奥州街道碑 道の駅 荒熊内 七戸町 上北郡 青森県
徳川幕府は、全国交通網の整備を幕政の重要施策とし、奥州街道を含む五街道を定め、織田信長、豊臣秀吉の設けた36町1里の制を確立し、慶長9年(1604)日本橋を起点とし、一里毎に一里塚を築かせその上に榎その他を植えさせ、旅人のための里程標とし道の両側には、防風防雪と日陰をつくるため松を植えさせた。南から北上する奥州街道は、七戸を過ぎたのち、天間館・長者久保・夫雑原を経て野辺地に入る下道(本街道)と中野・坪・尾山頭・清水目を経て野辺地に入る上道(坪道・近道)とに分かれる。この街道は、鹿角産の御用銅や福岡・三戸・五戸・七戸産の御用大豆を大阪へ送るため野辺地港まで運ぶ人牛馬の通行で賑わった。この辺りを通った有名人に松前藩主、江戸時代中期の紀行家菅江真澄、寛政の三奇人の一人で尊王論者である高山彦九郎、幕末に松下村塾を開いた維新の先覚吉田松蔭らが挙げられる。明治元年(1868)野辺地戦争の折りには、七戸給人や八戸藩士がこの街道を忙しくかけ歩いた。また明治天皇は、明治9年、明治14年の二度この地方を巡行し、明治9年にはいわゆる「壺の碑」を千曳神社境内を掘って探しておられる。今、街道沿いに見られる松並木は後植えのものであるが、昔時の面影を偲ばせてくれる。なお、一里塚は七戸〜野辺地間に三対六基が残っており県史跡に指定され、天間舘卒古沢のそれは我が国で最も美しい一里塚の―つに挙げられる