大正15年(1926)3月、花巻農学校を30歳で退職した賢治は、宮沢家別宅で独居自炊をしながら、羅須地人協会を設立して理想の実現にいどんだ。ここがゆかりの場所である。この詩碑は、没後3年目の昭和11年(1936)に教え子たちをはじめ多くの方々の協力によって建てられた。石巻産稲井石の碑面には高村光太郎の揮毫で「雨ニモマケズ」の後半が刻まれている。さらに昭和21年(1946)に追刻の4文字を、光太郎が自ら碑面に書き込み完成した。賢治詩時の第1号であり、碑の下には遺骨と経文が納められている。


ここはかって花巻川口町下根子桜八景とよばれたところで、そのころ柾葺の二階家が立っていました。宮沢賢治は大正15年3月末に花巻農学校教諭を依願退職し、4月にはこの家に移って独居自炊の農耕生活を始めました。そして、その理想であった「羅須地人協会」を開設し、近在の農業青年に化学、土壌、肥料、農民芸術概論等を講義し、農村をまわっては稲作、肥料の指導相談をしました。この詩碑は賢治がなくなった3年後の昭和11年に建立されました。碑文は賢治の死後に見つかった手帳に書かれていた「雨ニモマケズ」の詩が選ばれ高村光太郎の筆によるものです。詩碑の下には遺骨、経文が納められ、同年11月23日に建碑除幕されました。

宮沢賢治詩碑 桜町4丁目 花巻市 岩手県