追分石は、街道を歩く人たちの目印となるよう造られた当時の道路標標識にあたるもので、多くは道の分岐点に設置されています。文久元年(1861)の記銘がある「五月舘の追分石」は、南北に伸びる奥州街道と南西の尾根へと向かう道の分岐点に設置されています。この付近の奥州街道は、明治天皇の東北巡幸の際に幅2間(3.6m)に拡幅するエ事が行われたと記録されていますので、それまでは幅2間に満たない道が続いていたと考えられます。「五月舘の追分石」の正面には「右ハ山道左ハもり岡」と刻まれています。北方から盛岡方面へ向かう旅人が奥州街道と山道を間違えないように建てられたと考えられ、当時の様子を示す貴重な資料となっています。
街道を挟んだ向かい側には、文化7年(1810)銘の庚申塔があります。自然石を利用したもので、正面上部に「日」「月」を配し、中央に「庚申」、その両側に造立年を刻んでいます。隣には、庚申塔と同じ年に同一人物によって建てられた「南無地蔵尊」碑が並んでいます。地蔵尊碑には「為祖先代々菩提」と刻まれていることから、同時に建てられた庚申塔にも先祖供養の意味合いが込められているものと考えられます。  平成20年3月25日  一戸町教育委員会

 五月舘の追分石 小鳥谷若子 一戸町 二戸郡 岩手県