塩釜街道



仙台-原町今市多賀城跡塩釜
いこいの広場
日本紀行


仙台


仙台の中心街、国道4号から3筋西と、青葉通りの1筋北の交差点は
「芭蕉の辻」とよばれ、ここが仙台宿の中心地であった。

明治安田生命の軒先をかりて、「芭蕉の辻」の碑と、「道標」が据えられている。道標には、「北 津軽三厩迄 四十五次 百七里二十二丁 奥道中」、「南 江戸日本橋迄 六十九次 九十三里 奥州街道」と記されている。日本最長の道である奥州街道は、日本橋から93里の道のりをきて、ここから奥道中と名前をかえて津軽三厩迄延々さらに107里の長い道程をゆく。南北に縦貫する奥州街道に加えて、ここからは東西にも重要な道が分かれていた。

西へはまっすぐに大橋で広瀬川をわたり青葉城大手門に通じる。東に向かう道はその目的地によって、塩釜街道、石巻街道金華山街道と呼ばれている。石巻で更に東方の牡鹿半島に向かう金華山街道と、北に向かって奥州街道に合流する一関街道が分岐している。芭蕉は塩釜街道から船で松島にわたって石巻街道の後半部分に乗り、石巻で一関街道(最後の部分は別ルート)に移って平泉をたずね、奥の細道行脚の北限を記録した。この一連の道筋を2007年の11月、妻と二人で旅をした。紅葉が2週間遅れだというので、それに合わせてでたのだが、思いがけぬ寒波がやってきて例年にない早い初雪に出会った。紅葉まじりの雪景色のなかで、奥の細道の往路を終えた。



原町


芭蕉の辻から東にむかうと、仙台駅にぶつかる。北にずれて、広瀬通りの東で線路をわたり開発工事の複雑な区域を通りこすと、
鉄砲町に入る。藩政時代、鉄砲足軽組が置かれ総勢138人の足軽が居住していた。第4合同庁舎前で、二十人町と鉄砲町、それに国道45号線が交差し、東に一本の旧道がのびている。「原町(はらのまち)本通り」とよばれ、仙台城下東端につくられた最初の宿場町であった。

交差点の南側の一角に一里塚をおもわせる木立があり、そばに「石巻街道」の案内標が設けられている。図によれば、石巻街道は城下から鉄砲町を通って原町宿にはいっている。その後、岩切、利府を経て高城宿へ抜けている道筋になっていて、松島を通っていないように見える。利府街道あるいは現在の石巻街道とよばれる県道8号は高城宿の北方で国道45号に合流しているが、石巻街道の旧道は三陸道の松島海岸IC入口で県道8号とわかれ、県道144号で長老坂を経て松島海岸に出ていた。そこで、陸路なり海路をたどってきた塩釜からの道と合流する。芭蕉は松島で宿をとったが、松島が石巻街道の宿場であったのか、この図には明示されていないのが気になった。

原町宿の西端にあたる第4合同庁舎の場所には原町御米蔵があり、原町宿は年貢米の集積地としてさかえていた。通りは米を運ぶ牛車であふれていたという。今も
鳥山米穀店など古い米屋が現存している。宿場町は昭和20年の空襲でも全焼をまぬがれ、明治・大正時代の建物が往時の雰囲気を残している。

「錦湯」は昭和4年創業という老舗の銭湯である。原町郵便局の向かいに「原町・大源横丁」の石標がたっており、原町の由来が記されている。原町出身の豪商、大内源太右衛門が寄進した。原町は明治・大正時代に宮城郡役所があった場所でもある。

宿場の東端、原町3丁目の交差点に大きな道標が建っている。
「苦竹の道しるべ」として知られる嘉永6年(1853)の古いもので、東西南北に行先と距離が刻まれている。芭蕉の辻からおよそ1里の地点にあたり、最初の(日本橋から数えて94番目の)一里塚があった。ここを北に向かう道が塩釜街道である。「北 塩可満松嶋 六里十五丁 三里十九丁」とあり、松島までが6里15丁で、塩釜までは3里19丁というのであろう。地図でもとめるがぎりここから塩釜港までは15kmくらいになる。

街道は東北本線・新幹線に分断されるがその先で復活して県道8号仙台松島線(利府街道・石巻街道)に合流する。その後二度、部分的にのこる旧道をへて、「小鶴住宅入口」バス停で県道をはなれて、塩釜街道の古道にはいっていく。「東仙台営業所」バス停交差点を直進して、古道は
比丘尼坂を上っていく。このあたりに芭蕉の辻から二番目(日本橋から95里目)の一里塚があった。燕沢3丁目の坂の曲がり角に石標があり、比丘尼坂の由来が記されている。

平将門が滅ぼされた時、その妹が相馬御所をのがれてこの地にたどり着き、比丘尼となって庵を結び、道行く人々に甘酒を造って売ったと伝えられる。この甘酒はのちのちまで伝わり、案内の湯豆腐や今市のおぼろ豆腐、今市足軽が内職として作った今市おこしなどとともに塩竃街道の名物となった。

古道といえど沿道の家並みは新しい新興住宅地である。峠近くの路傍に集められた数基の庚申塔にわずかな古道のにおいが残っていた。

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今市


国道4号仙台バイパスをまたいで坂をくだったところで、坂をさけて造られた新しい道と合流する。二股地点に多くの古い石碑にまじって大正八年地元青年団によって建てられた道標がある。

道標から七北田(ななきた)川にかけての今市地区は原町宿につぐ塩釜街道の宿場町であった。比丘尼坂の由来記にあるように、仙台藩の足軽の居住地であったために今も屋敷町の面影をしのぶことができる。

今市宿をでて七北田川に架かる今市橋を渡ると、正面に
東光寺がある。参道入口に「おくの細道」と刻んだ大きな石碑が立つ。東光寺の前を七北田川に沿ってあった古道は「おくの細道」とよばれ、芭蕉はそれを紀行文の題名とした。今は車がはげしく行き交う県道35号だが、この道は国府多賀城に至る中世来の古道であった。

今市橋北詰角に「塩釜街道」の新しい標柱が立っている。
岩切若宮で石巻街道と分かれる街道である。
多賀城市南宮と市川の間で砂押川 多賀城政庁跡の北を通り、塩釜市大日向・赤坂を経て塩釜神社に至る。
赤坂橋を   と元禄頃の遺構とされる越後屋があり、塩釜詣の客に土産品を売っていた。
母屋は 公の休息所とされたが、腐朽が甚だしく昭和52年に解体された。

今市橋から二つ目の信号で、右斜めに旧道に入る。古い建物が並んでいて、原町や今市よりも宿場らしいたたずまいである。岩切郵便局の隣に趣ある古い二階建ての建物がある。明治の洋館風の木造建築で、「キリスト教会岩切集会所」の看板があるが、郵便局の旧舎ではないかと思われた。その角で、塩釜街道から
旧石巻街道が北に分かれている。安永3年(1774)の道しるべがあり、「右 塩釜道、左 松島道」と刻まれている。

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多賀城


岩切駅の東側で東北本線・新幹線のガードをくぐると道はいくらか広くなって県道35号にもどる。すぐに多賀城市に入り、「一里塚」の地名が残っている。陸前山王駅前を過ぎ、市川橋で砂押川を渡ると、道は
新旧二手に分かれる。右側が現塩釜街道の県道35号で、左側が塩釜旧道である。その間に陸奥国府多賀城があった。

多賀城は奈良時代の神亀元年(724)に大野東人(おおのあづまひと)によって陸奥国府として造営された。小高い丘の頂上に1辺約1kmの築地塀で囲まれ中央に政庁が置かれた。延暦21年(802)坂上田村麻呂が胆沢城を築くまでは鎮守府も置かれ、東北地方の政治・軍事の中心をなしていた。辺り一帯には土塁、礎石、石段の痕跡が残っており、遥か古代の陸奥国から吹いてくる風を感じることができる。

多賀城はその後も、前九年・後三年の役の際には源頼義や源義家がここを拠点として乱の鎮圧にあたり、文治の役では源頼朝が立ち寄っている。

政庁跡から南に丘を下り、塩釜新道を横切たところに
多賀城碑が建っている。多賀城碑は、群馬県吉井町の多胡碑、栃木県湯津上村の那須国造碑とともに日本三古碑のひとつに数えられる貴重な史蹟で、藤原恵美朝臣朝猲の業績を顕彰するために建てられた多賀城の修造記念碑である。四面格子の覆い堂内に高さ2mの大きな石碑が納められている。罷免は磨耗が進んで肉眼では碑文を認めることは出来ず、説明文によって内容を知るほかない。

碑文の内容は二つの部分からなり、前半は多賀城の位置を京や国境からの距離で示している。後半は多賀城が神亀元年(724)に大野朝臣東人によって設置されたこと、天平宝字6年(762)藤原恵美朝臣朝猲によって修造されたことが記され、最後に碑が建てられた年月日が刻まれている。この碑は壷碑(つぼのいしぶみ)とよばれる歌枕として有名で、芭蕉も感動のあまり涙を流した。

ここより2kmあまり南東に行ったところに、もう二つの歌枕がある。
 
仙石線多賀城駅の西方、鎮守橋で砂押川を渡り最初の信号で右の路地に入る。宝国寺の墓地の裏側に数本の松の木がみえる。古来より歌に詠われてきた
「末の松山」である。最初、数枚撮った中から墓地をさけた松の写真を選んだのだが、芭蕉の紀行文を読み直して、あわてて墓場が写っている写真に入れ替えた。墓場がなければ末の松山にはならないのだ。

そこから100mもない距離に住宅に囲まれた
「沖の石」がある。昔はここまで海岸線がきていたのであろう。今は住宅街の真ん中にとりのこされた水溜りの様で、中の島を形作っている岩も窮屈そうにみえた。


旧塩釜街道にもどる。
多賀城跡に至る道の手前に大きな石が横たわっている。「伏石」といわれて、もとは弘安10年(1287)の古い供養碑であった。

弘安十年(1287)の紀年がある多賀城市内で二番目に古い供養碑です。碑文には、時宗の僧西阿弥陀仏が三十余人の協力のもとにこの碑を建立したことが刻まれています。伏石の由来は、昔、この石を起こして立てたところこの地に疫病が流行し、占ってみると、石を起こしたためであるというので、再びもとのように伏せました。
 それが今でもその状態に残っており「伏石」と言う名前で呼ばれているのです。

多賀城跡の北側を通る旧塩釜街道はその沿道に、ほかにも多賀城神社や
陸奥総社宮など、古代の歴史が詰まっている。多賀城の西側には古代の幹線道路であった東山道が南北に通っていた。北は利府を経て奥州街道筋へ、南は末の松山、沖の石あたりから西にむかって、国分尼寺・国分寺の南縁を経て名取の西方、笠島地区に通じていた。

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塩釜

塩釜街道は陸奥総社宮をすぎて、多賀城市から塩釜市にはいると周囲の風景も古代から現代にもどる。大日向町、赤坂をすぎて県道35道の新塩釜街道と合流して終着地塩釜市街にはいっていく。

左手の丘の上に陸奥国一宮
塩竈神社がある。社務所の前にひろがる日本庭園は紅葉の盛りで、そのなかに葉をすっかりおとして寒々とした四季桜が梅のような花を枝いっぱいにつけていた。遠くには塩釜の港が見える。多賀城が国府であった時代、塩釜の港はその国府津であった。また、この地が陸奥国内での製塩の中心地でもあったことなどが、塩釜神社の由来の背景をなしている。

塩釜神社は二本殿にその拝殿、別宮本殿とその別宮拝殿という、三本殿二拝殿という他に類例をみない社殿構成をとる。境内にある古い燈籠のなかでも本殿右手にある、文治3年(1187)7月10日の日付が刻まれた
鉄製の燈籠は、奥州藤原三代秀衡の三男忠衡(泉三郎)の寄進によるものである。文治3年、藤原秀衡が急逝したのち、二男泰衡は一旦義経をかくまうが、頼朝の激しい圧迫に屈して義経を急襲した。これに対し、弟の三男泉三郎忠衡は最後まで義経に忠義を尽し、2年後の文治5年、義経の自刃した後兄泰衡によって攻め殺された。
 
義経ファンであった芭蕉はこの燈籠に5百年の思いをはせて感激したこと、いうまでもない。

塩釜街道はその後、海岸通りとなって塩釜湾、千賀の裏で終わる。塩釜の町並みを散策する時間があまりなかったが、本町通りは道路の拡幅工事中で散歩をする雰囲気でない。塩釜神社の門前町にあたる宮町には古い建物が残っているようであった。

観光桟橋からは何隻もの「芭蕉丸」が松島との間を往復している。松島まではまた、海岸に沿って国道45号で陸路を旅する人もいた。そこで、長老坂をおりてきた石巻街道と合流する。

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(2007年12月)