奥州街道(15)



一戸−福岡(ニ戸)金田一
いこいの広場
日本紀行

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一戸

左右に牧草地が広がる高原の道を行く。県道30号を横切り摺糠(すりぬか)集落を抜けるところで舗装道路と分れ、左の新奥の細道ルートに入る。分岐点に新奥の細道の道標が、馬羽松一里塚から1.5km、明治天皇記念碑まで1.2kmと教えてくれる。山道とはいっても視界は良好で足元に草はほとんどなく、轍が残る安心して歩ける自然歩道である。

ちょっとした二股があるがそこには小さな標識が立って、「明治天皇碑まで0.4km」と記されている。まもなく峠らしき場所に
明治天皇御休止跡の石碑が建っている。新奥の細道の道標がここから旧中山一里塚までは1.4kmだと示している。

明るい雑木林の中を進んで行くと舗装道路に合流した。その先に
奥州街道最高地点の標識がある。標高484mというから思ったほど高くはない。大昔、中山道を歩いたとき、信州の和田峠は標高1531mだった。街道の左右は高原の牧歌的な風景が展開して爽快な気分である。

道端に東屋が設けてある。自然歩道の整備施設だろう。高原の空気を満喫しながら歩いていくとほどなく三差路にぶつかって右手の雑木の前に「ここは
中山一里塚」と記された奥州街道標柱を見つけた。木の周りを何度も見直したが塚らしきものはない。「塚」でなくて「塚跡」だろうと解してそのまま中山集落に入っていった。

後で、これがとんでもない失敗であったことに気づく。せっかく手に持っていた資料に目を通すことを怠った。東塚は昭和50年頃に壊され、今は西塚だけが残っているという。その西塚は歩いている道ではなくて、左手の少し離れた畑の中にあるというから意地が悪い。

中山集落入口の十字路左手に
青面金剛像塔がある。教育委員会の丁寧な説明板が設置されているのは安永4年(1775)という古いものだからだろう。両脇にも石塔が並んでいる。

そこから2.3km先の火行(ひぎょう)集落に
火行伝馬跡の案内板がある。伝馬とは宿駅施設である。沼宮内から一戸宿までは9里という長丁場で、途中のこの辺りに間宿でも設けられたのであろう。火行は宿場の名前としては出てこない。

400mほどいくと開拓農道との十字路にぶつかる。左に折れて農道を行くのが自然歩道新奥の細道。

直進して山中にはいっていく藪道は
「よの坂」とよばれる旧奥州街道の難所で、1.1km先に小繋一里塚がある。少し入ってみたところ、雨上がりのせいか道はぬかるんで木が倒れていたり、左右に樹木が生い茂って今までの高原の道とは様相が異なる。いまにも熊が出そうな道であった。一里塚まで500mくらいなら行くのだけど、と独りで勝手な言い訳をして引き返した。

農道にも一里塚があるのがもう一つの言い訳である。まもなく両側に現存する
塚平一里塚が現れた。ここも道が切り下げられていて、塚の形を確認するには法面を上がる必要がある。よの坂が沢沿いの道であるのに対し、新しい街道は山の稜線に沿って開かれた。

道は一里塚を峠として、色付き始めた山間の快適な農道ドライブウェイを下っていくと国道4号に合流する。目の前が銀河鉄道
「小繋(こつなぎ)」駅である。過疎をテーマにした映画「待合室」の舞台になった。観光名所となった無人駅の無人待合室はきれいに整えられていて、数冊の「命のノート」が置かれていた。少し開けてみた。みな達筆だ。女性が多い。

国道を1kmほどいくと
小繋トンネルに差し掛かり、右側の歩道トンネルを抜けると向こう側で旧道につながっている。坂をくだり小繋集落入口の丁字路に出る。

左手林の中に坂上田村麻呂の建立とされる
長楽寺の地蔵堂があり、そばの大木の脇には東北自然歩道が設置した「小繋御番所」の案内板と、一戸町教育委員会による「明治天皇御昼飯跡」の標柱が傾いて立っている。

長楽寺自体は全焼してないが、かっては本陣を勤めていたとある。番所があるくらいの所だから、宿泊施設があっても不思議ではないが、火行伝馬跡といい小繋の本陣跡といい、いま一つ宿場との関わりが明確でない。本陣、伝馬所はかならずしも宿場にあるとは限らないということか。

小繋集落はこの丁字路を右に向かう道に沿ってのびている。丁字路角に新しい奥州街道道標があって、南西に小繋駅まで1.6km、南に小繋一里塚まで1.8km、小繋番所跡まで200m、北に川底一里塚まで3.0kmと示している。地蔵堂のそばの「小繋御番所」案内板は跡地の位置を示すものではなかった。


小繋一里塚に通じるこの南向きの道は、よの坂を下ってくる旧道の道筋である。200mほどのところ右手に予定通り、
「御番所跡」の説明板が設けてあった。よの坂下りを断念した埋め合わせにと、しばらくさかのぼって行った。誰も通らないのどやかな里山風景が続く。一里塚までは遠すぎるのでこの辺でUターン。一里塚までの両側の距離を合わせるとよの坂旧道は合計で3kmという長い山道である。

丁字路にもどり反対側に進んで国道4号に合流する。
笹目子トンネル手前で右手に旧道が出ているが、この道は小繋川沿いに下って、その後トンネル出口から500mほど先で国道に合流する。本来の旧道はその間どこかで左の急斜面をのぼってトンネルの上を通って高屋敷に向かう山道をたどるらしいが、その道は無くなっているようである。

国道の笹目子トンネルを抜ける。出口の右手に「笹目子トンネル」の記念碑があり、そこから細い道がでていた。すぐ二股にわかれる細道を右にとって斜面を斜めに登っていくと
奥州街道の古道へでる。振り返った景色がすばらししい。古道の左方向は鉄道で断絶され消失している旨の書かれた通行止め立札がある。

右におれて300mほど進んだところに
川底一里塚が残っている。両側の塚から縄跳びのロープのように流れるような曲線を描いて街道を包み込む。美しくて優美な一里塚である。道は細いが歩きやすい。「庚申 廿三夜」と刻まれた自然石が山路のスミレの如くにある。右手下に木々のあいだから国道が見えかくれする山道を600mほど歩いて車道に出た。出口に「川底の道」と題した説明板が立っている。

舗装道の急坂を上りきると
高屋敷の集落に入る。木肌がまだ新しい復元井戸がある。家々もすがすがしい佇まいで、集落の景観に対する心配りが感じられる。高屋敷の集落を外れると砂利道の細道となり明かるい山中の道をたどっていく。

「五月館」の標識の右手崖上に文化7年(1810)の
庚申塔と南無地蔵尊碑が並んでいる。

左手の山道にはいったところに自然石の
追分石があり「右ハ山道左ハもり岡」と刻まれている。一戸方面からきた旅人に対する道しるべで、奥州街道盛岡方面は左の道だと告げている。


道なりに坂を下っていくと国道4号バイパスのトンネルをくぐり小鳥谷集落に入った。すぐ左手に玄関に切妻屋根を出した由緒ありげな家が建つ。前庭の植え込みに
「明治天皇御小休所跡」の白い標柱がたっていた。二階の戸袋は矢羽の意匠を凝らした造作で、「大正十三年三月作」と彫られている。上里家であるらしい。

旧道はすぐに右からきた国道4号に合流し真直ぐに延びる小鳥谷集落を通り抜ける。県道15号との交差点手前、野中バス停脇に
野中一里塚跡がある。塚跡には馬頭観世音の石碑が建ててある。説明板には野中一里塚は盛岡から13番目とあるが、確か川底一里塚も13番目だったな。

道を越えて直進するが野中橋の手前で工事のため国道4号バイパスを横断できない。本来なら小鳥谷集落を縦断してきた4号本道が4号バイパスに合流する場所だが、本道が糞詰まりとなっている奇妙な道づくりである。工事をしていないのでそのままバイパスを横切って馬渕川沿いの旧道に入って行く。道なりに山道をたどると小姓堂集落をぬけて、二股の先に
籠立場跡と明治天皇御野立所跡がある。

明治天皇碑の脇にある「一戸町内の奥州街道」の石碑にうれしい発見をした。
「上里家(御休)」とあるのは小鳥谷にはいったところの天皇御小休所跡のことではないか。表札をみたというメモがないので断言できないが、間違いなさそうだ。なお、この坂道を日影坂というらしい。日影坂を下る途中雷電神社があり、その先舗装道路となって女鹿口(めがぐち)丁字路に突き当たる。

奥州街道道標があって、北に0.5km行けば老ヶ舘、0.8kmで天保七年(1836)百姓一揆結集地、とある。道を左にとって進んだが行けども行けどもそれらしい標識に出あわさない。あきらかに1km過ぎたところで引き返した。

さっきの丁字路を通り過ぎて県道274号(旧国道)にでる。旧街道はここを左折して馬渕川に沿って北上するのだが、女鹿川にかかる橋が工事中で通行止め。やむなく県道を逆行して国道4号に出る。これが結果的に幸いして、合流点の女鹿口交差点が
国道4号600km地点だった。二戸まで13kmとある。一戸宿は目の前だ。

国道4号に出たついでに
御所野遺跡に寄ることにした。御所野遺跡は縄文時代中期後半の大規模集落の跡で、標高200mの台地上に600棟をこえる竪穴住居跡が発掘された。青森の三内丸山遺跡とほぼ同時期同規模の縄文遺跡である。閉館まぎわの時間で公園には誰一人いない。夕陽が長い影を落とす台地に無口な古代の佇まいがあった。

御所野縄文公園から国道4号をくぐってまがりくねりながら馬渕川をわたり南小学校の北側を通って街道(県道274号)にもどる。線路沿いの街道を進むと一戸駅が前方に見えてくる。右手は古い家並みがはじまり、風情ある櫓が一段高く目立つ。消防番所の望楼だろう。このあたり諏訪野には県道の東側に弓なりの旧道が残りそこに諏訪野一里塚跡がある。歩いているときは知らなかった。

一戸駅前を通り過ぎて高善寺野田の十字路左角に
旧奥州街道の標識を見つけて喜んだのだが下に記された矢印の解釈に戸惑った。右矢印はこれから歩こうとする方向であろう。上の矢印はここまで来た道とは違う。すこし入ってみたところ、路地裏という雰囲気で旧道らしくもあるがその先は線路沿いの細道に通じているようだ。駅前で右にカーブした旧国道(県道274号)に対して旧道はすこし先まで直進してここへ出てきたものか。

向町にはいると駅前で若干新しくなった家並みが再び古めかしい空気に浸るようになる。定休日なのか商店のシャッターは軒並み降ろされていて一層古色を強めている。建物は立派でかっては豪勢な屋敷や商家が軒を連ねていたものと想像される。冠木門を配した商店、二階建て格子造りの町屋、白壁・見越の松を誇示する屋敷、情緒ただよう黒漆喰の土蔵など。ここが旧宿場街であったのか、およそ新しさが目につかない恐ろしく古めいた町並である。

馬渕川をわたり左折したところの右手に一戸城址入口の案内標識がある。坂をあがり突き当たりを左折、広全寺参道前で右折して墓地の縁にそった歩道を登っていくと土塁・堀跡と思われる場所に
「史跡一戸城跡」の標識が立っている。説明板はない。途中、一戸の町が展望できる。

一戸城は一戸南部氏の居城で、建長年間(1249〜1256)に南部義実が築いた。その子、南部行朝は一戸氏を名乗り一戸野田城に居住、一戸南部氏2代目である一戸義実が2万石を領して一戸城に移った。室町時代に入ると主家である三戸南部氏の台頭とともに一戸氏も勢力を拡張したといわれる。天正九年(1581)、城主である一戸政連が平館城主である弟の平館政包に刺殺され一戸南部氏は弱体化した。天正19年(1591)、九戸氏の乱討伐のため進軍してきた秀吉の奥州仕置軍に攻められて落城し廃城となった。

街道にもどり本町の中ほどで旧道は右の路地にはいる。突き当たりにある
実相寺の大銀杏をみて左折、一戸高校の東側を通って国道4号のガードをくぐる。丁字路を左折、八戸自動車道ガードの手前で右に残る旧道をとって自動車道をくぐると県道5号と交差する。左角に小井田の千本桂がある。根元から22本の幹がわかれためずらしいカツラの株立ちである。

県道を横切っていよいよ末の松山をめざす。途中小井田川を越えた先の二股を右にとって進むと砂利道となって山中に入っていく。道は比較的広く平で充分車で行ける道である。日光街道をおもわせる杉木立の中を進んで行くと峠近くに
波打峠一里塚があらわれた。盛岡から15番目の一里塚である。東西両側とも残っているが下から見上げる角度では塚の様子がよくわからない。通り過ぎて坂上から振り返るとよく見える。

峠まで400m、山下水まで900mと示す道標がある。

やがて眼前に淡い紅葉の点描画が現出する。左に北白川能久親王御休憩之碑、右に明治天皇御野立之碑が建つ。波打つような縞模様の岩石が街道を挟んでいる。国指定天然記念物の
波打ち峠交叉層で、古代は海底であった。江戸時代にはここで貝が拾えたという。東屋の脇に標識があり、山下水まで500m、九戸(くのへ)城まで3.3kmとある。

堆積地層の姿が波に穿たれた海岸に似ていることから
「末の松山」とよばれ歌枕となっていた。末の松山は多賀城の近くにもある。どちらが本家かしらないが、少なくとも芭蕉にとっての末の松山は多賀城しかない。情景をみるかぎり多賀城の松山と波打ち峠の交叉層をあわせればよいのではないかと思われた。

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福岡(二戸)


峠をこえた二戸側の道は舗装されている。急坂を下っていくと左手に名水「山下水」がある。峠での明治天皇野立てにこの水が用いられた。

旧街道は車道に合流し石切所地区の集落をぬって
久府(くふ)坂を下り橋場で県道274号に合流する。この丁字路には1本の脇道がでていて変則4差路になっている。

交差点の真中に中央線の代わりのブロックがおいてある、ちょっとややこしい交差点だ。その左手に
「久府坂と街道分岐点」の案内標識があって、今下ってきた坂が久府坂であることを知る。県道274号を左(南)にいくのが浄法寺街道で県道6号に沿って浄法寺町を経て安代で鹿角街道に合流する。旅情をそそる35km余りの街道である。

交差点の反対側には刀剣状の
追分石があって、「末の松山波打峠従是三十丁」と刻まれている。

奥州街道はここを右折して福岡宿に入っていく。しっとりと落ち着いた雰囲気の町並である。すぐ右手に
呑香(どんこう)稲荷神社の鳥居が立つ。参道をすすみ石段下左手に「会輔社」が保存されている。萱葺の小さな庵風情の建物は稲荷神社の茶室であった。


稲荷神社の右側奥にある小社は
大作神社で、幕末の志士相馬大作(本名は下斗米(しもとまい)秀之進)を祀っている。大作は津軽氏に対する南部氏の積年の恨みから参勤交代の津軽藩主を襲撃しようとした。企ては発覚し未遂におわるも捕えられ江戸小塚原で斬首された。全国的なヒーローとなった相馬大作の精神を継承して設立されたのが私塾会輔社である。

郵便局の先を右折して
九戸城跡を見る。大きな芝生公園のようにきれいに整備された城跡である。大手門跡から入ると、右に搦手門跡がある。その右奥では今も発掘作業が行なわれているようであった。芝生を横切って土橋をわたると桝形の堀・土塁が残る本丸追手門跡となり、左にまわりこんだところが空堀に囲まれた方形の本丸跡となっている。城は西側に馬淵川、北側には白鳥川、東川は猫淵川と、三方を自然の要害に囲まれていた。大手門の反対側(南側)には武家屋敷の在府小路があった。三戸に家族を置いてここに移って来た南部信直の家臣が住んだ区域で、その南西にある奥州街道が久府坂とよばれた急坂であった。在府から帰る坂、あるいは在府に戻る坂として、家臣たちが哀愁を込めて名付けたのが久府坂の由来といわれている。

九戸郡九戸村出の九戸氏第4代、九戸光正が明応年間(1492〜1501年)に九戸城を築城し勢力を拡大した。天正8(1580)年三戸城主南部24代晴政の死去をうけて跡目を巡り、宗家三戸南部家と九戸氏とが対立、抗争を繰り返すことになった。秀吉による奥州仕置きの翌年、天正19年(1591)
九戸政実は南部信直に対して兵を挙げるが、豊臣秀吉は徳川家康や豊臣秀次などの討伐軍を派遣して九戸城を攻めた。九戸勢は頑強に抵抗したが豊臣秀吉の謀略にかかって政実は捕えられて斬首、城内に居た者は惨殺され九戸城はあえなく落城した。その後蒲生氏郷が九戸城と城下町を改修、南部信直が三戸城からここに居を移し九戸を福岡と改め南部の本拠地とした。寛永13年(1636)、信直の子利直が盛岡城に本拠を移すことになって福岡上は廃城となった。九戸氏に対する同情は厚く、今も城は福岡城でなく九戸城と呼ばれている。
 
街道にもどる。旧街道は白鳥川を今の岩谷橋でなく、橋の手前で左手に残る
馬助(ますけ)坂と呼ばれる旧道を通っていた。人足や馬喰が馬を助けなければならないほどの急坂だったという。橋をわたった右手の岩壁に掘られた洞窟に岩谷観音堂がある。百年に一度の開帳という秘仏が安置されている。

坂を上り県道24号/274号の交差点手前に
追分石がある。「右 もり岡 左 白とり」と刻んである。元は坂下にあった。白鳥道は白鳥川に沿って今の県道24号となり、白鳥を経て九戸氏発祥の地九戸村に通じる道である。

交差点を渡ったすぐ右手、三五郎屋脇の細道の先が
代官所跡である。赤い屋根の民家が立ちはだかっていた。

街道は上町、中町、下町と往時の町割を通り過ぎる。格子窓、石蔵を配した商家らしい建物などこのあたりにも旧宿場街をしのばせる家並みが残っている。

左手にある
岩寺に寄る。威風ある仁王門をくぐり墓地の左手に相馬大作(下斗米秀之進)と同志関良助の墓が並んである。両氏は江戸で捕えられ小塚原で処刑され遺体は南千住の回向院に埋葬された。昭和45年、墓は回向院から当地に移されたものである。南部と津軽は犬猿の仲といわれ、両藩の確執には根深いものがある。奥州街道が青森の奥深く入っていくに連れてその全容が明らかになってくるのではないかと期待している。

街道を北に進んで斗米橋に通じる交差点手前で右に分岐している道が
八戸道で、安永元年(1772)の追分石には「八戸道 三戸道」と簡潔に刻まれている。三戸道は奥州街道のこと。八戸は奥州街道から外れている。
ここで、ずっと気にかかっていたことを整理しておこう。

一戸から九戸まで、戸とは一体なんなのか。どうしてここだけにあるのか。奥州街道には1から9までのうち幾つあるのか、等。南部美人の蔵元、久慈酒造のHPから引用させていただく。

北は青森県八戸市から南は岩手県一戸町に至る地区は、一戸から九戸までの地名が並ぶ珍しい地方です。これは「糠部(ぬかのぶ)郡九か戸の制」等とよばれるもので、その由来には、「戸」が古代律令制度下の「編戸」に関わるものであると推察される説と、鎌倉期に設けられた牧場制度(門戸の制)に由来するというもので、領内馬産地経営の政策として、九ヶ戸制を敷き、一戸に一牧場・七ヶ村を配し、東西南北の四門を置いたという説があります。

さて、一戸、二戸は見てきた。また九戸は奥州街道からはずれて二戸の東方にあることも知った。三戸は青森県最初の宿場である。その次の浅水宿が四戸(しのへ)氏の地らしいとされているが、他方で三戸の手前の金田一に四戸城跡が残っている。浅水の次が五戸。六戸は十和田市の東で惜しくもはずれ。奥州街道は七戸宿を経て野辺地に至る。結局、9、8、6が外れであった。「戸(へ)」は岩手県に3つ、青森県に6つ。九戸だけが順番の南から北へのおおまかな位置関係を乱している。

街道は八戸追分の先の三叉路交差点で右にまがっていく県道274号と分れ、直進する旧道に入る。まもなく旧道は浄水場前で途絶。昔はここで馬渕川を渡っていた。今は三叉路にもどり斗米橋を渡るしかない。

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金田一

斗米橋を渡って国道4号を右折、300mほど進んで右の旧道にでて馬渕川沿いに北にたどると浄水場対岸地点に至る。「奥州街道」の標識があり、復活した旧道を案内している。足元が悪い上に草が深くて河原まで下ることはできなかった。古道の風情あふれる道が残っている。

街道は国道を横切りタイヤショップの南側、「奥州街道」矢印標識の立つ場所から再び旧道に入る。第二長瀬踏切をこえた左手に石塔が二基並んでいる。角柱碑が宝暦2年(1751)建立の念仏供養塔で、自然石が亨保20年(1735)のものだが刻字は読みづらい。線路沿いの道を上がった二股左側に経塚がある。

線路に沿って道は金田一集落に入っていく。左手に
八坂神社入口がある。「金田一小学校開校之地」の石標が立つ坂道をあがると集落をみおろせる展望の地に八坂神社がある。由緒書きなどの立札はなかった。

八坂神社の裏側にあたる高台に
四戸城があった。地名も「館」という。四戸氏がいつこの地にやってきたかははっきりわかっていない。大きな石の脇に立つ説明標識によると四戸氏は九戸氏と姻戚関係を結んで親しかった。しかし九戸政実の乱の際には戦わずして秋田に逃れたという。四戸氏は最後まで影の薄い存在だった。

金田一といえばアイヌ語研究と国語辞典でなじみの金田一京助を思い起こす。盛岡中学では石川啄木の一年上級生で啄木には金銭の面倒までみてやった。

金田一の地名の起源には諸説あるらしいが、南部氏の祖南部光行の第4子が四戸氏を名乗り、そこから金田一氏が出たと言うのが有力らしい。地名の金田一はそれでよいとして四戸氏の本拠地がどこかについてははっきりしていない。

街道を北に進む。古い建物など旧宿場の雰囲気を残すもの静かな集落である。

左手にいくつもの石塔がならびその奥に
延命地蔵がある。

金田一温泉駅の手前で下金田一踏切をわたり銀河鉄道の東側に出る。

今の金田一は駅名でもわかるように温泉で知られている。寛永3年(1626)の発見と伝わる古い温泉地である。そこの老舗旅館
「緑風荘」が10月4日全焼した。それだけの話なら街道からはなれた温泉街まで寄り道しないのだが、緑風荘には特別の謂われがあった。槐(えんじゅ)の間に座敷童(ざしきわらし)が出るというのである。はじめは何のことかわからなかったが、調べるうちにオドロオドロした横溝正史の世界ではなくて、福をもたらす精霊であることがわかってきた。

火災の現場には玄関の一部が残っているほかは無惨に焼きただれていた。未だに焦げ臭い。座敷童は焼死したのか。

駅前の街道にもどる。北にむかうとすぐ左手斜めに坂道が出ている。すこし線路に沿ったあと、
野々上通踏切を渡って山中の急な坂道にはいっていく。ほとんど獣道である。踏み切りはこのためだけに設けられたとは思えない。途中にある小さな石仏が旧道であることを示していた。10分ほどの短い山道を上りきると車道に出る

すぐ左手に願海庵をみて山間の道路を北に進んでいく。

やがて舗装道路から右の山道を通り抜け、馬渕川段丘が拓かれた平らな農道に出る。農作業をする婦人に確かめたところこれが旧道でまちがいなさそうだった。まっすぐすすみ
川口集落で県道241号にでた。県道を左折、海上川をわたってすぐ右にでている舗装道にはいる。山間の旧道筋にしては直線的すぎ、このあたり開拓された際に道も改修整備されたものと思われる。左手に「別当屋敷之墓」があるが、裏面の墓誌からこれは史跡ではなくて個人の墓のようであった。

舗装道路は岩手県最北の
釜沢道の下集落の北端で途切れ、簑が坂(みのがさか)入口に来る。坂名の由来となった伝承が記されている。明治天皇巡幸の際ここで馬車が動けなくなり馬に乗り換えたとある。谷沿いの道は落石がはなはだしく荒れている。少しの雨でも通行不能になりそうな道である。すぐに県境を越えるらしいが地点は定かでなかった。

道は歩きやすくなってほどなく穏やかな峠に至る。小さな空間に、駕籠立場、明治天皇休息の記念碑、吉田松陰の東北遊日記碑がある。

崖渕に展望台が設置されていて、そこからの眺めがすばらしい。眼下に広がる集落は釜沢で岩手県、中央を走る青い線は馬渕川である。

左に目を移していくと低地は舌状の絶壁に包囲されている。崖下を流れる川もまた馬渕川である。展望台の直下で川の流れがぐるりと旋回しているのだ。隆起したのか陥没したのか見事な段丘崖の景観をみた。崖の上は青森県で崖渕を奥州街道がはしっている。


下り坂にはいる。左手にところどころリンゴ畑が開けている。子犬と散歩する少女にであった。難所も籠立場から青森県側は日常の散歩道なのだろう。熊の心配はなさそうだ。
駕籠立場一里塚が現れる。街道が切り下げられたため塚は6mもの高い位置にあって全容がつかめにくい。そのためか、階段がつけられていた。

まもなく道は二股に分かれ、右の細道をとって国道4号に合流する。


(2009年10月)

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