標高180mの独立丘に立地したこの高水寺城は、中世斯波氏累代の居城であった。斯波氏は足利氏の有力な分族であるが、この地を領知するにいたった経緯や築城の時期については定かではない。それが南北朝対立の時を迎えると、にわかに日本史の表舞台に登場するようになった。すなわち、足利尊氏によって奥州管領に任ぜられた斯波家長は、この城を本拠とし奥州における北朝方の重鎮として活躍しているのである。 次いで室町時代になると紫波郡一円の領主として地歩を確立しただけでなく、一時は南岩手から雫石方面へも勢力を伸張するほどであった。しかし、三戸南部氏との抗争が激しくなるにつれて次第に衰えをみせ、ついにはその攻略に屈して没落する運命となった。時に天正16年(1588)8月のことである。高水寺城を占領した南部氏は、城名を郡山城と改称して城代を配したが、寛文7年(1667)に至って城代制は廃止され、城も破却された。 紫波町教育委員会

 高水寺城址 二日町古舘 紫波町 紫波郡 岩手県