三戸

国道4号が緩やかに左にカーブを描くあたり右手に、駐車スペースをとった店舗が数軒あり、ゴミが散乱するその間に脇道が口を開けている。入ったところに「東北自然歩道」「3.1km関根の松 駕籠立場2.4km」との標識が立つ。この舗装道路が旧街道である。細いながら舗装された車道で、民家が適当な間隔で建ち、山道という感じはしない。りんご畑に目をとられている間に峠をすぎて開かれた丘陵にでた。竹林坂を下っていくと三戸同心町で県道258号に突き当たる。

県道258号は左、南西方向に向かう鹿角街道である。この丁字路にあった「右ハかつの 左ハもり岡」と刻まれた
追分石は三戸城山園の糠部(ぬかのふ)神社鳥居脇に移された。

丁字路を右におれて同心町から八日町に進む。右手に
三戸大神宮がある。16世紀、南部氏中興の祖といわれる第26代当主信直が伊勢神宮の分霊を勧請した。「東北のお伊勢さま」として広く崇敬を集めている。屋根に反りがなく全体が直線的な拝殿である。

右手に醸造元
佐滝本店がある。奥に見える洋風建物は大正14年に建てられた別邸で、3階建のドーム屋根付き望楼は漆喰壁の酒蔵と異様なコントラストを見せている。平成12年に国登録有形文化財に指定された。

街道は丁字路で左折して二日町にはいっていく。この辺りが三戸宿の中心で曲がり角に
高札場があった。三戸は青森県最初の宿場町である。青森方向へ八日町、二日町、六日町、久慈町と延びていた。問屋場は八日町と二日町に設けられ一ヶ月交替で継立業務を行っていた。

二日町の方向へ左折する前に、ここを直進して
三戸城跡へ向う。
三戸城は永禄年間(1558〜70)24代南部晴政によって築城された。26代南部信直は、天正18年(1590)小田原に参陣、その功により南部七郡(糠部・岩手・紫波・稗貫和賀・閉伊・鹿角)を領有することとなり、南部氏の基礎が固められた。信直は慶長2年(1597)盛岡を築城、寛永10年(1633)より盛岡城を居城と定め、三戸城は廃城となった。

参道を上っていくと
糠部神社の白い鳥居をくぐる。鳥居の脇に鹿角街道との追分石があった。「右 かつの 左 もり岡」とくっきり刻まれている。もとは同心町平32番地にあったものを明治になって新国道(現県道258号)開削とともに同40番地に移したとある。旧街道は現県道と同じ道筋だったのかどうか知らない。

鳥居の左手に「
鏡里顕彰碑」がある。昭和28年に第42代横綱になった。私が子供の頃、両国にすんでいた叔母さんからもらった力士の手形を集めたサイン帳を宝ものとして大事にとっておいた。サインは千代の山からはじまって次が鏡里であった。それから吉葉山、朝潮、栃錦、若乃花、などと続く。私が好きだったのは眉毛と胸毛の濃い朝潮と見事な太鼓腹の鏡里だった。東富士が引退してプロレスにはいった頃だ。力道山、鉄人ルーテーズ、頭突きのボボ・ブラジル、インドのキング・コングなどがいた。脇に冷汗をたらして白黒テレビにかじりついていた。

右手には天守閣を模した
温故館(歴史資料館)がある。小ぶりだが上品な建物だ。左手に聳える樹齢800年という杉の老樹が糠部神社の神木である。三戸城が築かれるはるか以前、初代南部当主三郎光行が入国した建久2年(1191)のころという計算になる。

境内を出た駐車場広場に
本丸跡の石柱が立っている。

札の辻にもどり二日町に向かう。途中左に折れ、図書館近くにあるという
「関根の松」を探す。分かりづらい場所にあった。樹齢370年の姿よい笠松である。

街道にもどる。道は曲尺手の名残のようなくねりを見せて
熊原川に架かる黄金(きがね)橋をわたる。元和9年、第12代南部政行公が京都在留中に天皇から許しを得て、城下に擬宝珠で飾った都風の橋を架けた。当時の擬宝珠は三戸城跡の温故館にある。橋名の黄金とは欄干、擬宝珠が当時黄金張りだったのか、今は塗料がはがれた地味な色である。

六日町にはいり街道左手に寺が続く。法泉寺の山門は、三戸城搦め手門で、竜川寺山門は 三戸城表門であった。

街道は久慈町で三戸城下を出、左に曲がりその先の二又を直進する。下元木平の左手に馬暦神社があり、境内には
唐馬の碑がある。享保10年(1725)八代将軍徳川吉宗にオランダ人が献上したペルシア(春砂)馬が盛岡藩に下付された。藩ではこの馬を種馬として馬匹の改良を図ったが、9歳で死んだので、これを悼み寛保3年(1743)にこの碑を建てて供養した。なお、これと同様な話が日光東往還沿い、東初石のオランダ観音に伝わっている。4代将軍家綱の頃というから三戸よりも古い。ともにオランダ経由ペルシア馬とある。具体的にいえば、幕府がオランダ東インド会社からペルシア馬を輸入したということであって、馬は産地直送されたものであろう。

旧街道は国道4号をくぐって山道を上がっていく。三戸町と南部町の境は江戸時代、地獄沢とよばれる処刑場があった。左手に傾いた標識がかろうじて
「地獄沢土橋跡」と示している。谷側のガードレールは深い谷をまたいでいて、難所であったことをうかがわせる。右手にある待避所のような空間が処刑場跡か。このあたりに馬場一里塚があったといわれているからその痕跡かもしれない。沢跡のすぐ先右手の山中になかば朽ちた稲荷神社があった。

道が右に曲がる左手民家脇に
「馬場舘跡」という標柱が立っている。鎌倉時代からあった舘の跡だという。道向かいに背の低い庚申・廿三夜塔と判読不能な自然石塔がある。

坂道を下り県道143号に突き当たる。正面に「奥州街道」標識と天明4年(1784)建立の
天明飢饉供養塔がある。ここを右折して小向橋を渡ったところを左折する。入口に「奥州街道」と、「南部公霊屋まで700m」の案内標識が立っているから迷うことはない。

道なりに坂道を登って行くと丁字路に突き当たる。右に折れるのが旧道筋だが左にまがって
聖壽寺館跡と南部利康霊屋に寄っていく。聖壽寺館は本三戸城と呼ばれ、南部氏初代の南部光行が築き三戸城ができるまでの三戸南部氏の本拠であった。今も堀跡が残っている。

聖壽寺館跡の先を右にまがっていくと国指定重要文化財、
南部利康霊屋がある。利康は盛岡藩初代藩主利直の四男で24才で死去した。これを深く悼んだ利直が豪華絢爛たる霊屋を建てたものである。

道をもどって丁字路のすぐ先、「奥州街道」の標柱が立つ丁字路を左に入っていく。正寿寺集落を抜けるとりんご園がつづく山道になる。

まもなく段違いに道が二つに分かれるが奥州街道標識が立つ左側の上り道をとる。草は刈られて歩きやすい山道である。しばらく行くと、右手に
「伝木戸口跡」の標柱がある。「正寿寺環境保全隊」が設置したものだ。「木戸口」とは本三戸城にかかわるものか。

まもなく北沢2号橋を渡って県道233号にでて左折。500mほど行って県道と分かれ「奥州街道」の標柱が立つ旧道に入っていく。轍で固められた砂利道で、林は深そうだがここも歩きやすい。

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浅水

ほどなく左手に水道施設記念碑があらわれ、すこし進んだところの二股にコンクリートの遺構が残り脇に「庚申塔 奥州街道」と書かれた標柱が立つ。あたりに庚申塔は見当たらなかった。

県道233号の墜道へ下る道との三叉路に差し掛かる。右の「奥州街道」へ進む。

すぐ左手に「嶺の薬師入口」と書かれた標柱がある。見渡しても何もありそうにない。

やがて右手に「一里塚」の標識をみつけた。場所はなだらかな峠付近で街道は切り通しになっている。高山一里塚はその盛り上がりの一部をなしている形で、わかりにくい。標識がなければ気付かなかっただろう。

しばらく歩いて左手の木立の中に十和田山碑がある。自然石に「十和田山」と刻まれている。

道は峠の三叉路にさしかかり、右に上がっていく坂道入り口に「駕籠立場」の標識が立つ。街道は林道として整備された道となって下り始める。高山頂上はすこし街道からはずれてありそこに展望台等が整備されており、明治天皇御駐蹕所の記念碑がある。海抜273mとあった。明治9年の御巡幸ではここで野立が行われたという

峠からしばらく降りたところに東屋があって傍に
「安達ヶ原鬼ババ伝説の地」と書かれた標注が倒れそうに立っている。駕籠立場の説明板にも触れられていたが、このあたりには「逆さ栗」や「出刃洗いの滝」といった気味悪い場所があるそうだ。ここの鬼ババ伝説は奥の細道で寄った安達ヶ原のものとは別で、高山峠付近にある安達沢に伝わる鬼婆だという。自分の娘を殺したことなど共通したモチーフをもつ。

高山峠からの下り道は整備された林道で、上り坂のようなぬかるみもなく快適である。右手「相内」の表示がある二股を直進する。

東屋と小さな稲荷神社をすぎたところに右に下る道があって突き当たりに水梨清水(みずなししみず)がある。街道に車が止まっていて、清水を汲み取って帰る人がいた。

「浅水まで1.4km」地点を通り過ぎる。辺りの景色が開けてきてりんご畑が目に付くようになってきた。佐野坂に
佐野一里塚が残ると聞いていて注意して下ってきたのだが、それらしきはっきりとした塚の形跡は見かけなかった。左手にややくずれた感じの土盛があって頂上に細い木が一本伸びている。説明板や標識もないというからこんなものだろう。

坂を下っていくと前方に緑の丘陵が横たわりその麓に浅水集落がある。丘陵の頂に浅水城があった。浅水川を渡って県道233号に突き当たり右折して浅水宿に入る。

すぐ左手の
宝福寺は浅水城城主南部長義の開基によるもので創建は大永3年(1523)となっている。本堂は県指定文化財となっている。詳しい説明文があるが、専門建築用語ばかりでついていけない。

赤い鳥居が建つ
八幡宮参道入り口を上っていくと、浅水集落を見下ろす八幡宮境内に浅水城址の説明板があった。南部藩22代政康の三男長義の築城とされている。その後長義の子孫南氏五代南部利康が南の名跡を継ぐが、利康は寛永8年(1631)24歳の若さで没した。浅水城は利康の死没によって廃城となり、その霊を慰めるために建てられたのが南部町の三光庵霊廟である。

町中に降りる。浅水宿に本陣などはなく、幕末には商人宿2軒、往来宿1軒という小さな宿場だった。長い塀を巡らせた旧家風の屋敷がある。交差点の手前左手にある小泉商会の前に
「明治天皇御休所跡」の標識がある。この辺りが浅水宿の中心だったのだろう。


県道142号が分岐する交差点のすぐ先で旧奥州街道は県道233号と分かれて住宅の間の路地に入る。すぐに
地蔵坂とよばれる急坂になる。路傍に庚申塚と安政四年(1857)の廿三夜塔が並んでいる。庚申塔の青面金剛は素朴ながら味わいのある浮彫だ。前割れのひだスカートが可愛い。

山道を進んでいくと高台に東屋があり「十峰庵」の標柱が立つ。脇に「奥州街道をたずねて」と題した詳しい案内板がある。

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五戸

山道は「鞍越坂」に差し掛かる。ちょっとした峠だ。坂を下ったところに「鳥内清水」の案内標識があった。どこに清水があるのか、わからない。あきらめて通り過ぎ交差点から振り返ってみると右手の田圃の角地、繁みに隠れて円筒形の受け桝があった。

舗装道路と合流してすぐ右の山道に入って行く。「鳥内坂」とよばれる坂道の峠に
鳥内沢一里塚がある。両側とも塚の形がはっきりとせず、右側の標識に助けられた。通り過ごして見返るほうがよくわかる。

右手の空き地に
「明治天皇八戸疑景天覧聖蹟」が建っている。明治9年7月東北巡幸の際、八戸の人達がここで八戸の大パノラマを作って迎えたという。八戸が巡幸のルートからはずれたためのデモンストレーションということだった。

左からくる槍沢(うつぎさわ)からの道との合流点に一本の名残の松が立ち、その下に自然石の
「御大典記念」碑がある。「右槍澤」と書かれ追分石を兼ねている。

旧道は二車線舗装道となり五戸町内に近づいていく。左手に
「ひよどり坂」の標識があった。旧道風情色濃い道である。入ってみると杉並木が残る魅力的な道だったが、まもなく人家が現れたので引き返した。ちなみに字名を「古街道長根」という。ひよどり坂が奥州街道古道なのか、わからない。

車道にもどり国道4号を跨いで、その先二股を左にとって五戸集落に向う。新町交差点を左折して国重要文化財の
江渡(えと)家住宅に寄っていく。寄棟造茅葺で四方せがい造りの立派な建物である。天明年間(1781〜88)に飢餓救済事業として建てられた。江渡家は五戸代官の下役を努めた御給人(在郷武士)だった。  

新町交差点にもどり県道15号に出る。右折して銀行の角を左折すると左手に五戸図書館がある。ここは戦国時代木村氏が居館した五戸館跡で、江戸時代になって
五戸代官所として使われた。なお戊辰戦争後は斗南藩がむつ市田名部の円通寺に藩庁を構えるまでの間、最初の藩庁を置いたところでもある。

広い芝生敷地内に文久年間に再建された茅葺の代官所建物が残っている。裏には与謝野鉄幹・晶子の歌碑があった。

街道筋の県道にもどり、東に進む。三信金物店の先で県道の左脇に下っていく石階段がある。これが
サイトウ坂とよばれる旧道である。階段を下ったところで左に折れて更に道は五戸川に向って下っていく。この間は旧道らしい雰囲気を残した一画であった。五戸橋の欄干を小学生が占拠して川を眺めている。何をみているのか、社会勉強らしい。

川を渡ってすぐに左折すると
菊駒酒造がある。八戸酒類傘下で菊駒ブランドのみを醸造している。つぎの十字路を右折して五戸宿を出る。

右手江渡幼稚園の先路傍に明治天皇
「田の草取天覧御聖跡」の碑が建っている。田植え天覧碑は見たことがあるが、草取りとは初めてだ。田の草をとる民をみて天皇は何を感じたか。

町はずれの五戸高校北隣に
八幡宮がある。拝殿には見事な彫刻が施されている。境内に菊女の供養塔があるという。小さな祠が二つ並んでいた。一つには石ころが一つ。他の祠の扉を開けると二体の石仏が祀られていた。こちらが菊女の供養搭だろう。五戸の代官木村秀晴が盛岡出張中に愛人菊が身籠っていたので処刑したところ、同じ菊という名前の正妻が夫の愛人に同情して元禄3年(1690)に建てたものだと伝わる。夫秀晴はさぞかしばつの悪い思いを強いられたであろうと察する。

道は山にはいって八幡坂を上る。二股を右にとる。丁字路に突き当たるが、その先に大学沢と応田の境界線に沿って旧道跡がある。草が茂って踏跡もない状態であった。国道4号に出てすぐに右手に「ローラン」という喫茶店がある。この裏に先ほどの
旧道が残っていた。偶然喫茶店の女主人に出会い話を聞くことができた。「たまには主人が草刈りをするのですが…」と、その先端に案内された。50m程で草刈跡は途絶えていてその先は歩行不能の藪となっていた。喫茶店の裏から国道への出口方面は旧道の趣を残している。

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伝法寺


五戸町から十和田市にはいる。一本松集落のバス停先で左に入る旧道があるが、坂を下り田圃の端で
後藤川により分断されている。国道で川をわたり旧道の対岸地点を確認する。藪で川原へも降りられない。傍に「熊出没」の注意札が立ってある。最近熊は場所を選ばないようである。対岸地点から国道にもどる途中の旧道傍に小さな祠があった。

街道は伝法寺小学校先の十字路を過ぎたところで右の旧道にはいる。伝法寺は小さな集落で、次の藤島宿と半月交替で継ぎ立て業務にあたっていた。どこが旧宿場の中心だったかもわからないままに、左に赤い鳥居、右に光明寺をみて歩く。左手に逆戻りする形で下がっていく坂道がある。

途中で土地の老人に聞くとこの道が旧街道だということだった。右手には池があってあたりは樹木が茂る深い林である。このあたりに
伝法寺館があった。伝法寺館は戦国時代、南部氏家臣津村伝右衛門の居城であった。

旧道は国道4号を横切って、三方に枝分かれする細道の一番右手の土道につながっている。
国道の十和田方面右手の林中に館跡の標識が立っていた。

旧道は切通しの中を下って川をわたり左に曲がっていく。この辺りに
伝法寺一里塚があるはずだが見つけられなかった。民家があらわれた先、道は藪の中に消えていった。地図にもある道だが歩くのが困難である。引き返して十和田燐寸軸工場の右側にある旧国道を行くことにした。

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藤島


旧国道が左から来る県道145号と合流する手前に、先に断念した旧道が口を開けている。しばらく遡行してみると車が通る快適な道である。もうすこし辛抱して藪漕ぎをすべきだった。

旧国道と県道の合流点に文政十年(1827)の大きな
庚申塔がある。裏面に「右四和道一里四丁」と刻まれ、道標も兼ねている。四和とは県道145号沿いの米田向町にあたる。

藤島集落の手前で右手の細道に入る。道なりに右にまがった後左折して藤島川をよなが橋で渡る。稲荷神社前の辻を直角に左折して県道145号に戻る。すぐ先、藤島バス停脇の空き地に「明
治天皇駐蹕之跡」碑が建っている。藤島宿は伝法寺宿との相宿であり、小さな宿場であった。この辺りが中心だったと思われるが旧街道筋の面影すらない。 

旧道は藤島集落をぬけた後左斜め(北西)方向へ延びて奥入瀬川の渡し場に通じていた。今はジグザグの畔道に変わって道筋は失われた。美しく刈りとられた稲田が広がり遠くに八甲田山の山並みが低く伸びている。

御幸橋で奥入瀬川を渡る。源流は十和田湖である。橋の両側には松が植えられた小公園が設けられ北詰めには「御幸橋の由来の碑」がある。明治9年の明治天皇の東北御巡幸でそれまで繰り船渡しであった奥入瀬川に急遽橋が架けられた。6月6日着工、巡幸の7月12日に間に合ったというから物凄い。

御幸橋を渡り堤防を西にすこし入ったところに
「舟渡場跡」の標柱がある。川原には下りられそうにない。食品工場の西側を通り抜けて左折し、復活した旧道筋にはいって北上する。



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十和田

旧街道はスーパーシティアサヒの交差点手前で県道145号に合流する。左の駐車場に
一本木一里塚跡があり、塚上に太い切株が残っている。横のスーパーが出店するまでは大欅が聳えていた。東塚は明治18年(1885)国道建設のために早々と取り壊された。

街道は十和田市内に入る。繁華な中央商店街を北上し、スーパーホテルのある信号を右に行くと、太素塚や新渡戸(にとべ)記念館のある
太素公園に突き当たる。太素とは新渡戸傳(つとう)の号である。南部藩勘定奉行であった新渡戸傳は安政2年(1855)、63歳にして荒涼たる三本木原の開拓に着手、奥入瀬川より取水し稲生川上水を完成させた。現在の碁盤目状に整備された十和田の近代的市街地は新渡戸傳とその嫡男十次郎親子が造り上げたといってよい。

十次郎の三男稲造は1862年盛岡に生まれる。札幌農学校、東大で学びアメリカ、ドイツに留学。札幌農学校教授を初め、京大、一高校長、東大教授、初代東京女子大学長を歴任した。1920年には「願わくば、われ太平洋の橋とならん」と国際連盟事務局次長に就任。1933年72歳でカナダ ビクトリア市に没した。国際人の先駆けである。

公園には三世代にわたる新渡戸家巨人の銅像が建つ。残念ながら侍の傳をのぞき、モダンな十次郎と稲造のマネキン風右手付きが安っぽい。

稲生町信号の西側にのびる広い通りが日本の道百選にも選ばれている
「官庁街通り」である。「魔の野原」と恐れられた広漠たる原野が松と桜の並木道となっていて、道ばたは季節の花で彩られる。見事な計画都市と言うほかない。図書館前に馬の銅像が並ぶ。明治時代ここに軍馬補充部があった。

街道を北に進む。西1番町の左側に、立派な朱色の鳥居が並ぶ
稲荷神社がある。稲荷神社は安政6年(1859)新渡戸傳が上水道完成を記念して建立した。

稲生川を稲生橋で渡る。稲生川は、新渡戸傳が荒涼とした三本木の原野を開拓するために奥入瀬川から取水した上水路である。

次ぎの信号で街道を離れて大清水大明神に寄る。ここに「三本木」の地名の由来となったという
白タモの木があるという。説明板はあったが付近のどれが白タモの木なのか、わからなかった。

街道にもどる。右手に巨大な
の繁りが見えてくる。松前藩主が参勤交代の際に植えたもので樹齢は300年、高さは30mに及ぶ。傍の二階建て住宅がまるでオモチャに見えるほどで、巨木のスケールには圧倒された。場所は土手山神社の境内である。寒風の吹きすさぶ三本木原には防風林として奥州街道沿いに土手を築き松並木を整備した。土手山の地名はその名残であるという。

4号十和田バイバスが合流するすぐ先左手に
真登地(まとぢ)一里塚が残る。この一里塚は「ニモリ」の俗称で親しまれていたという。ニモリとは何だろう。塚の形は周りの樹木に隠れて認められなかった。崩れつつあるのかもしれない。

洞内(ほらない)信号を越え砂土路川に向って下っていく。川の手前で左の土道に入りすぐ右折し赤い欄干つきの小さな橋をわたってあぜ道を右に進んでいったところに「袈
裟架けの松」がある。国道からでも眺められるが近づくにはこれしかない。鎌倉時代、茨城県真壁の出身で松島瑞巌寺の中興の祖として知られる法身国師が遍歴の後洞内法蓮寺に住むようになった時、この松に袈裟を架けたという。

奥の細道で、芭蕉は瑞巌寺に参詣したおり、「当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐帰朝の後開山す」と記している。その「真壁の平四郎」が法身禅師である。

池ノ平にはいると街道の両側にまとまった
松並木が続き、しばらくいくと「奥州街道」の石碑が建っている。車が多い国道ではあるが快適な道である。

やがて並木は途絶え、杉林にはいってきた。左手にモーテルの入口があり、そこを入る。右手、杉林の中に旧道が残り、両側に
一里塚が現存している。国道からこそ見えないが、旧道といい一里塚といい、元の姿で良く保存されている。それにしてもややこしいところにモーテルを建てたものだ。

短い旧道をでて国道にもどると十和田市から上北郡七戸町にはいる。

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七戸

川去川、大林川を渡り、七戸町蒼前歩道橋の二股で右にまがる国道4号と分かれて左の旧道をとる。高瀬川を七戸橋で渡ると旧七戸宿場町である。通りには古い佇まいをみせる家や店舗がのこっている。駒泉の蔵元盛庄は広い間口を開けて二階の欄干は旅籠の雰囲気を漂わせる。味噌醤油醸造の
山勇商店は繊細な千本格子が美しい。

七戸郵便局の交差点を右折するのが旧街道だが、ここを左折して七戸城跡に寄り道する。途中、七戸役場の前に
旧郵便局がある。昭和3年建築の下見板張り洋風建築で、国登録文化財になっている。

役場の裏から階段を登っていくと神明神社がある。神明神社の境内一帯が本丸跡である。横に
「史跡七戸城址」の碑が建ち、周辺は柏葉公園として整備されている。七戸城は根城南部第五代の南部政長によって築城されたと伝えられる。その後盛岡南部藩によって支配され代官所が置かれていた。

街道にもどり東に向かう。
青岩寺の山門は旧七戸城本丸の城門である。境内には「右ハもりおかミち 左ハ在郷ミち」と刻まれた追分け石が保管されている。元は寺の前に置かれていたものである。寺は天正10年(1582)の開山で、本堂は安政2年(1855)に再建され県重宝に指定されている。

旧街道は中央図書館前の信号をすぎて次の十字路を左折し七戸病院の西側を通って国道394号に突き当たる。かっては住宅の背後に迫る山を登って尾根伝いに北上する山道があった。今もその痕跡が残っているようだが、空き地から覗いてみたところとても上れる状態ではない。

一筋西に移動し広い車道を北にすすんで国道4号に合流する。すぐ先で東に分岐している国道394号を1kmほどいったところに明治初期から経営されている
盛田牧場がある。国道から一歩牧場に入り込むと見とれるような杉並木道がまっすぐに延びている。両側の柵内は黒々とした肥沃な土が広がっている。その奥に絵にかいたような茅葺厩舎が優美な姿を見せている。豪壮な茅葺屋根に生い茂る草がその歴史を物語るようである。西に傾いた日差しを受けて水飲み場がポツンと輝いている。しばらく街道のことを忘れて、丹念に手を加えられた自然の造形美に身を置いた。

七戸文化村のひとつ手前のバス停は「七戸東栄前」という。今は建設資材置き場に変じた敷地に東栄ボウルの大きな建物が今も残っている。廃業したボウリング場前に昔のままのバス停があるのだ。旧東栄ボウル入り口脇に
天王一里塚跡の説明札があった。それによれば塚は昭和40年ころ開発によって消滅したとある。ちょうどボウリングブームのころではなかったか。

一里塚跡から600m先に道の駅しちのへ、七戸美術館、七戸文化村が集まっている。この近くに12月東北新幹線七戸駅が開業する運びとなっていて周辺の開発が盛んだ。道の駅の入口に「奥州街道」の碑と「奥州街道図(七戸野辺地間)」の案内板がある。

「南から北上する奥州街道は、七戸を過ぎたのち、天間館・長者久保・夫雑原を経て野辺地に入る下道(本街道)と中野・坪・尾山頭・清水目を経て野辺地に入る上道(坪道・近道)とに分かれる。この街道は、鹿角産の御用銅や福岡・三戸・五戸・七戸産の御用大豆を大阪へ送るため野辺地港まで運ぶ人牛馬の通行で賑わった。」

案内板にあるようにこの先まもなく街道は二筋にわかれて野辺地で出会う。今回はそのうち天間館・長者久保・夫雑原を経る下道(本街道)を行く。

街道右手に青森県立営農大学、諏訪牧場が続く。ゆったりとした歩道の両側には整った
松並木が延々と続いている。案内板にあったようにこれらの並木は後植えのものであるが昔時を偲ぶには十分な風景である。諏訪牧場入り口の標識につられて入っていくとここにも美しい木造厩舎が建っていた。盛田牧場ほどの古さはないが、緑色の銅板葺きが上品で端正な佇まいを見せている。

いよいよ
中野三差路に差し掛かる。左に行く国道4号が上道(近道)、右がこれから行く奥州街道下道で参勤交代に使われた道である。二股角にある宮沢医院の前庭に追分け庚申碑がある。「右ハ野辺地本道」「左ハ同近道」と刻まれており、寛政9年(1797)に設けられた。

中野三叉路を右にとって県道173号を行く。1km余り行ったところで県道を右に分けて左の旧道に入る。下り坂の途中に江戸から175番目の
天間館一里塚が東西二基残っている。原形をよくとどめていて特に西塚の塚木は樹齢350年、樹高約25mという欅の巨木である。

「西天間」バス停の先を道なりに右折し天間館(てんまだて)集落にはいっていく。このあたりの地名が「家ノ上」「家ノ下」「家ノ裏」と、「家」にこだわっていて面白い。集落の左手の川近くにかって
天間館があった。今は跡地の廃屋も取り壊され畑地になっている。「家」とはこの館のことか。

旧道は車道の一筋北側の路地を東に進みそのまま左斜めに坪川の船渡しに下っていた。道筋に東屋が設けられていて、旧道跡は川原の藪に消えている。

二股で分かれた県道173号と合流し天間館橋を渡る。橋の上流、
坪川右岸に藪に消えた旧道がでている。このあたりが渡し場だったのだろう。

街道は一本木のガソリンスタンド前、「天寿園」の案内標識に従って左折する。天寿園前で舗装が終わり土の農道になる。突き当りを左折し最初の十字路を右折、舗装された車道に出て左折する。これら直線の道は区画整理された農道であって、旧街道はこの広い田園地帯を斜めに走っていた。

遠くに八甲田山を望むなごやかな田園風景が広がっている。しばらくして右手水路沿いの道に入りすぐに左折する。ここから旧道が復活してしばらく右斜めの土の道をいく。まもなくこの旧道も田圃のなかに消失。鈎型に農道を迂回して上北変電所の西側に出る。

柵が設けられた林の中に穏やかな盛り上がりをみせる一里塚が現れた。
蒼前平一里塚で、両塚の間に公園のように手入れされた旧道が残されている。

蒼前平一里塚の説明板は一里塚の起源を慶長9年ではなく、「平泉の藤原清衡が白河から外ヶ浜までの間に金箔をはった卒塔婆を立て、里程標にしたこと」から説き起こしている。近くのポケットッパークに「奥州本街道」の碑と、七戸道の駅でみたのと同様の奥州街道案内板があった。


(2010年10月)
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奥州街道(16)



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日本紀行

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