この付近は藩政時代には、新山河岸と呼ばれ、御番所、舟宿、御蔵などが建ち並び、北上川舟運の要衝として栄えた。また、奥州街道筋にあたり、北上川本流には舟橋が架けられ、両岸と中島の大黒柱に舟を鉄鎖で繋留し、舟上に厚く大きな板を敷き並べて人馬の往来を許した。 この御蔵は、旧藩時代の面影を伝える数少ない現存の建物であるが、建造年代は未詳である。 たびたび大飢饉にみまわれた盛岡藩は、嘉永3年(1850)城下にお布令を出し、飢饉に備えて備穀を奨励した。この制度は半官半民の体制で運営され、当初は何箇所かに分散して保管していたが、安政3年(1856)になると一括してこの御蔵に溜穀を貯えることになったといわれている。 昭和62年3月に盛岡市の保存建造物に指定した。   平成元年3月    盛岡市

御蔵(下町資料館) 南大通3丁目  盛岡市 岩手県