平将門が滅ぼされた時、その妹が相馬御所をのがれてこの地にたどり着き、比丘尼となって庵を結び、道行く人々に甘酒を造って売ったと伝えられる。この甘酒はのちのちまで伝わり、案内の湯豆腐や今市のおぼろ豆腐、今市足軽が内職として作った今市おこしなどとともに塩竃街道の名物となった。 |
岩切若宮で石巻街道と分かれる街道である。 多賀城市南宮と市川の間で砂押川 多賀城政庁跡の北を通り、塩釜市大日向・赤坂を経て塩釜神社に至る。 赤坂橋を と元禄頃の遺構とされる越後屋があり、塩釜詣の客に土産品を売っていた。 母屋は 公の休息所とされたが、腐朽が甚だしく昭和52年に解体された。 |
弘安十年(1287)の紀年がある多賀城市内で二番目に古い供養碑です。碑文には、時宗の僧西阿弥陀仏が三十余人の協力のもとにこの碑を建立したことが刻まれています。伏石の由来は、昔、この石を起こして立てたところこの地に疫病が流行し、占ってみると、石を起こしたためであるというので、再びもとのように伏せました。 それが今でもその状態に残っており「伏石」と言う名前で呼ばれているのです。 |