沼宮内城跡由来
沼宮内城跡は、沼宮内民部常利の城と伝えられ、西を北上川、南は、大坊川に面して峻立する山城である。規模は、東西180m、南北300m、三つの郭から成っておリ、北郭を主郭として、西側は、三段の三重堀、南郭はニ重堀、東郭もニ重堀で尾根と切れている。城主沼宮内氏は、文治5年(1189)源頼朝が奥州平泉の藤原氏征討のとき戦功のあった相模国河村氏の一族とされ、鎌倉時代からの居城と思われる。沼宮内氏の系譜がわかるのは、室町時代末期の民部常利(沼福寺元禄10年(1696)の過去 に〈沼宮内城主俗名民部常利〉河口源丞利景立置之)と、その子、治部春秀(300石)が南部氏に従属していた以後である。沼宮内城は、天正19年(1591)九戸の乱の際、豊臣秀吉の奥州仕置軍五万三千余騎が駐留し、南部利直(27代)と軍議を開いた城としても知られている。 天正20年(1593)諸城破却令による領内48ケ城の一つとして破却されたとある。以下略 1992年3月  岩手町教育委員会

  沼宮内城跡 沼宮内 岩手町 岩手郡 岩手県