ここ高館は、義経最期の地として伝えられてきた。藤原秀衡は、兄頼朝に追われ逃れてきた義経を平泉にかくまう。しかし秀衡の死後、頼朝の圧力に耐えかねた四代泰衡は、父の遺命に背いて義経を襲った。文治5年(1189年)閏四4月30日、一代の英雄義経はここに妻子を道連れに自刃した。時に義経31歳。吾妻鏡によると、義経は「衣河館」に滞在していたところを襲われた。今は「判官館」とも呼ばるこの地は、「衣河館」だったのだろうか。ここには、天和12年(1683年)伊達綱村の建立した義経堂があり、甲冑姿の義経の像が祀られている。 頂上からの眺望は随一で、西に遠く奥州山脈、眼下に北上川をへだてて東に束稲(たばしね)の山なみが眺められる。 束稲山は往時、桜山とも呼ばれ、西行が山家集で 「ききもせす 束稲山の桜花 吉野のほかにかかるべしとは」 と詠じた。  また、元禄11年、俳聖松尾芭蕉が「おくのほそ道」で詠んだ「夏草や兵{つわもの}どもが夢の跡」はこの場所といわれている。    平成6年4月  平泉町観光協会

義経堂 大沢 平泉町 西磐井郡 岩手県