雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ 東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ ヒド(デ)リノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ |
奥州花巻というひなびた町の浄土宗の古刹松庵寺で秋の村雨ふりしきるあなたの命日にまことささやかな法事をしました。(中略)限りなき信によってわたくしのために燃えてしまったあなたの一生の序列をこの松庵寺の物置御堂の仏の前で又も食い入るやうに思ひしらべました。 |
一里塚 一里塚 塚の下からこどもがひとりおりてくる つヾいて ひとりまたかけおりる 町はひっそり 火の見櫓が白いペンキで 泣きだしさうなそらに立ち 風がにはかに吹いてきて 店のガラスをがたがた鳴らす |
(抜粋) 当町には慶応4年(1868)の「南部家御用金被仰付(おおせつけらる)人員」番付によれば、西方大関、小野組最大の支店であった井筒屋善八郎を筆頭に、渋谷善兵衛(味噌醤油、呉服)、近江屋次郎兵衛(呉服)、井筒屋徳十郎(酒屋)、近江屋市左衛門(酒屋)、近江屋善六(質屋)、近江屋覚兵衛(呉服)等の豪商老舗が店を張っていた。 |
牛追いの道(旧小本街道) 盛岡城下の本町地内で、奥州道中から分岐して北東方面に進む道筋は、油町惣門、下小路、山岸町、御弓丁桝杉などを通過して城下と分かれ、その先、名乗り坂(以上、盛岡市)、明神山、藪川(以上、玉山村)などを経由し、早坂峠を越えて下閉伊郡に入り、さらに、門、袰綿、岩泉、などを経て乙茂(小友)から小本(以上、岩泉町)へと通じている。この道筋が小本街道と呼ばれていたものであるが、その途中では、閉伊街道、野田街道などの呼称も使われていた。 この旧街道は、沿岸北部と盛岡などの内陸を結ぶ、重要な物流・交易の道であり、季節によっては一日六十から七十頭もの牛が往来したという。沿岸からは塩、海産物、鉄などを運び、盛岡などでコメ、アワ、ヒエ、マメ等の穀類や雑貨と交換した。特に、塩はその中心で、「塩一升、米一升」で交換された。 しかし、この塩の行商の道中は、牛方にとって決して楽な道程ではなかった。途中、野宿もしなければならず、病気や怪我、熊や狼の危険や、道の険しさなど命懸けの旅であった。なかでもこの地、岩谷から末崎までの早坂峠は、追われるコティ(雄牛)にとっても、追う牛方にとっても難所中の難所であった。 |
田舎なれどもサーハーエ 南部の国はサー 西も東もサーハーエ 金の山 コラサンサエー 今度来る時サーハーエ 持って来てたもれヤー 奥の深山のサーハーエ なぎの葉を コラサンサエー さても見事なサーハーエ 牛方浴衣ヨー 肩に籠角(かごつの)サーハーエ 裾小斑(すそこぶち) コラサンサエー 沢内三千石サーハーエ お米の出どこヨー つけて納めたサーハーエ お蔵米 コラサンサエー 沢内三千石サーハーエ およねの出どこヨー 枡で計らねでサーハーエ 箕で計る コラサンサエー 肥えた牛(べこ)コにサーハーエ 曲木(まげき)鞍コ置いてヨー 金の成る木をサーハーエ 横づけに コラサンサエー 江刈葛巻サーハーエ 牛方の出どこヨー いつも春出てサーハーエ 秋もどる コラサンサエー 大志田羊歯(しだ)の中 サーハーエ 貝沢野畑ヨー まして大木原(おぎはら)サーハーエ 嶽の下 コラサンサエー 牛よ辛かろうサーハーエ 今ひと辛抱ヨー 辛抱する木にサーハーエ 金がなる コラサンサエー サンサ羊歯の中サーハーエ 萱野の兎ヨー 親が跳ねればサーハーエ 子も跳ねる コラサンサエー 一の先達はサーハーエ すだれと小斑ヨー それの後たちゃサーハーエ 裾小斑 コラサンサエー |
上田地区は,藩政時代には,岩手郡上田村と言い,「上田通り」三十一村のうちに組み込まれ、上田通り代官所の所管下にあった。上田組町は、盛岡城の外堀にあたる赤川堰付近から上田出口を経て,北方の奥州街道に接続する主要な幹線道路筋にあって、町内には五人の組頭 のもとに各組三十人ずつ、総勢百五十人の足軽が配置されていた。道路の両側には、茅葺屋根の足軽屋敷が建ち並び、家屋はほとんど同型のころどや(一軒家)で、屋敷の境はひば垣であった。「御組丁」とも言ったが、屋敷内にはぐみの木が多く植えられているところから、もじって「上田ぐみ町」とも言われた。寛保二年(1742)、南部藩は足軽を同心と唱えさせたことから、「御同心丁」とも言った。上田組町は、まっすぐ長い一本町で屋敷並みを過ぎれば、人家は疎らで東裏には正覚寺があり、西裏には覚山の地蔵尊に通ずる道があったが、いずれも広い田圃の中であった。 |