東海道−5 



日坂掛川袋井見付浜松舞坂
いこいの広場
日本紀行

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小夜の中山

右手民家の庭をかりて十六夜日記の作者阿仏尼の歌碑とその現代語訳が対で並んでいる。阿仏尼は初恋の痛手から出家したのち還俗・出家をかさね、やがて藤原定家の子藤原為家の側室となり3子をもうける。晩年の弘安2年(1279)10月16日、相続争いで単身京から鎌倉へ訴えに出向いた。恋多き女、才女にして優れた歌人、母性あふれる女傑である。鎌倉下向の道すがら、多くの歌をのこし紀行文「十六夜日記」を著した。

  
雲かかるさやの中山越えぬとは都に告げよ有明の月

これからたどる歌枕小夜の中山は多くの歌人によって愛された。それらの歌碑が旧東海道の道端に点々とある。阿仏尼は金谷側から数えて第1番の歌碑である。

箱根峠、鈴鹿峠についで、東海道の三大難所といわれた長い坂を上りきると峠辺りに徳川家康ゆかりの
久延寺が建つ。関ヶ原に向かう家康を掛川城主山内一豊はこの寺に茶亭を設けてもてなした。境内はあいにくの修復工事中で思うように鑑賞できなかった。重機を避けるようにしてブルーシートに覆われた小屋におかれた丸石を撮るのが精一杯だった。この石が有名な「夜泣き石」の一つである。一つということは他にもあるということで、本物は国道1号「小夜の中山トンネル」東口小泉屋の裏に置かれている。では久延寺にあったのはなにか。伝説を守るために同じような形をした丸石をどこかで調達してきたというしかない。小泉屋と久延寺は夜泣石をめぐって所有権確認訴訟で争い、久延寺が負けたという事実が残っている。

久延寺の隣にある
扇屋では久延寺の和尚が伝説の主人公お石の子供を育てるときなめさせたという子育飴を売っている。残念ながら平日は休業ということで、茶店風情をみることはできなかった。

扇屋の斜め向かいが小夜の中山公園になっていてそこに巨大な
西行の歌碑がある。

  
年たけてまた越ゆべしと思いきや 命なりけり小夜の中山

円筒柱の裏に廻ると山家集の題が刻まれている。

  
あづまの方へ相知りたる人のもとへまかりけるに、さやの中山見しことの昔になりたるける思ひ出でられて

西行が知れば悶絶するほど恥ずかしがるのではないかと思った。

集落をぬけ沿道は再び明るくなる。右手遠方の
粟ヶ岳の斜面に「茶」の一字が山肌に茶木で書かれている。

左右、小夜の山中は今や見渡す限りの茶畑で、峠をこえてからは快適な遊歩道である。道は下り坂となり左手に
佐夜鹿一里塚跡が現れる。説明板には日本橋から元禄ベースでいくと52里目、天保ベースでは54里になると、面白い。時につれ道は変遷している証拠である。すぐ先に鎧塚。その間にも歌碑は続いている。

左に
芭蕉句碑。金谷宿長光寺にあった句と同じである。

  
道のべの木槿は馬にくはれけり

白山神社の先で道が二又に分かれ、街道は左に進む。左に馬頭観音をみてその先200mほど行ったところの右側に
「妊婦の墓」が、左側には「涼み松」がある。

妊婦小石姫が自害した跡だという。夜泣き石伝説にでてくる妊婦お石とがどこかで絡んでいるような気がするが、これ以上詮索するまい。

向かいの松の木の下で芭蕉が休んだ。そのとき一句を詠んだ。

  
命なりわずかの笠の下涼み

その先にも芭蕉の句碑がある。

  
馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり(松尾芭蕉・野ざらし紀行) 

早立ちの馬上で馬ともども目覚めが悪く残りの夢を見るようにとぼとぼと歩いている。有明の月は遠く山の端にかかり日坂の里から朝茶の用意の煙が細く上がっている。


金谷石畳の終わりにあった句碑と同じ句だが、場所的にはこの小夜の中山の方が原作地に近い。

その先の左手に
「夜泣石跡」の標柱が立つ。広重の絵にあるように夜泣石は街道の真中に置かれて旅人の哀れを誘っていた。明治元年になって明治天皇の行幸に際し、邪魔になると道の脇に退かされた。久延寺が引き取り、東京の博覧会に出品された後、訳あって小泉屋が買い取った。説明板にある「現在の位置に移る」とあるのは久延寺でなく、小泉屋のことである。

すぐ右手に広重の絵碑「小夜の中山峠」がある。この場所で描かれたとされるが左方の谷側は見晴らしがあって遠くに富士の山のような峰がえがかれている。実際の風景は左側は見通しがきかない林になっている。ところで
広重の53次の元絵は司馬江漢だったという説がある。江漢の描いた小夜の中山は坂の勾配といい沿道の風景といい現在の風景とあまり変わっていないように見える。ただ一点、両者とも道の真中に夜泣石を描いていることを除いては。

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日坂

難所小夜の中山を締めくくるのは「二の曲り」とよばれる曲がりくねった急な坂である。坂を下ると国道、旧国道を横切って日坂集落の旧道に入る。



日坂(にっさか)は小夜の中山の西坂に由来する。本陣、脇本陣各1軒という東海道で三番目に小さい宿場だった日坂宿は当時の町割が現在も殆んど変化なく受け継がれ、各家が宿場時代の屋号を引継ぐことを可能にしている。

静かな家並みを進むと、左に大きくカーブするあたり幼稚園の敷地隅に宿場案内と
本陣跡を示す門が建てられている。本陣の屋号は扇屋、代々片岡家が営んできた。

民家の庭先に「問屋場跡」の説明札が立つ。

旅籠池田屋の屋号札を掲げる末広亭は今も現役の旅館である。一、二階ともに美しい格子造りで、紺の暖簾や屋号札が往時の雰囲気を色濃く残している。

隣の山本屋は脇本陣黒田屋大澤家宅の跡である。日坂宿最後の脇本陣を勤めた家で、その後明治天皇の小休所としても使われた。

日坂宿最後の問屋役を勤めたという
伊藤家「藤文」の海鼠壁土蔵が保存されている。江戸末期から明治にかけて栄えた商家で、明治4年郵便制度創設と同時に郵便取扱所を自宅に開設し、日本最初の郵便局の一つともいわれた。

角屋、萬屋と格子造りの古い建物が残されていて、小規模ながら味わいある旧宿場町の家並みを見せている。極めつけは宿場の西端に位置する旧斉藤家住宅川坂屋であろう。二階の千本格子のほか高い二階を支える精巧な木組みが端正な佇まいをみせる。本陣、脇本陣でもなかったが、内部は上段の間を備えた格式を保ち上流階級が宿泊した大旅籠であった。

逆川の手前に立派な
高札場が復元されている。ここが下木戸跡である。といっても小さな宿場であった日坂宿に木戸は設けられず、逆川にかかる古宮橋が木戸の代わりになった。事あるときは橋をはずした。

日坂の宿場を出て道は県道415号に合流する。歩道橋の先に
事任(ことのまま)という珍しい名の神社がある。石橋をわたると高さ31mという楠木の巨木がそびえ、後ろに古色蒼然とした社殿が鎮座する。由緒は古く、枕草子に「言のままの明神、いと頼もし」とあるそうな。何でも言ったことはその通りに叶えてくれるという評判が広がって信仰を集めた。

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掛川

県道は八坂I.C.交差点で国道1号と合流するがすぐに左に分かれて県道250号を行く。落ち着いた家並みの中に黒板塀をめぐらせた風情ある佇まいをみせる建物は地元出身の俳人伊藤嵐牛蔵美術館である。

伊達方集落の出口近くに
伊達方一里塚跡の碑がある。江戸から57番目とあり、佐夜鹿一里塚の元禄基準(伊達方は53番目)でも天保基準(伊達方は55番目)でもない新基準だ。

旧道は国道に150mほど乗っただけで山口小学校の前で再び左の本所地区に入っていく。ここの旧道も短い。国道にもどり今度はひたすら掛川に向かって歩く。成滝の本村橋信号交差点で左の旧道(県道37号)に入る。

逆川に架かる馬喰橋を渡ると小さな塚に
葛川一里塚跡の石標がある。何番目とは書いていないが江戸より56里3丁とあるから四捨五入して56番目であろう。佐夜鹿の天保ベースに対応する。ここから掛川宿にはっていくが、掛川は宿場町であると同時に城下町であったために極端な曲尺手(かねんて)が採用された。新町七曲りといわれ、ここから城下の繁華街へはいるのに直角に10回曲がっていく。

まず、@東光寺入口のバス停前、兼子酒店角の丁字路を左へ。A一筋目を右折。B常夜灯の立つ丁字路を左折、C突き当たりを道なりに右折する。前方に駅前の広い通りがみえるが、道は昔の道筋を固守して、駅前には通じていない。Dそこを右折。EF
ジグザグの曲尺手があり、路傍に塩の道と夢舞台の道標がある。ここに掛川宿の東番所が置かれていた。Gすぐ先の二車線道路を左折。HヤマザキYショップのある交差点を右折、I二筋目の広い道路(高札場跡)を左折して仁藤交差点で県道37号に合流し、そのまま西進する。

仁藤交差点右手に創業寛政2年(1790)の老舗呉服店、枡忠(初代升屋忠次)が白壁土蔵造りの重厚な店を構える。あいにく定休日で、内の様子はうかがえなかった。

仁藤交差点から二筋北の天然寺墓地に
オランダ人の墓がある。寛政10年(1798)11代将軍家斉に謁見したオランダ人ゲイスベルト・ヘンミィは長崎に帰る途中、掛川宿本陣林喜多左衛門方に投宿。病気が悪化して死亡、天然寺に葬られた。

そこから
掛川城に寄る。掛川城は室町時代、駿河の守護大名今川氏が遠江進出を狙い、家臣の朝比奈氏に命じて築城させたのがはじまりである。天正18年(1590)より慶長5年(1600)まで在城した山内一豊が大規模な城郭修築を行い、天守閣、大手門を建設すると共に城下町を大々的に整備した。現在の天守閣、大手門は平成になって復元されたものである。

山内一豊は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康につかえて出世街道を駆け上ったサラリーマンの鏡のような男であるが、それにもましてほまれ高いのが賢妻の手本とされる妻千代である。出身は近江米原とも美濃郡上八幡ともいわれる。結婚のとき密かに持参した10両を一豊にあたえて駿馬を買わせ夫の出世のきっかけをつくった。

理想の夫婦は掛川城で花開いた後、高知城で人生のピークを迎える。

大手門は頑丈な楼門造りの櫓門である。白壁に板ひさしが配され、棟上にはシャチ瓦が尾を逆立てている。二の丸には安政2年(1855)から文久元年(1861)にかけて建てられた書院造りの御殿が現存している。藩主の公邸・藩内の政庁として使われた。そこから優美な白亜の天守閣が眺められる。コンクリート造りが多い中、原型に忠実に木造で復元された。

本丸跡には刻を報せる太鼓があった
太鼓櫓が建つ。

城から「城下町風街並」を下って旧東海道の連雀西交差点にもどる。すこし東の駐車場に
本陣沢野弥三左衛門宅跡の案内札が立つ。蓮雀西交差点の南西角にも中町浅羽屋本陣があったらしいが、それを示す標識等は見つからなかった。

中町交差点角に江戸時代の大商家を思わせる木造の清水銀行が店舗を構える。角の壁面一杯に千代の金で得た駿馬の手綱をとる
千代と馬上の一豊の浮彫が駒寄せに守られてある。窓格子といい、屋根つき立て看板といい、玄関の松の木といい、風情あふれる銀行である。

円満寺に残る掛川城蕗の門を見て、街道は下町風の家並みの中をすすんでいく。道が右に曲がった先に
「十九首塚」の案内標識が出ている。路地を入っていくと平将門と18人の家臣の首級を埋葬したという円形の塚があった。中央に立つ将門の墓石を18基の石柱が取り巻く。ちょっと異様な光景だ。

道は逆川をわたり二瀬川信号で国道1号に合流して西に向かう。沿道に残る古い建物をみながら大池橋にさしかかる。川を越えたところで旧東海道は左におれ、右には秋葉山参詣の道、
秋葉街道が分岐している。かっては秋葉街道入口に常夜灯と青銅製の鳥居が立っていたが、今はわずかに明治22年の道標が残るのみである。広重は掛川宿の絵としてこの橋と秋葉山の遠景を描いた。橋の上から目を凝らしてその方向を眺めてみたが山の気配すら感じなかった。

大池橋から県道253号で南にむかった街道は
天竜浜名湖鉄道のガードをくぐる。濃淡二色の小豆色した1両電車がさりげなく通り過ぎていった。

左手、蓮祐寺の前に夢舞台東海道の道標が
大池一里塚跡の標識をかねて立っている。

道は逆川に接近するところで二手にわかれるが旧東海道は右側の道をゆく。
曽我鶴柴田酒店の前を通り過ぎる。

道は沢田I.C.で分断され、高架下をくぐって左折し再び右に出ている県道253号に入る。すぐに東名高速道路の高架をくぐり、垂木川を渡ったところ右手に
善光寺と仲道寺がある。

石段をあがったところが善光寺。右側山門を入り善光寺境内にあたかも本堂として構えるのが仲道寺である。だれかが東海道の中間点を計測したとき、この堂の位置がぴったりだったことから仲道寺と名がついた。

岡津から間宿原川にかけて、のどかな畑中を両側によくそろった
松並木が続く。原川集落入り口に建つ金西寺は一対の常夜灯を配して、民家のようで公民館のような、ひょっとすれば古い局舎のような寺らしからぬ建物である。

金西寺の前にの案内板があった。集落の西端で左折し、地下道で国道1号の南側歩道に出て、原野谷川を同心橋でわたり、対岸の名栗の立場に下りるややこしい道順が示されている。原野谷川が掛川市と袋井市を分ける。

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袋井

橋を渡りすこし左に行って堤防を降りる。小公園が作られていてそこに常夜灯、大きな石の可睡三尺坊道標、名栗(なぐり)の立場案内板がある。

可垂三尺坂大権現とは秋葉山の秋葉神社のことで、ここから2里12町の距離にある。このあたりは古代東海道の道筋で、国道1号沿いの工場地帯に律令時代の郡家(郡役所)や駅家が置かれていたことが確認された(坂尻遺跡)。

しばらく行くと左手に、大名駕籠駕籠の形をした
「名栗の花茣蓙」碑がある。多様な模様入りの花茣蓙を売る絵と、東海道中膝栗毛からの一説を引いた説明文が書かれている。引用には「名物花茣蓙を売るここには立場茶屋があり、間宿の旅籠屋もある」とあり、立場と間宿の重複が気になった。

名栗から久津部にかけて、土盛りされた
松並木が残っている。新たに植樹された松を含めて、県道253号の両側に続く工場地帯の目隠しとしても機能しているようだ。

並木がとぎれ丁字路角に唐突に
赤い鳥居が現れる。ここはかつて富士浅間神社の参道入口でここから800m北の神社まで参道が続いていた。今は工場地帯をぬって国道1号と東名高速を越えていかねばならない。

久津部の集落にはいると左手に古刹
妙日寺がある。日蓮の祖先名貫氏は代々土地の領主を勤めここに屋敷を構えていた。日蓮の父、名貫重忠は源平の戦いで平家に味方したため、鎌倉幕府から安房国小湊に流された。貞応元年(1222)日そこで日蓮が生まれている。妙日寺には名貫氏代々の墓所がある。

隣の袋井東小学校の敷地内に江戸から60番目の
久津部一里塚跡の碑が立つ。松が植えられている石垣の塚は小学校創立百年を記念して復元されたものである。

久津部は大きな集落である。落ち着いた町並にいくつもの自然石で作られた道しるべをみる。脇に立つ標柱にはいずれも「大正4年(1915)に久津部青年会が建てました」と書かれていた。

再び松並木に入り七ツ森神社を経て、旧東海道は新屋交差点で一時途切れ、交差点のひとつ南の細道で復活する。緑色の「どまん中茶屋」の案内標示にしたがえばよい。木造屋形の秋葉山常夜灯をみていよいよ袋井市街地に入ってくる。

市役所前で再び旧道は途切れ、左折して大きな交差点を右に折れると、川沿いの緑地内に袋井宿の標柱と説明板がある。袋井宿は江戸から数えても京都から数えても27番目で、ちょうど53次の中間に当たる。袋井宿の名は鎌倉時代の文書にでてくる古い宿駅であったが、江戸時代の宿場としては東海道の宿駅制度が定められてから15年後の元和2年(1616)に開設された。

天橋が袋井宿の入口で、市役所前で途切れた旧道はここにつながっていた。右手に茶店小屋風の観光案内所があり、
「東海道どまん中茶屋」の暖簾、「助郷寄合処」の板看板がかかっている。広重が袋井宿の絵に描いた茶屋が想定されている。ボランティアだろう、年配のおじさんが盛んに寄っていくように声をかけてきた。

期待して宿場街にはいっていったが、一向にそれらしき雰囲気が匂ってこない。
町並の記録写真を撮っていると後ろから声がかかった。おじさんは奥州街道を三厩まで歩いたという。クリーニング店内に案内されしばし街道歩きの話に花が咲いた。ご主人は日本ウォーキング協会、東海道ネットワーク会、全国街道交流会議、袋井市観光協会など、多くの組織に参加して活躍しておられる人だ。袋井宿に面影がないのは昭和19年の大震災で町が壊滅したからだと教えてもらった。帰り際に手づくりの「奥州街道」の本をいただいた。奥州街道を歩いたといっても多くは白河や仙台までであって、三厩まで踏破した人は少ない。

宿場の中ほどに
東本陣跡、袋井宿場公園がある。その先に「問屋場(人馬会所)跡」の標柱。「東海道53次どまんなか」の看板をかけた店が目を引いた。「どまんなか」は袋井市のキャッチフレーズである。

御幸橋(中川橋)の東袂に
高札場が復元されている。

橋をわたってすぐ左手、天領袋井宿と掛川藩領川井村をわける御料傍示杭の立つ路地をはいっていくと、中学校の敷地内に
万葉歌碑がある。防人の歌だが読み人が当地(袋井市川井)出身だという。

西小学校の西側にある洋風の建物は
旧澤野医院で、医院の裏側には倭建築の居宅部分がある。清楚な白ペンキ塗りの横板サイディング造りは北米ニューイングランド地方でよく見かける建築である。


川井交差点で県道413号と合流するが、すぐに木原松橋を渡ったところで右の旧道に入る。木原集落にはいってまもなく、右手に
木原一里塚跡の標柱が立つ。白ペンキが剥がれた跡に「江戸から六十一里」の文字が認められる。平成9年の新しい標識だ。そこからすぐ先の左手に復元された立派な一里塚があった。平成11年に造られたもので、説明板には本来の位置はここから60m東にあったとある。さきの標識のあった場所がそうであろう。

許禰神社の森にさしかかる。この辺りは三方ヶ原合戦の前哨戦となった木原畷の古戦場で、木原に陣を張った武田信玄と浜松城を守る徳川家康の偵察隊とが小競り合いを繰り返した所である。

再び県道413号に合流し、蟹田川を渡ってジュビロ磐田のホームタウンに入る。

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見付(磐田)

左手に一軒の塀ながら形、材料、色の異なった4種類の塀を繋ぎ合わせた面白い民家があった。植木に隠れた建物は漆喰造りの旧家にみえる。

太田川にかかる三ヶ野橋を渡ったところで、少し左に入り、石段を降りてガソリンスタンドの裏側の松並木が残る旧道に入る。旧道はその先、松並木から山中の
三ヶ野坂へと進んでいく。坂の入口で道が二手に分かれる。右は大正の道、左の明治の道とあるのが旧東海道である。坂道の途中で左に「江戸の古道」が残っている。煉瓦石で舗装され古道の風情なし。すぐに明治の道に合流する。坂を上りきったところで、その先に「鎌倉の古道」が下っている。こちらは落葉が踏みしめられた感じのよい山道だ。左手の高台に大日堂があった。

坂を下り、見付の松並木をへて国道1号にでる。歩道橋を渡って、右手高台に
遠州鈴ヶ森の刑場跡がある。金谷宿宅円庵首塚の主、日本左衛門の供養塔が立っている。首はこの先三本松で晒された。

すぐ先の二股で国道と別れて右の旧道に入る。三本松橋、別名なみだ橋を渡る。日光街道南千住にも東海道品川にも刑場のそばにはなみだ橋がある。家並みの入口に
常夜灯が立ちその足元に「旧三本松」と刻まれた小さな石碑がある。獄門台があった場所である。

道は下り坂となって見付宿に入っていく。坂を下りきったところで、左手の愛宕山を改めて登っていくと愛宕神社の裏側に
阿多古山一里塚が残っている。江戸から62番目で京から64里の位置にある。神社境内からは見付宿の町並が一望できた。


愛宕山の前、広い道との合流点が見付宿
東木戸跡である。ここから見付宿に入る。西から来た旅人はこの地で初めて富士山を見るので、見付の名がついたという。
JA遠州中央支店前に高札場風の宿場案内板があるが、「東海道さんさくマップ」におよればここが
高札場跡のようだ。一方で案内板の宿場図ではもうすこし先の県道86号との交差点角あたりとなっている。どちらが正しいのか知らない。

中川橋をわたって右側路地入口に東海道見付宿の石碑、静岡銀行前に
問屋場跡の標識が、また道向かいピザ店前には脇本陣跡の標識がある。いずれも位置を示すだけのものである。

東木戸からここまでの宿場街は整備された現代的な商店街で往時を偲ばせる建物はみられなかったが、この先ようやくいくつかの歴史的建物に出会うことができた。 右側に門と塀をめぐらす旧家は
御朱印船屋敷冷酒清兵衛邸である。この場所で酒を造り客には冷酒を売っていた上村清兵衛の店に、或る日徳川家康が訪れた。清兵衛が自慢の冷酒を勧めたところ家康はたいそう気に入って、冷酒清兵衛と呼ぶようになったという。

道の反対側の路地をはいったところに
御証文屋敷安間平次弥邸跡(現片桐医院)がある。家康より代官に任命され帯刀を許された。庭に清水が涌くことから旧町名の清水町となった。清水の流れる庭に面して屋敷の一部と土蔵が残り、狭い一角に和風の趣を醸している。
 
県道86号線の交差点を渡った右手に
本陣跡の標識が立つ。その先に「見付宿いこいの広場」が整備されていて、脇本陣の門が移築されている。先にピザ店の位置にあった脇本陣で、もとは大三河屋という旅籠であった。その後中泉の個人宅の門として使用されていたが平成17年、市に寄贈されこの場所に移ってきたものである。堂々とした薬医門である。

広場の裏側に瀟洒な洋風の建物がある。現存する
最古の洋風木造小学校校舎で国指定史蹟である。緻密な石組みの基礎は遠州横須賀城の石垣を利用した。その上に三階建て校舎が建ち、屋上に時計台風の二層の楼を乗せてある。小学校にはもったいないほど立派な建物である。

その脇をすすむと遠江国総社である淡海国玉神社が鎮座する。幕末から明治にかけて、この神社の神官で国学者でもあった大久保忠尚(ただなお)は自宅で塾をひらき地元青年に国学を教えた。募った寄付金と私財それぞれ100両ずつ計200両をもとに私設図書館を設立したのが
「磐田文庫」である。旧見付学校の裏側、神社境内の西側に小ぢんまりとした白壁土蔵がたたずんでいる。

県道44号との交差点手前の路地を右にはいるとガランとした空き地に古びた土蔵が5棟無言でたたずんでいる。
栗田煙草合資会社の土蔵である。明治20年ごろに設立され、葉たばこの乾燥・貯蔵に使用されていた。

旧東海道は県道44号にぶつかって左に折れる。直進方向に出ている細道は俗称
姫街道とよばれる脇往還で、浜名湖の北側を通って三河の御油(ごゆ)宿で東海道に合流する。東海道をこのまま進むと、特に女の出入りに厳しかった新居の関を通らねばならないため、そこを避ける抜け道として女の旅人が利用したことから姫街道と呼ばれるようになった。

交差点を右にまがって一ヶ所寄り道をする。800mほど北に
赤松則良の屋敷が保存されている。明治時代の建築で、赤レンガ造りの門塀に土蔵の漆喰が優雅なコントラストを見せている。土蔵の一つで人形個展が開かれていた。

姫街道追分にもどり南に向かう。加茂川をわたる辺りが
西木戸跡で、板の標札がある。

磐田南高校の南側に
遠江国分寺跡が、その向かいに府八幡宮がある。国分寺は東西180m、南北250mにわたって築地塀で囲われ、中に金堂、七重塔、講堂など壮大な伽藍が建設された。今も七重塔や金堂跡に礎石が残っている。

府八幡宮も国分寺と同じ奈良時代に建立された。柿葺き入母屋造りの楼門は堂々として優美である。その付近に壁土をあらわにした築地塀がわずかに残っている。神宮寺の遺構であろうか。

神社の森の東側に
万葉歌碑がある。遠江国守と聖武天皇との間で交わされた歌であるが、現代語訳は恋人どうしの歌のように甘い。

国分寺といい、府八幡宮といい、この万葉歌といい、磐田の地は悠久の時を刻んできた。

旧東海道は磐田駅から二つ目手前の信号交差点を右折して西へ向かう。このあたりに古代東海道の引摩(いんま)駅があったと考えられている。

県道261号に合流し万能橋をわたると右手下万能バス停脇に塚が設けられ頂上に「一里塚の跡」碑がある。江戸から63番目の
宮之一色一里塚で昭和46年に復元された。位置的には磐田宿と天竜川との中間にあたる。

まもなく左手に石組の上に瓦屋根付きの小さいながら端正な祠が建っている。文政11年(1828)建立の古い
秋葉山常夜燈で、祠の中に可睡斎のお札を祀ってある。可睡斎とは袋井市郊外にある秋葉信仰の総本山で、室町時代初期に開かれた曹洞宗の名刹である。徳川家康に招かれた11代住職の等膳和尚が、家康の目の前でいねむりを始めたが、家康はとがめることなく「和尚睡(ねむ)る可し」と言ったことから可睡斎の名がついたという。さすがに秋葉山の地元らしく、普通見かける石灯籠でなくて、本格的な建前である。

街道は豊田南小学校の先で県道を右に分けてそのまま直進する旧道に入る。しばらく行くと左手に夢街道の道標と、
長森立場・長森こうやくの説明板がならんでいる。山田与左衛門家で作られるこうやくは長森の名物だった。

旧道はいよいよ天龍川に近づいた。信号交差点を右折し県道262号に沿って渡船場へ向かう。最初の路地を左にはいると源平新田公民館の前に
「天竜橋跡」の碑がある。江戸時代は渡し船だった天龍川に明治7年(1874)、初めて天竜川に船橋が架けられ、2年後には全長1163mの木橋に架け替えられた。碑はこの木橋を記念して建てられたものである。

県道にもどり国道1号とバイパスの大きな交差点を横切る。なにかあったのか、警官が大勢出ている。街道はまもなく県道とわかれ、静かな旧街道を北上する。渡し場はここ
旧池田村にあって、見附−浜松の間宿として賑わった。中世12世紀には広大な池田荘とよばれる荘園があった古い土地柄である。今も街道筋には長屋門や土蔵、火の見櫓など往時の面影をとどめる景観が残っていて、歩いていても心地よい。

この集落にはまた、
「熊野(ゆや)の長藤」と呼ばれる国指定天然記念物があるというのでよってみた。行興寺の境内に根周り1.8mという藤の老木があって、花房は1m以上にも垂れるという。五月上旬までとあったから寄ったのだが、WGあけではもう遅かった。なんでもその藤の木は平安時代、池田宿の長者の娘、熊野御前という親孝行の美女が植えたという。

行興寺から道をもどって天龍川の土手にでると、そこに池田橋の跡と、徳川家康が与えたお墨付きを記した案内板が立っている。

お墨付きは今から約430年前(1573年)、徳川家康が池田の渡船関係者に与えた天龍川渡船権の許可証です。武田軍が攻めてきた時、常に家康側の味方となって協力を惜しまなかったことから、与えられたとされています。これにより、天龍川の渡船権は、池田の渡船にかかわる人だけが持つようになりました。

渡船場は三ヶ所あって、川の水量によって使い分けられていた。池田橋跡碑がある場所が上、その250mほど下流、天白神社のある場所が中、そしてさらに200m南の「天龍川渡船場跡」碑が立つところが下の渡船場であった。河原に下りてみると広重の絵にあるように、川の長れは大きな中州によって二分されている。池田の船頭たちは、この中州を利用して東西二手にわかれて川を渡った。水量によって中州の状態が上・中・下で違っていたのであろう。水位が高いときは上の渡船場、低いときは下の渡船場が使われた。

さて、土手を南下して国道1号の
新天竜川橋を渡る。各種の資料には、橋には歩道がなくて危険だからバスで渡るようにとある。旧国道の天竜川橋はいざ知らず、最も北側の橋は東行き一方通行の4車線。しかも一番左側は左折専用車線で、交通量が最もすくない。端の白線内に30cmほどの余裕があって、そこを歩いている限りは何の危険も感じなかった。中州の上にきて広重用の写真を一枚。橋上浜松市にはいったところで偶然250km地点にでくわし、そこでもう一枚。

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浜松

橋を渡り終え、一旦右へおりてバイパスをくぐって南側の土手に出る。土手の茂みの中に明治天皇玉座迹の石碑があり、その先に舟橋と木橋跡の標柱が二本並んでいる。対岸、源平新田にある天竜橋跡に対応するものだ。土手を降りたところに六所神社が、その前に旧東海道の標柱と中野町道路元標がある。そこから旧街道は西にまっすぐ延びていく。

やがて右手に大きな旧家が現れる。白壁板塀をめぐらせ、内側に数本の主屋の屋根をも越さんばかりの黒松がそびえたっている。先ほど土手でみた明治天皇玉座迹碑の場所で天皇に謁見した
金原明善の生家である。金原明善は、この地の名主の家に生まれた、明治・大正期の実業家である。私財を投じて天竜川の治水に生涯を賭けた。

まもなく県道312号と合流。三角地点の金網内に江戸から64番目の
安間一里塚跡の標柱が立っている。合流点の手前、県道312号の安新町信号交差点から北にのびる道は姫街道である。見附を出た姫街道は池田の渡しで天竜川を渡ったのち安間までは東海道をたどり、ここで浜名湖北岸をめざして北上していった。

ところどころに残る松並木をみながら一路浜松をめざす。子安交差点で国道152号に合流する。相生町の浜松東警察署附近に馬込一里塚跡の標柱があるとのことだが見当たらなかった。その先、馬込橋袂にあるという木戸跡、東番所跡も見あたらなかった。ただし地名には「木戸町」として残っている。

浜松の市街地に入り街道は広々とした国道である。商店、オフィスビルが建ち並ぶ近代的な町並に格子造りの古い町家がまぎれ込む余地はなさそうな雰囲気である。その中にささやかながら往時の生き証人を見つけることができた。新町公会堂の隣にたたずむ
夢告知地蔵である。なんともロマンをかきたてる名前ではないか。カンカン地蔵風の石仏の傍に立つ説明文は夢を壊すような内容であった。

街道は浜松宿の中心ともいうべき連尺交差点で左折して南に向かう。反対の北西側に
浜松城跡がある。市役所と小学校の間の坂道を上がっていくと本丸跡に若き日の家康が立っている。なるほど、府中(静岡)でみた家康に比べれば、スリムで格好いい。家康はこの城で17年を過ごした。城下町・宿場町の浜松宿は本陣が6軒もある東海道最大規模の宿場であった。

さてこの後、街道にもどって浜松宿の中心街を歩いていくのだが、大手門跡高札場跡佐藤本陣跡・杉浦本陣跡・川口本陣跡・梅屋本陣跡と、いずれも南北を貫く国道152号・257号沿いの歩道に説明立て札があるだけで、なんとも歯がゆい思いをすることになる。浜松は航空隊の根拠地であり軍需物資の生産都市でもあったために第二次大戦で空襲と艦砲射撃で壊滅的な被害を受けた。古い建物は残っていない。

また、広重の絵を写真に捕らえることができなかった。浜松城を遠くに見て田圃の傍で焚き火をする図である。これがどこであるか、わからなかった。消化不良気味に浜松宿を後にする。

旧東海道は旅籠町を通り過ぎ、成子交差点を右折する。道路標識に「雄踏(ゆうとう)街道」とあるが、ほぼ東海道の北側を併走して浜名湖に至る道である。途中に賀茂真淵生誕の地がある。旧東海道は雄踏街道を200mほど進み菅原町交差点で子育て地蔵の前を左斜めに入っていく。

JRの高架をくぐり国道257号と合流して、カーディーラーが建ち並ぶ国道をいくと用水路にかかる小さな石橋の袂に「鎧橋」という説明板がある。

平安時代末期(八百年〜九百年前)戒壇設置のことで、比叡山の僧兵が鴨江寺を攻めた時、鴨江寺側の軍兵は、この辺一帯の水田に水を張り、鎧を着て、この橋を守りを固めて戦ったので、その後、鎧橋と称したという。その時の双方の戦死者およそ千人を鎧橋の北側に葬り、千塚(または血塚)と言ったと伝えられている。昭和51年7月31日 設置
可美村教育委員会 可美村文化財保護審議会  平成15年5月31日 更新  東若林自治会

いくら傍若無人な比叡山の荒法師とはいえ、はるばるとこんなところまで遠征してくるかいな、と思う。

道が右に大きくカーブする手前左手に66番目の
一里塚跡碑がある。このあたり八丁畷といい、昔は土手のある松並木が続いていた。並木街道は広々とした田園の中を真直ぐに延びていたのであろう。振り返れば遠くに浜松城がながめられたかも知れない。広重の絵はこのあたりからみた浜松宿の見返り図ではないか、と思いをめぐらせながら浜名湖にむけて歩をすすめる。

カーブ地点の両側にお堂が建っている。
二つ御堂といい、奥州平泉の藤原秀郷とその愛妾が愛の証として建てた。北側のお堂が彼女が建てたものである。そのわきが高札場になっていた。さらに隣には馬頭観音と村社八幡神社がある。この辺は二つ御堂が伝えるように古い土地柄で、古代東海道栗原駅の比定地である。

可美中学校をすぎて右手自動車用品店モンテカルロの駐車場片隅に
「従是東濱松領」と刻まれた領界石がある。説明板はツツジにすっかり隠れて読めない。浜松領と堀江領の境を示す傍示杭で、少し先に堀江領の境界石跡の標柱がある。

高塚町にはいって、街道右手の民家フェンス内に
「高札場跡と秋葉燈篭跡」の標柱があり、その少し先には「麦飯長者跡」の標柱がある。いずれも丸太杭の正面を平に削り取って白ペンキの地に黒で文字を書き入れてあるだけの素朴な標柱である。天竜川を渡って以来、この杭標が随分と多い。高塚駅に向かって一筋はいったところに地蔵院があり、そこでいくらか麦飯長者の素性がわかってきた。この土地に住む長者で小野田五郎兵衛久繁といい、旅人に麦飯を施して有名になった。

道は高塚西バス停の先で二股にわかれ左にそれていく国道257号とわかれ、旧道はそのまま進んで静けさを取り戻す。二股地点に夢街道の道標があり舞阪までまだ一里15町もある。旧道にはいってまもなく、「立場」のバス停を通り過ぎる。このあたりに
立場本陣があったはずだが、立て札も例の丸太杭もみあたらない。道端のおばさんにたずねると、街道の南側に続く古い家並みの一軒を示してくれた。ブロック塀こそあれ、近づいてみると見事な格子造りの家である。案内立て札も標柱もない。ここだけでなくこのあたり鈴木姓が多かった。

すぐ先右手の民家敷地内に
篠原一里塚跡を示す立て札が立っている。日本橋より67里とある。また、当時の旅人は一日10里(約40km)を歩くのが普通であったと付記している。私の倍だ。

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舞坂

馬郡跨線橋南の大きな交差点を横切ると右手に春日神社のこんもりとした森がある。はいってみると10人余りの老人がゲートボールの準備に忙しくしていた。ゴールを設定する人、コースを掃き清める人など。コースは社殿が建つ石垣の周りを一周するようである。石ころ一つない土のコースで、ボールが際限なく転がるのではと思うほどなめらかである。「草がないからよく転がるでしょう」と声をかけようと思ったが「余計なことを言うんじゃない」と天の声が聞こえたのでだまってコースを一巡りした。いつも思うことだが神社の本殿は立派な拝殿の後ろに隠れて、たいがい貧弱で地味な存在である。しかしここだけは違っていて、朱色の本殿が青空の下で輝いていた。

まもなく700mに及ぶ
松並木に入る。かつては舞阪宿の東端の見付石垣から馬郡境までおよそ1kmにわたって1420本の黒松があった。左側の並木の間には広重の東海道五十三次の浮世絵を浮彫にした宿場ごとの石碑が並んでいる。並木の終わりにかわいい浪小僧の石像がある。国道1号と斜めに交差して、旧道は舞阪の宿場街にはいっていく。町並は宿場町というよりは湊町といった風情である。

旧宿場町の入口に
見付石垣が復元されている。この後藤川宿でみる棒鼻と同じ構築物だ。

すぐ先左手に常夜灯と
舞阪一里塚跡がならぶ一角がある。祠型の常夜灯は姿を消し、石燈篭型に戻っている。一里塚は江戸から67里16町と歯切れが悪い。67番目か68番目だろう。

中町の常夜灯をすぎ舞阪宿の中心地にはいる。道の先が開いているのは浜名湖である。突き当りから船に乗って遠江(とおとうみ)とよばれた浜名湖を渡って行く。

左手の果物屋にはスイカの隣になつかしいラムネが置いてあった。浜名湖はもう夏である。

右手に
本陣跡の標柱がある。2軒あった本陣のうち宮崎伝左右衛門の本陣跡である。
道向かいには東海道で唯一現存する
脇本陣の建物が幕を垂れ提灯を立てて堂々たる佇まいをみせている。茗荷屋堀江清兵衛宅脇本陣は、主屋、繋ぎ棟、書院棟の3棟からなっていたが、現存するのはそのうちの書院棟である。

中に入ると玄関から中庭を挟んで奥の上段の間まで一直線に見通せる。畳一枚分だけ高い上段の間には豪華な座布団と肘掛が中央におかれ、立派な床の間がしつらえてある。

二階にあがると駕籠が展示されていた。格子窓から下界を覗くのは、カーテンの隙間から外を覗き見する秘めやかさがあってまた一興だ。

街道は浜名湖に突き当たる。鎌倉時代までの浜名湖は浜名川から遠州灘に注ぐ淡水湖で、近い淡海の近江(おうみ)琵琶湖に対して浜名湖は遠つ淡海、遠江(とおとうみ)とよばれた。浜名川河口に架けられた「浜名の橋」は古代東海道の重要な通路であった。室町時代明応7年(1498)の大地震津波により浜名川の南側に蟹の爪状に延びていた半島の中央部分が分断され今切が出現、つづいて翌年の暴風雨による高師山(旧橋本宿の北側)山津波で浜名川の河口が埋まり、今切口が唯一の出口となった。永正7年(1510)の暴風雨で今切口が広がり、現在の形になる。舞阪漁港から左遠方にバイパス浜名大橋の盛り上がり部分の下が今切口である。

舞阪の渡船場(雁木)は三ヶ所あり、
北雁木は大名用、本(中)雁木は武士用、南雁木は庶民と荷物用であった。漁港埠頭を北にあるくと北雁木の遺構が残されている。板袴を着こなした姿よい常夜灯は港の灯台を兼ねている。街道から石畳のゆるやかな傾斜が水際まで降りている。旧街道渡船場の遺構としては一級品である。

街道は弁天橋で
弁天島に渡る。橋の手前で広重用の写真を撮ったが、広重の舞阪宿の絵はどうやら舞阪でないらしい。特に右に小さく見える白い山が冨士だとすれば、方角が違っている。なお司馬江漢の絵にはこんな山は描かれていない。広重は演出におぼれたか。

弁天島はホテルが建ち並ぶリゾート地である。島が二つあり、三回橋をわたる。どれが本来の島でどれが人工島か、見分けがつかない複雑な構造になっている。かっては舞阪と地続きであったものが分断されて島となったそうで舞阪町に属しているが、それでも昔は島の所属や土地利用権をめぐって新居町と度々紛争を起こしてきた。

駐車場は満車である。
潮干狩りの乗船場には長い行列ができている。次々と乗せては出て行く船の行先を追っていくと、湖の真中にある干潟に客を運んでいた。

街道は国道1号に合流するが植え込みで分離された遊歩道が整備されていて快適である。風景はもっぱら北側となるが東海道新幹線が頻繁に通って、適度なひまつぶしを提供してくれる。鉄道写真を数多く撮ってきたが新幹線にはあまり恵まれていなかった。近距離での新幹線はさすがに迫力がある。早い。


(2009年2月、5月)

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