野辺地

広域農道をよこぎった先に続いている農道が旧道であるが、すぐに杉林と水路で行き止まりとなっている。やむなく西に500mほど迂回し、集落のなかほどの舗装道を東に進むと林沿いに復活した旧道にもどる。
左手の畑地と右手の林にはさまれた旧道は向平と篠内平との境界になっているようだ。

石文集落を通りぬけ石文橋をわたり東北本線の高架をくぐる。すぐ左に入る土道をぬけ自動車道を横切り、赤鳥居の先で左の山道に入っていく。
ぬかるんだ林間の山道をゆくと左右の視界が交互に開け気持ちのよい道となる。雑草はなく、杉の落葉が足裏に軟らかい感触を伝える。

左から来る車道に合流した。高原を思わせるなだらかな丘陵地帯が広がり、あちこちで飼料用トウモロコシの収穫がみられる。収穫機と運搬車が寄り沿って並走する。見事に息のあった協働作業にしばらく見とれてしまった。

夫雑原(ぶぞうはら)の小さな集落を通る。廃校となった小学校の跡地(現生涯教育センター)に
夫雑原一里塚があるという。桜の木が植えられた道ばたの土塁を注意して探してみたが塚を窺わせるものは見当たらなかった。

夫雑原から長久保までは林間の舗装道路が直線的に延びる。車は一台も出会わなかった。長者久保集落にはいって鳥居の先で右に曲がっていく車道と分かれ、そのまままっすぐ進んで山道に入っていく。藪深い道との予想に反して、轍がはっきりついた歩き易い土道で、広さも車が通るに十分な幅である。木立も適度にすかれて鬱蒼とした圧迫感がない。

熊を気にする間もなく右手に
坊ノ塚一里塚が現れた。両方の塚が現街道の右手にあり、両塚の間に古道の窪みが残っている。塚を整備したときに周囲の木を伐って通れるようにしたものだろう。古道の前後をたどったがすぐに林の中に消えてしまった。

林をぬけ街道が右にまがるところに
「鳴子 このこ苑」という小公園が設けられている。平安時代の昔、このあたりに鳴子館とよばれた集落があったという。野辺地の町が一望でき遠くに奥州山脈が北の海に果てる姿を見届けられた。

国道279号を跨ぎその先の鳴子坂橋を渡った右手に
「鳴子坂橋の名称由来」と題する案内板がある。「平安から鎌倉時代にかけて、この付近には先人が集落をなして生活しており、一帯は鳴子館と言われていた。」とあるのは、先にみた小公園からこのあたりまでのことを言うのであろう。幕府や藩の要人が来訪したときはここまで送迎したといわれていることから、野辺地宿の南出入り口にあたる場所と思われる。

旧街道は鳴子館坂を下りて県道246号にぶつかる。坂を上がって県道をよこぎると旧道が復活しているが、鳴子坂を下った地点とはかなりな高低差がある。細道をすすむと右手に赤い鳥居と下町集会所があり、その脇に明和五年(1768)の
青面金剛碑と不動明王が並んでいる。2人とも素朴な出で立ちでかわいらしい。

中野三叉路で分かれたもう一つの奥州街道上道である国道279号と合流する前に、一つ手前の十字路を右折して野辺地小学校の裏手にある愛宕公園に寄っていくことにした。

愛宕公園は陸奥湾を見下ろす高台にあってコニュミティセンターを含む大きな公園である。

幕末の豪商
野村治三郎が私費で敷設した本町通りの敷石を使った参道階段を上り、愛宕神社の手前の道を右にとると芭蕉の「花さかり山は日ころの朝ほらけ」の句碑がある。笈の小文の旅で愛弟子杜国と吉野に遊んだときの句である。

近くに石川啄木の歌碑があった。

  
潮かをる北の浜辺の砂山のかの浜薔薇よ今年も咲けるや

函館の浜に咲くハマナスに思いを寄せた歌である。啄木の伯父が野辺地の常光寺住職をしていた時、啄木の父がこの僧のもとに身を寄せていた由緒によって建立された。

公園に下りる石段の頂上に
名馬アメリカ産花鳥号の銅像がある。明治9年の明治天皇東北巡幸にお供し、野辺地で斃れた。

街道に戻る途中、左手に風情ある板看板を掛けた野辺地町役場がある。その東隣りの緑地が明治天皇行在所として使われた豪商
野村家住宅である。明治9年に明治天皇の行幸があると聞いて廻船問屋野村治三郎が私財を投じて建築した。明治14年の東北・北海道巡幸の際も行在所として使用された。明治23年の野辺地大火で消失し、まもなく当初通りに再建された。国登録有形文化財である建物は改修工事中で敷地に入ることはできなかった。庭を覗き込んだところ石灯篭と植え込みの中に石碑らしきものが見えた。野村治三郎とは本町通りを御影石で敷いた豪商のことである。

郵便局角に出て中野追分で分かれた上道(近道)と合流する。右折するのが道筋だが、街道の西側にある公民館によっていく。野辺地神明宮の前を通り、突き当たりに公民館、民族資料館、商工会、図書館などが集まっている一角が
野辺地代官所跡である。元禄4年(1691)に設置された。野辺地は盛岡藩最北の湊であり、また津軽藩に対する防衛の役割を担う重要な町だった。駐車場にテントや舞台が設営されていた。明日10月2日から「ずっぱど!わっかど!あぎんど祭」である。「ずっぱど!わっかど!」はわからないが、「あぎんど」は商人のことか。

街道にもどり北に進む。郵便局の先の交差点あたりに高札場があって宿場の中心をなしていた。通りは野村治三郎が敷いた3000本の御影石で舗装され、街道の左右には大きな商家が軒を並べて繁盛を極めた。野辺地は藩営の尾去沢銅山から産出された銅の積出港で、ここから西廻り航路で大阪の銅座へ運ばれた。また、俵物と呼ばれる下北の特産品(乾アワビ、イリコ、フカヒレ等)もこの地から長崎に送られ海外に輸出された。この地には近江商人、加賀商人などが進出し定住した者も多い。残念ながら近江商人の足跡をたどることはできなかった。

みちのく銀行がある信号交差点で奥州街道は左に折れて西に進む。現県道243号である。ここで国道279号はそのまま直進し田名部街道となって下北半島を北上する。

県道243号に入ったあたりは新町とよばれ、右手に酒造や廻船業を営む豪商島谷の屋敷があった。野辺地に滞在していた蝦夷地探検家
最上徳内が天明8年(1788)、当主島谷清四郎の娘ふでと結婚している。現在も島谷清四郎商店カメラ部(しまやカメラ店)として末裔が同じ場所に居住している。

街道は八幡宮前の桝形に突き当たる。このあたりに防御のため同心組丁があった。
野辺地八幡宮は、慶長3年(1598)の創建、本殿は正徳4年(1714)の建築で清楚な佇まいの中に随所に繊細な彫刻が施されて品格を漂わせている。

枡形を経て大湊線を渡った先の辻を北へ右折して野辺地に向かう。湾岸道路との角に
遠見番所跡の標柱が立つ。江戸幕府は外国との通商や交通を禁止していたため、外国船を発見、監視するために南部藩によって番所が設置された。

海辺は公園として整備されており、その先端に
常夜灯が下北半島の岬を見つめるように建っている。文政10年(1827)大阪の商人橘屋吉五郎が大阪から運んできて、野辺地の回船問屋野村治三郎が建てた。常夜燈は航海の安全を守る灯明台として毎年3月から10月まで毎夜灯された。


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馬門


県道243号に戻り野辺地川を渡ると右手に
「戊辰戦争史跡」の案内標識が立っている。戊辰戦争後の明治元年(1868)9月22日夜半官軍派の弘前藩軍勢が突如幕府側南部藩を襲撃した。藩境防備にあたっていた盛岡・八戸連合軍はこれに応戦し撃破した。40数名の死傷者を出して敗走した弘前藩は翌年、戦死者27名の名を刻んだ墓石4基をこの地に建てて弔った。

旧道は野辺地湾岸に沿って進み馬門集落に入る。遍照寺の先、熊谷商店の十字路を左に入ったところ右手に
馬門番所跡の標柱がある。藩境塚の2km手前にあたり盛岡藩が番所を設け役人を常駐させていた。

馬門集落には宿場の面影は無く、海岸に沿った路地にはアワビ処理小屋が軒を連ねる漁村である。この路地が旧道跡らしい。防潮堤に沿ってたどっていくと河口の繁みに突き当たって途絶えていた。

馬門信号で国道4号に合流してまもなく日本橋から
700km地点に到達する。国道4号は青森まで750km程度。これが最後の100km標となる。日本最長の国道だ。

丁度その付近が野辺地町柴崎と平内町狩場沢字関口との町境となっており、藩政時代には南部藩と津軽藩との藩境であった。史跡公園として整備され、冠木門と柵の後ろに
馬門御番所と宝暦6年(1756)の高札が復元されている。

海岸沿いに降りていくと
津軽南部藩境塚が築かれている。二本又(ふたまた)川を挟んで両側に2基づつの塚があり「四ツ森」ともいわれる。川の北側には「縦是西北津軽本次郎領分」、南側には「縦是東南盛岡領」の標柱が立つ。いまでこそ4基そろえて意味のある観光旧跡であるが、築いた当事者はそれぞれが怨念にも似た思いで土を盛り上げたのではなかろうか。司馬遼太郎はここを訪れて津軽側の塚はぞんざいに作られているように感じたようだが、私の目には両方とも合同に近い出来栄えに見えた。

一里塚の例にもれず、藩境塚も街道の両側に築かれたもので、その間が
旧道である。その跡と思われる道がすこし続いて磯に消えていた。

国道4号にもどり狩場沢集落に入る。左に出ている坂が旧道で高台を国道に並行して北に短く続いている。上り口に狩場沢番所跡があるとのことだが痕跡は見つからなかった。

上がり坂から二手に分かれる道をまっすぐに行くと、東北本線の第一助白井(すけしらい)踏切手前に
熊野宮がある。鳥居をくぐってすぐ右手に色艶も見事な「金精さま」を祀った祠がある。社殿は大きくはないが整っていて立派だ。

街道にもどろうとしたとき、踏切りの警報がなった。シャッター速度を切り上げ電車を待った。形からして特急みたい。

旧道は高台の狩場沢浜懸集落を抜けて地蔵堂のある角を右に降りて国道に合流する。

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小湊

右の旧道に入って狩場沢漁港による。
狩場沢駅の手前、檜沢で左に入る短い旧道がある。
左ェ門次郎と口広沢で右手に旧道が残る。いずれも集落をぬけるや国道にもどる。以後も短い旧道を繰り返して青森に向う。

清水川を渡ってすぐ左手の平内パーキングに
奥州街道碑と「奥州街道図」と題した案内板がある。絵地図には清水川村の東方に一里塚が示されているが、手元資料にはない。

国道は掘替川あたりで大きく左にカーブして東北本線を跨いでいく。
旧道は跨線橋の手前で右に降りて線路で分断された後、県道9号に合流して小湊に入っていく。

途中、県道9号は直角に右折して夏泊半島に向うが旧街道はそのまま直進する。
寄り道して県道9号を北にたどり雷電橋をわたって
雷電宮と小湊の白鳥飛来地に立ち寄ることにした。雷電橋をわたってすぐ左の森の中に雷電宮がある。屋根をつけた白木の鳥居が清々しい。境内には落雷にあって上部を失った「降電大杉」や欅が杉の木にしなだれかかるように寄り添う「相生の杉欅」がある。

道の反対側は陸奥湾の一部で小湊の
白鳥渡来地として知られている。汐立川の河口にある小島に橋が架けられていて、白鳥の渡来シーズンには格好の観察場所でありそうだ。

街道にもどり
小湊川を渡る。突き当たりの通りが小湊の中心街だ。街道の道筋は丁字路を左折するが、右に曲がって代官所跡をみていく。平内町歴史民俗資料館がある一帯は蝦夷の砦「チャシ」があった場所で、藩政時代には、代官所や武家屋敷で御家中と呼ばれていた。今も残る欅や黒松の古木が往時を偲ばせる。

資料館の前庭に
「平内代官所跡地」の標柱が立っている。安永4年(1775)、黒石藩の代官所がこの地に建てられた。平内郷は南部領、津軽領となり、その後明暦2年(1656)黒石領となった。

街道にもどり南に進むと平内町役場があり、玄関先に
明治天皇行在所跡の石碑が、通り沿いには「竹内家跡地」の標識がある。竹内家は江戸時代の豪商竹内与右衛門のことで、明治天皇の行在所となった。

平内は津軽三味線で有名な高橋竹山の生誕地で、町内のあちこちに生誕100年を記念するポスターや幟が見られる。

旧道は小湊交差点で国道4号を横断して最初の角を右折して西に向う。左手高台に
天明飢饉供養塔がある。天明の飢饉では平内でも多数が餓死し、357戸あった家の半数が空き家になったという。この飢饉で亡くなった人々を供養するため天明7年(1787)東福寺11代住職がこの供養塔を建立した。東福寺は町役場の裏手にある。

天明の飢饉供養塔の先は杉林の中を静かな道がつづく。藤沢集落を抜けると国道4号に合流する。山口、中野を経て土屋に至る。右側の短い旧道を通りぬけ国道にもどり、すぐ今度は左の旧国道に入る。このあたりから湾をまたぐほたて大橋にかけて国道の大規模な付け替え工事が行われておりバイパス、旧国道、旧道が交錯していて道筋をたどるのが難しい。

新旧国道にはさまれて「ほたて広場」が整備され、中央の建物前に
「土屋御番所由来」の説明板が設けられている。明暦2年(1656)に、黒石藩初代藩主が領地境界警備のため黒石藩平内領の西口に設置した口留番所である。

ほたて大橋の南詰で東津軽郡から青森市に入る。旧名でいえば黒石藩平内領から弘前津軽藩領にはいったことになり、土屋御番所はその黒石側藩境にあった。

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野内

旧奥州街道は浅虫水族館に通じる道に出て右折、浅虫信号交差点で一旦国道に合流するがすぐに左の県道259号に入る。

浅虫温泉街はL字形に形成されており、浅虫川の手前で左に入って行く。江戸時代の浅虫村はこの道沿いに開けていた。浅虫町民会館をすぎて左手に源泉公園がある。足湯と温泉卵をつくる場所が設けられている。

奥にある「鶴の湯」は太宰治の祖母が湯治した場所、
浅虫川の右手に津軽藩本陣跡の「柳の湯」がある。

その西側に明治天皇行在所として使われ棟方志功がよく訪れたという
「椿旅館」があり、玄関ロビーには大きな棟方志功の作品が飾られている。版画と絵と書が入り混じった奔放な作である。明治天皇が入浴した際に使われたという湯壺が保存されているほか、天皇が使った調度品を展示する特別コーナーも設けられている。

旧街道に戻り国道4号と合流、越後の親不知・子不知とならんで二大険路といわれた
善知鳥(うとう)崎に差し掛かる。今は100mほどの短い善知鳥トンネルであっけないが、昔は険しい山越えの道をゆくか、足をぬらせて岩場を歩くしかなかった。

山道は通行不能となっているとのことで、波打ち際の古道を行く。少しでも波の高い日は歩行不能の難所である。崖を背にして
明治天皇御小休所跡碑があった。風おだやかで晴れた日には崖を屏風に海を眺めるのも一興だろう。

なお、トンネル入り口横にあるという
古戦場碑を見落とした。源頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏の残党、大河兼任等が鎌倉軍に対して最期の抵抗をした場所だという。

難所を越えた街道は久栗坂信号で国道4号から分かれて右斜めの旧道(県道259号)に入る。久栗坂集落出口近くのバス停で右の路地に入ると観音寺境内に
「錦木之塚」がある。旅の娘が行き倒れたとの話が伝わる一方で、善知鳥中納言安方の妻の錦木が夫のあとを慕ってここまで来て病歿し、村人が憐れんで埋葬した墓だともいわれる。

集落をぬけ県道にもどった所右手に
川上神社の鳥居と嘉永元年(1848)の大きな庚申塔がある。

街道は野内駅の東側を通り、その先で高架の下を西側にぬけるが、
旧道の道筋は駅を斜めによこぎる形でのびていた。駅の西側に残る旧道を遡行して折り返す。旧道右手に貴船神社をみて県道と合流し野内集落に入る。

すぐ左手に
野内番所跡碑がある。盛岡(南部)藩に対する番所として、秋田藩に対する碇ヶ関、大間越とともに津軽三関と呼ばれたところである。

説明板によると享保2年(1717)から同6年までの月平均片道通行者数は100人程度であったという。1日あたりわずか3人という閑散である。往復6、7人。一時間に一人通るか通らないかという宿場であった。番人も暇をもてあましていたに違いない。

集落のなかほど、野内小学校あたりで道がくねっているのは枡形跡だといわれる。
名残の松が数本残っている。野内川を渡ると青森市街に入る。



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青森

街道は赤川を渡って二股を右にとり、そのまま合浦(がっぽ)公園の中央を突き抜けていく。県内最古で全園が松林の立派な公園である。弘前藩お抱え庭師だった水原兄弟が明治14年(1821)に着工、苦難の末明治27年に完成させた。

公園内を散策した。海を望んで石川啄木の歌碑が立つ。

  船に酔ひてやさしくなれるいもうとの眼見ゆ津軽の海を思へば

松林の中でひときわ存在感を見せるのは
三誉の松である。樹齢470年を超える老松で、歴代の弘前城主がここで野宴を開き、藩主自ら古樹に酒を献上したといわれている。太い幹が根元から三本立ちする威容は畏怖さえ与える。この重量を支える根の偉大さに思いをいたさずにはいられない。 

そのほか水原兄弟像、蒸気機関車などを初め石碑類は多数にのぼる。一番目立たない質素な場所に芭蕉句碑があった。

   鎌倉を生きて出けん初松魚

合浦公園を抜けて二股を左にとり、道なりにゆるやかに左にまがって堤川東詰めの
茶屋町に至る。川に沿った道添いに茶屋町延命地蔵尊がある。文禄4年(1595)堤川開削工事の犠牲者供養のために建立された。並木が植えられ風情ある一角である。船着場があって漁師、船頭、船客が茶屋で楽しむ賑やかな光景が想像できる。旭橋のたもとに一里塚があったというが痕跡はない。

旭橋を渡り曲尺手状に進み一筋北の通りに入る。本町を通り抜け、広い柳町通りを渡った先で小さな曲尺手がある。この変則十字路が
札の辻で青森宿の中心であった。

辻の左手に
善知鳥(うとう)神社があり鳥居前の道路脇に「奥州街道終点記念の碑」と青森市道路元標が並んである。現地では青森から三厩までを「松前街道」と呼ぶ。ここから以北の街道を通った大名は松前藩しかいなかった。

社殿は造りが新しくて趣きあるとはいえないが、善知鳥にちなむ旧跡が豊かで、古い空気が漂う境内である。安潟の名残りである
うとう沼の辺に謡曲善知鳥之旧蹟碑、芭蕉句碑、菅江真澄句碑などがある。

神社に近い本町1丁目は旧寺町である。そのなかで
正覚寺は一番古く、善知鳥村が青森村と改名され港が開かれた寛永3年(1626)、時の開港奉行森山弥七郎が建立した。本堂前の石燈籠は宝暦11年(1761)7代藩主津軽信寧が徳川家重追善のため献納したもので、後年増上寺から下付された。

その足で国道4号に出て西に進む。青い森公園前に
「国道の碑」なるものが建っていて、道路沿いに「国道4号終点、国道7号起点」の標識が立つ。国道4号は現在の奥州街道。新旧ともに奥州街道は青森で終わっていて三厩までは行っていない。国道7号は現羽州街道の最終部分。二つの旧街道は油川で合流するが新街道はここが合流点である。

青い森公園の西側にある県庁の東玄関脇に小ぶりの
御仮屋跡の碑がある。青森は、寛永元年(1624)弘前2代藩主信枚(のぶひら)の命で大浜(油川)に代わる湊として、港と町造りが行われた。寛文11年(1671)御仮屋が築かれ城代が置かれて北海道への前線基地としての役割を担った。

県庁前の通りを海に向ってすすみ、札の辻からの旧街道筋にもどる。左折して西進すると東北本線の終着青森駅に突き当たって旧道は途絶する。道なりに車道を歩いて青森港に係留されている青函連絡船
八甲田丸を見に行った。船尾近くに「青函連絡船戦災の碑」がある。第二次大戦で数多くの連絡船が撃沈された。

向かいにプラットホームがあり
錆た電車が展示されている。昔の青森駅だろう。ここで電車は連絡線に直結していた。八甲田丸に使われていたスクリューもある。背の低いロケットか巨大な砲弾のようだ。
「津軽海峡冬景色」の歌碑もある。ちょっと気が早い。

駅南側に架設されたあすなろ橋を渡って線路の反対側に出る。右におれて道なりに左に曲がっていくと沖館川で旧道筋は途絶。森林博物館の前を通って国道280号に出る。以降この国道280号が青森からの奥州街道、あるいは松前街道である。

新井田橋で新城川をわたると油川に入る。



寄り道

青森のハイライト
三内丸山遺跡を訪ねる。一本で行ける道はなく、行き方は省略する。

遺跡自体は江戸時代から知られていて、小規模な発掘調査は断続的に行われていた。平成4年、野球場建設予定地に約580棟の竪穴住居跡、10数棟の大型竪穴住居跡、100棟を超える掘立柱建物跡等を含む縄文時代前期から中期の大集落跡が発掘された。

かねてから稲作以前の日本人に対しこよなく畏敬と愛情を感じてきた司馬遼太郎はこのニュースを聞いて全身鳥肌をたてたことだろう。彼は2年後の平成6年夏、まだ発掘中の現場へ乗り込んできて弥生時代をしのぐ遺跡群に「白日夢のような話である」と感激した。「縄文時代、世界でいちばん食べ物が多くて住みやすかったのが青森県だったろうということを私も考古学者たちの驥尾に付してそう思い、いわば“まほろば”だったと考えてきた。」と、『街道をゆく−北のまほろば』で述べている。

圧巻は司馬が「高楼ではないか」と想像した
大型堀立柱である。専門家の間でも意見が分かれていて今だ謎とされている。同じ縄文文化でも青森のは関西のそれにくらべて水準が高いという。文字に落として表すことはしなかったが、司馬遼太郎の心には稲作が原日本人を堕落させたというテーゼが刻みこまれていたのではないか。稲作は西からやってきた。アイヌは最後までそれを拒絶し続けた。

(2010年10月)
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奥州街道(17)



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