田名部街道は奥州街道野辺地宿から本州最北の地、下北半島の大間崎、佐井村を結ぶ110km余りの浜街道である。下北半島は斧の形をしていて、その柄尻に位置する野辺地から陸奥湾に沿って北上し、むつ市中心地である田名部を経て、斧頭にあたる大間町、佐井村に至る。

田名部街道は江戸時代の中頃までは陸奥湾沿いの野辺地―田名部間を指したが、その後蝦夷地の警備が重要視されるに伴って太平洋・津軽海峡沿岸の田名部−佐井間も整備され現在の道筋が出来上がった。享保3年(1803)幕府は佐井を北海道渡航の港と定め、近藤重蔵や間宮林蔵はここから未開の蝦夷地北海道に渡っていった。

下北地方を語るとき、会津藩の斗南転封を忘れることはできない。司馬遼太郎の好んだ主題であった。下北ははるかな土地である。他方、アイヌの住む蝦夷地にとっては隣人であった。

斧の中央部のふくらみに恐山がある。イタコと呼ばれる巫女が客の依頼をうけて死霊を呼び出し言葉をつないでくれる。子供のころ写真で見たその光景は今で言えばブラックホールの彼方に匹敵するほどの非日常的世界だった。

雪の降りしきる厳寒の牧に立ちつくす寒立馬の姿にも感動を覚えたものだ。

私の中に下北のロマンが広がっていく。

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野辺地

野辺地は南部藩最北の外港として、また宿敵津軽藩に対する防衛拠点として南部藩にとり重要な役割を担っていた。また、下北へ向かう街道拠点として交通の要衝でもあった。野辺地の湊からは北海道や下北からの物産が日本海航路で京、大坂に運ばれると同時に、帰りの船で有形無形の上方文化がもたらされた。廻船問屋を中心とする大坂、近江、能登、加賀商人の移住も野辺地以北の田名部街道に京風文化の伝播に大きな役割を果たした。下北で話される言葉はいわゆる東北弁のつよいなまりがないという。

野辺地宿の中心地、みちのく銀行のある交差点で田名部街道が奥州街道から分岐する。北上してきた奥州街道はこの交差点から方向を西に変え県道243号となって青森をめざす。一方、田名部街道はここを起点として北に向かい曲尺手を経て
第一田名部街道踏切でJR大湊線を渡って海岸沿いの道にでる。この先殆んどの集落で国道を離れて旧道をたどることになるが基本的には大間までは国道279号が、大間―佐井村間は国道338号が田名部街道筋である。

千草橋で海岸に下る道があり海辺に出てみた。遠くに低く稜線が横にのび、近くに見える風力発電塔が下北半島の風景を特徴づけている。陸奥湾側の海岸線は低い段丘が落ち込んでいる形状で、絶壁のリアス式でもなければ、砂浜がのびる遠浅の海でもない。昔の街道は現国道ではなくて浜伝いの道であったのだろう。その痕跡が断片的に残っている。今は所々で海岸の道跡を確認しつつ国道をたどって行くしかない。

有戸を過ぎたあたりから国道は海岸からすこし離れて防風林の中を進んでいく。海風の強い地帯である査証として、防風林の中から風力発電のプロペラが眼前に現れた。

六ヶ所村、石油備蓄基地に向かう道が分岐する手前で
第二田名部街道踏切を渡る。線路の真ん中でしばらく待ってみたが電車の姿を見ることはなかった。

街道は再び海辺の道となる。突然道路脇に柵に囲まれて
文学碑が建っている。強いトゲをもつハマナスがいくつか濃いピンク色の花をつけていた。文学碑の一つは蔦温泉を終の棲家とした明治・大正期の文人、大町桂月の俳句と紀行文の一部が刻まれている。刻字が浅くて読みきれない。他の一基には幸田露伴の『易心後語』からこの辺りの情景を記した一節が刻まれている。馬が放牧されていたらしい。現在も防風林で見えないがその向こうには牧場が続いているはずだ。傍に咲き残るハマナスの花は野生でなく文学碑とともに植えられたものと知って少々詩情をそがれた。

文学碑小公園の海側を大湊線が走っている。第二田名部街道踏切からは海岸線と線路と国道がわずかの距離を保って並走している。線路と国道は第三田名部街道踏切で左右の位置を入れ替え、共にすこし海から離れて気持ちよい林間を進む。
「豊栄平」というバス停を通り過ぎた。ここに限らず下北交通のバス停には赤い屋根が目立つ愛らしいマッチ箱のような小屋が置かれている。

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横浜

横浜集落の手前で右側に迂回していく国道と分かれて街道はそのまままっすぐに県道179号(旧国道)に入る。横浜は南北に長い町である。かって横浜は「いりこ」とよばれる干し海鼠の特産地としてしられ、いりこは野辺地からはるばる北前船で京まで運ばれた。

横浜は野辺地と田名部の中間にあたる宿駅であったが、今それを偲ばせる家並みはない。松屋商店が横板張りの古い佇まいを残している他、青い森信用金庫の手前左手に門塀を配した家が目立つくらいである。

旧道は家並みが尽きる塚名平を過ぎた辺りから海辺を進み、茅平の
檜木八幡神社の手前で右に折れて国道に合流する道筋であった。今はその道筋は浜辺の荒地に消えている。

国道にもどって北上するとまもなく檜木八幡神社がある。縁起によれば創建は源義家の時代に遡るという。昼間でも薄暗い境内林の中で灯明を灯した参道と社殿は静まり返って空気さえ動きを止めた空間にあった。

街道は大豆田(まめだ)、鶏沢(にわとりざわ)、有畑、浜田の集落を経て上北郡横浜町とむつ市の境界、境川を渡る。

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田名部

街道は防風林の中を北上し、近川、奥内を過ぎ赤川を渡って
一里小屋に至る。ここには横浜―田名部の長い間隔を補うために宿継の中継小屋が設けられていた。近くに一里塚があることから一里小屋とよばれたものであろう。国道沿い赤川整備工場の向かいに空き地があり、すぐ西側をJR大湊線が通っている。線路にでようとした場所に「死亡事故が多く線路に立ち入らないように」という注意書きが立っていた。一里小屋の跡地を探る以外に用のない場所と思われた。跡地はその辺りとされているが、目印とされる供養塔は見逃したようだ。

まもなく一里小屋バス停に差し掛かり西側の街道沿い林の中に
一里塚が原型をとどめて残っている。そばに一里塚石標が立てられている。野辺地から10里以上も来て初めて田名部街道の一里塚にめぐりあえた。

街道は大曲二股交差点で右に入り新田名部川をわたり、金曲信号交差点を左にとって田名部川をわたる。田名部は斧の喉元に位置する下北半島最大の町である。野辺地から陸奥湾沿いに北上してきた田名部街道(国道279号)と、八戸・三沢・六ヶ所村と下北半島の太平洋岸を北上してきた国道338号がここで交差する。

田名部には南部藩の代官所(御仮屋)が置かれ行政組織として田名部通を支配、また藩主通行の際には御仮屋として宿泊、休憩所としても使われた。田名部はまた
代官所跡地といわれる代官山公園は中世の田名部館跡でもある。町をみおろす小山の頂上に上がってみたが木立の中に公園があるだけで史跡も説明板も見当たらなかった。

明治になって新政府は会津藩をそっくり下北の地に移封した。明治3年(1870)5月、田名部は斗南(となみ)藩の藩都となる。斗南とは北斗七星の南を意味する。漢詩「北斗以南皆帝州」からとったといわれる。翌年7月に廃藩置県となるからわずか1年あまり存在した藩名であった。旧会津藩士4千戸のうち3千戸近くが移住してきた。日本海から船に揺られ、あるいは内陸山間部を陸路田名部までの道のりの苦難は計り知れない。アパラチアの森を追われてオクラホマの砂漠に強制移住させられたインディアンの『涙のトレイル』を想起させる。

米がほとんど育たない寒冷の地に3万石という名ばかりの石高を与えられた。下北を襲うヤマセの冷酷は花巻で宮沢賢治が恐れた比ではない。旧会津藩士による開拓はほとんどは失敗に終わり、多数がこの地で没し。生き残った人々もその多くが下北から離散していった。斗南藩の藩庁が置かれた円通寺、幼少の斗南藩主松平容大(かたはる)が身を寄せたという徳玄寺が宿場の南方、田名部川南岸にある。

宿場は新大橋の先で右折し大橋交差点を左折した本町にあった。青森銀行のある四つ辻が旧宿場の中心街、札の辻であったようだ。そこから西に恐山街道が出ている。交差点を東にはいったところに田名部神社がある。社殿は新しく設計もモダンである。由緒書きなどはない。

その西側に接する神社横丁とよばれる小路はガード下の飲み屋街のように小さな平屋建ての居酒屋、スナックなどがひしめき合っている。神社周辺一帯がかっての歓楽街を思わせる雰囲気を漂わせている。

街道筋の国道沿いには宿場の面影を偲ぶものは残っていない。この10年で田名部市街地は西に移動してしまったという。JR大湊線もかって北前船で賑わった大湊も陸奥湾沿いにあり、津軽海峡とを結ぶためにここから内陸に向かう田名部街道筋は取り残されてしまった。

左手に総二階建て板壁の旧家と「関乃井」醸造元
関酒造がわずかに旧道の風情を残してくれていた。

その先の交差点を街道は右斜めに進んでいくが、ここを右に折れて県道6号を3kmほど行ったところに会津藩士が街造りをめざした跡がのこされている。残念ながら寄ることができなかったが、同地にある説明文を載せておく。

斗南ヶ丘市街地跡
斗南藩が市街地を設置し、領内開拓の拠点となることを夢見たこの地は、藩名をとって「斗南ヶ丘」と名づけされました。明治3年1戸建約30棟、2戸建約80棟を建築し、東西にはそれぞれ大門を建築して門内の乗打ちを禁止し、18ヶ所の堀井戸をつくりました。そして市街地は、一番町から六番町までの大通りによって屋敷割りされ、一屋敷を100坪単位として土塀をめぐらせて区画したといいます。 しかし過酷な風雪により倒壊したり野火にあうなどした家屋が続出し、さらに藩士の転出はこの地にかけた斗南藩の夢をはかなく消し去り、藩士たちの努力も水泡に帰してしまいました。 現在はわずかに残った土塀跡に当時をしのぶことができます。

なお、県道6号は下北半島最北東端の尻屋崎に至り、ここに寒立馬が放牧されている。冬とはいわないまでも、行ってみたい所である。

旧街道は斧の首筋を前から背後にぬけるように内陸丘陵地帯を横断する。牧場が点在するのどかな道沿いに
「むつはまなすライン」の石標がたっている。

関根パーキングエリアの先で二股を左に入り南関根の集落を通り抜ける。沿道の畑では飼料用トウモロコシの収穫が盛んであった。婦人が刈り取っているのは蕎麦のようにみえる。

太平洋側に出た。右手の旧道から集落の中を通って関根浜にでてみる。若い女性がシュロ状の葉を砂地に広げて干していた。聞いてみると山で採った「シゲ」を干しているのだという。正月に注連縄として使われるものだそうだ。多数の草を束ねて先を扇形に広げていたのだった。

旧街道は国道に戻り出戸橋を渡って海岸沿いの道を大畑町に向う。

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寄道

恐山


夏の暑い日差しが照りつける湖畔に座って盲目の老女が参詣客の問いに答え、亡くなった肉親の言葉を告げてくれるという、世間離れした光景を写真で見て以来、私はいつの日か恐山に来てみたいと思いつづけていた。単発の観光旅行として行くには恐山がある下北半島はあまりにも遠い。遠いからこそ、非日常の世界が在り得ているともいえる。子供の頃からの好奇心を50年もとらえつづけたその場所に、街道歩きの寄り道として今から訪れようとしている。

旧宿場の札の辻交差点から出る恐山街道は小川町で県道4号となって一路恐山に向かう。しばらく市街地の風景がつづいた後、徐々に山間の道になる。今まで恐山という山があるものとばかり思っていた。遠方から眺める恐山は下北半島最高峰の釜臥山(かまぶせざん)であった。道は峠を越え二つ目の山との鞍部に至る。周囲を山に囲まれた宇曾利(ウソリ)湖のほとりに霊場恐山があった。ウソリはアイヌ語で、その音がなまってオソレ(恐)となった。

恐山街道のほぼ半ばあたり、道の左手に石仏・石塔が並び右手には五十五丁ときざまれた二基の標石が立っている。この道標は
恐山丁塚といわれ、文久2年(1862)恐山開山1000年祭の折、田名部から恐山菩提寺まで沿道に一丁毎に立てられた。

恐山の手前、湖から流れ出る
三途川に赤い太鼓橋が架かる。そばには夕日を背に受けて奇怪な二つの石像が立つ。鬼の相をした懸衣翁(けんねおう)と垂れ乳を露にした奪衣婆(だつえば)である。三途川までたどりついた死者を身ぐるみはがして川を渡った行く末を言い渡すのだという。

霊場恐山に着いた。寺名は恐山菩提寺、本尊は延命地蔵菩薩である。貞観4年(862)に天台宗の慈覚大師によって開山された。比叡山、高野山とともに日本三大霊場に数えられる。天台宗の修験道場として栄え、北前船の船頭、廻船問屋の厚い信仰を集めた。総門、山門、本堂を結ぶ参道の両側に立ち並ぶ石燈籠はかれらの寄進によるものである。

境内にはいって目にする異様な光景はまず木立のない空疎な空間であった。本堂の左側から順路をたどる。硫黄の臭いが立ちこめ風車が乾いた音を立てる。溶岩砂礫の合間からは火山ガスの白煙がたちのぼり、辺りの岩石を黄緑色に染めていく。

荒漠たる岩原に石積みや石仏が点在する世界はどう見ても地獄の風景である。火山と地獄は地学的な必然性でつながっている。手ぬぐいで頬かむりをした石仏の前にきて、父とめぐり合えた錯覚に陥りそうになった。一言話しかけたかったが声にでなかった。一人で来てよかったと思う。

宇曾利湖のほとりに下りてくる。
賽の河原につづいて極楽浜がある。これは虚構だ。極楽の世界がこんな無彩色であるはずがない。湖の向こう岸がそうだというのか。

イタコの口寄せはこのあたりで行われるのか。イタコとよばれる巫女は職業として下北に存在していたが、彼女らが恐山に進出してきたのは戦後になってのことだという。常設ではなく、恐山大祭(7月20〜24日)と秋詣り(10月、体育の日を最終日とする土曜日〜月曜日の3日間)にやってくる。

酸化鉄、硫化鉄の色をおびた無機質の河原を渡り、重罪地獄修羅王地獄に顔を突き出して吐き気を誘う臭気を嗅ぎ、石仏石ころに別れを告げながら順路を終える。地獄の風土に親しみを感じて、恐山という霊界から立ち去りがたかった。

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大畑

旧街道は大畑町の入口にある丁字路を左折して東町にはいっていく。その前に丁字路を直進してすぐ左手にあるという
金勢神社をみていくことにした。赤い鳥居の奥右手の祠中にいくつもの石や木で男茎をかたどった金勢が祀られている。文化7年(1810)に建立された古い歴史を持つ。金勢信仰の丁寧な説明書きがあった。

大畑川の河口に発展した町はヒバの積出港としてまた、イカ漁業の拠点として漁師や商人で賑わった。下北半島では田名部につぐ大きな町である。平成13年(2001)大畑駅が廃止されて以降寂しくなった。

東町会館前に
庚申神社と庚申堂が並んでいる。庚申堂は享保年間に東町見付に建てられていたものだという。東町見付は現在の下北ハイヤー横にあった。そこには今も枡形の道筋をそのままに見ることができる。

枡形をすぎると右手に寶國寺があり、街道はその先の丁字路を右折するのだが、再び街道をはなれてまっすぐ進み
大畑八幡宮によっていった。大畑八幡宮の創立は慶安元年(1648)に遡り、本殿は安永5年(1776)建築の流れ造、総欅製である。寺の本堂か神社の拝殿かよくわからない佇まいである。社宝「あわび貝」にまつわる伝承は写真解説にゆずる。

寶國寺先の丁字路にもどり、大畑川に向かって北に進むと新町通と交差する。川の南岸に沿った新町通が大畑町の中心街で、旧街道はみごとにそこを迂回する道筋をとっている。交差点角地の民家は白木板壁に弁柄と思える赤屋根の二色造りが印象的である。

大畑川をわたると山に突き当たり二股を右に曲がる。かっては二股の中央をまっすぐに進んで山を登り二枚橋小学校の辺りで国道に合流する田名部街道最大の難所を通っていた。断片的にその痕跡が今も残っているらしい。

川に沿って河口に向かうと船着場に昆布が整然と並べられていた。海辺まで出て北に向きをかえ大畑を出る。二枚橋集落に横板張りの家並みが漁村の風情を醸している。

道は大畑町の西側を大きく迂回してきた国道に合流して二枚橋小学校入口にさしかかる。ここを左に入り、湯坂越えの旧道を遡行してみることにした。校門を過ぎ山に向かってヘアピンカーブにさしかかった右手に
「さくらロード」の標識が立ち魅力的な山道がでている。これが湯坂越え旧道の延長と思いたくてしかたない。

そのまま車道を上がっていくと畑地にでて架橋工事現場で行き止まりとなった。旧道筋の谷間に橋を架けようとしているのか。工事現場の東端に山道がある、たどっていくと坂の途中にある西宮神社に出た。犬をつれて散歩中の女性に聞くと、この山道は街道でもなんでもなくて近所の畑にいくための道だという。神社があるからには単なる農道だけでは済まないだろうと思うのだが、湯坂越えの道筋からすこしずれてはいる。犬はブルドッグでなくてパグというらしい。口うるさいご隠居のような顔をして、ブルブルうなるだけでワンワンとはほえない。

国道にもどり海沿いに釣屋浜をすぎると、
木野部峠越えの山道にはいっていく。国道がするどく右に180度回転する場所から砂利道の旧道が残っている。300mほど山中にはいっていくと右手に踏み跡も見えない薮道が分岐している。偶然すれちがった軽トラックのおじさんに聞くと、これが旧道跡で、この先の砂利道は右衛門沢にそって西に向かう林道であるとのことだった。500mほどの古道探求だが、熊をおそれて断念。国道にもどって7曲りの迂回道をいく。途中通行止めの柵を設けた旧国道がいくつか残っている。旧街道は山中にあることを確認した以上旧国道は今や歩く価値はない。

国道の木野部峠バス停から200mほど手前、道が右にヘアピンカーブする左手に、鉄塔からの作業道路が出ている。さきほど断念した古道は400mほど先でこの作業道路にでているのだ。そこを見ようと未練がましく入っていった。九十九折に400mほど上がっていくと、作業道路は右におれて西に向かい、屈折点に山道が確かに口を開いている。林に少し踏み入れてみた。道筋跡は心なしか樹木が疎になっているように見え、熊の心配さえなければ十分歩ける道だと思われた。

木野部峠にはバス停があるだけだ。誰がこんな場所でバスを乗り降りするのだろうと思う。

坂をくだると海辺に出て右手の旧道にはいって
木野部集落を通り抜ける。道路の両側に昆布を並べている。漁港におりるとそこでも昆布干しが最盛期だ。防波堤に座り込んだおじさんは昆布の根と先をそろえ、根をたばねてハサミで先を切りそろえる作業に余念がない。

小出川を渡ったところ左手に
八大龍王の碑が立ち右手浜辺には「木野部海岸の歴史」を語るパネルが設けられている。木野部は古くからの漁村で、沿岸漁業で生計をたててきた。

国道にもどりまもなく「下北自然の家前」バス停に海をみおろす駐車場が設けられ、赤みをおびた自然石に「はまなすライン 赤川台」と刻まれ、ここにも「甲海岸・木野部海岸」の案内パネルがあった。


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風間浦

街道は右にのこる短い旧道を経て国道にもどり
大赤川に架かる赤川橋をわたって下北郡風間浦村に入る。赤川の川底は弁柄色であった。津軽半島松前街道今別の赤根沢にある赤岩と同じ二酸化鉄の所為であろう。

旧道は大赤川をわたってすぐ左折して川沿いの細道をたどりすぐに山道にはいっていく。入口の「熊に注意」と書かれた立て札が目に飛び込んできた。「やっぱり・・・・」
すこし入ったところで、軽トラックをとめて二人の男性が帽子で顔を覆って道央に寝転んでいた。まるで熊にやられた体である。昼時の休憩であった。
「熊がこわくないのかしらん・・・」
しばらく進んでいったがどうも気持ち悪くなって引き返した。一里塚や道標があるなら別だが、山中の旧道風景にも慣れてきたようだ。

国道を進み、下風呂にはいって旧道は左手
温泉街の中を通る。集落の北端に下風呂漁港があり、隣接して作られた「海峡いさり火公園」に二見岩井上靖の文学碑がある。

公園案内パネルに記されている風間浦村の歴史には北海道南部との関係が強調されている。彼の地との往来の歴史は縄文時代に遡ることができるという。公園の人工池の飛び石の配置も北海道南部と下北半島の一部を形造ったものというほどの思い入れである。本州最北の地に来たことを実感させる一文であった。

国道の海岸よりに「桑畑海岸」の標柱が立つ。右の旧道におり
桑畑集落をぬける。軒先の洗濯干しに昆布が吊るされている。

易国間(いこくま)集落入口の易国間川に新旧二つの橋が架かる。左側が旧道で川を渡って役場前を通っていく。江戸時代初期まではこの集落にアイヌの棟梁が居住して津軽海峡沿いに点在していたアイヌ村を統べていたという。イコクマという集落の名前がアイヌ語調である上に、その当て字が蝦夷の地と本土を結ぶ地理を連想させて妙である。

蛇浦集落の手前国道沿いに駐車エリアがあって大きな自然石が二つ置いてある。一つには「下北半島と共に生まれた布海苔です 平成6年3月29日 蛇浦漁業協同組合」と大きく刻まれ、他の一つには「布海苔(ふのり)発祥の由来」が記されている。石段で波打ち際まで降りると、大小さまざまな岩が投げ込まれていて近場をステンレス杭で縄張りされている。これらの岩に布海苔が着生するのであろうか。一際大きな岩には二本ほど松の木が生えていた。岩は概して黒褐色で溶岩風にみえる。

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大間

いよいよ大間にやってきた。田名部街道は本州最北端の地大間崎まで行かない。折り戸で国道279号と分かれて右に入り更に垂木川を渡った先で大間高校方面に向う旧道を左に分けて、一路大間崎を目指す。

人家が途切れることなく続く浜道をたどると大漁幟がたなびく漁港に着いた。マグロ漁船を探したが繋留しているのはイカ釣り船団である。イカ釣り漁船は船上に一列に吊るされた多数の集魚ランプでわかる。一隻の漁師がイカの一群れを無造作に甲板に投げ捨てた。

防潮堤を歩いていくと人ごみが現れ、石川啄木歌碑、本州最北端の地碑「まぐろ一本釣の町 おおま」記念碑、大間崎標柱、そして海中弁天島には横縞模様の大間埼灯台、その17km先は函館市汐首岬。ふりかえると土産店が軒を並べている。

田名部街道で多くの漁港をみてきたが観光地としてなりたっている唯一の港ではないか。海鮮料理店、まぐろ丼店、海産物雑貨店等。土産に「本州最北端大間崎 到達証明札」を買った。裏にはまぐろ一本釣の絵が描かれている。

石川啄木の歌碑は日英併記である。紹介しておこう。

大海にむかひて一人七八日 泣きなむとすと家を出でにき
Alone facing the ocean for seven-eight days, I wished to weep and departed from home.

東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて蟹とたはむる
On the white sandy shore of a small island, far in the Eastern Sea, weary of weeping, I play with crabs.

大といふ字を百あまり砂に書き 死ぬことをやめて帰り来れり
After writing the word “great” more than one hundred times on the sand, I forsook the thought of dying and returned home.


俳句にしても短歌にしても5音と7音のリズムと韻が命である。意は通じても日本語でなければその命は生まれない。

旧街道筋の大間高校までもどり西に進む。
右手に短いながら見事な松並木が残っている。街道の名残だろうか。道がなだらかに下っていく辺りは
「イチヅカの坂」と呼ばれていて昔は一里塚があったという。

町中に入り二股を左にとり大間川を渡る。曲尺手を過ぎて「大間保育園」の案内標識がある
三叉路を左におれて南に向かうのが旧道筋である。

そのまま直進して大間港に寄った。ここにもたくさんの漁船がある。堤防に4人の中学生が並んでいた。
「何してるの?」
「海見てるの」
「写真撮っていいかな」
三人がOKし、一人が「NG」と答えた。
「一人だけ写らないようにはできないから止めておこう」
後ろからにぎやかな会話が聞こえてきた。

海に突き出ている防潮堤の先に簡易灯台がある。高磯崎の台場跡である。遠見番所がおかれた後、幕末には台場が築かれ大砲8門が備えられた。

三叉路にもどり南に向かう。
国道338号は海岸沿いに南下し、奥戸(おこっぺ)、舘上、材木を経て田名部街道終点の佐井に至る。

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佐井

材木から峠を越えて佐井村に入る。佐井村は広い。古佐井の集落にはいって左に曲がりすぐ右折して古佐井橋を渡る。突き当りに
本陣があった。最近まで茅葺の建物が残っていたようだ。今は駐在所と隣の空き地になっているあたりか。本陣は能登屋長左衛門が務めた。能登屋はその屋号が示すように能登半島から移住してきた廻船問屋である。

街道は道なりに左折して佐井の中心街に進む。左手に
箭根(やのね)森八幡宮がある。9月の大例祭には京都祇園祭の流れをくむ山車が雅やかに集落内を巡行する。佐井の港から、あるいは野辺地から陸路をへて伝えられた上方文化の末裔である。石段の最上部からは佐井の町並みが眺められた。

街道は最後の曲尺手を経て佐井バス停がある旧宿場街で終わる。人影もない寂しい終着点であった。

田名部街道の旅を締めくくるために港に出た。モダンな津軽海峡文化館「アルサス」が建っている。この場所に伊勢堂台場があり津軽海峡を行き来する船舶を監視していた。佐井港からは青森との間にフェリーが出ている。かってはここが北海道への渡航港であった。現在、北海道へは大間ー函館のフェリーが使われているが、その存続が危うくなっているようだ。

佐井から津軽半島を望みながら海岸にそって25kmほど下っていった所に名勝仏ヶ浦がある。佐井から船で30分の上陸時間を含めて往復1時間30分の遊覧を計画していたのだが、便数が少なく訪ねることができなかった。一日3便、往復2300円である。

   佐井発時刻  仏ヶ浦着時刻  仏ヶ浦上陸   仏ヶ浦発時刻   佐井着時刻
第1便  9:00    9:30    30分間    10:00     10:30
第2便  10:40    11:10    30分間    11:40     12:10
第3便  13:40    14:10    30分間    14:40     15:10

今回の旅では大間のマグロ丼、田名部の斗南藩史跡めぐりを怠り、名勝仏ヶ浦と寒立馬のいる尻屋崎への寄り道ができなかった。下北へはもう一度来たい。多分妻を連れて。

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(2010年10月)

田名部街道



野辺地−横浜田名部(恐山)大畑風間浦大間佐井

いこいの広場
日本紀行