本遺跡は、藩政時代の「邦内郷村志」や、「公国史」に方八町と記裁され、前九年の役で、源義家が安倍貞任を攻めたときの陣場跡と書き伝えている。しかし、昭和31年以来の発掘調査によって検出された竪穴住居跡や、土師器・須恵器・鉄製品・砥石などの伴出遺物からみて、前九年の役(11世紀中頃)よりも、更に古い平安時代初期の東北蝦夷開拓期(9世紀)の遺跡であることが明らかになった。方八丁という地名は、胆沢城跡・志波城跡をはじめ、北上川中流域に点在し、古代の官衙的施設跡に特徴的に見られる方形土地区画遺構と関連するものと考えられている。本遺構も、東部地域が北上川の浸蝕によって欠損しているが、方八丁の名のとおり広大な規模と想定されており、開拓の拠点的役割を担った鎮守府胆沢城と前哨基地志波城の中間に位した重要な遺跡として注目され、今後の本格調査が待望されている。なお、遺跡の南部には堀跡等が残存し、中世に館として転用されたことが知られている。

 宮野目方八丁遺跡 葛第1地割  花巻市 岩手県