に色を添えるかのように、虹が城柵の空をかざっていた。あの門を通って蝦夷が金・馬・漆・海藻・魚介類などを携えて朝貢にやってきた。

正門である
外郭南門から城内に入る。築地塀にあごを乗せるように等間隔に櫓が建つ。この何の装飾も無い素朴な土と木の建造物は、律令政府の陸奥国最北端の城柵として延暦22(803)年に築かれた。しかし北を流れる雫石川の氾濫で、志波城は10年という短命で終わり、役目を徳丹城に譲ることとなる。内には古代米が栽培されていて今年初収穫を迎えていた。案山子も古代人の衣装を身に着けている。田の世話をしていたおじさんに話しを聞いた。黒紫色の稲穂を眺めながら、実のつき方が悪いとなげいた。「今年は冷夏でしたからね」と話をむけると「土があわないんだ」という。

柵内では時が流れていない。空気までもとまっているようにみえる。いつまでもこのまま居たい衝動にかられた。多賀城(721年)にはじまり、胆沢城(802年)そして最後の徳丹城(812年)を見てきたが、いずれでも跡地を示す石碑があるだけで、復元遺構をみたのは志和城だけである。そして朱塗りの政庁が復元されていなかったのがかえって古代の夢を膨らませるのに幸いした。4kmの寄り道の甲斐があった。
夢からもどって街道に向かう。

仙北町にはいる。南部時代、秋田の仙北地方から移住してきた人々の町である。北上川に架かる明治橋の手前で旧道は右に入って河岸に出た。SAKURAビルの北側の路地を入り長ま松寺墓地の北縁をたどっていくと右手にケヤキと文政2年(1819)の湯殿山供養塔、
高屋稲荷神社が寄り添っている。そのさきを右におれて狭い民家の間を抜けて北上川堤防にでる。延宝8年(1680)頃ここに新山舟橋が架けられ、明治7年(1874)になって木橋(旧明治橋)にかわった。橋の下手には新山河岸が開かれ周辺には御番所、舟宿、制札場、御蔵などが立ち並び、北上川舟運の起点として繁昌を極めた。河岸跡に残る板壁の民家に往時の面影をを偲ぶことができる。

今は少し上流の明治橋をわたる。交差点角にある
徳清倉庫は分厚い漆喰塀の内に幾つもの土蔵が配された立派な建物である。慶安年間(1650年代)盛岡近郊の徳田村出身の清右衛門が開いた商家で、酒・味噌・醤油の醸造業を営む傍ら米屋としても南部藩の米蔵となった豪商である。盛岡城解体時に払い下げを受けた御殿座敷が移築されているという。外部からは高い塀にさえぎられて土蔵の屋根を望むのが精一杯であった。

明治橋を渡って土手を右に行くと明治橋碑と舟橋跡の説明板がある。舟橋は両岸に親柱を建て川に並べた小舟を鉄鎖で繋留し、舟上に厚く大きな板を敷き並べたものである。土木工学上架橋が難しい箇所や、軍事防衛上常設の橋が好ましくない街道筋に利用された。新山河岸は明治22年東北本線盛岡駅が出来るまで活躍した。当時の盛岡藩
御蔵の一棟が左土手下に「下町史料館」として保存されている。さすが藩蔵だけあって商家の土蔵にくらべるとスケールが大きい。

新山舟橋を渡った奥州街道はここから御蔵の西側の道を通って明治橋北交差点を鋭角に右折する。右に円光寺がある。沿道には格子造りの古い建物が残りこれまでの市街化された道中とは異なった景観をみせはじめた。いわばオールドタウンにはいった感がある。先に言ってしまうが、「みちのくの小京都」と呼ばれる盛岡には見所が多い。以下、奥州街道を本筋としながらも興味本位の市内観光的な歩きとなる。できるだけ手短に数多くカバーしようと思う。テーマは南部藩と近江商人と石川啄木である。

円光寺前の通りを突き当たると奥州街道は左折して北上する。右方向の道を覗いてみると風情ある町屋が軒を連ねている。ここが
遠野街道の起点である。遠野街道はこの先、南大橋東詰めで国道396号となって約65kmの道のりを経て民話の故郷遠野に至る。勿論いつかは遠野まで歩く予定であるが、待ちきれず最初の300m余りをかじってしまった。

ここは鉈屋(なたや)町といい、京都の豪商鉈屋長清に由来する。遠野、釜石方面からは街道の終点、盛岡の入口にあたり、また裏には新山河岸が控える舟運の拠点でもあり、酒屋、米屋等商人が多く集まる場所であった。右手に格子造りの新しい商家がある。明治からの酒屋であった
藤村家で、街並景観保存の趣旨に則って改修された。

その先に
大慈清水とよばれる大規模な湧水井戸がある。車や自転車で水を汲みにくる人がいる。登り窯ならぬ下り井戸とでもいおうか、水源から4段に井戸がくぎられ上から順に、飲料水−米とぎ場−野菜、食器洗い場−洗濯物すすぎ場と使い分けられる。


街道沿いには更に格子造りの町屋が続き、遠野街道の心象が高まってくる。丁字路の角から金槌の音が聞えてきた。
斎坂製作所の看板を掲げた鍛治屋だ。格子窓から漏れ出してくる煙が一層風情を引き立てる。炉が見える角度に窓が切ってあり、そこから一枚、赤くなった鉄を撮らせてもらった。

その隣も格子造りの建物で、土蔵に掛けられた看板には
「岩井川酒造工場」とあった。浜藤第二工場として知られる。浜藤でしられる老舗の造り酒屋であったが、2006年突然自己破産して廃業となった。岩手県内一の規模を誇る酒蔵二棟が裏手に保存されている。なお明治橋手前、高屋稲荷神社の前に建っていた浜藤私邸は取り壊されて空き地になっている。

遠野街道の先食いはここまでとして市内観光に入ろう。

岩井川酒造工場のさきの丁字路を左折してらかん公園に向かう。永泉寺の先を右折しすぐ左折すると右手にらかん公園がある。宗龍寺があった所で、
五智如来と十六羅漢の大きな石像21体がぐるりと公園のまわりを取り囲んでいる。南部藩四大飢饉(元禄・宝暦・天明・天保)の餓死者を供養するため1837年から12年をかけて刻まれた。

帰りは永泉寺の先を右折して大慈寺による。ここに原敬の墓がある。中国風の山門入口に「どんど晴れロケ地」「古い町並み・格子戸のある家を手がかりに韓国の人気スター・ジュンソが盛岡にいる恋人を捜すシーン」などと書いた宣伝碑があった。

通りをそのまま進んで行くとまたも大きな湧き水井戸がある。
「青竜水」とよばれ絵馬を飾った立派な井戸である。大慈清水とともに平成の名水百選に選ばれている。

突き当りを左に折れて奥州街道にもどる。遠野街道起点より20mほど奥州街道を進んだところである。古い土蔵壁がみえる広大な敷地は
木津屋本店である。山城国木津村から移ってきた池野藤兵衛家の建物で天保5年の建築である。 南側からみた土蔵群は漆喰がはがれて荒れたようにみえたが、正面にまわってみると純白の土壁である。街道向かいには、岩手県宮守村の出身の豪商糸冶の商家があったが、重要文化財旧中村家住宅として盛岡市中央公民館内に移築された。

塀を背にして
「盛岡城警備惣門遺跡」の碑が立っている。ここに盛岡城の入り口南惣門があった。

旧奥州街道は南大通りを横断し、突き当たりの盛岡信用金庫の前を右折し、宿場街の中心部へと入っていく。

石鳥谷の南部杜氏にはじまって郡山での井筒屋の活躍など、南部は江戸につぐ近江商人の進出地で盛岡がその中心拠点となった。その元祖は高島大溝出身の村井新七で、慶長18年に開いた「近江屋」が高島商人の「わらじ脱場」となり、そこから「内和」と呼ばれる系列商店網がつくられていくようになった。村井(小野)権兵衛村井市左衛門を含めた三人が盛岡での近江商人の三始祖と呼ばれている。

盛岡市内ではすでに通ってきた遠野街道沿いの鉈屋町に
「近藤」(近江屋藤兵衛)がいた。初代駒井藤兵衛は安曇川北船木の出。「村市」で修業し「井筒屋善助(善印)」の支配人を務めた後分家して鉈屋に酒造業を開いた。明治にはいってからは盛岡随一の千石酒屋と称されたという。五代目で酒造を廃し酒類小売業に転じた。現在の鉈屋町にそれらしき酒屋はみあたらなかった。

ここ肴町から上の橋町にかけては今も「三方よし」の末裔が商いを継承している。

まず栃内病院前から一筋南にはいった肴町アーケード商店街に現役の二軒を見つけた。栃内病院前でにわか雨にあい、偶然肴町商店街のアーケードをみつけて蕎麦屋で雨宿りがてらに昼食をとったのだが、そのときは近江商人のことなど考えていなかった。この二軒は事後調査でのことで証拠写真は撮っていない。

商店街の南入口から左手数軒目にある
平金商店の祖、高島商人近江屋平野治郎兵衛は元禄末期に呉服町で南部藩の貨幣の鋳造を行なっていた。明和4年(1767) 近江屋平野治郎兵衛の三男平野治助が油町で酒造業を創業。天保年間(1830〜1843)には御用商人の酒屋として隆盛したが、6代目の平野金八は明治12年、酒造業を廃し油町から十三日町に移転、墨・紙・硯など文具商を開業した。このとき酒蔵は盛岡に支店を開いたばかりの日詰郡山の伊勢屋(平井六右衛門)に譲った。明治21年、肴町に移り文房具類・紙・茶を販売する「平野金八商店」を開業した。現在、10代目平野佳則氏が事務機・OA機器販売の(株)平金商店の社長である。

その先十字路の郵便局向かいが
村原薬局である。寛永18年(1641)高島郡大溝の薬種商「大塚屋」木村彌右衛門正則の孫、彌右衛門(初代村井彌右衛門)が大塚屋より分家し、大溝にて薬草商を開く。文政3年(1820) 六代目村井彌右衛門が盛岡中ノ橋角に出店「村井薬輔」をひらく。安政4年(1857)初代村井源之助が分家し肴町に移って古手商を開業、のち薬種舗「村源」を創業。現在の社長村井晃氏は6代目村源当主にあたる。なお、昭和39年(1964)村源商店から医薬品卸部門を分離して「村研薬品株式会社」が設立され村源商店は小売薬局にとなった。

街道(県道120号)にもどり、東に向かう。信号交差点角の大正時代の建物は
旧第九十銀行本店本館で、明治43年の建築で国指定重要文化財である。第九十銀行は破綻し事業は岩手殖産銀行(現岩手銀行)に引き継がれた。現在は「啄木・賢治青春館」となっている。前に
「呉服町、六日町」の町名由来説明板が立っている。呉服町には高島商人の血を継ぐ豪商が軒を連ねていた。

(抜粋) 当町には慶応4年(1868)の「南部家御用金被仰付(おおせつけらる)人員」番付によれば、西方大関、小野組最大の支店であった井筒屋善八郎を筆頭に、渋谷善兵衛(味噌醤油、呉服)、近江屋次郎兵衛(呉服)、井筒屋徳十郎(酒屋)、近江屋市左衛門(酒屋)、近江屋善六(質屋)、近江屋覚兵衛(呉服)等の豪商老舗が店を張っていた。

「小野組最大の支店」とは小野組(本店は京都)の盛岡支店のこと。筋向いの
「耕作」の土蔵はその小野組の現存する唯一の土蔵である。盛岡の高島商人三始祖の1人で南部杜氏の元祖、村井(小野)権兵衛は天和2年(1682)に郷里から兄小野善五郎の長男善助を呼び寄せ、元禄2年(1689)盛岡紺屋町に分家させ「井筒屋善助(善印)」を名乗らせた。これが小野組の祖である。井筒屋小野善助は上方からは木綿・古手などの雑品を南部にもたらし、砂金・紅花・生糸などを持ち下って陸羽地方との交易を拡大、京・江戸・盛岡を拠点に一大財閥を築いた。7代目小野善助(1831〜1887)の時、三井組、嶋田組とならんで出納所御為替御用達となり、明治維新には莫大な御用金などで新政府に加担した。明治6年には三井組と第一国立銀行を創設したが、明治7年政略によって破産に追い込まれた。

小野組破産後も小野系統の活躍は絶えていない。嘉永7年(1854)呉服町にて豪商小野組の支流
芳野屋の子として生まれた小野慶蔵は明治5年(1872)18歳で京都に出て修業、明治7年小野組の破産後盛岡に帰郷して金銀・株売買業で財産を成した。その後盛岡市第一期市会議員となった他、第九十国立銀行重役のまま岩手殖産銀行(現岩手銀行)を設立するなど、金融へ深く関わっていった。

近江屋市左衛門(村市)は三始祖の一人、村井市左衛門(幼名を市助、長じて孝寛(浄甫))が開いた店である。寛永10年(1633)村井源太郎の子として大溝に生まれた。万治元年(1658)
兄の村井源太郎が住む盛岡に移り呉服町に店を構え質屋を営みながら事業を拡大していった。「村市」の分家した一族には村井清八(近清)、村井源兵衛(本町)、村井市右衛門(高市)などがあり、暖簾分家は非常に多く、材木町の近江屋伝兵衛(近伝のちに近勘)、鉈屋町の近江屋藤兵衛(近藤)、紺屋町の鍵屋茂右衛門(茂兵衛の先祖)などの有力商人を輩出した。現在当主村井宏氏は13代目で、岩手県滋賀県人会会長をつとめる。2004年、夫妻の手で同家の古文書「村市文書」が刊行された。

中ノ橋交差点には旧東京駅に似た赤レンガの建物が堂々と構えている。
旧盛岡銀行本店で、岩手銀行の本店を経て現在は同行中ノ橋支店として使われている。明治44年の建築で国指定重要文化財である。東京駅と同じ辰野金吾博士が設計した。この付近が高札場で、盛岡宿の中心だった。


中ノ橋をわたって
盛岡城跡をたずねる。城跡全体が岩手公園となっていて、宮澤賢治の詩碑や石川啄木の歌碑がある。石垣が残る坂道を上がって本丸跡に着く。跡地の中央を銅像のない立派な台座が占めていた。台座には南部家42代南部利祥の騎馬銅像が建っていたが太平洋戦争で供出された。

中ノ橋から街道にもどる。なだらかな曲尺手の曲がり角に長々とした風情ある町屋が佇んでいる。
「茣蓙九(ござく)」といわれ文化13年(1816)に創業した沢井屋九兵衛の商家である。格子造りの母屋の店先には竹箒、熊手、茣蓙、巨大なタワシなどが立てかけられて、時代を間違えたかと錯覚を起こさせそうな一角である。建物は江戸時代後期、明治中期、明治末期と次々に建てましていったもので、街道沿いの数棟がそれぞれ異なった趣を見せている。沢井屋九兵衛は地元の商人か、情報がない。現在は森家の経営らしく、森九商店となっている。

「与の字橋」交差点も魅力ある一角だ。右角は老舗の白沢せんべい店、左角には大正2年建築の
紺屋町消防番屋がある。木造洋風建築で、中央に屋根を突き破って六角柱の瀟洒な望楼(ぼうろう)が木造灯台のごとくにそびえている。

その隣の森八商店も古い格子造りの町屋である。森九商店と縁のありそうな名前だ。

その先左手に
「菊の司酒造」がある。元和年間(1615〜1623)伊勢松阪から郡山に移った初代平井六右エ門が伊勢屋を開き二代目六右衛門のとき八戸藩の御用商人として「御蔵宿」の宿元を勤める。その後、安永年間(1772〜1778)に六代目六右衛門が酒造業を始めた。明治初年には盛岡に支店を開設、昭和2年に酒造工場を郡山から盛岡に移転。平成17年度まで「七福神」は石鳥谷の七福神工場でつくられていたが現在は菊の司工場に集約された。

酒蔵の前に「城下盛岡町名由来 紺屋町、鍛冶町、紙町」の説明板がある。中津川に架けられた上ノ橋から中ノ橋にかけて、上流から紙町、鍛冶町、紺屋町という一続きの大きな町並みがつくられ、幕未ごろには
紺屋町の鍵屋茂兵衛、沢井屋九兵衛(茣蓙九)、井筒屋伝兵衛、また鍛冶町の向井屋半兵衛、鍵屋定八、あるいは紙町の井筒屋弥兵衛、大塚屋宗兵衛などという屈指の豪商老舗が軒をつらねていたという。鍵屋、井筒屋、大塚屋は小野・村井系の高島商人である。

紺屋町バス停の先、左手マンションの前に
鍛冶町一里塚跡の碑がある。江戸日本橋から139里目にあたる。説明板に「城下鍛冶町は奥州道中筋の宿駅である」と書かれているように、中ノ橋から上ノ橋にかけて奥州街道盛岡宿の中心であった。

突き当たりの上ノ橋三差路の右向かいに重厚な黒漆喰土蔵造りの商家がある。裏にもきれいな白漆喰の土蔵がならぶ。現在は盛岡正食普及会の店になっているがもとは高島商人、村井弥兵衛の
井弥商店である。村井弥兵衛は小野井筒屋(善印)の支配人から独立して天保3年(1832)太物・呉服商をはじめ、氏と名を一字ずつとって屋号を「井弥」と定めた。明治中頃、三代弥兵衛は紙、醤油、味噌を商って財をなし岩手県内一位の多額納税者となっている。初代の盛岡市議、盛岡銀行頭取も務めている。世界大恐慌の影響をうけて昭和5年に破産。その後(株)井筒屋として不動産業、健康食品の製造に転じた。

上ノ橋を渡る。慶長14年(1609)に架けられたものである。京都二条大橋を模して青銅製の
擬宝珠で欄干を飾った。菊の紋章をあしらあった品格ある工芸品である。当時の工芸技術の最高位を示すものとして国重要美術品に指定されている。

橋をわたると本町通りとなるが
旧名は京町(後、本町)で、城下町建設当初京都方面から多くの商人、職人が招聘された。その中の一人が盛岡近江商人の元祖である村井新七である。新七はここに近江屋を開き、故郷高島からやってきた若者のわらじ脱ぎ場となって盛岡における高島商人の拠点となった。

本町通り信号で国道455号と交差する。北西角に「是よりは
小本街道 牛追のみち」と刻まれた石碑がある。小本街道は内陸の盛岡と沿岸の小本を結ぶ重要な交易路であった。盛岡から藪川―(早坂峠)―角―袰綿(ほろわた)―岩泉―小友(乙茂)―中島を経て小本に至る。早坂峠という険しい難所を越えて100kmの道を、牛方たちは野宿をしながら塩を運ぶ牛を追った。小本街道は「塩の道」、「牛追いの道」、そして「南部牛追唄発祥の地」である。

早坂峠に建つ「牛追いの道」碑文を引用する。

牛追いの道(旧小本街道)
盛岡城下の本町地内で、奥州道中から分岐して北東方面に進む道筋は、油町惣門、下小路、山岸町、御弓丁桝杉などを通過して城下と分かれ、その先、名乗り坂(以上、盛岡市)、明神山、藪川(以上、玉山村)などを経由し、早坂峠を越えて下閉伊郡に入り、さらに、門、袰綿、岩泉、などを経て乙茂(小友)から小本(以上、岩泉町)へと通じている。この道筋が小本街道と呼ばれていたものであるが、その途中では、閉伊街道、野田街道などの呼称も使われていた。
 この旧街道は、沿岸北部と盛岡などの内陸を結ぶ、重要な物流・交易の道であり、季節によっては一日六十から七十頭もの牛が往来したという。沿岸からは塩、海産物、鉄などを運び、盛岡などでコメ、アワ、ヒエ、マメ等の穀類や雑貨と交換した。特に、塩はその中心で、「塩一升、米一升」で交換された。
しかし、この塩の行商の道中は、牛方にとって決して楽な道程ではなかった。途中、野宿もしなければならず、病気や怪我、熊や狼の危険や、道の険しさなど命懸けの旅であった。なかでもこの地、岩谷から末崎までの早坂峠は、追われるコティ(雄牛)にとっても、追う牛方にとっても難所中の難所であった。

そのような情景を思い浮かべながら牛追い唄を聞いてみよう。

田舎なれどもサーハーエ 南部の国はサー 西も東もサーハーエ 金の山 コラサンサエー

今度来る時サーハーエ 持って来てたもれヤー 奥の深山のサーハーエ なぎの葉を コラサンサエー

さても見事なサーハーエ 牛方浴衣ヨー 肩に籠角(かごつの)サーハーエ 裾小斑(すそこぶち) コラサンサエー

沢内三千石サーハーエ お米の出どこヨー つけて納めたサーハーエ お蔵米 コラサンサエー

沢内三千石サーハーエ およねの出どこヨー 枡で計らねでサーハーエ 箕で計る コラサンサエー

肥えた牛(べこ)コにサーハーエ 曲木(まげき)鞍コ置いてヨー 金の成る木をサーハーエ 横づけに コラサンサエー

江刈葛巻サーハーエ 牛方の出どこヨー いつも春出てサーハーエ 秋もどる コラサンサエー
 
大志田羊歯(しだ)の中 サーハーエ 貝沢野畑ヨー まして大木原(おぎはら)サーハーエ 嶽の下 コラサンサエー

牛よ辛かろうサーハーエ 今ひと辛抱ヨー 辛抱する木にサーハーエ 金がなる コラサンサエー

サンサ羊歯の中サーハーエ 萱野の兎ヨー 親が跳ねればサーハーエ 子も跳ねる コラサンサエー

一の先達はサーハーエ すだれと小斑ヨー それの後たちゃサーハーエ 裾小斑 コラサンサエー

小本街道にはいってすぐの大泉寺あたりからは寺町通りと呼ばれ、盛岡城下町建設当時南部藩各地から移転してきた寺がここに集められた。日本の道百選にも選ばれているしっとりとした風情ある道である。

東顕寺の隣に三つの巨大な岩を祀る
三ツ石神社がある。鬼の手形をこの岩に押させたことが「岩手」の由来となった。説明板には岩に手形が残っているかについて触れていないが、写真をながめていると岩面になんとなくそれらしき凹凸があるように見えてくる。三ツ石はまた、「不来方(こずかた)」「さんさ踊り」の起源ともなった由緒深き石である。

その先、宮沢賢治ゆかりの
清養院と、石川啄木縁の龍谷寺が並んである。いずれの寺も大きくない。賢治が盛岡中学校(現盛岡一高)4年の時、寄宿舎の舎監排斥騒動で寮を追われ卒業までの1年間を清養院をはじめとして寺町の寺院を転々と下宿した。

龍谷寺の住職に啄木の母方の伯父対月がいた。対月の弟子であった啄木の父は、対月の妹カツと結婚した。啄木はよくこの寺を訪れ、対月から詩歌の手ほどきをうけた。

龍谷寺の北側の路地にはいって左手にある山門の立派な
報恩寺には木造の五百羅漢がありその中にマルコポーロとフビライの像が混じっているというので訪ねていったが、保管されているという海鼠壁土蔵造りの羅漢堂は5分前の4時で閉まっていた。

寄り道の足を更にのばして国道4号愛宕町交差点から市中央公民館内にある
中村家住宅を見に行く。鉈屋町の木津屋本店向かいに建っていたものである。呉服商「糸治」の商家で、建文久元年(1861)に建てられた。主屋は右端から左端まで、上から下まで見事な格子づくめである。白壁のウダツをあげている。

さて、盛岡市内観光の最後をかざる
石割桜啄木新婚の家光原社、そして源氏物語にでてきそうな夕顔瀬橋は奥州街道の南西側にある。愛宕町交差点から中津川右岸に沿って市役所前まで下る。ここから望む中津川対岸の景観が市内随一なのだそうだ。茣蓙九の裏側にあたる。長い土蔵の瓦屋根と土壁、その端を袖で隠す柳の枝葉。堤防の石積み、岸辺の草と川面、すれ違う人と自転車。これで充分であろう、背後のコンクリート造りは見なかったことにした。

市役所前から官庁街の広い中央通りを西に進む。裁判所の門を入った前庭に石割桜がある。かまぼこ型の巨石の中央を真っ二つに割って樹齢400年という桜の古木が今も割れ目を押し広げているというからすごい。たまたま石の割れ目に飛び込んできた桜の種が育ったのだという。どちらも痛々しい様子に見えた。

中央通り2丁目信号を越えて道がやや右にまがるところ、右手奥に
石川啄木新婚の家が保存されている。生誕の家、終焉の場所はいろいろと見てきたが新婚の家とは初めてである。いささか覗き趣味の恥じらいを感じないわけではない。萱葺屋根はトタン板で覆われているが、建物は江戸時代末期の同心屋敷である。家の中も建具も昭和時代の民家とかわらないほどにモダンな印象を受けた。中学時代(今の高校時代)の恋人とこの家の4畳半の部屋で新婚最初の3週間を過ごした。父母と妹も一緒の五人住まいだったからさぞかし窮屈であったろうと、同情しながら部屋中を覗きまわって家を出た。

中央通りの次の交差点を左折、北上川に架かる旭橋手前から右に延びる小奇麗な商店街が材木町である。入口角にある駐車場の名が「近勘」。祖は高島大溝の福井清右衛門で、宝永元年(1704)盛岡呉服町「村市」へ奉公に上がった。嗣子がなく岡田伝右衛門を養子に迎えた。伝右衛門も村市に奉公し支配人まで勤め上げて享保20年(1735)暖簾分けをうけ、材木町に呉服店を開き、近江屋村井勘兵衛(近勘)を屋号としたものである。幕末には盛岡屈指の呉服商となる。明治に入り4代目村井勘兵衛は第九十銀行頭取を務める。大正期の当主は村井呉服店、分家には村井文治が営む近文商店光原社の隣にある。

現在民芸品店となっている光原社は元出版社で、大正13年(1924)花巻農学校に在職中の宮澤賢治が「イーハトーブ童話 注文の多い料理店」を出版した。趣味の店にふさわしい落ち着いた中庭に賢治の碑がある。店の道向かいにも帽子を脇において足を組み通りを眺める賢治がいた。

商店街を通り抜けると左手が北上川に架かる
夕顔瀬橋である。盛岡城下の西口にあたり材木町の北端に惣門が設けられ御番所が置かれていた。橋を渡った新田町には枡形があり秋田街道(県道1号)、鹿角(かづの)街道(県道220号)の起点となっていた。

橋上からの眺めが南北両方共に美しい。北は遠方にやさしい稜線を描く岩手山が美しく、南には北上川を挟んで整然とした現代の盛岡がある。橋の中央に据えられた石灯篭はもともと江戸末期に奉納された「岩鷲山御神燈」と呼ばれる高さ約3mの石灯籠のミニチュア版である。

橋の西袂に夕顔瀬橋の由来碑がある。源頼義が安倍貞任を滅ぼした前九年の役で、安倍軍は瓜に目鼻を描いた藁人形を武者に仕立て川原に並べるという作戦に出た。しかし柵は火攻めにあって武者人形は北上川に投げ込まれた。顔を描かれた無数の瓜が川面を漂ったという。「夕顔瓜(うり)」に因んで「夕顔瀬」とよばれるようになった。

ここで寄り道を終わる。街道の本町交差点までもどる。

街道は亀屋菓子店の交差点を右折、本町2丁目仁王小学校口交差点を左折するとすぐに曲尺手に差しかかる。本町2丁目と3丁目の境にあたり、左に四ツ家町公民館、右に三戸町公民館がある。ここが城下北口で四ツ家惣門があり番所が置かれていた。角に大きな赤衣をかけた恰幅のある大智田中地蔵尊(愛称、四ツ家地蔵)がいる。地蔵堂の裏側は一段下がった低地になっていて、「赤川堰跡」の標石があった。盛岡城の外堀跡である。

その先山田線の上田踏切をわたり上田町に入る。真直ぐに伸びる道のところどころに街道筋を思わせる古い町屋が残っている。「上田組町」の町名由来版がある。

上田地区は,藩政時代には,岩手郡上田村と言い,「上田通り」三十一村のうちに組み込まれ、上田通り代官所の所管下にあった。上田組町は、盛岡城の外堀にあたる赤川堰付近から上田出口を経て,北方の奥州街道に接続する主要な幹線道路筋にあって、町内には五人の組頭 のもとに各組三十人ずつ、総勢百五十人の足軽が配置されていた。道路の両側には、茅葺屋根の足軽屋敷が建ち並び、家屋はほとんど同型のころどや(一軒家)で、屋敷の境はひば垣であった。「御組丁」とも言ったが、屋敷内にはぐみの木が多く植えられているところから、もじって「上田ぐみ町」とも言われた。寛保二年(1742)、南部藩は足軽を同心と唱えさせたことから、「御同心丁」とも言った。上田組町は、まっすぐ長い一本町で屋敷並みを過ぎれば、人家は疎らで東裏には正覚寺があり、西裏には覚山の地蔵尊に通ずる道があったが、いずれも広い田圃の中であった。

左手に
盛岡第一高校がある。石川啄木、金田一京助、野村胡堂、宮沢賢治等が学んだ名門である。
道は目立たない程度に標高をあげ始めているのに気づく。一関以降北上川にそって比較的平坦な道をたどってきた。いよいよ街道は岩手・青森県境をめざして山地にむかい、北上川はその源に向かって遡上していく。今助走がはじまったところだ。

国道4号を斜めに地下道でわたる。盛岡高松局付近に上田同心組町の桝形があった。右手に
高松の池がある。盛岡城を築城するに当たって大規模な治水工事がおこなわれた。上田沼とよばれた湿原地に上田堤を築いてできたのが高松の池である。現在は桜の名所となっている。

高松4丁目交差点で広い車道に合流し、盛岡三高前を通って緑ヶ丘地区に入る。郊外の大規模住宅開発地域である。ショッピングセンター、カワトクの前に江戸から140番目、盛岡市中鍛冶町から最初の
上田一里塚があり、その先数本の松並木の名残がある。塚木は若いが塚は原形をたもち立派である。

東黒石野にはいって道が右に曲がる所、家並みの最初が喫茶店(ル・テリエ)の手前に左に下りていく道がある。金網フェンスの開口部分から降りて、廃道止めのガードレールをすり抜けて十字路を直進し、五差路を右斜めにとって長坂とよばれる急坂を越えると県立博物館に至る。敷地内に移築されている重要文化財の旧佐々木家・藤野家住宅を見たかったが公園が工事中で入れなかった。

別荘地のような林間の道を進みドミニカン修道院入口を通り過ぎたあたりの右手に小野松一里塚がある。左にも塚が残っていることになっているが気づかなかった。右の塚は塚木こそないが、見事に円やかな伏椀形を見せている。

旧道はその北側で車道から分かれて細道に入る。
四十四田ダムの入江を回り込んで元の車道に合流する。旧道はここでダムの底に消えた。合流点左手の小野松橋から見える岩手山が美しい。入江はダムの水位によって地面の水没と露出を繰り返し湿原にかえつつある。

旧街道は観音橋をわたって県道16号に合流し、快適な山道を北上、岩姫橋の手前で県道と分かれて右の道を行く。この道は小野松橋の先で湖底に消えた旧道が復活した道筋である。1kmほどいくと岩淵第二発電所のある笹平大橋に差しかかる。橋を渡った先にある
笹平一里塚をさがす。左手道路下の民家の庭をかすめて川の方へ進んでいくと岸辺の林の中に潜んでいた。塚の形状がそれほど明確でなく、標識がなければ藪の一部とみていたかも知れない。民家の庭の窪地が旧道跡のようである。

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渋民

街道の左が大きく開け高原と低い山並みの景色が広がっている。手前の街道沿いはなんのことはない、産業廃棄物最終処分場であった。その道向かいに明治天皇御小休之碑が建っている。

街道はその先で新幹線のトンネル上を通過して下り坂となり、右に曲がっていく車道と分かれて直進し、真直ぐな道を柏木平集落に入って行く。集落をぬけたあたりに開田10周年記念碑がある。ラベンダーの紫が沿道を飾って、収穫を待つ黄金の稲田と稲掛けが並ぶ刈田が広がる。遠くには西に
岩手山が、東には神姫山が美しい円錐の峰から緩やかに流れる両翼を広げている。その間に絶景をさえぎるものが何も無い。しばしたたずんで美しい日本の原風景の中に身をゆだねた。

  
ふるさとの山に向かいて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな  啄木

県道169号に合流して濁川を渡るとようやく渋民地区にはいる。すぐに左に曲がっていく県道と分かれて旧道は盛岡工業団地の中を通り抜ける。国道4号バイパスを潜って渋民集落に近づいたころ、右手の電柱脇に
渋民一里塚跡の標柱が立っている。

国道4号本線に合流して最初の信号手前右手に
愛宕清水がある。集落の水場であった。3本の柄杓が釣らされているところを見ると今でも使われているようである。由緒書きの類はない。

すぐ先の参道を登ると、森の中に
愛宕神社がある。これから訪ねる石川啄木記念館の敷地に移築復元された渋民小学校は当時愛宕神社の下にあった。教師をしていた啄木は好んでこの森を散策し「命の森」と呼んだ。

渋民宿の中心付近にくるが、宿場風情を感じさせるものがない。渋民宿は小さな宿場だった。右手の昭和シェルGSとその先の酒コンビニエンス大塚屋は高島商人の末裔である。江戸時代の中頃、大塚屋駒井伊兵衛酒店の手代だった
駒井久兵衛が暖簾分けをうけて渋民に酒造業を開いた。駒井久兵衛は盛岡鉈屋町の駒井藤兵衛と同じ安曇川北船木の出である。明治時代には明治天皇淳巡幸の際の行在所となるなど、渋民で隆盛を築いた。直ぐ先の駒井酒店も同族であろう。

信号十字路の右側に
石川啄木記念館がある。その敷地内に渋民尋常小学校旧斉藤家が保存されている。渋民尋常小学校は啄木の母校でもあり、明治39年(1906)4月より1年間代用教員として勤務した学校である。校舎は柾屋根造りに連子格子という純正木造建築である。啄木は住職の息子として生まれ、1歳のとき父の宝徳寺転任に伴って渋民に来る。盛岡中学校で金田一京助、野村胡堂、そして後の妻堀合節子と知り合う。その後上京、帰郷、北海道での放浪を経て27歳で結核により死去した。啄木は終生貧しさから逃れられなかった。

右隣に建つ萱葺屋根の旧斉藤家は江戸末期の町家で、啄木が代用教員時代家族と一緒にこの家に間借していた。軒下には黄色に輝くトウモロコシが干してあり、萱葺屋根のテッペンにはペンペングサが生えている。通り土間も興味深かった。懐かしい風景である。

記念館から街道を横切って渋民小学校の西側にある
啄木公園に寄る。岩手山を背景にして啄木の歌碑が建つ。大正11年(1922)の建立で全国第1号の啄木の歌碑だという。

   
やはらかに柳あをめる北上の 岸辺目にみゆ 泣けとごとくに

この曲にメロディーがついているのを今回知った。インターネットで視聴したがいま一つだ。わたしの好きな啄木の歌(メロディー付)は、何んといっても「初恋」である。短い曲だから余興のアンコール曲として重宝した。

   
砂山の砂に 砂に腹這い 初恋のいたみを 遠くおもい出ずる日

銀河鉄道好摩(こうま)駅の東方、芋田地区で道が大きく右に曲る所に新塚の一里塚が原形をとどめて残っている。左側に塚はみあたらない。

芋田沢田で街道が左に曲がるところで国道4号と分かれて右斜めの旧道にはいる。ひっそりとした道は燃えるようなサルビアの花で飾られている。集落の後半からはサルビアにマリーゴールドが加わって
状小屋(じょうごや)地域の「花いっぱい運動」が最高潮に達する。左手にひろがる田園風景も沿道の花に劣らず美しい。わずか1kmの旧道であったが魅力的な街道歩きを体験させてくれた。

国道にもどって巻堀地区に入る。歩道橋の先、高橋家の庭に
「明治天皇駐蹕之處」の碑がある。高橋家は巻堀神社の宮司を務める旧家である。

すぐ先右手にその巻堀神社がある。長禄3年(1459)創建という古社でもとは
南部金勢大明神。明治3年、巻堀神社に改称された。金勢大明神とは男根崇拝からきた安産・縁結びの守護神で、かつては奉納された木製や石製の金勢様が社殿に山と積まれていたらしい。神体である高さ70cmほどの青銅造り男根像は天保4年(1833)江戸黒門町の浅井五兵衛が奉納したもので、現在は宮司高橋家に祀られている。

境内には健康的な色艶をした金勢神を祀る小社の他、女陰を表す石船の上に乗った男根、木の根本に祀られた男根石像など、いまも金勢崇拝は健全なようである。

才津長根の永井橋の袂左手にに
一字一石一札供養塔がある。東北地方は昔からしばしば凶作や飢饉に見舞われてきた。その際の餓死・病死者を供養するもので安永7年(1778)の建立、法華経典を一石に一字ずつ書写して供養塔の下に埋められている。法華経を一字一石づつ刻む習わしは他地にもあって、最近では三国街道六日町の雲洞庵参道で見た。

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沼宮内

街道は見所にあふれた盛岡市内をぬけてようやく岩手郡岩手町川口にはいってきた。沼宮内宿の領域である。ラーメンたけちゃんの敷地内に二ツ森(草桁)一里塚跡の標識がある。2004年建立で4名の名が記されている。教育委員会ではなくて歴史愛好家の個人が建てた物だろう。

その先で国道と分れ右側の県道157号で川口集落に入っていく。集落入り口左手に岩手山を背景にして袴姿の凛とした女性が立っている。「宝塚の華 未完の大女優 
園井恵子の像」とある。昭和20年8月6日、広島に慰問巡演中原爆にあった。母宛の手紙を残して8月21日、32歳の短い生涯を閉じた。

園井恵子と岩手山の間を銀河鉄道の貨物列車が通り過ぎていった。


川口には古い家が残っている。宿場ではないが城下町であった。右手には
紅殻塗りの板塀を延々と廻らせ家紋をあしらった門を構える大きな屋敷がある。川口駅前をすぎた左手には赤トタン屋根であるが二階はウダツを上げ千本格子が見事な商家である。

古館川を渡り川口中学入口手前の土手に
川口館跡の説明板が立っている。街道から台地に上がる道をたどると雑木林にでた。城跡の遺構等はない。川口氏の祖は源頼朝の時代に遡る。天正19年(1591)九戸の乱後城は廃棄され、川口氏はその後八戸に移って八戸南部藩家老となった。


旧街道は川口集落をぬけ県道を右に分けて直進、いわて銀河鉄道の跨線橋をこえてすぐ右側に出ている旧道を下りて行く。野原集落にはいってまもなく左手に
明治天皇御小休之趾の碑が建つ。

野原集落の北端で国道4号に合流する。
旧道は国道の向こう側にも続いているが、短い坂をおりると丹藤川の前で途絶えていた。対岸に続いている様子でもない。

国道にもどって丹藤橋を渡り、北上川の手前で右の旧道にはいり
丹藤街道踏切を渡る。

のどかな田園の道をすすんでいくとY字路にさしかかり稲架けの道へ案内するかのように分岐点に
「芦田内一里塚入口」の標柱が立っている。左の道に入っていくと小川の手前に「芦田内一里塚」の白い標柱があった。塚というよりは山縁のような地形である。

木々の隙間から小川の向こうにも白杭が小さくみえ、かろうじて
「芦田内番屋跡地」と読めた。旧道はそこを通っていくようだが、小川を渡れず写真を撮るだけで断念する。

稲架けの道を引き返し大きく東に迂回して芦田内踏切に出る。旧道はそのまま線路の東側を北上していた。踏切からしばらく道が残っているがやがて山の中に消えている。踏切までもどり線路を渡って国道4号を北に進む。沼宮内南口信号で国道4号は市街地の西側へ迂回していく。旧道は直進して沼宮内駅前で県道17号に合流する。沼宮内は岩手町の中心で、新幹線も止まる駅は近代的な駅舎である

駅から100mほど北で銀河鉄道と新幹線を越えてすぐに左に折れ、踏切地点から復活している旧道に入る。米屋など旧街道の雰囲気を残している。すぐに県道17号に合流して沼宮内の商店街に入る。古い建物が残り旧宿場らしい趣を擁している。
野口バス停の先、左手にある上路旅館は明治41年(1908)創業のしにせ旅館である。二階窓にほどこされた格子の装飾が繊細な品格を表している。

右手には海鼠壁の堂々とした土蔵が建つ。広い敷地内には別の土蔵や石蔵もあって造り酒屋のような気もするが、つきものの煙突は見当たらない。なんでも沼宮内の大地主の家らしい。

大町に入ると通りが広くなって家並みが急に明るくなった。沼宮内の中心にきたようだ。駅から随分離れている。幾度の火災に懲りて、汽車の火の粉を嫌い駅を町のはずれに追いやって後悔した日詰の町を思い出した。

右手「きたぎん(北日本銀行)」の手前、町の駅に
「寄寿姫の像」があり、裏に5枚のパネルからなる沼宮内伝説が描かれている。大蛇から村を救うため人身御供となった長者の娘の話である。

その先の信号丁字路を右に入ると沼宮内小学校正門前に
「沼宮内代官所跡」と題する説明板があり、その先右手に古びた標識が立っている。慶安4年(1651)から南部盛岡藩沼宮内通りの代官所が置かれていたところで、北岩手郡の中心であった。

その先曲尺手の名残を経て柳橋をわたり右折、県道17号に沿って沼宮内城跡によっていく。途中左手の沼福寺には
「明治天皇御料馬瀧澤號之墓」がある。東北御幸の途中で殉死したのか。

城山保育園の角を左折、国道281号を横切ると「城山公園入口」の表示がある。坂道をあがっていくと城跡にたどりつく。岩手山、沼宮内の町がみわたせる頂上に
「沼宮内民部城址」の石碑が建つ。沼宮内氏の祖は文治5年(1189)源頼朝が奥州平泉の藤原氏征討のとき戦功のあった相模国河村氏の一族とされる。川村一族から沼宮内氏、川口氏、渋民氏、玉山氏などが分れた。天正19年(1591)の九戸政実の乱の際には両軍攻防の場となった。

街道に戻る。右手にある福山光一氏宅が「塚」という屋号で、
新町一里塚跡だということだが、屋号も塚跡を示すものも見当たらなかった。北上川の手前で右折して川に沿った旧道を行く。北上川も細くなったもので、これから源流を訪ねる旅となる。

途中、国道281号を横切り民部田で国道4号に合流。旧道はこの先、国道の西側にでて銀河鉄道にそって
川原木集落を縦断する道筋になっているが、なかなか踏切が出てこない。新幹線の高架をくぐり第18地割の川原木信号でようやく左折して川原木踏切を渡って旧道に出られた。見慣れた銀河鉄道の電車が近づいてきた。八戸行き、青い森鉄道とある。いわて銀河鉄道は目時までで、目時―八戸間の青森県内は別会社になっている。

ところで、岩手県のどこからか、住所の最後を
「第何々地割」で済ませているのがなんとも味気なくてやるせない。かっての小字名が消えてしまっていてどこの集落を通っているのか、住所からは判らないのだ。地図をさかのぼっていくと北上市の北部あたりから「地割」が始まっているようである。川原木集落は沼宮内第15地割と第17、18地割にまたがって存在する。だれのアイデアか知らないが役人の臭いがプンプンする。

河原木集落の旧道を勇んで北に進んでいくと今度は線路の東側にもどれなくなってしまった。極端に踏切が少ない。やむをえず18地割の踏切に戻って国道4号に出る。川原木の旧道は袋路であった。

御堂駅の東を通り過ぎ北上を続ける。やがて「北上川源流公園」の看板が目立つ
Y字路に差し掛かり右の旧道へはいっていく。地図上ではY字路の少し前で北上川と分れて支流の朽木川沿いに来ている。ここが「東北自然歩道、新奥の細道 旧奥州街道の道」の起点となっていて、しばらく山間の街道歩きが始まる。

御堂新田の滝に至る三差路を直進するとまもなく右手に「いわてまち川の駅道公園」が出てくる。その向かいの崖上に
御堂観音がある。御堂観音は大同2年(807)坂上田村麻呂が祈願所として建立したと伝わる。北上川の源流といわれる「弓弭(ゆはず)の泉」は、天喜5年(1057)安倍頼時征伐の折、源義家は打続く炎暑に対処するため弓弭で岩をうがち泉を得たと言われる。ここからはるばる247kmの旅を経て石巻で太平洋に注ぐ。ふりかえれば、私の最も好きな北上川は一関街道の登米だった。さて、北上川に別れを告げてこれからどんな川と付き合うことになるのだろう。

岩手郡と二戸郡の境に
馬羽松一里塚がある。盛岡から北へ10番目の一里塚で、郡境に築かれ東塚は二戸郡一戸町中山に、西塚は岩手郡岩手町御堂に位置する。街道が下がっているため、塚の高まりが土手に吸収されてあまり目立たない。斜面を駆け上がって形を確認する。

(2009年10月)
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