ここ衣川では、世の中が貴族中心から武家中心へと変わりつつあった今から1000〜800年ほど前、重要な事件がいくつも起きた場所です。衣川から北の北上川流域には6つの郡があり(奥六郡)、ここから北約20kmに位置する胆沢城に設置された鎮守府の支配を受けていました。今から約1000年前、鎮守府の下級官人として勢力を蓄えた安倍氏は、各地に柵とよばれる拠点を設置しながら奥六郡の実質的な支配者となっていきます。鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』には「安倍頼時は衣川に屋敷を構えた。子弟の家も軒を連ね、家来の家は屋敷の門を囲むように建てられた」とあり、衣川が安倍氏の政治的本拠地だったようです。しかし、前九年合戦(1051〜62)で源頼義・義家により安倍氏が滅ぼされたため、それらは失われてしまっています。ただ、その後奥州藤原氏の時代でも重要な施設は衣川におかれていたようで、例えば源義経が身を寄せ、最期を遂げた衣河舘はこの周辺に存在していたようですし、最近では大規模な土塁と堀を持ち、大量のかわらけが出土した接待舘遺跡が発見されています。このように、衣川は時代の日本史の転換期における重要な舞台のひとっで、長者ヶ原廃寺跡もその中に位置づけられるのです。

 衣川 向館谷起(むかいだてやぎ) 衣川区 奥州市 岩手県