菊池数馬は、幼名を五郎といいました。父の正宗は小田原の北条氏に仕えていましたが、小田原城の落城によって殉じ、数馬は豊臣秀吉の助命により奥州に落ちのび石島谷に住むようになりました。菊池家は、もと藤原姓で、藤原道隆の後裔である則隆が延久2年(1070年)に肥後国(現在の熊本県)菊池郡に下向し、地名にちなんで菊池氏を称しました。同家は、南北朝期には南朝方に立って一族一門終始めざましい奮戦をとげるなど南朝方勤王の名家としても知られました。五郎数馬は、生来頑健勇猛で住居した石鳥谷を愛し、新田の開拓や道路・橋の新設、改良などに力を尽くし、また犬淵村との境界争いにしばしば活躍し、境の平安を守ったといわれています。 万治2年(1659年)9月27日に75歳で亡くなりましたが、危篤の際に村内の若者たちを集め、 自分が境の鬼となって好地村を守るので境に埋めてほしい」と遺言しました。 遺言にもとづいて長坂の長根に葬り、それからはこの地を「数馬長根」といい、石鳥谷開発の恩人として崇敬されています。平成6年8月8日  平成6年度ふるさと創生事業

菊池数馬の墓 石鳥谷町好地第11地割 花巻市 岩手県