城下盛岡町名由来  紺屋町、鍛冶町、紙町
慶長年間に、盛岡城下には、上、中、下の中津川三橋が架けられた。そして上の橋と中の橋との間には、中津川東岸に沿って上流の方から紙町、鍛冶町、紺屋町という一続きの大きな町並みがつくられた。 この町並みには、幕未ごろには紺屋町の鍵屋茂兵衛、沢井屋九兵衛(茣蓙九)、井筒屋伝兵衛、また鍛冶町の向井屋半兵衛、鍵屋定八、あるいは紙町の井筒屋弥兵衛、大塚屋宗兵衛などという屈指の豪商老舗が軒をつらねて盛岡城下における主要な商店街となっていた。いまも紺屋町の茣蓙九の店構えには、むかしの盛岡の古い面影がある。また、ここの道路は、藩政時代の奥州街道の要路にあたっていた。 当時の奥州街道は、穀町の惣門を入ってここを通り、上の橋を渡って本町から上田方面に向かっていた。そこで鍛冶町の中程には道標があり、それを起点として藩内四方への里程を測ったものだった。昭和五十三年十一月 盛岡市

 菊の司酒造 紺屋町5  盛岡市 岩手県