天正19年(1591)の九戸の乱以降、九戸城は蒲生氏郷が修築し、三戸の南部信直の居城として払い下げられました。これを契機に地名が「宮野」から「福岡」に改められ、信直は家臣団を引き連れて移りますが、家臣たちは家族と離れ、在府小路周辺に住んだと云われています。 左手の坂は当時、帰府坂と呼ぱれていました。僅か百メートル程ですが、在府から帰る坂、或いは、在府に戻る坂として、家臣たちが三戸に残してきた家族を偲び、懐かしさと寂しさを込めて名付けたのが始まりと云われています。 また、この坂の起点は奥州道中と浄法寺街道の分岐点でもあり、「末の松山波打峠従是三十丁」と刻まれた追分石があります。

久府(くふ)坂と街道分岐点 福岡橋場  二戸市 岩手県