飢饉餓死供養塔
松庵寺境内には、飢饉がくると飢えや病気で苦しんでいる人々のために、粥の施しをし、看護をする「救け小屋」が設けられていた。不幸にして命朽ちれば、寺では手厚く葬り、供養塔を建て年忌には回向をしている。宝暦5〜6年(1755〜1756)、天明3〜4年(1783〜1784)の大飢饉には疫病が流行し、特に宝暦の飢饉には藩内の死者6万人にも達し、人々は、野山にある草木ことごとく食べ尽くし、犬、猫、鼠にさえ値がつけられ食したと言い伝えられている。ここ松庵寺山門前に並ぶ疫病、餓死、横死と刻まれたこれらの碑は、南部藩政時代の厳しかった農民の生活を物語っており、このような過酷な花巻の歴史、風土を思うとき、賢治の詩の「病技手*」が思い起こされる。
 * 「手」は「師」の誤り

病技師〔一〕
こよひのやみはあたたかし、 風のなかにてなかんなど、
 ステッキひけりにせものの、 黒のステッキまたひけり。
蝕む胸をまぎらひて、    こぼと鳴り行く水のはた、
くらき炭素の
に照りて、 飢饉(けかつ)供養巨石(おほいし)並(な)めり。

芭蕉句碑 嘉永5年(1852)建立
もの云えば唇寒し秋の風

松庵寺 双葉町6 花巻市 岩手県