県指定史跡 野辺地戦争戦死者の墓所
京都の鳥羽・伏見において始まった戊辰戦争は、やがて全国を巻き込む内戦となった。東北地方の諸藩は、官軍に対抗して奥羽越列藩同盟を結成したが、各藩の思惑は一致せず、秋田藩・弘前藩などは、その後官軍支持に立場を変えた。 明治元年(1868)9月22日夜半、弘前藩の軍勢約180人が突如南部領に侵攻した。本道を通った一隊は藩境の村、馬門に火を放ち野辺地村に迫った。他の一隊は、山道を通り野辺地村の代官所をめざした。藩境の防備にあたっていた盛岡藩・八戸藩連合軍は、これに応戦し銃撃を加えた。夜明けまで続いた戦いの後、弘前藩の軍勢は40余人の死傷者を出し敗走した。この頃、東北地方の戦乱もようやく終結しようとしていた。江戸幕府支持を続けた盛岡藩は、その後伊達領白石に転封された。 野辺地戦争の翌年、弘前藩は戦死者27人の名を刻んだ墓石4基をこの地に建てた。明治維新における本県の歴史を伝える貴重な史跡である。  平成元年11月  野辺地町教育委員会
野辺地戦争戦死者の墓所 鳥井平 野辺地町 上北郡 青森県