金華山街道



石巻−渡波−月浦鮎川山鳥金華山

いこいの広場
日本紀行



どこから金華山街道と呼ぶかについては諸説がある。仙台から塩釜街道経由で松島にでて、そこで石巻街道に合流して石巻までの道のりを含める場合と、重複部分を省いて石巻を起点にする場合がある。さらに、石巻の起点に関しては、双葉町交差点の金華山碑からはじめる場合と、石巻街道の終点とする中央3丁目ないし1丁目交差点とする説がある。

ここではすでに独立した「塩釜街道」「石巻街道」の続編として、石巻から始めることにする。市内のどこからということにこだわらないが、市内散策を終えた都合上、対岸にわたる手前の中央2丁目交差点としよう。国道398号で内海橋をわたると八幡町で国道は石巻街道から女川(おながわ)街道に名をかえる。

八幡町からくる途中、伊原津病院の先に「一里塚」の地名をみた。一里逆もどりすると石巻小学校のあたりになる。



渡波

渡波(わたのは)は最初の宿場町である。石巻湾と万石浦をかかえた漁業・製塩の町として発展した。製塩は千葉県行徳の塩田で行なわれていた最新術を導入した。かっては奥の海とよばれた万石浦は石巻湾から運ばれてきた土砂が堆積してつくりあげた潟湖である。2代藩主伊達忠宗が遠島と呼ばれた牡鹿半島へ狩猟に行く途中奥の海を見て「ここを干拓したら万石の米が取れるだろう」と語ったことから万石浦とよばれるようになったという。万石浦の東側に女川がある。

JR渡波駅前から女川街道と分れて金華山街道(県道2号:渡波から鮎川まで28km)が分岐する。渡波が最狭義の金華山街道起点といえるかもしれない。ちょうど塩釜から松島へいく場合と同様に、渡波から金華山への入口である鮎川まで、船で行く人もあれば、7里の陸路を歩く人もいた。

万石橋をわたると牡鹿半島の最西端の集落
祝田(いわいだ)がある。海岸に沿った路地をすこしはいった船着場に文化10年(1813)建立の常夜灯道標が建っている。台にくらべ頭部の小さい常夜灯だ。「金華山道道標 常夜灯」と書かれた標柱が地面に倒れていた。

万石浦の南側にそって山道をのぼっていく。しばらく進むと右側に旧道入り口がでてくる。旧道といっても二車線の舗装道路だ。つづらおりの上り坂がいっそう山中にはいっていく。やがて
風越峠にさしかかり、右手に小さな空き地があって、大正4年の「金華山道路改修工事」記念碑が立っていた。 また空き地の西端には傾いた一本の標柱があって、「榎本武揚艦隊集結地」と書かれている。細い土道がのびていた。先には展望台でもあるのだろうか。仙台港を出航した榎本艦隊は、この峠から真南にあたる折浜に寄港して、仙台藩から供出された大量の物資をひそかに積み込んだ。

旧道は坂を下りはじめ県道2号が新しい風越トンネルをでてきたところで合流する。
海岸沿いの道をすすんで、桃浦集落によってみた。何があるということではなかったが、出来る限り街道沿いの集落にはよっていくつもりである。いつもの街道であれば宿場でない集落は素通りするのだが、この街道にかぎってはその区別がつかない。人家のない山を越えては入り江の奥につくられた浜辺の漁村すべてが宿場であったともいえる。

桃ノ浦にでると黒い雪雲の下に牡蠣養殖場の棚が整列している。浜には八重咲きの花びらのような牡蠣の貝殻がまとめられて積まれていた。リサイクルされて種ガキの原盤となる。宮城県の牡蠣養殖は延宝年間(1673〜1681)に始まった。生産は順調だが、どこかの牡蠣でノロウイルス感染が発生した影響で、それ以後牡蠣の需要が復活しないままになっているという。

集落の入口に、他の民家とは明らかに違う雰囲気の家が二軒ならんでいる。方形箱型の入母屋板壁二階建てとでもいおうか、事務所にもみえるし、遊郭に見えないでもない。不思議で、いつまでも気になる建物だった。




月浦


つぎに降りたのは月ノ浦である。県道から浜への入口に支倉常長の像がたっている。慶長18年(1613)9月、伊達政宗の命を受けた支倉常長がスペインをめざして月ノ浦から出帆した。総勢180余名をのせたサン・フアン・バウティスタ号は、太平洋を横断してメキシコ経由で大西洋をわたり、スペインに上陸した。この慶長遣欧使節の目的は、当時の世界大国であったスペインとの直接貿易をねらったものであるが、徳川幕府によるキリスト教弾圧のせいで、スペインや法王庁の信用を得ることができずに終わった。

月ノ浦という寒村には小さな外国人居住地がつくられた。折浜といい月ノ浦といい、石巻という大港をかかえていながら、中央政府にたいしてどこか後ろめたいミッションをもつ船が牡鹿半島のめだたない入江を利用したことはおもしろい。

つぎの萩浜にむかうころから雪が降り出した。鮎川までまだ道半ばである。夏タイヤで山道の上下をくりかえす金華山街道が心細くなってきた。小積浜から小網倉浜まで、峠越えの旧道がある。風越峠よりも旧街道らしい道で、現在は通行不能になっているという話も聞いている。安全を期して旧道はやめることにした。

新小積トンネルをぬけて
小網倉浜につく。県道をはずれて浜へ出た。ここでも牡蠣の養殖が盛んで、貝殻が山積みになっている。まとめられた後、再び養殖用に使われることになる。後ろにみえる横長の建物内で、主婦が中心になって牡蠣のむき身作業が行なわれているのであろう。屋外には一人の人影も見なかった。

雪がはげしくなってきた。鮎川まで直行しようと思いつつもう一箇所だけよることにした。
給分(きゅうぶん)浜に国指定重要文化財の11面観音があるという。集落の内部にはいり込み小高い丘のふもとに建つ小さな観音堂の前にきた。昭和32年に新しい収蔵庫ができるまで、この堂内に11面観音が安置されていた。重要文化財といってもその在処を確認しただけで本体を見ていないのだから、いい加減な観光といえる。別にここだけの話でなく、旅でたずねた仏像のほとんどがそうだ。

鮎川の手前の
十八浜にはよらなかった。「十八成」と書いて「くぐなり」と読む。陸が海に落ちこむリアス式海岸にあって、数少ない遠浅の浜で松林の美しい海水浴場がある。鳴き砂で知られ、歩くとククッと音がする。「9+9=18」から「くく鳴り浜」=「十八成浜(くぐなりはま)」となったという、本当のような嘘のような話が伝わっている。

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鮎川

雪が舞い落ちるなか、ようやく今宵の宿をとっている鮎川についた。桟橋駐車場から携帯で宿までの道をたずねる。指示に従って県道を右折すると、坂の途中で窓から体を乗り出して手を振っている民宿の女将が見えた。鮎川は沿岸捕鯨の基地である。また、山鳥の渡しが廃されてからは、金華山へはここから船に乗った。

夕食は新鮮な魚貝類にうずまり、ある限りの食欲をつくしても半分くらい残してしまった。なぜこれほどの量を出すのか旅館に泊まるたびに不思議におもうのだが、今日はそれにもましてひどかった。生牡蠣はまだ磯の香りがして潮味がのこっている。クリーム色の身は大きくて引き締まっている。それがザルにいっぱい出てきた。身をまるまると太らせたカキのフライが10個ちかく。これだけでも街でたべるカキフライ定食二人分ある。アワビとカキのバター焼き。アワビの刺身が大きな貝殻に乗って二枚分。煮魚はアイナメ。それに鮎川特産の鯨肉が赤身と脂身それぞれ5枚ほど。赤と白の切り身を合わせて食べるのが美味いのだと。止めを刺すようにマグロ、ヒラメなどの刺身の大盛り合わせ。普段の食事の量でいえば4、5食分はあっただろう。半分くらいは冷凍にして持って帰りたかった。もったいない話である。

鮎川から金華山行きの船は10時から午後1時まで毎時20分に出る。団体があるときは9時半に臨時にでることもあるそうだ。女将さんがチェックしてくれて明日、9時半の便があると教えてくれた。金華山発は10時から1時まで毎時50分。9時半にでれば、山に登らなければ10時50分の船で帰ってこられる。明日の天気予報は雪。今は止んでいて夜空に星さえ見える。牡鹿半島の先にある鮎川は温暖な気候で、石巻で雪が降っていてもここはふらないそうだ。明日は船がでるだろうか。帰路の道は雪が積もっていないだろうか。雪はやんでも路面が凍っていないだろうか。こんな心配をする予定は組んでいなかった。今日の突然の雪に女将も驚いていたが、本気で心配している様子ではなかった。

あくる朝、雪降るなか船乗り場へいく。団体客は遅れるというので9時半の臨時便がキャンセルとなった。10時までの間に、番所公園と一の鳥居を見に行った。県道220号を黒崎に向かう途中に展望台がある。低く垂れ込める暗い雲の下に、海面をはしる光の筋が無気味である。

その先の丁字路で左折して仙台藩の
鮎川浜唐船番所跡をたずねる。第2代仙台藩主、伊達忠宗が外国船を監視するため慶安元年(1648)、八ツ森、泊浜、鮎川浜、大浜、磯浜の五ヶ所にに築いた唐船番所のうちのひとつである。公園化された敷地の高台からは東に金華山、西には鮎川浜の前景が見渡すことができた。

コバルトラインにつきあたる三叉路の右側に、金華山黄金山神社の
一の鳥居がたっている。天保14年(1843)、藩の費用で造立された。風の強い場所にあるため石で根巻きし、それを鉄輪で締めつけてある。当時の金華山島は女人禁制で、女性はここより遥拝して帰ったという。鮎川からここに出て、山鳥の渡し場におりる旧道が残っている。車で県道沿いの渡し付近に回ることにした。

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山鳥

道路の両側に数軒の民家が現れる。左手の細い道の奥に赤い鳥居がみえる場所が
金華山街道の終点である。この山道をさかのぼっていくと一の鳥居にいたる。県道の反対側にも民家の裏庭に道がつづいている。渡し場跡は私有地になっていた。一言ことわって海岸までおりてみたいと思ったが、浜がみえる手前で漁業網に阻止された。鮎川より金華山に渡ったのちに振り返って渡し場の姿を想像するしかない。

遅れて着いた団体客にまじって吹雪くなかを乗船した。窓は内側の露と外側の雪でくもって景色はまるで見えない。おぼろげに暗い岩影を窓にうつす黒崎の沖をまわっておよそ20分で金華山の港に着いた。黄金山神社までのシャトルバスが待ち受けている。ちょうど中型マイクロバス一台分の団体だった。



金華山

聖武天皇が東大寺大仏建立のために多量の金を必要としていた矢先の天平21年(749)、宮城県涌谷町で日本初の砂金が見つかった。それを祝って「みちのく山」とよばれていた山が金花山/金華山と呼ばれるようになり、
黄金山神社が建てられた。三年続けてお参りすれば一生お金に困ることはないといわれて人気がある。この島で金が産出されたわけではない。

周囲26kmの断崖の島は本州より隔離された自然を維持していて、特有の植生をみせている。境内でも見られる鹿のほか、島には猿も野生している。そんな環境の孤島にそびえる450mの山が信仰の対象とされ、頂上には大海祇(おおわだつみ)神社が建てられた。しだいに修験者が集まるようになって女人禁制の聖地となった。やがて恐山、出羽三山とならぶ奥州三大霊場として金華山信仰が各地に広まっていったのである。芭蕉はここにきていないのに、参道脇に「奥の細道」碑が立っていた。

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(2007年12月)