この付近は「吾妻鏡」にみえる「伽羅御所(きゃらごしょ)」跡であります。「無量光院の東門に一郭を構え、伽羅と号す。秀衡が常の居所なり。泰衡相継ぎて居所となせり」と、記されています。藤原氏三代秀衡は北方の王者と言われ、兄頼朝に追われた源義経を温かく迎えます。秀衡の亡き後鎌倉の圧力に耐えかねた四代泰衡は、父の遺命にそむいて義経を討ちます。 しかし鎌倉の本心は義経追討を口実にした平泉の存在そのものにありました。 文治5年8月(西暦1189年)、頼朝は28万4千騎という大軍を持って平泉を攻めます。 住む人も居なくなった平泉は、その後野火などによってさすがの栄耀を誇った堂塔伽藍も焼け失せ、800年の歳月はわすかに内濠の跡や、土塁の一角をとどめるのみであります。元禄2年5月(西暦1689年、平泉の滅亡から500年にあたる)『奥の細道』を旅した芭蕉が「秀衡が跡は田野となりて」と嘆き、「夏草や兵ものどもが夢の跡」の句を詠んだ。平成7年 4月 平泉町観光協会 |
前九年合戦(1051年) 今からおよそ950年前にあたる平安時代の中頃、「安倍氏」という豪族が、岩手県の中央から南部にかけて勢力を広げていました。頭領である安倍頼時は大きな力を持つようになり、この力を恐れた朝廷は、武士である源頼義を陸奥守として派遣し、安倍頼時、貞任(さだとう)親子と戦争を始めます。安倍氏と源頼義、義家親子との合戦は、およそ12年間にわたり続けられ、多くの兵士が傷つき、倒れていきました。源頼義親子は苦戦しましたが、秋田で勢力を広げていた豪族、清原武則を味方につけ、ついに安倍氏を滅ぼしました。この合戦を「前九年合戦」といいます。この戦いで、安倍頼時親子は戦死し、頼時の娘の夫である藤原経清(つねきよ)も源頼義によって殺されてしまいます。しかしその後、頼時の娘は7歳になる息子をつれて清原家の息子武貞と再婚することになったのです。その息子こそが、のちの「藤原清衡」です。 後三年合戦(1083年) 安倍一族が滅んだ「前九年合戦」から20年後、安倍氏を滅ぼした清原家で跡継ぎ問題をめぐり、兄弟同士(真衡・清衡・家衡)の間に争いが起りました。長男真衡の死後、清衡と家衡の争いになり、さらに朝廷から陸奥守として派遣されていた源義家が、清衡軍に加わって大きな戦争に発展しました。この合戦を「後三年合戦」といいます。この合戦で清原氏は滅亡し、清衡は生き延びました。清衡はその後、江刺から平泉に館を移しました。約100年にわたる黄金文化、平泉の歴史はここから始まります。 |