江戸幕府は、全国交通網の整備を幕府の重要政策とし、奥州街道を含む五街道を定めた。織田信長、豊臣秀吉の設けた三十六町一里の制を確立し、慶長九年(1604)日本橋を起点とし、一里毎に一里塚を築かせた。その上に榎等を植え、旅人のための里程標とし、道の両側には防風・防雪と日陰をつくるため松を植えさせた。この街道は、弘前藩と盛岡藩を結ふ連絡路であり、青森商人と野辺地商人の連絡路でもあった。野内(青森市)、狩場沢(平内町)それに馬門(野辺地町)の関所があるものの、青森と野辺地を結ぶ道筋として、人々や物資の移動に利用された。明暦2年(1656)津軽信政が11歳で弘前藩4代藩主になると、叔父の津軽信英が黒石・平内・上野国(群馬県)新田郡で5000石分知され、信政の後見人となった。このため以降幕末まで平内領2000石は黒石津軽家の領地となり、この街道は黒石津軽家にとって黒石と平内を結ぶ連絡路として重要になった。この辺りを通った有名人には歴代の松前藩主、江戸時代中期の紀行家菅江範登、寛政の三奇人の一人で尊王論者である高山彦九郎、測量家の伊能忠敬、幕末に松下村塾を開き維新の高杉晋作や久坂玄瑞を教斉した吉田松陰等が挙げられる。明治元年(1868)から翌2年にかけて旧幕臣の榎本武揚等が新政府に抵抗した箱舘戦争では、旧各藩から構成された新政府追討軍が青森に結集するため利用した。道標の東にある清水川集落は、天文15年(1546)に作成されたという「津軽郡中名字」にも地名が記された古い村である。江戸時代には帆立貝・春鮪・鯖・鯵などを獲る漁業を営む一方農業も行っており豊かな村であった。現国道はほぼ旧道と同じ道筋である。
旧奥州街道 清水川権十郎新田 平内町 東津軽郡 青森県