藩政時代、ここは盛岡城下の入口に位置し、北上川舟運の起点であったことから、人が集まり物資の流通も多く、奥州道中筋の要所でした。 北上川は、この盛岡で雫石川、中津川、簗川と合流し、大河の様相を呈し、架橋が難しく当初は舟渡しでしたが、延宝8年(1680)頃にこの場所に舟橋が架設されました。 舟橋は両岸に巨大な親柱と中島の大黒柱を立て、20艘ほどの小舟を鉄鎖で係留し、その上に長さ2間半から3間(約5〜6m)ほどの敷板を並べて人馬が往来できるようにしたもので、増水時には敷板を撤収し、舟を両岸に引き揚げて、「川止め」にしました。 舟橋は大河に架橋できない当時の知恵であり、明治7年(1874)に木橋の明治橋が出来るまで存続しました。 平成17年3月  盛岡市教育委員会  * 「明治橋」の石碑は明治期の木橋中央の中島に建立されていたものです。

船橋・明治橋跡、新山河岸跡 仙北1丁目−南大通3丁目  盛岡市 岩手県