平泉

街道は県道134号を一路北上し、平泉ドライビングスクールのさきで右斜めの旧道に入る。かってはこのまま進めば
八坂神社にでたのだろうが、ここから先平泉駅前まで、旧道と国道4号とのかかわりがいびつになってしまった。

旧道からスーパーセンター北側の信号で国道4号に合流して右折、すぐ右に曲がって行くバイパスとわかれて八坂神社の前を通る。

八坂神社は藤原三代の都平泉の南方に位置し、平泉五方の鎮守の一つとして創建された。疫病退散の神として京の都において信仰の厚かった祇園社を勧請したとされる。

太田川を渡っても、すぐ右下に見える旧道(県道110号)に降りられない。結局国道の毛越寺(もうつうじ)入口交差点を右折して平泉駅前の旧道に出る。旧道は太田川堤防下から復活していた。

毛越寺には一昨年一関街道踏破の折に寄っている。11月下旬だのに雪が降っていた。

毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、奥州藤原氏二代基衡の時代に多くの伽藍が造営された。堂塔は40を数え中尊寺をしのぐほどの規模といわれている。建物は焼失したが大泉が池を中心とする
浄土庭園がほぼ完全な状態で保存されている。遣水(やりみず)の遺構は、平安時代のものとしては我が国唯一のものだという。毎年5月の第4日曜日には「曲水の宴」が行われ平安時代の優雅な情景が再現される。

本堂近くの境内には「夏草や兵どもが夢の跡」を刻んだ句碑が二つ並んでいる。左の小さい碑が芭蕉の真筆といわれ、右の碑は文化3年(1806)に地元俳人たちによって建てられたものである。

毛越寺からさらに西へ数キロいったところに
達谷窟(たっこくのいわや)とよばれる名勝がある。坂上田村麿創建の霊蹟で褐色の岩窟に建てられた毘沙門堂は異彩を放っている。坂上田村麿は窟に立てこもる屈強な蝦夷を征伐した。

平泉駅前から旧道を北にたどっていく。平泉は奥州街道の宿駅として数えられていないが、奥州の黄金の都に宿泊施設がなかったわけがない。山目宿と前沢宿の間宿として中尊寺通りにそんな町並が残っている。高館踏切を渡って東北本線の東側にでて再び街道が中尊寺手前で交差するまでの区間に重要な史跡が集まっている。

まず、右手に立つ
伽羅御所跡の標識にしたがって路地をはいっていくと三差路角の生垣に解説板が立っている。伽羅御所は三代秀衡、四代泰衡が居住した館であった。周囲は住宅と畑があるのみで、遺構は見当たらない。説明文だけ引用しておこう。

この付近は「吾妻鏡」にみえる「伽羅御所(きゃらごしょ)」跡であります。「無量光院の東門に一郭を構え、伽羅と号す。秀衡が常の居所なり。泰衡相継ぎて居所となせり」と、記されています。藤原氏三代秀衡は北方の王者と言われ、兄頼朝に追われた源義経を温かく迎えます。秀衡の亡き後鎌倉の圧力に耐えかねた四代泰衡は、父の遺命にそむいて義経を討ちます。 しかし鎌倉の本心は義経追討を口実にした平泉の存在そのものにありました。 文治5年8月(西暦1189年)、頼朝は28万4千騎という大軍を持って平泉を攻めます。 住む人も居なくなった平泉は、その後野火などによってさすがの栄耀を誇った堂塔伽藍も焼け失せ、800年の歳月はわすかに内濠の跡や、土塁の一角をとどめるのみであります。元禄2年5月(西暦1689年、平泉の滅亡から500年にあたる)『奥の細道』を旅した芭蕉が「秀衡が跡は田野となりて」と嘆き、「夏草や兵ものどもが夢の跡」の句を詠んだ。平成7年 4月  平泉町観光協会

街道にもどりすぐ先の広い道を右にたどると今度は大規模な発掘調査が行なわれ多くの遺構・遺物が発見された国指定史跡、
柳の御所跡に至る。北上川のほとりにあって無量光院の東側に位置する。藤原氏が政務をおこなった政庁、平泉館(ひらいずみのたち)跡と考えられている。建立時期はあきらかではないが、寺院の無量光院・居所の伽羅御所・政庁の柳御所を含めて平泉の町を最終的に整備した三代秀衡の事業であったと思われる。日が傾いた跡地には焚き火の煙がたなびいていた。

街道のすぐ先、左手に残る
無量光院跡に人だかりがあった。測量する人、地面を掘り返す人、土を運ぶ人、ただ傍観する人。未だに発掘調査は完了していないと見える。この広大な跡地は三代秀衡が宇治平等院鳳凰堂をモデルに極楽浄土を北の地に再現しようとした跡である。

街道がJRと接近してきたあたりで、右におれて義経終焉の地
高館をたずねる。子供のときに見た中村錦之助の牛若丸以来の義経ファンであるから胸の高まりを禁じえない。なだらかに曲がる北上川を見下ろす高台で、悲劇の武将源義経はその波乱の人生を終えた。忠実な弟分として偉大な貢献をしながら兄の恨みをかって、疎まれ貶められた末に攻められた。誤解か、歴史の必然か、それとも政子の陰謀か。義経はその出生から最期まで、謎と伝説に包まれた人物であった。義経堂にいる人物は必要以上に眉がながく、口ひげも福笑いの部品のように単調で、とてもあの義経とは思えない。中村錦之助の牛若丸はじつに美しかった。初恋の人に出会うべきか、永遠の夢の中にしまっておくべきか。

中尊寺道踏切のそばに芭蕉も寄った
「卯の花清水」がある。竹樋から清らかな水が流れ出ている。その上に「この地に湧水があって、卯の花清水と命名しておりましたが、後年水が枯れ今は水道を使用しております。 平泉町」との立て札があった。水がだめでも卯の花はと、「夏は来ぬ」を思い出しながら、その場にいたおばさんに訊ねると、「白い花だよなあ。もう終わったのじゃあ」とあたりを見回してくれた。曾良の句碑がある。

  
卯の花に兼房みゆる白毛かな

踏切をわると国道4号に合流する。これまでの古の風景とは変わってここは観光門前町である。合流点三角地帯に竹垣に囲まれて大きな墓碑が立つ。
武蔵坊辨慶の墓である。弁慶はこの場所に葬られて五輪塔が建てられたという。墓石自体は塚上の松の根元にある小さな石である。五輪塔の一部であろう。

いよいよ平泉黄金文化の本丸、
中尊寺をたずねる。毛越寺とおなじく慈覚大師の創建になるもので、奥州藤原氏初代清衡によって堂塔伽藍が建立され奥州平安仏教の中心として繁栄した。鬱蒼とした杉木立の中を月見坂とよばれる参道を登っていく。この道は古代の東山道の道筋といわれており、中尊寺の奥から衣川関に降りていた。後ほど衣川対岸の七日市で古道の跡を見る。

山中の広大な境内に多数のお堂や歌碑が見られる。西行はここを二度も訪れた。東物見台に西行の歌碑がある。
  
  
きゝもせず 束稲やまのさくら花 よし野のほかにかゝるべしとは

本堂をみて参道が奥まったところに金色堂を保存する覆堂が建つ。

金色堂は天治元年(1124)奥州藤原初代清衡によって造立された。中尊寺創建当時のままの優美な姿を伝える唯一の現存建造物で、国宝第一号に指定された。金色堂が覆堂(鞘堂)によって保護されるようになったのは室町中期のころで、昭和40年(1965)には新覆堂が完成した。旧覆堂は経蔵の北側に保存されている。

旧覆堂のそばに
芭蕉の像と文学碑が建っている。芭蕉は旧覆堂内に入ってまばゆいばかりの金色堂をみた。奥州の平泉に京の文化を花咲かせ、永久の浄土を実現しようとした藤原3代の夢の跡である。

  
五月雨の降り残してや光堂

芭蕉は衣川まで足をのばした後一関宿にもどり、翌朝奥州山脈を越えて日本海側にでる旅につく。行程としてはまだ半分も来てはいないが、奥州街道の北限をきわめて往路の旅を終えた気分になっているのではないか

奥州街道の旅はまだまだ続く。

国道4号にもどって300mほどいったところで旧道が土手まで残っている。麓に地蔵と常夜燈があり、堤防下には朱色の欄干がある。旧国道の衣川橋を記念するものだろう。新しい橋を渡って、平泉町から奥州市に入る。

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前沢

衣川をわたってすぐの道を西にはいると、旧衣川橋跡から続く旧道にでる。道自体は堤防工事の取り付け道路みたいが、こちらにも「ころもがわばし」と書かれた朱色の親柱が設けてある。昭和26年1月31日に設置されたようだ。左手にパイプが一本立っていてそれに取り付けられた三つの洪水位標がそのときの位置を示している。上から、昭和22年カスリン台風、昭和23年アイオン台風、そして平成14年台風6号である。カスリン台風時の洪水位がほぼ現在の堤防の高さに等しいようだ。堤防下の家々が水没する深さである。

そこから西にでている道を辿っていった。長者ヶ原廃寺跡を訪ねるためである。しばらくいくと永井工業の看板がたつ曲がり角に「接待館遺跡」「衣の関道遺跡・長者ヶ原廃寺跡」とかかれた低い立て札がある。周囲は工場そばに草がはえる空き地だ。

説明板もなく、半信半疑であたりをうろついていると、北の角地の置くに凄まじい青トタン屋根の建物が目に飛び込んできた。大屋敷のようなスケールだが、個々の建物は廃家みたいに古びている。堂々とした長屋門、物置風の小屋、入母屋の主屋、兜屋根の蚕部屋など。農家だとすればかっての豪農、庄屋、ひょっとして長者屋敷かとも想像した。近づいてみると驚いたことに人が住んでいた。

道端に標柱があってうすれた墨跡で、
「下宿 安倍氏全盛の頃からの宿場跡」と読める。なんと古代律令時代の宿場である。東山道の駅家であった。

道をさらに西に向かってすすんでいくと丁字路に改めて「長者ヶ原廃寺跡」の案内標識に出会うことができた。さっきの立て札には「ここを西に行く」という表示が欠けていたのだ。

丁字路を右折して北に進んで行くと先の農家脇でみたのと対をなす
「宿(上宿)」の標柱がある。まもなく左手に設けられた駐車場に長者ヶ原廃寺跡資料館があり、詳しい案内板がある。実際の廃寺跡遺跡はすこしさきの右手、田圃の中にあった。金売り吉次の屋敷跡ともいわれていた場所を発掘調査した結果、ほぼ100m四方にめぐらされた築地塀の内部に堂塔伽藍が配置されていたことが判明した。平泉藤原氏以前の古代奥州文化の拠点であった。

丁字路にもどり更に西に進むと右手に
並木屋敷跡がある。ここは康平5年(1062)9月の安倍貞任の撤退までの18年間安倍氏の政庁であり、その翌年の康平6年(1063)から永保3年(1083)までの20年間は安倍氏にかわって奥六郡を支配した清原武則、武貞、真衡の三代の政庁もしくは居館であったといわれる。

ここで、藤原氏に先立つ奥州情勢を、資料館でもらった児童生徒向けガイドブックから紹介しよう。平安時代末期、源氏が武家社会をつくる夜明け前のころである。

前九年合戦(1051年)
今からおよそ950年前にあたる平安時代の中頃、「安倍氏」という豪族が、岩手県の中央から南部にかけて勢力を広げていました。頭領である
安倍頼時は大きな力を持つようになり、この力を恐れた朝廷は、武士である源頼義を陸奥守として派遣し、安倍頼時、貞任(さだとう)親子と戦争を始めます。安倍氏と源頼義、義家親子との合戦は、およそ12年間にわたり続けられ、多くの兵士が傷つき、倒れていきました。源頼義親子は苦戦しましたが、秋田で勢力を広げていた豪族、清原武則を味方につけ、ついに安倍氏を滅ぼしました。この合戦を「前九年合戦」といいます。この戦いで、安倍頼時親子は戦死し、頼時の娘の夫である藤原経清(つねきよ)も源頼義によって殺されてしまいます。しかしその後、頼時の娘は7歳になる息子をつれて清原家の息子武貞と再婚することになったのです。その息子こそが、のちの「藤原清衡」です。

後三年合戦(1083年)
安倍一族が滅んだ「前九年合戦」から20年後、安倍氏を滅ぼした清原家で跡継ぎ問題をめぐり、兄弟同士(真衡・清衡・家衡)の間に争いが起りました。長男真衡の死後、
清衡と家衡の争いになり、さらに朝廷から陸奥守として派遣されていた源義家が、清衡軍に加わって大きな戦争に発展しました。この合戦を「後三年合戦」といいます。この合戦で清原氏は滅亡し、清衡は生き延びました。清衡はその後、江刺から平泉に館を移しました。約100年にわたる黄金文化、平泉の歴史はここから始まります。

おさらいをしておこう。

青森県がまだ未開の地であったころ、蝦夷の地では奥羽山脈をはさんで、岩手県内陸部の豪族安倍氏と秋田県内陸部の豪族清原氏が勢力を二分してしていた。全国統一をめざしていた大和朝廷は清原氏を利用してまず安倍氏を滅ぼす。岩手県は清原氏の領土となった。

ところで安倍氏の生き残り、頼時の娘が清原氏の頭領武則の息子武貞と結婚(再婚)して話がややこしくなった。清原家の内紛はつまり安倍頼時の娘の連れ子(清衡)と清原家嫡子(家衡)という異父兄弟間の争いであり、連れ子清衡にとっては親の敵討ちでもあった。源氏のちょっかいで清原氏がほろび、実父の姓を引き継いだ藤原清衡は岩手と秋田の両県を支配する奥州の覇者となった。源氏はみずから覇権を手伝った奥州藤原氏を滅ぼすのに100年を費やすことになる。義経が犠牲になった。

この先、流路をかえる衣川沿いに北上し、結局長者ヶ原廃寺跡近くにある衣川渡船場跡と、帰路途中に
七日市場跡・衣関道跡をみて奥州街道にもどる。七日市場は衣川をはさんで中尊寺からおりてくる古代東山道筋につくられた町であった。


国道4号に戻りすぐ左の県道37号に入る。趣ある
瀬原の町並みを通り抜け、突き当りをクランク状に曲がって郵便局の脇の坂道をあがっていく。左前方の山頂に目立つ建物は国民宿舎だそうだ。

旧道は坂を下って東北自動車道に突き当たって途絶。左に大きく迂回して自動車道をくぐって右折、工場の前を通って徳沢川を渡り、丁字路に突き当たる。

この先旧道は自動車道に沿って山を越えていた。今はガードレールに沿って100mほどはいったところで消えている。その道で出会ったおじさんに旧道とこの辺にあった
一里塚のことを聞いてみた。フェンス越に見える自動車道を指差しながら、
「街道は高速道路のところをい通っていた。この道は工事で出た土を盛ってできただけで、旧街道ではない。高速道路の峠あたりに舞鶴公園というのがあって、そこに
明治天皇行幸碑があったんだが、工事の時にこの山の向こう側に移された」「一里塚はここにあった」と、屋根がこわれた場所まで連れて行ってくれた。

旧道であれ、残土道であれ、とにかくここから山の向こう側へいくには再びおおきく迂回しなければならない。西にむかって進み、途中の丁字路を右折し右に大きくカーブして前沢インター工業団地の南北道路の南端にでる。南北にはしる広い直線車道が旧道筋にあたる。角を北に折れたところに奥州道中の案内板が建ってあり、旧道筋であることを確認できた。その道向かいから、こわれた手摺がのこる細い道が高速道路に向かって延びている。草深くなってなかば獣道になってきた。マムシがいても避けようがない、などと言い訳を考えながらヤケ気味にすすんでいくと、見晴らしがきく峠付近に石碑が見えた。碑の表と裏の写真を撮って急ぎ足で引揚げた。この道こそ旧道跡だとはいうまい。単なる明治天皇石碑のためのアクセス以上のものではなかろう。

斜め交差十字路を直進して急坂を下り、白鳥川を渡って県道283号を右折、東北自動車道の高架をくぐったところですぐ左手の旧道に入る。

白鳥神社の前を通り県道243号を左に折れて前沢宿にはいっていく。菅野金物店から西岩寺にかけて県道より一筋西側に細い旧道が残っている。

高台にある
西岩寺によって県道283号にもどる。きれいな曲尺手が残っている。

曲がり角手前に
「森田文庫」と表札をかかげた趣のある家が建っている。暖かい色をした土壁に木組みが美しく映える。格子造りの出窓とくぐり戸を備え、門も立派である。町家でも武家屋敷でもなさそうで、どちらかといえば書院風の建物だ。解説等がなく文庫の由来等は分からない。

曲尺手を経て再び北へすすむと右手に瓦葺き門塀を構え庭に植えた赤松が美しい家がある。

その先の信号十字路で街道を離れ左にはいって前沢小学校に向かう。途中右手に
高野長英ゆかりの家茂木家の大きな屋敷がある。

小学校は伊達藩時代、最後の
前沢領主三沢氏の居館跡である。その館表門が学校正門として保存されている。伊達藩にあって前沢の領主は大内、成田、飯坂、そして三沢と代わり、最後の三沢氏は明治維新まで8代190年も続いた。

小学校の前には「前沢水路」という寛永年代からの農業用水路跡が残っている。学校敷地の南側に「閑居坂」、「旧裏小路」などと名づけられた路地が残る三沢氏家臣の屋敷地域がある。学校の正門のほかに古い建造物はのこっていないが、地名や標識類から往時の武家屋敷町を偲ばせる一角をなしている。

前沢駅前通り交差点の手前に風情ある店が並んでいる。右手の佐藤屋旅館は老舗のようで、看板に
明治天皇行在処跡と書き加えている。道向かいには米、肥料、燃料、酒などを扱う古いたたずまいの書横転が軒を連ねている。看板をはずした屋根看板がなにかもの言いたげな様子だ。


前沢駅前通りと交差して二つ目の曲尺手を曲がると七日町だ。すぐ右手に
太田家住宅がある。岩手県有形文化財第1号の指定を受けた明治時代の屋敷建築で、立派な松が茂る庭園には樹齢450年という県屈指の紅梅の古木があるという。建物は主屋のほか、土蔵・表門・前座敷・炊場・旧盛岡銀行前沢支店が残されている。これらの建築は日露戦争後の不況対策の一つとしてなされたというから、太田家は前沢町を代表するほどの資産家だったのだろう。

新町にはいって左手に岩手誉蔵元の
岩手銘醸が門塀に松の装いを残している。

街道は二十人町を通り抜け前澤宿を後にする。岩堰川を渡って国道4号に合流したのち古城歩道橋の先で左の旧道をとって古城集落を通り抜ける。左手に大きな
長屋門を見た。

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水沢

次の宿、水沢に到る途中で間宿折居を通る。折居集落の中程で左へ小川に沿って細い上り坂が出ている。

これが古道筋でこの後、途絶・迂回・消失を繰り返しながら大深沢川をこえ水沢南中学校の西側を北上し、大鐘市民プール前の道路にでる。右往左往しながらこの間の道筋をたどってみたが、実りはなかった。結局折居に戻り、
桜並木を通って国道へ出、水沢高校の東方で県道226号に入って大鐘公園にもどることにした。

国道4号から県道226号にはいったところの左手に
真城一里塚跡がある。木の切り株が塚の跡か。これは西塚で、東塚はちょうど国道4号にひっかかって撤去された。

大鐘市民プール前の道を北にすすんでいく。東上野町2丁目の表示がある十字路角に
「歴史の道」「左は旧奥州街道 右は旧仙北街道」と書かれた標柱が立っている。他の一面には「1978・10・10 旧仙北街道をよみがえらせる会 水沢市教育委員会」とあって、奥州街道は二の次のようである。

直進して国道397号に出る。街道はここから袋町を西にすすみ横町交差点を右折して宿場の中心地大町に向かうのだが、その前に水沢公園によった。

公園入口右手に
駒形神社がある。社殿前で夫婦らしき二人連れが記念写真に納まっていた。駒形神社の奥宮は奥州山脈駒ヶ岳山頂にある。それを建て替えたいという趣意書が貼られている。駒ヶ岳山頂は伊達藩と南部藩が藩境を決めた際、境界線の西端に選ばれた地点である。そこに建つ奥宮は両藩で20年ごとに建て替えられてきた。現在の奥宮は昭和36年(1961)に建て替えられてからもう50年近くにもなるので、そろそろ建て替えたいというのである。

公園内には、後藤新平のボーイスカウト姿の像、戊辰戦争碑、正岡子規の句碑、
松平氏の墓、高野長英記念館などと色々ある。

横町から大町にはいる。水沢駅前通りとの交差点から街道を離れて、西に点在する武家屋敷を訪ねて歩くことにする。

街道から西に二筋目、高野整形外科・外科の北側に国指定史跡
「高野長英旧宅」がある。母、美也の実家で長英が17歳で江戸に出るまでの一時期を暮らしたところである。建物は明治9年の改築とあるが、モダンな作りで昭和30年代の家といわれてもわからないくらいだ。

その北隣は水沢城主留守家の大番士を勤めた家臣
高橋家の屋敷である。薬医門と両側の漆喰土塀、白壁切妻土蔵が重厚な雰囲気を与えている。

大手通りを横切って日高小路をいく。日高神社への参道でもあるこの路地には留守家家臣の屋敷が連なっていた。今も
小幡家、安倍家の品格あふれる屋敷建築を楽しむことができる。

一路北側に移動して新小路を東にもどると大手通り近くに
吉田家、大通りを一筋北に移り、吉小路にはいるとすぐ左手に萱葺の内田家旧宅(奥州市武家住宅資料館)が落ち着いた佇まいをみせている。 反対側の後藤新平の生家も留守家の小姓頭を勤めた家柄で、冠木門の奥に清楚な萱葺の母屋が見える。

大手通りに面した水沢市役所は
水沢城跡である。伊達家一門の留守氏の居城だった。一本の姥杉だけが往時の面影を伝えている。 

大手通りの向かい
八幡家をみて大町にもどり、街道歩きを再開する。

水沢幼稚園の駐車場に
「大町」の案内板、左手に「明治天皇行在所趾」碑がある。明治9年と14年の東北巡幸の際、ここ大町の豪商戸坂万六宅が行在所となった。

幼稚園の北側の路地をはいっていくと
「めがね橋」で知られる長光寺橋をわたる。このあたりは大町を中心とする町民町で賑わった地域であり、今も海鼠壁の土蔵や古い商家が情緒ある一角を形成している。


乙女川の手前右手に
「柳町」の案内板と「御蔵場道入口」の碑がある。乙女川をはさんだ300mほどの区間が水沢ではもっとも古いとされる柳町である。その名が暗示するように遊郭があった。乙女川沿いに整備された「お忍び通り」と呼ばれる散策道はまさにその風情を漂わせている。

柳町信号を左折して
立町に入る。中程に立つ旧町屋紹介札には立町こそ宿場の中心地で、江戸時代には本陣・脇本陣が、明治時代には土蔵をもつ豪商が並んでいたという。商業の中心が大町や横町に移っていったのは大正以降だと、解説が詳しい。なるほど、通りには大町におとらない土蔵や格子造りの商家が残っている。太鼓屋高松商店をはさむ家並みもなかなか風情がある。

立町信号で大手通りと合流して街道は一路北に向かう。老松と門構えの家が建つ北西角は
上伊沢代官所跡地である。

見ごたえのあった水沢宿を後にして、街道は伊沢城跡をめざして北上する。東北本線を跨いで左に曲がり国道4号に合流する。

中ノ町五差路交差点で右斜めの短い旧道に入っていく。すぐに大きな交差点でバイパスを横切り、そこからは県道270号に名を変えて引き続き北へ進む。

左手に奥州市埋蔵文化財調査センターを過ぎたあたりで右手に
「史跡 胆沢城跡」の石標が現れる。史跡は街道をはさんで西側に外郭南門が、政庁はじめ主要施設は東側に配置されていた。位置的には北上川と胆沢川の合流点左岸と奥州街道の間にあたる。広大な区域に台地状の盛土が散在している。眺めているだけでは遺構か田圃かの区別もつかず一見取り付く島がない。

前九年の役からさかのぼること250年の延暦21年(802)、坂上田村麻呂によって築かれ、蝦夷平定の軍事拠点鎮守府が多賀城からここに移されてきた。大和朝廷のフロンティアが宮城県から岩手県に北上してきたのである。

街道をすすんでいくとまもなく右手に
鎮守府八幡宮への赤い鳥居が建つ。かなり離れているのを知りつつ、たずねていった。石仏群にまじって「史跡 胆沢城跡」の標柱が立つ角を右折して田園の中をすすむと森の中に立派な神殿がひっそりとあった。めずらしく本殿を解説した石標がある。「建築は享和3年(1803)入母屋造、正面3間、側面2間。向拝付、三面に高覧付回縁めぐる」と簡潔明快である。

街道にもどりすぐ先の右手入った小川のほとりに涌いている
三代の清水をみて、胆沢川を渡る。三代の将軍が愛飲したという。三代とは胆沢城を建立した坂上田村麻呂、前九年の役(1051〜62)で陸奥の豪族安倍頼時・貞任を討った源頼義、義家の三人をいう。

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金ヶ崎

街道は泰養寺前で右にカーブしていく上がり坂で県道とわかれて左の旧道にはいる。金ヶ崎宿の南町である。南町を逆コの字形にたどって県道にもどる。すぐ先の本町が金ヶ崎宿場の中心地だった。宿場は小さい。

岩手銀行前から東にでている県道108号を進んで行くと、左手に
金ヶ崎城跡への細い道がでている。北上川を見下ろす眺めの良い高台に大町氏の居館が築かれ、正保元年(1644)から224年間の長きにわたって大町氏9代が居住した。白糸姫の悲恋物語が伝承されており、「白糸」はこの地区名として残っている。

この北側麓に
足軽屋敷町が作られ今も「城内」とよばれて宿場の町並とは一線を画した景観を維持している。緑の多い通りに面して武家屋敷の面影をのこす建物が見られる。そんななかに一軒の庶民的な雑貨店が仲間に入っているのがほほえましかった。

なお、県道108号で北上川をわたった先には江刺藤原の郷がある。前九年の役で安倍氏の領土を勝ち取った清原氏の後継者の一人として、安倍氏の血をひく清原(藤原)清衡が旧安倍氏の領土の南半分を支配した。その本拠地がここ江刺である。その後後三年の役を経て清衡は旧安倍・清原両氏の全領土を奪還、都を平泉に移して奥州藤原氏として君臨することになった。

街道にもどる。街道筋には本町右手に黒板塀と見越しの松を配した家が目立つほか、昔の宿場町を偲ばせる家並みは残っていない。

金ヶ崎宿の北端、矢来の二股で県道270号を離れ、右の旧道にはいる。宿内川を渡りしばらく行った清水端の加藤商店前バス停後ろに
清水端(しみずばた)一里塚がある。はっきりと塚がみとめられ、大木の切り株がのこっている。随分背の高い切り株で隣家の屋根くらいあるが、街道の手前からはみえないほどの高さになっている。

その先街道からすこしはずれた三ヶ尻小学校の北側、畑と学校敷地の境に低い土盛がある。
「史跡十三本塚」の標柱がなければなにごともない風景である。このあたりに作られた13の塚のうちの一つだが、何の塚かはよくわかっていない。なんらかの犠牲者を弔う塚だとか、坂上田村麻呂が蝦夷を殺す代わりに彼等の装飾品を埋めた塚だとか伝わっている。

街道はその先渋川を渡り、六原駅の東方でその先通行止となる。国道4号に迂回し金ヶ崎町をでて北上市に入る。

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鬼柳

和田交差点で右折して国道4号から県道254号に移る。北上浄化センターから旧道が復活している。東北本線と北上川の間を進んでいくと、東北新幹線の高架の手前に白山神社がある。

相去(あいさり)郵便局の先、信号の脇に
「相去御番所跡」の説明板がある。伊達藩最北、南部藩との境に番所が設置され街道をはさんで軽臣(足軽)102名が配置された。相去は足軽町である。

少し行くと左手に
「南部・伊達藩境塚」が復元されている。伊達側は相去、南部側は宿場鬼柳である。隣近所から国境まで、境界線はいつの世も紛争の種だが、伊達藩と南部藩も住民の間で藩境をめぐるもめごとが絶えなかった。幕府が仲介役になってスケールの大きな解決策が図られた。奥羽山脈駒ヶ岳から国見山北五輪峠を経て釜石唐丹まで直線にして130kmにわたって要所要所に塚を築こうというものである。重要箇所には挟塚といってちょうど一里塚のように南部側と仙台側の両側に一対の塚を築くこととした。

水沢公園で寄った駒形神社で、奥宮改築趣意書に境塚のことが触れられているのを思い出した。駒ヶ岳は藩境線の西端をなす。そこに鎮座する奥宮は伊達藩、南部藩協同で20年ごとに建て替えていたという。地図で駒ヶ岳と釜石唐丹に定規をあてるとぴったり水平になる。たいしたものだ。

境塚の少し先に
南部藩鬼柳関所があった。鬼柳御番所ともいわれ、江戸方面への関門として重きをなした。鬼柳宿は南部藩最南端の宿駅である。金網に保護されて昭和28年までのこっていた萱葺の関所建物の写真が掲示されていて興味深い。私の中山道の写真もあと20年も経てばいくらか歴史的価値を帯びてくるだろう。

街道は左にまがり東北新幹線の高架下をくぐった先の二股で右の道をとり九年橋で
和賀川を渡る。明治9年天皇巡幸の際に架けられたので「九年橋」と命名された。


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黒沢尻(北上)

九年橋を渡ってすぐの十字路を直進すると駅前通り(大通り)から一つ手前の交差点角に「平和街道跡」の解説板が立っている。平和街道は平鹿(ひらが)郡横手町と和賀郡黒尻町とを結んだ街道で、明治20年に全通した近代の道である。二つの頭文字をとって街道名としたあたりにも江戸時代の街道でないことをうかがわせる。今の国道107号がほぼそれにあたる。横手町は江戸時代の街道、羽州街道の宿場である。平和街道沿いに敷設された鉄道馬車の停留所がここにあったというのだ。

向かいに板張りの大きな家が目を引く。街道に面しては一、二階共にガラス戸でそろえている作りも珍しい。店は閉じられた様子である。

本通一丁目バス停の先左手に
「新町のおこり」と題する説明板があり、その奥に「明治天皇御駐輦趾」碑がたっている。新町は貞享3年(1685)、本町宿がつくられてから80年後、街道の交通量が多くなって増設された文字通り新しい町である。現北上信用金庫本店付近にあった三浦屋が脇本陣を務めていた。

本通り1丁目から3丁目までが黒沢尻宿の中心であった。宿場といっても間宿だったというが、一方で本陣が一軒、脇本陣が2軒あったというからわからない。

その先アーケード商店街の入口を占める
呉服店松屋の辺りが本陣跡である。さくら野百貨店前に「本町のおこり」の説明板がある。黒沢尻宿は慶長9年(1602)、盛岡から一日の道のりに、また和賀川の増水による足止めに対応するために74軒の宿場町を新設したとある。

宿場も北にすすみ、左手、本通2丁目バス停脇に
「脇本陣跡」の標柱がある。ここに新町の三浦屋とともに脇本陣を勤めた井筒屋があった。

ここまで跡標は整備されていたが、家並みにその面影を見出すことはできなかった。

ここで、その先の国道107号を右折して北上川の東側に向かう。見晴らしよい川岸を南にたどると展勝地レストハウスの庭に
おいらん松と北上夜曲の歌碑がある。黒沢尻は和賀川と北上川の合流点に位置し藩米の積み出し港として船運で栄えた町である。この岸にたつおいらんのようにつややかな姿をした松がはるばる石巻から上がってきた船頭たちを迎え、下っていく船人を見送った。

北上夜曲は昭和ロマンを代表する一曲である。歌声喫茶で何回歌ったことだろう。マヒナスターズの裏声が記憶に残っている。

県道14号の向こうにこんもりした森がある。
陣ヶ丘とよばれる中世の山城址で、堀跡、土塁などが残っている。南部藩と伊達藩の境にもなっていた。

北上川を見下ろす高台に
芭蕉句碑があった。芭蕉の旅は衣川を北限として、この地にはきていないが芭蕉の人気は所を選ばないようだ。

陣ヶ丘の麓は古民家を集めたテーマパーク、
「みちのく民俗村」として整備されている。開園前で、入場券売り場を兼ねている旧今野家住宅を撮っただけで引揚げた。

街道にもどって黒沢尻宿をあとにする。本通り(県道39号)を北にすすみ、東北本線の上野町跨線橋の手前で左の道にはいり、線路の西側をたどって次の常盤台跨線橋で東北本線を渡る。すぐに左折して上野町を北に通り抜ける。

新堰川をわたると丁字路に一里塚が見えてきた。左の塚は塚腰稲荷神社の森の一部をなしている。
二子一里塚で、日本橋から128里(503km)、盛岡まで11里(43km)の地点にあたる。次の成田一里塚とともに、原形のまま残っているのは全国でもここだけといわれている。確かに自然な形の美しい塚である。左の杉の木は往時からのものか、森に守られて大木になっているが、右の塚木は低くて最近植えられたものであろう。

東北本線村崎野駅前を通過して北上工業団地の中を通り抜りぬけ飯農川を成田橋で渡る。右から来た道と合流したのち軽く左に曲がった所に、
成田一里塚がある。ニ子一里塚に続いて、原形をとどめた左右一対の塚が残っている。塚上に立つ木も立派で特に左の塚木は巨木である。見ごたえある一里塚の競演であった。

成田小学校の先で花巻市に入る。

(2009年6月)
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奥州街道(13)



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