この遺跡は、南を正面とするほぼ方形(南北100m強、東西90m弱)の土塁で区画されており、昭和33年と47年の二回にわたる発掘調査によって西門土塁跡、南門跡、本堂跡、西方塔跡が確認された。ここは承安4年(1174)に16才の源義経を京から連れてきたという秀衡の御用商人三条吉次季春(すえはる)、通称金売吉次の屋敷跡と伝えられてきたが、礎石の配列や遺物の配置及び出土した土師器等から平泉藤原氏の時代かそれ以前の重要な寺院跡と推定されている。(岩手県指定史跡昭和32年7月19日指定)

長者ケ原廃寺跡は、平安時代後期、今から約1000年前に建てられた寺院の跡です。一辺約100mの築地塀跡が方形に巡っていて、その中に3棟の礎石建物跡が確認されています。築地内部の中央よりやや北側に位置しているのが桁行・梁間ともに5間の本堂跡で、その西側に3間四方の西建物跡があり、いずれも基壇が良好な状態で残されています。南辺築地のほぼ中央には桁行3間・梁間2間の南門跡があります。造営された年代、整然とした伽藍配置と築地を有することから、この寺院を建立したのは奥州藤原氏の祖先である安倍氏ではないかと考えられます。長者ケ原廃寺跡は、藤原清衡が中尊寺を建立する前から衣川の地に仏教文化が華開いていたことを伝えるとともに、平泉文化の成り立ちを窺う上で貴重な遺跡です。

   長者原廃寺跡 野田 衣川区 奥州市 岩手県