斗南ヶ丘市街地跡 斗南藩が市街地を設置し、領内開拓の拠点となることを夢見たこの地は、藩名をとって「斗南ヶ丘」と名づけされました。明治3年1戸建約30棟、2戸建約80棟を建築し、東西にはそれぞれ大門を建築して門内の乗打ちを禁止し、18ヶ所の堀井戸をつくりました。そして市街地は、一番町から六番町までの大通りによって屋敷割りされ、一屋敷を100坪単位として土塀をめぐらせて区画したといいます。 しかし過酷な風雪により倒壊したり野火にあうなどした家屋が続出し、さらに藩士の転出はこの地にかけた斗南藩の夢をはかなく消し去り、藩士たちの努力も水泡に帰してしまいました。 現在はわずかに残った土塀跡に当時をしのぶことができます。 |