平将門が滅ぼされた時、その妹が相馬御所をのがれてこの地にたどり着き、比丘尼となって庵を結び、道行く人々に甘酒を造って売ったと伝えられる。この甘酒はのちのちまで伝わり、案内の湯豆腐や今市のおぼろ豆腐、今市足軽が内職として作った今市おこしなどとともに塩竃街道の名物となった。 |
岩切若宮で石巻街道と分かれる街道である。 多賀城市南宮と市川の間で砂押川 多賀城政庁跡の北を通り、塩釜市大日向・赤坂を経て塩釜神社に至る。 赤坂橋を と元禄頃の遺構とされる越後屋があり、塩釜詣の客に土産品を売っていた。 母屋は 公の休息所とされたが、腐朽が甚だしく昭和52年に解体された。 |
九門長者屋敷跡の伝説について
ここには、今から約千百十余年前、奥羽地方でも名高い豪農の九門長者の邸宅があった。その時、造った外濠や長者の井戸が現在も残っている。 この長者屋敷跡について、次のような伝説がある。 『長者の家には、多くの召使が雇われていたが、その中に悪玉という誠に醜い女がいた。彼女はもと紀伊の国の斎大納言という公家の姫君でたいへん美しく頭のよい娘であったが、伊勢参詣の帰り、悪者どもにだまされ、この九門長者の召使として売られてきたのである。そこで、彼女は自分の身を守るため「普通の人には醜い女と見え、身分の高い人にはもとの美しい姫の姿に見えるように」と守り本尊の観世音菩薩に祈願をしていた。時に征夷大将軍である坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折、この九門長者の家のお立ちよりになり、彼女を見そめた。延暦十八年巳歳(七九九)八月一日、彼女は男子を出産、名を千熊丸といい、当時の人々は神童と呼んでいた。千熊丸は十三歳になった時、母と共に都に上り、父の将軍を親子の対面をし、二代目田村麻呂将軍となった』ということである。 |