伊達政宗は、仙台領内でのキリスト教布教のための宣教師を派遣してもらうことと、メキシコとの貿易を目的として、家臣の支倉常長にローマへの派遣を命じました。しかし、当時の日本には大海を航海する技術もなかったことから、日本に来ていた宣教師のソテロとイスパニア人ビスカイノに、その技術を求めました。慶長18年9月15日(1613年10月28日)、完成した大型船に乗り組み、支倉常長以下ソテロやヴィスカイノ等約180名がこの月浦を出帆しました。この大型船は、外国の記録によって「サン・ファン・バウティスタ号」と呼ばれていたことがわかっています。一行は、苦難の末太平洋、大西洋を渡り、ローマ市民の熱烈な歓迎の中、ローマに到着しました。その後、支倉常長はローマ法王に会うことができ、法王から直接洗礼を受けましたが、主目的であったメキシコとの貿易は実現することができないまま、7年後の元和6年(1620)に帰国しました。しかし、帰国した彼らを待ち受けていたのは、幕府によるキリスト教禁止令の徹底と、キリスト教徒の厳しい弾圧でした。このような時代のなか、支倉常長は2年後に報われない境遇のまま一生を終えました。この井戸は、サン・ファン・バウティスタ号に関係した南蛮人(外国人)が利用し、船の飲料水として積み込んだと伝えられており、また、この一帯は南蛮人が住んだ小屋が建てられたところと伝えられています。  平成9年3月  石巻市教育委員会
 南蛮井戸と南蛮小屋 月浦 石巻市