旧奥州街道 浅水 五戸町 三戸郡 青森県
奥州街道をたずねて
この道は、平安時代から都への献馬、貢物及びこの地方の産物の輸送等の主要通路であった。鎌倉時代には奥筋とよばれ、路次の主要地に宿駅を設けている。幕府はこの道を軍用道路として利用するために、建長年中、時の執権北条時頼は路次の地頭に命じて道筋の路巾を広げ、路面の補修整備をさせている。以後この道路は開発の進展と共に、武士や商人、旅人等人馬の往来が繁くなってゆくのである。 江戸時代の初期には、白河から三厩までの区間を「奥州街道」と呼び、幕府勘定奉行の管理下に置かれており、その所の領主に維持補修をさせていた。慶長9年(1604)さらに幕府は、日本橋を起点として一里毎に塚を築造させ榎を植えさせている。五戸町には、この時の立派な一里塚が佐野坂と鳥内坂に現存している。 南部藩ては最初に柳を植えたらしく、承応2年(1653)藩主重直公の御代に、盛岡より野辺地までの一里塚の柳改めを行なっている。明暦3年(1657)には奥州街道の大改修が行なわれ、道巾をさらに拡大し、曲路は真直になおし左右に松を植え並木を作らせている。現在、五戸町内の奥州街道には、藩制期に植えられた並木松が教本残されており勇姿を誇っている。古来より、この街道を通り五戸の風物を和歌や俳句・紀行文・日記等に著した人々は数知れないが、幕末の本草医学者でもある菅江真澄は、紀行集「いわてのやま」に   
里の子が汲みほすぱかりあさ水の ながれつきせぬものにぞありける  と浅水の事を詠んでいる。 この他、五戸の事を書残した代表的な人々に、高山彦九郎・吉田松陰・伊能忠敬・古川古松軒・橘南谿・近藤芳樹・間営林蔵・松平忠明・妙海和尚・平清澄・幸田露伴・若山牧水等が知られており、この人達の書いた物を読むといにしえの郷土の姿が偲ばれる。  平成元年11月  五戸町文化協会