石巻街道



仙台−原町今市利府松島高城小野矢本石巻
いこいの広場
日本紀行

仙台

仙台の中心街、国道4号から3筋西と、青葉通りの1筋北の交差点は
「芭蕉の辻」とよばれ、ここが仙台宿の中心地であった。

明治安田生命の軒先をかりて、「芭蕉の辻」の碑と、「道標」が据えられている。道標には、「北 津軽三厩迄 四十五次 百七里二十二丁 奥道中」、「南 江戸日本橋迄 六十九次 九十三里 奥州街道」と記されている。日本最長の道である奥州街道は、日本橋から93里の道のりをきて、ここから奥道中と名前をかえて津軽三厩迄延々さらに107里の長い道程をゆく。南北に縦貫する奥州街道に加えて、ここからは東西にも重要な道が分かれていた。

西へはまっすぐに大橋で広瀬川をわたり青葉城大手門に通じる。東に向かう道はその目的地によって、塩釜街道、石巻街道、金華山街道と呼ばれている。石巻で更に東方の牡鹿半島に向かう金華山街道と、北に向かって奥州街道に合流する一関街道が分岐している。芭蕉は塩釜街道から船で松島にわたって石巻街道の後半部分に乗り、石巻で一関街道(最後の部分は別ルート)に移って平泉をたずね、奥の細道行脚の北限を記録した。



原町


芭蕉の辻から東にむかうと、仙台駅にぶつかる。北にずれて、広瀬通りの東で線路をわたり開発工事の複雑な区域を通りこすと、
鉄砲町に入る。藩政時代、鉄砲足軽組が置かれ総勢138人の足軽が居住していた。第4合同庁舎前で、二十人町と鉄砲町、それに国道45号線が交差し、東に一本の旧道がのびている。「原町(はらのまち)本通り」とよばれ、仙台城下東端につくられた最初の宿場町であった。

交差点の南側の一角に一里塚をおもわせる木立があり、そばに「石巻街道」の案内標が設けられている。図によれば、石巻街道は城下から鉄砲町を通って原町宿にはいっている。その後、岩切、利府を経て高城宿へ抜けている道筋になっていて、松島を通っていないように見える。利府街道あるいは現在の石巻街道とよばれる県道8号は高城宿の北方で国道45号に合流しているが、石巻街道の旧道は三陸道の松島海岸IC入口で県道8号とわかれ、県道144号で長老坂を経て松島海岸に出ていた。そこで、陸路なり海路をたどってきた塩釜からの道と合流する。芭蕉は松島で宿をとったが、松島が石巻街道の宿場であったのか、この図には明示されていない。

原町宿の西端にあたる第4合同庁舎の場所には原町御米蔵があり、原町宿は年貢米の集積地としてさかえていた。通りは米を運ぶ牛車であふれていたという。今も
鳥山米穀店など古い米屋が現存している。宿場町は昭和20年の空襲でも全焼をまぬがれ、明治・大正時代の建物が往時の雰囲気を残している。

「錦湯」は昭和4年創業という老舗の銭湯である。原町郵便局の向かいに「原町・大源横丁」の石標がたっており、原町の由来が記されている。原町出身の豪商、大内源太右衛門が寄進した。原町は明治・大正時代に宮城郡役所があった場所でもある。

宿場の東端、原町3丁目の交差点に大きな道標が建っている。
「苦竹の道しるべ」として知られる嘉永6年(1853)の古いもので、東西南北に行先と距離が刻まれている。芭蕉の辻からおよそ1里の地点にあたり、最初の(日本橋から数えて94番目の)一里塚があった。「北 塩可満松嶋 六里十五丁 三里十九丁」とあり、松島までが6里15丁で、塩釜までは3里19丁というのであろう。松島に向かう道が石巻街道である。

街道は東北本線・新幹線に分断されるがその先で復活して県道8号仙台松島線(利府街道・石巻街道)に合流する。その後二度、部分的にのこる旧道をへて、「小鶴住宅入口」バス停で県道をはなれて、塩釜街道の古道にはいっていく。「東仙台営業所」バス停交差点を直進して、古道は
比丘尼坂を上っていく。このあたりに芭蕉の辻から二番目(日本橋から95里目)の一里塚があった。燕沢3丁目の坂の曲がり角に石標があり、比丘尼坂の由来が記されている。

平将門が滅ぼされた時、その妹が相馬御所をのがれてこの地にたどり着き、比丘尼となって庵を結び、道行く人々に甘酒を造って売ったと伝えられる。この甘酒はのちのちまで伝わり、案内の湯豆腐や今市のおぼろ豆腐、今市足軽が内職として作った今市おこしなどとともに塩竃街道の名物となった。

古道といえど沿道の家並みは新しい新興住宅地である。峠近くの路傍に集められた数基の庚申塔にわずかな古道のにおいが残っていた。

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今市


国道4号仙台バイパスをまたいで坂をくだったところで、坂をさけて造られた新しい道と合流する。二股地点に多くの古い石碑にまじって大正八年地元青年団によって建てられた道標がある。

道標から七北田(ななきた)川にかけての今市地区は原町宿につぐ塩釜街道の宿場町であった。比丘尼坂の由来記にあるように、仙台藩の足軽の居住地であったために今も屋敷町の面影をしのぶことができる。

今市宿をでて七北田川に架かる今市橋を渡ると、正面に
東光寺がある。参道入口に「おくの細道」と刻んだ大きな石碑が立つ。東光寺の前を七北田川に沿ってあった古道は「おくの細道」とよばれ、芭蕉はそれを紀行文の題名とした。今は車がはげしく行き交う県道35号だが、この道は国府多賀城に至る中世来の古道であった。

今市橋北詰角に「塩釜街道」の新しい標柱が立っている。
岩切若宮で石巻街道と分かれる街道である。
多賀城市南宮と市川の間で砂押川 多賀城政庁跡の北を通り、塩釜市大日向・赤坂を経て塩釜神社に至る。
赤坂橋を   と元禄頃の遺構とされる越後屋があり、塩釜詣の客に土産品を売っていた。
母屋は 公の休息所とされたが、腐朽が甚だしく昭和52年に解体された。

今市橋から二つ目の信号で、右斜めに旧道に入る。古い建物が並んでいて、原町や今市よりも宿場らしいたたずまいである。岩切郵便局の隣に趣ある古い二階建ての建物がある。明治の洋館風の木造建築で、「キリスト教会岩切集会所」の看板があるが、郵便局の旧舎ではないかと思われた。その角で、塩釜街道から
旧石巻街道が北に分かれている。安永3年(1774)の道しるべがあり、「右 塩釜道、左 松島道」と刻まれている。松島へは塩釜を経ずに石巻街道を通っていった。



利府

塩釜街道と分かれて、旧石巻街道は仙台市岩切羽黒前から宮城郡利府町神谷沢にはいっていく。県道8号に並行してその西側に旧道が走っている。県道270号をよこぎった塚本あたりに一里塚があったと考えられている。「塚本」の地名と関係があるのかどうか知らない。旧道の名残りとして、菅谷に安政3年(1856)の「菅谷不動尊道」と刻まれた道標が立っていた。

ほどなく旧道は県道8号に合流する。そのあたりの地名には「長者」「長者前」「新長者」と、長者ばかりである。200mほど街道から北にはずれた小さな丘に伊豆佐比賣(いずさひめ)神社があって、そこに九門長者という豪農が住んでいた。神社参道に立っている案内板に記されている長者伝説を紹介しておこう。

九門長者屋敷跡の伝説について
ここには、今から約千百十余年前、奥羽地方でも名高い豪農の九門長者の邸宅があった。
その時、造った外濠や長者の井戸が現在も残っている。
この長者屋敷跡について、次のような伝説がある。
『長者の家には、多くの召使が雇われていたが、その中に悪玉という誠に醜い女がいた。彼女はもと紀伊の国の斎大納言という公家の姫君でたいへん美しく頭のよい娘であったが、伊勢参詣の帰り、悪者どもにだまされ、この九門長者の召使として売られてきたのである。そこで、彼女は自分の身を守るため「普通の人には醜い女と見え、身分の高い人にはもとの美しい姫の姿に見えるように」と守り本尊の観世音菩薩に祈願をしていた。時に征夷大将軍である坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折、この九門長者の家のお立ちよりになり、彼女を見そめた。延暦十八年巳歳(七九九)八月一日、彼女は男子を出産、名を千熊丸といい、当時の人々は神童と呼んでいた。千熊丸は十三歳になった時、母と共に都に上り、父の将軍を親子の対面をし、二代目田村麻呂将軍となった』ということである。

街道は高速道路、新幹線をくぐり、砂押橋をわたって県道3号との交差点から利府の宿場にはいっていく。交差点より3号をわずかに東にはいったところのトヨタカローラ脇から宿内の旧道が残っている。最初の信号で左折して広い道(県道260号)を横切り次の十字路を右折していく。角に小さな八幡神社があった。通りは幹線道路からはずれた静かな住宅街で、屋敷風の家も見受けられた。

円城寺、長龍寺あたりが中心であったのか。宿場の東端あたりに
味噌醤油醸造元丹野市右衛門商店がまぶしい青瓦の門を構えている。門には「○市」の商標が書かれた古い板看板が取り付けられていた。その先自動車学校あたりに「一里塚」の地名がのこっており、ここに芭蕉の辻から4番目、日本橋から97里目の一里塚があった。あと3里で、江戸日本橋から100里となる、記念すべき一里塚が待っている。

利府の宿場をでた旧街道はふたたび県道8号に合流して一路松島をめざす。途中、赤沼大日向地区に
赤沼一里塚が現存していて、林と民家の庭先の間に標柱が立っている。どこから何里目の、とは書いていなかったが、順序からすれば日本橋から98里目にあたるはずだ。塚の崩れたような土盛が認められたが、崩壊寸前の体であった。

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松島


街道は
染殿神社を右手にみて、三陸道の松島海岸IC入口交差点で県道8号から分かれて県道144号に移る。長老坂とよばれる山間の道をたどると、利府町からいよいよ松島町にはいっていく。峠付近の林の中に江戸から99番目の一里塚が今も残っているとのことだったが、松島に気が向いていて、確認するのをわすれてしまった。次の100里目さえ見逃さなければよいとすることにしよう。

「長老坂」はもともと
「眺浪坂」と呼ばれていた。坂上田村麻呂がこの坂より松島を展望し、「嗚呼眺浪の景、天下に冠絶す」と賛嘆したとか。のちに西行法師がこの地を訪れたときから長老坂と呼ばれるようになった。松島海岸にむかって下って行く坂の途中、右の山道に入っていくと「西行戻の松」とよばれる展望の地がある。松林から臨む松島の海はまさに眺浪の景であった。

街道にもどって坂をくだると、塩釜方面からやってきた国道45号に合流する。仙台から塩釜を経て松島で石巻街道に合流して金華山に至る道筋を広義の
金華山道ともいう。狭義には石巻から金華山までの道のりであるが、仙台から金華山をめざすとき、利府−長老坂経由の石巻街道でなくて、多賀城−塩釜−松島経由の道筋を選んだ。物見遊山を兼ねた寺社詣の旅であれば、誰だって名所旧跡、歌枕に満ちた塩釜コースを選ぶであろう。仙台から石巻までいくのに、なぜ利府を通るのかがむしろ疑問である。岩切の分岐点から松島合流点までのふたつのルートを計算してみると、塩釜ルートの方がおよそ一里遠かった。効率を旨とする参勤交代、ビジネスでは利府ルートをとるのが正解ということになる。

松島湾に260もの大小さまざまな島が浮かぶ。天橋立、安芸の厳島にならぶ日本三景の一つとして名高い。芭蕉は何よりも松島を楽しみにしていた。実際に見た松島のすばらしい景観は筆舌に尽くしがたく感動のあまり一句もつくれなかったというが、それはナイーブな解釈というものだ。編集上のしたたかな計算があったにちがいない。

観光桟橋には塩釜との間を往復する芭蕉丸が絶え間なく出入りする。観光客の数は塩釜神社や多賀城跡の比ではない。晩秋の平日でこうだから、ハイシーズンの週末ならばいかほどだろうと、感心するばかりである。松島の観光名所をめぐる人ごみの流れに身をまかせて、街道や宿場のことはすっかり忘れてしまっていた。

芭蕉にかぎらず、松島に着いた人がまず向かうところは
瑞巌寺である。平安時代初めの天長5年(828)比叡山延暦寺第三代座主慈覚大師円仁が建立、延暦寺と比肩すべきという意味で延福寺と命名され平泉藤原氏の外護を受けた。戦国時代に衰退していたものを伊達政宗の治世になって伊達家の菩提寺として再建され、このとき名も瑞巌寺に改められた。奥州随一の禅寺である。国宝の本堂内を一方通行に流れて各部屋の障壁画をのぞいて回る。すこし後戻りしようとして係員にしかられた。

本堂右にある
庫裡も国宝である。切妻の大屋根に袴付入母屋造りの大きな煙出をのせた形が珍しい。こけら葺四脚門の中門、重厚な薬医門の御成門など、それぞれに見ごたえのある建物であった。帰りは長屋のようにつづく天然洞窟群の前を通っていく。その前に各地の札所から集められた千住観音石仏が順序良く立ち並んでいた。

瑞巌寺から海岸に出て、
五大堂をたずねる。波に削られた湾曲の岩島に、橋げたの間に海面がのぞく「すかし橋」で渡ると清楚ながら華麗なお堂が建っている。大同2年(807)坂上田村麻呂が東征の折に毘沙門堂を建立した後、慈覚大師円仁が瑞巌寺守護のため五大明王を安置してから五大堂と呼ばれるようになった。島は堂を背負うだけの大きさしかない。堂を一周してまたすかし橋をおもむろに渡って海岸に戻った。

最後に
観瀾亭による。この建物は、伊達政宗が豊臣秀吉から拝領した伏見桃山城の一棟で、江戸品川の藩邸に移築したものを二代藩主忠宗がこの地に移したものである。2室からなり四方縁をめぐらした東北唯−の純桃山建造物である。観月の亭として「月見御殿」とも呼ぱれる。戸を開け放した一室では茶がふるまわれ、すずしげな顔つきをした観光客が茶碗を手に海に向かって正座していた。紅葉がみごろであった。付属の博物館の入口に巨大な貝殻が飾ってある。塩釜神社でみたものと同じだったと思う。であれば貝の名は、シャコ貝だ。

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高城

国道45号にでて松島駅前で高城川をわたって高城の宿にはいった。本来ならば五大堂の前の路地をはいって、新富山のふもとを通る松島宿の旧道を行くべきであった。宿場の面影でも感じられたかもしれない。ところで、その松島旧市街と高城宿とは1kmほども離れていない。いまだに独立した宿場が松島にあったのか、確信がない。芭蕉も高城でなくて松島に泊まっているのだからもちろん宿はあっただろう。しかしそれは、観光地あるいは門前町としての旅籠で、人馬の継ぎ立てをする公式の宿場であったかどうか。あったとしても高城宿との合宿ではなかったかと思ったりする。

高城はまぎれもない石巻街道の宿場町である。バス停の広場は鉤の手のなごりであろう。そこが宿場の南口らしい。道の両側には贅沢なほどの幅をもった歩道が設けられていて、車は歩道のどこに止めてもよさそうなおおらかな商店街である。土蔵持ちの商家もあって歴史を感じさせる町並みでもあった。

北にもよりはっきりした鉤の手がある。直進方向には新しい道がつづいているので、鉤の手というよりは枡形をしている。中央に明和3年(1766)の自然石碑があり、庚申・供養・講中などの文字が読める。


右の道を進んでいくと松山高校の前に心待ちにしていた一里塚の案内板がたっていた。石巻街道として7里目のものである。芭蕉の辻の「江戸日本橋迄69次93里」の里程を継ぎ足して、日本橋より
100里目の一里塚跡として人気を博している。私が国道100kmごとに記念写真を残している気分に通じているようだ。

説明板には一里塚もさることながら、小野宿までの旧街道、古道が残っていることを誇らしげに語っている。松島高校の先の二股を右にとり(左は県道8号から9号に乗って奥州街道吉岡宿に至る)、すぐ先の二股も右にとって道なりにいくと、広い交差点にでる。そこを直進するとしだいに山中のほそみちになっていく。山道といっても木立はさほど深くもなく、数百メートルごとに人家の前をとおっていくこともあって、気持ちよい街道歩きである。集落の部分だけは舗装されているが、家並みがとだえるや土道にもどるところなど、けじめは正しい。

左(あてら)坂からは国道をよこぎって十文字にむかう旧道がのこっている。左坂は桜の名所で茶屋もあったという。やがて山道は国道45号にもどる。宮城郡と桃生(ものう)郡(現東松島市)の境には一里塚があった。上下堤の平崎前から左にはいる旧道があることを知っていながら入口をみすごして、そのまま国道を突っ走って、気づいたときはもう堤防近くに来ていた。


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小野

東松島大橋で吉田川と鳴瀬川をわたり、しばらく堤防沿いの道(県道150号)を南下して、小野歩道橋の先で堤防より一筋内側の道にはいる。東松島大橋ができるまで、歩道橋に沿って小野橋がかかっていた。その100mほど下流に小野の渡しがあった。鳴瀬幼稚園の裏側あたりだと思われる。そこから現在の「町」区域に小野宿があった。旧道は「正寿司」の手前で左折する。角に歴史の道案内板が立っていて石巻街道の道筋が描かれている。

旧道はこれより県道150号(旧国道45号)を横切り道なりに右にまがって功岳寺門前を通って小野の追分にいたった。そこで
気仙街道が分岐する。旧石巻街道はそこから南東方向に山裾の道をたどって三輪神社の西側で国道45号に合流していた。

追分から功岳寺にむかう路傍に小野小町が腰掛けたというがある。小野の地名と引っ掛けたものであろう。町並みに宿場の面影はなかった。

寄り道

野蒜(のびる)築港跡

開国間もない明治11年、オランダ人技術者の指導の下に、南北上運河と鳴瀬川の合流地点に近代的な港の建築が計画された。殖産興業政策の国家的事業であった明治三大築港の一つである。福井県三国市の三国港と、熊本県宇城市の三角港(現「三角西港」史跡公園)は完成をみたが、ここ野蒜港は大型台風で突堤が流され、工事は再開されることなく幻の港に終わった。現在は防衛省の管理地に、レンガ造りの橋台市街地跡にのこされた石のローラーなど、その痕跡が残っている。


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矢本

国道45号にもどり次の宿場矢本に向かう。仙石線の陸前小野駅と鹿妻(かづま)駅の中間あたりで、東浜街道(県道243号)が北に分岐している。東浜街道は明治時代に付けられた名称で、藩政時代は気仙道とよばれるものである。小野の追分からはじまる古道に対し、山を避ける新道が造られた。

鹿妻駅の手前で左の旧道にはいり、第二下村松踏切をわたってそのまま国道45号をななめに横切って直進する。笠松、一本杉をへて中田から矢本宿にはいる。入口の鉤の手であっただろう道筋に鎌倉時代の古い板碑、愛染院跡標柱とともに、
歴史の道(奥の細道)案内板が立っている。矢本は低湿地が開発された新田地帯で、街道はまっすぐにのびている。

すぐ北側を国道がはしっているため幅が広い道のわりには車の往来がすくなく、沿道には歴史を感じさせる古い建物が散見される。なかでも桜井酒造店の二階建て千本格子造りは見事というほかない。東矢本駅入口で国道45号にもどる。


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石巻

街道は定川をわたり大街道新橋で石巻市街にむかって国道398号に移る。橋下を通るのは北北上運河で、旧北上川と鳴瀬川を結ぶ運河のうち、定川までの部分をいう。定川から野蒜築港跡までの区間は南北上運河とよばれている。大きくは石巻から岩沼までの貞山掘り運河水系の東端を担っている。土手を歩いてみると両岸に松並木を配した運河とよぶには贅沢とも思える景観であった。岩沼で見た貞山掘に遜色ない。

双葉町五差路交差点で国道を左に分け、まっすぐに進む。鰐山墓地の前は松並木が美しく旧街道の情緒豊かな景観をみせている。街道はまもなく石巻小学校と永巌寺の間をとおり本町の終点に至る。永巌寺の前に
金華山碑が立っている。どこが石巻街道の終点で、どこから金華山街道や一関街道がはじまっていたのか、問屋、本陣などはどこだったのかなど、宿場としての石巻情報がすくない。詮索はやめて、市内の見所を散歩する。

石巻は江戸時代、南部藩・伊達藩・一関藩・八戸藩の米の積出港として
旧北上川の河口に開けた港町である。石巻から江戸まで千石船が米を運んだ。河口をみおろす小高い丘は、鎌倉・室町時代の葛西氏が城を構えた石巻城址で、現在は日和山公園となっている。山上には鹿島御子神社(かしまみこじんじゃ)のほか、公園内には奥の細道ゆかりの地として芭蕉のほか、斉藤茂吉、宮沢賢治、石川啄木など多くの文人の碑がある。

石巻小学校前の交差点にもどり、宿場の中心地と思われる通りを北に進んでいくと住吉公園にいたる。
住吉地区は藩政時代に、各藩の米蔵が建ち並び、大いに賑わったところである。今も往時をしのばせる情緒あるたたずまいを見ることが出来る。志賀直哉の生家がこの地区にあった。


公園内にある石碑の一つに
「袖の渡」と刻まれている。このあたりに北上川の対岸とを結ぶ渡しがあった。源義経が藤原秀衡を頼って平泉へ向かう途中、ここから船に乗って一関に向かう時、船賃の替わりに自分の片袖を船頭に与えたという。

また、公園の岸辺から朱色の小橋が架かる雄島に渡ると、「石巻」の地名の由来を記す説明板が立っている。傍の川中に一つの岩があり、干満の差によってこの岩のまわりを水が巻くことから、この岩が「巻石」と呼ばれるようになった。


芭蕉はここから北に向かった。私はせっかくここまで来たのだから東にむかって金華山に上ってから、芭蕉を追っかけようと思う。


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(2007年12月)