天正19年(1591)、南部氏は北の方から南へ、和賀郡−上閉伊郡まで、伊達氏は南の方から北へ、胆沢郡−江刺郡までを領有するようになった。これまで郡界についてあまり問題にしていなかったが、両藩が境を接するようになってにわかに境筋が問題になり、境界争いが各所でおこった。こうした境界争いが幕府へ訴えとなるまで発展し、寛永18年(1641)12月2日、江戸城で幕府老中立会いのもとに絵図面に点線で境界がつけられ、文書で協定ができた。翌年6月10日から両藩役人立会いで、絵図面にしたがって(真の境界は三界山)奥羽山脈駒ヶ岳から国見山北五輪峠を経て気仙郡○ノ浦崎(今の釜石市唐丹)まで直線にして130kmにわたり、要所要所に塚を築き、さらに重要箇所には挟塚といって特に大きく南部側に一つ、仙台側に一つセッ卜にして築いた。また、協定文の中に夏油川の水は半々に用いること・・・・・という一ヶ条があり、伊達藩としては六原野を開田する意図を暗に含めたつもりであり、後、(寛文年間)南部藩へその事を通告したところ断わられ、かえって南部藩に岩崎を開田され岩崎新田村がおこされたという後日の話もある。現在地の塚は、資料に基づいて複復元したもので、この塚を境に北に南部藩、南に伊達藩の番所がそれぞれ置かれていた。

南部・伊達藩境塚  西野 相去町 北上市 岩手県