末の松山 八幡2丁目 多賀城市

「末の松山」は、
「君をおきてあだし心をわがもたばすゑの松山浪もこえなむ」(「古今和歌集東歌」)
「ちぎりきなかたみにそでをしぼりつつすゑのまつ山なみこさじとは」(「後拾遺和歌集清原元輔」)
の歌で著名ですが、源信明、源重之、橘為仲など多賀城を訪れた官人(陸奥守その他)ともゆかりが深く、多くの歌人たちに親しまれた、みちのくの代表的な歌枕です。  「末の松山」の所在地については諸説がありますが、この多賀城市八幡説が最も有力です。 元禄二年五月八日(1689年陽暦6月24日)松尾芭蕉は、塩釜到着(仙台から)ののち、「野田の玉川」「浮島」を経て、「末の松山」を訪れています。「おくのほそ道」には、
 「末の松山は、寺を造て末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、・・・」  と「末の松山」に接しての感動をしるしています。「寺」とは、末松山宝国寺のことを指しています。芭蕉の感動は、「末の松山」のもつ歴史の重みを無視しては考えられませんが、同時に「おくのほそ道」のこの行文は、 「末の松山」の歴史に、新しい1ページを加えたといえます。  「おくのほそ道」ののちも、芭蕉の足跡を慕って、多くの文人たちが、この歌枕を訪れており、その風潮は現在にも引き継がれています。 平成11年12月10日 多賀城市教育委員会