油川

油川は青森から始まる松前街道最初の宿場町である。弘前から来た羽州街道はここで松前街道に合流していた。寛永元年(1624)に津軽二代藩主信牧(のぶひら)が当時の善知鳥(うとう)村を青森村と命名し現青森市に港を開く以前、油川は大浜と呼ばれ外ヶ浜最大の港として栄えていた。港には湊番所が置かれ北前船が出入りし、街道合流地の町として豪商や茶屋が軒を連ねて殷賑を極めていた。

明治4年時代に入り、それまで油川経由であった青森−弘前間の道が新城経由(旧国道7号・現県道247号)に付け替えられると陸上・海上ともに交通要衝としての地位を青森に譲り油川は急速に衰退していった。現在の羽州・奥州(松前)街道の合流点は青森長島1丁目にある。

奥州街道天田内川の手前に
浄満寺がある。浄満寺は油川城主奥瀬氏の菩提寺で五輪塔の墓もある。油川城は天正時代南部氏家臣奥瀬善九郎が居城し津軽の要所を支配していたが、天正13年(1585)3月、南部氏の一族であったともいわれる弘前藩初代藩主津軽為信に攻められあえなく田名部へと逃亡した。

本堂裏手に青森の開港奉行を勤めた森山弥七郎の墓所と、境内天明3年(1783)の飢饉での死者を埋葬した
千人塚がある。天明飢饉での餓死者は300人に及び、油川代官は淨満寺境内に大きな穴を掘らせて埋葬させた。

天田内川を越え県道234号との丁字路右手に黒塀が長々と続き雁木造り(当地では「こみせ」と呼ぶ)の
西田酒蔵店が風情ある佇まいを見せている。西田三郎右衛門は元禄時代に油川に移住してきた近江商人で、代々呉服商を営んで油川後潟両組の大庄屋を勤めた。明治11年(1877)西田興太郎が酒造業に進出、「田酒」 「喜久泉」の蔵元として青森市唯一の酒蔵会社である。

近江商人としてはほかに平井津兵衛(近江屋)がいた。享和2年(1802)8月11、12日、伊能忠敬が宿泊した記録がある。

西田酒店の黒塀前に
「羽州街道松前街道合流之碑」と「この合流の地に夢を託して」と題する案内板がある。この碑の道向かいが旧羽州街道である。すぐに県道234号と合流している。

「ここはみちのくの主要道、羽州街道の終点であり、松前街道の起点でもあった。かっては制札場もあり、馬の蹄の音や、旅人が交わす話し声でいつも賑わっていた。しかし明治4年(1871)新城青森間に直通道路が通され、ここを通る人馬の列は急に途絶えた」

羽州街道は油川を経由して青森で奥州街道と繋がっていた。青森ではそこから津軽半島に向う道を松前街道とよんだ。一方油川にとっては羽州街道は油川で終り、そこから北へ松前街道が出ていたとする。油川にとっては青森−油川間は盲腸のような名もない道であった。

西田酒造の北側の路地を海に向うと油川漁港に出る。外ヶ浜最大の港として賑わった界隈である。

雨が降っていたせいもあってゆっくり昔の宿場街を見て歩くこともせずに油川を出る。

六枚橋の北詰左手に小さな祠があって扉を開くと
百万遍供養塔と地蔵が並んでいる。このタイプの小祠が松前街道沿いに多い。

右手民家の庭には
「昇竜の松」と呼ばれる黒松が太い幹を根元から水平に伸ばしている。民家は赤平家で代々松前藩が参勤交代のときに宿泊所をつとめた家柄だという。集落は後潟といい松前街道の宿場でもないが、本陣格の名家だったのだろう。松は樹齢500年といわれ、幹囲3.1m、樹高4.4mと低くて太い。参勤交代の松前藩主が赤平家に贈った盆栽の松が、庭に植え替えられて大きくなったと言い伝えられている。いかにも巨大な盆栽といった風だ。

すぐ先左手に茅葺の家がある。屋根は苔に覆われてかなり古そうである。脇に植えられた松も年季が入っているようだ。後潟駅前後には松並木の名残が残っている。

後潟集落の北部、平野に
後潟神社がある。色づいた落ち葉が雨にぬれてしっとりとした静けさの中に赤い柱と勾欄が印象的であった。



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蓬田(よもぎた)


街道は四戸橋を渡って青森市から東津軽郡蓬田町に入る。橋の北詰め左手に地蔵堂と、傍に百万遍碑と珍しい猫を浮彫にした石塔が並んでいる。

中沢を過ぎ阿弥陀川集落に入って行く。国道が左にカーブするあたり、
旧道は海岸線沿いに走っていたようだ。国道を逸れて海辺にはいっていくと旧道の面影を感じる道が残っていた。

国道が旧道筋にもどるあたり、左手に
正法院がある。ここは松前藩主の参勤交代の折休憩所として使われた。蓬田に本陣はなく寺がその役目を担っていた。

雨が上がって日がさしてきた。天空をまたぐ虹の橋が浮かびあがった。集落をはずれ、広々とした田園に出てしばし自然の造形を鑑賞する。電線など
をさえぎる障害物が無いのがなによりもうれしい。

阿弥陀川の左手前に稲荷神社があり、渡った左手の
阿弥陀川標柱脇に百万遍供養塔がある。実にこの街道沿いには百万遍供養塔が多い。まるでキロ程のように1kmごと、それよりも頻繁に見かける。


蓬田川を渡り
蓬田漁港に寄る。路地に建つ板壁の古びた家が洋風ドームを戴いた隣家と接合されていて面白い佇まいである。

漁港はよく整備されており花が植えられた路傍に漁港の案内板がある。近隣で漁獲されるナマコから作られるイリコは藩に上納された。当地の名産で、「イリコ仕立方」が任命されたほどである。

イリコとは煮干ナマコのことで、田名部街道の横浜もイリコ特産地として知られている。なお、ナマコの腸の塩辛をコノワタといい、これも珍味として珍重された。父が酒の肴に愛し、気味悪いが私も好きになった。僅かな量しか採れず高価である。

街道は右に玉松海水浴場、左段丘上の
玉松台公園にさしかかる。左におれて線路をわたり玉松台スポーツガーデン東側の林間の道を北にはいると右手に玉松台公園入口がある。沼の回りは樹齢100年の黒松林で、静かな空間が設けられている。日露戦争開戦前夜の明治37年、在郷軍人68名が3日間でこの台上に自らの墓地を作ったものである。

林の中でひときわ目立つ樹齢300年の老松が名松
「玉松」である。近くにある「拝み石」から見ると、幹が円を描いたように丸く見えることからこの名がついた。江戸時代、青森港や油川港へ向かう舟はこの玉松を到着準備の目標としたと伝えられている。

広瀬川を渡り「高根」道路標識がある丁字路手前にブロック塀に囲われた屋敷跡がある。道路沿いの石蔵も入り口は開いたままで放置された恰好である。中をのぞくと庭は荒れていたが奥に見える居宅はまだ新しそうだった。これが明治から大正に掛けて海運業や鰊漁で財をなした
田中吉兵衛家の庭園である。


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蟹田

蓬田村から外ヶ浜町蟹田に入る。蟹田駅前通りの商工会館隣の空き地に津軽藩の
蟹田町奉行所が置かれていた。四代藩主信政の頃の寛文9年(1669)に設置され、平時はヒバ(アスナロ)材の積出しや御蔵屋敷を管理していたが、幕末になると陸奥湾沿岸に異国船が出没するようになり中師台場警護の役も加わった。

蟹田川を渡った左手に
「中貞商店」がある。これが太宰治の青森中学時代の友人「N君」中村貞次郎氏宅である。津軽行脚にでかけた太宰治は蟹田でN君宅に4泊し、夫妻より酒と山盛りの蟹で歓待された。

蟹田のN君の家では、赤い猫脚の大きいお膳に蟹を小山のやうに積み上げて私を待ち受けてくれてゐた。
リンゴ酒でなくちやいけないかね。日本酒も、ビールも駄目かね。」と、N君は、言ひにくさうにして言ふのである。
駄目どころか、それはリンゴ酒よりいいにきまつてゐるのであるが、しかし、日本酒やビールの貴重な事は「大人」の私は知つてゐるので、遠慮して、リンゴ酒と手紙に書いたのである。

街道の右手はすぐ
蟹田漁港である。蟹田港は弘前藩の定めた九浦(青森、鯵ヶ沢、深浦、十三、蟹田、今別、碇ヶ関、大間越、野内)のひとつで北前船が寄港した。港には下北半島の脇野沢村を結ぶフェリーが大きな口をあけて乗船を待っていた。

港の北には海水浴場がつづき、海岸に迫る
観瀾山は公園として整備されている。海を見下ろす観瀾山の山上に弘前藩の蟹田御台場跡の標石が立つ。文化8年(1811)外国船出没に対する沿岸防備のため、ここに砲台を設置した。陸奥湾をまたいで下北半島まで見渡せる。

松林の中には久邇宮邦久殿下や駐在大使等の記念樹が育ち、蟹田の漁港や町の全貌を見渡すことができる一番奥の崖縁に
太宰治文学碑がある。佐藤春夫の揮毫で、

  かれは人を喜ばせるのが何よりも好きであった!

と刻まれている。司馬遼太郎は『街道をゆく』で、「太宰における何がいいあらわされているのか、空疎というほかない。」と佐藤春夫に対して冷淡であるが、この一文は佐藤春夫の太宰評ではなく、井伏鱒二が太宰の作品『正義と微笑』から選んだものを佐藤春夫が書いただけである。司馬はこの碑を誤解している。

街道に降り蟹田の集落をぬけ石浜で旧道は左の山裾の道に入る。旧道と国道に挟まれた帯状の細長い空間に人家と船留りが点在する。それほどに二つの街道は海辺に近い。
数箇所で国道に降りる路地を通過しながら山の中腹を縫う旧道をいく。旧道といってもガードレールがついた舗装車道であり、旧国道ではないかと想像する。

人家の絶えた場所にも旧街道筋の証人として百万遍がある。深く険しい
V字谷を越えると右手崖下に国道が並走しパーキングらしい空間が見えた。すぐ先で国道に降りてパーキングエリアに寄ると「松前街道」の石碑が立っていた。

旧道は旧平舘村に入る。
右手に
「蟹田町・平館村 町村境界」標柱が建ち、左手には地蔵堂と百万遍石塔がある。すぐ先で旧道は国道に合流し、左手草むらに塩越神社が立っていた。このあたりは「塩越」とよばれる地区で、藩政時代には塩田が開かれていた。

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平館

平舘磯山で右手坂道の旧道を下ってのんびりとした漁村の中を通り抜ける。

久須志神社前の二股で左の旧道に入り舟岡集落を進み、陸奥船岡郵便局の先で国道にもどるや尻高川をわたって再び右の旧道に入っていく。今度の旧道は長く、8kmに亘って平館の主要集落をたどっていく。集落を避けて西側山手をいく国道280号は野田バイパスで、つまりは旧道が旧国道だった。

今津、才の神、山下、鳴川、小川、湯ノ沢、山居、門の沢、田の沢と漁村集落を抜けていく。

今津では庭一杯に魚を干す婦人がいた。数種類の魚を認めたが悲しいかな名前をしらない。赤味がかった魚は鯛か。

鳴川から玉川を渡って小川にはいると街道を挟んで立派な松が枝を張り、特に左側の塀を囲った大きな民家の松は白壁土蔵に映えて美しい。

根岸湯ノ沢が元平舘村の中心地で、JA、駐在所、郵便局、外ヶ浜町役場が集まっている。

平舘漁港は大きな港で、ここに平館湊番所が置かれていた。


門の沢の平舘神社を過ぎると平舘津軽国定公園にはいり、松林の中を松前街道が貫いている。松並木の中ほど左に少し入ったところに「長寿の松」「夫婦松」といわれる松がある。長寿の松は平館松前街道の中で最も古い樹齢600年の老松、近くの夫婦松はクロマツとアカマツが夫婦のように寄り添っているようにみえるもので、これらもクロマツは樹齢400年、アカマツは樹齢300年という古い松である。いずれも樹高は20mほどで松林を代表する風格を維持している。

街道の右側に
平館台場跡がある。寛政文化のころ、近海に異国船が出没するようになったところから、幕命によって津軽藩が外ケ浜海防施策として嘉永元年に西洋式砲台場を築いた。土塁を築き、その上に松を植えて海上から見透かされぬ工夫がなされた。一里塚がいくつも集まった展示場のようである。実際、この辺に平館の一里塚があった。

公園の北部は海水浴場やキャンプ場として整備されている。海岸からは下北半島が手にとるように近い。津軽半島と下北半島の最狭部で
平館海峡と呼ばれる海域である。対岸に集落の気配はなく、断崖が白い岩肌をみせる険しい海岸線だ。

海水浴場の北端に
平館灯台がそのスリムな姿を見せている。狭い平館海峡を航行する船を見守ってきた。

松林を抜けたところで国道280号に合流する。

石崎から弥造釜、元宇田の集落を行く。山が海に迫り崖下に軒を借りるようにして集落が延びる。国道は海岸線の傍を走り、わずかに歩道に当る部分が旧道の面影を残している。

街道は大きく左にまがって西に進行方向を変える。
外ヶ浜町から今別町にはいる。海に突き出た岩上に木製の境界柱が立っている。いよいよ津軽半島の北端部にやってきた。


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今別

境界からすぐ鬼泊トンネルの手前で国道から海辺に降りる道がついている。下っていくと天然の岩窟に小さな祠が建てられ、観世音菩薩が安置されている。岩屋観音と呼ばれ津軽霊場33観音の21番札掛所として広く知られていた。


国道ができる以前、街道はこの観音の前を通り綱不知海岸の険しい波打ち際を越えていった。

トンネルを抜けてまもなく沢に架かる橋の左手に、丸みを帯びた二段の岩に水流が細かく分かれて落ちる
達磨滝がある。二段目は大きな太鼓腹を連想させる。

奥平部を過ぎ村元道添で山裾の旧道に入る。稲荷神社脇の草むらに赤い岩が数個露出している。
赤根沢の赤岩として知られベンガラ顔料として重要な産物であった。弘前藩では赤土奉行の番所を設けて守護していたという。採掘された赤土は領内の神社仏閣の赤い塗料、日光東照宮や岩木山神社の大堂、山門などの修復に用いられた。

砂ヶ森砂村元集落の旧道にはいったが集落の端で袋小路となって途絶していた。国道にもどり街道は高野岬の展墓台に出る。岬に向って降りていくと紅白円筒形の高野崎灯台があり、深い崖下からは岩場をつないで赤い橋が架けられている。先端の平らな岩は波で洗われていて、渡れる状態でない。降りる人は干潮時をねらって橋をわたるのだろう。ともかく群青の海と白波の中に朱色のコントラストが効いて絶景である。

灯台の場所は戦時中は陸軍の監視所が、さらに古くは台場が築かれていたという。岬の北側は何者も寄せ付けない垂直に切り立った絶壁である。

袰月(ほろづき)集落の終わるあたり左手に小さな滝が落ちていて朱色の橋が架かっている。袂に
「旧松前街道(袰月滝見の観音堂)」と記された木杭が立っている。滝そばに海雲洞釈迦堂がある。津軽三十三観音霊場第二十一番札所である。

旧松前街道は橋から釈迦堂前を通り人家の狭い路地をぬけて国道をよこぎり海岸に沿って続いている。その先に鳥居が見え波に洗われる崖下に消えていた。かっては岩をかいくぐってそこを渡っていたのであろう。

現在の街道は崖上に上がって
鋳釜崎を越えていく。あたりは袰月海岸国定公園となっていて、街道沿いの駐車場に吉田松陰の「東北遊日記」の碑が建てられている。

三叉路バス停で右の旧道に入り坂を下って
大泊集落に出る。

大泊から与茂内にかけての険しい海岸線に吉田松陰がくぐったという洞門
「いんくぐり岩」があるはずで、そこへの下降地点を探りながら歩いたのだが標識を見つけることができなかった。一ヶ所だけ、ガードレールの途切れた場所に小さな祠があって、海岸に下りる草道があったが、垂直に切り立った崖を降りる様子であり、あきらめた。

与茂内で小さな集落にはいって浜にでてみた。大泊方面を振り返ると先ほどの降り口地点を海側から臨むことができる。岩肌が海中にはげ落ちている。いんくぐり岩はそのどこかであろう。

山崎山元で国道とわかれて右の旧道に入る。国道はここから三厩まで、今別町を大きく迂回していく。町内を貫く街道は旧国道であろう。今別川手前で左に入ってあすなろ橋を渡る。県道14号を右折して海辺の道に戻る。結果として川をまたいだ枡形となっている。

十字路角に門塀をかまえた総二階造りの立派な家が建つ。元町長中嶋家だという。その先左に入ったところに今別町役場がある。改装工事中だが「今別町役場」と墨書きされた大きな板看板が風情ある存在感を示していた。ここに
今別町奉行所があった。

今別は三厩を目前にした宿場だがそれを窺わせる遺構は残っていない。
役場前の街道を進んでいくと今別大仏がある本覚寺に突き当たる。明暦3年(1657)、安長上人の開基で津軽半島最古といわれている。右手の庫裏は宿坊を兼ねているのか、まるで校舎を思わせる立派な建物である。第5世貞伝上人は今別昆布の養殖を広めた先駆者とされている。墓地には貞伝上人が建立した青銅塔婆がある。

左に正行寺をみて今別を離れ、松前街道終点三厩に向う。

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三厩

街道は三厩に入り国道280号との合流点に「竜飛岬 風の岬へようこそ」、「三厩駅 津軽国定公園竜飛」と書かれた風力発電の翼塔が出迎える。

すぐに二股を左にとり増川橋を渡ると三厩の町中に入る。

左にいくと
三厩駅である。翌朝、この津軽半島最北端の駅を訪ねた。ちょうど通学時間で、高校生らしき男女が一人、二人と電車の中に消えてく。駅長が皆を見届けると電車はほのかな湯煙をあげて去っていった。ディーゼル車だった。最北端の地で清々しい人の営みをみた。

宿場の中心は町の北端近くにある。家並みがとぎれた空き地に小屋だけある場所が脇本陣跡である。雰囲気のある板張りの家並が続くあたりが旧宿場の中心らしく、外ケ浜三厩支所跡地の前の山田商店が本陣跡である。

家並みを抜けると国道280号に合流し三厩漁港に出る。合流点は公園化され、
松前街道終点の碑が建っている。国道280号はここで終わり、ここからは国道339号が引継ぎ竜飛岬を経て津軽半島の西側に回りこむ。

厩石を背にして源義経と静御前の竜神塔が並ぶ。背後の巨岩には波で穿たれた三つの岩穴がある。ある日ある時、そこに三頭の龍馬が繋がれていた。以来、この岩を厩岩、この地を三馬屋(三厩)と呼ぶようになった。義経は龍馬に乗って津軽海峡を越えて北海道に渡っていった。義経の北紀行伝説は北海道で終わらない。三厩は最終章の始まりである。

西側の急階段を上り息を切らせて仁王門をくぐると
義経寺がある。三厩漁港が一望できる。翌朝、夜明けの港を散歩した。雲が厚くて期待した朝焼けにはめぐりあえなかったが、それでもカメラを向ける被写体はあった。




竜飛岬

厩石から国道339号を一路竜飛岬に向って急ぐ。田名部街道の大間岬へ向う無人の海岸道路を想定していた。とんでもない誤算であった。本州の地が果てようとする岩場の海岸道路に、次から次へと集落が現れて家並が途絶えることがないのだ。下北と津軽では人家密度が違っていた。

算用師から、六条間、藤島、四枚橋、釜の沢、元宇鉄、上宇鉄、鐇泊、梨ノ木間、尻神、鳴神、梹榔、鎧嶋、木落と漁村を辿ったところで道が分かれていた。下の海岸道を行く。
竜飛漁港に着いた。低い展望台に東屋がしつらえてあって、太宰治の文学碑がある。

「ここは、
本州の袋小路だ。・・・・・」

その袋小路はまだすこし岬に向って進んだところにあった。民家の隙間に赤く塗られた路地が延びる。観光客の足音は家中の住民の耳に響くであろう。鶏小屋の奥に突き当たった。左にはいると石段が始まっている。赤い路地に続いてこの
階段も国道339号である。昭和49年、現地を見ずに国道に認定してしまったお役所仕事の産物だという。

362段の石段を登り詰めると展望台、ホテル等の施設が並ぶ観光地に出る。地の果は崖下にあり道はついているようだが誰も行かない。岬が平坦な海岸線であった大間岬とは様子が違う。観光客は岬の頂上で休憩する。
竜飛崎灯台が岬の象徴であろう。他にレストハウスの周辺に吉田松陰詞碑や歌碑群、津軽藩台場跡、津軽函館要塞重砲連隊砲台跡などの史跡がある。極めつきは石川さゆりの「津軽海峡冬景色」歌碑である。タメシテ合点風に巨大ボタンをたたくと「ごらんあれが竜飛岬…・」と大音響が流れ出す。青森八甲田丸前にもあったがやはりここでなくちゃ。

レストハウスを一周して岬の東西南北を眺める。東側は風力発電機の現代的風景、南は西日を受けた美しい海岸線の絶景である。北は灯台の向こうに北海道がかすんで浮かんでいた。

2003年から始めた奥州街道の旅をここで終わる。7年がかりの長い道だった。

(2010年10月)
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奥州街道(18)
(松前街道)




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