街道の松、枝を鳴らさず往来の旅人、互いに道をゆずり合い、泰平をうはふ。大井川の川留めが解けたので、岡部に滞留せし旅人・駕・馬と共に弥次郎兵衛、喜多八の二人も、そこそこに支度して、朝比奈川をうち越え、八幡・鬼島に至る。 ここは宿場間のお休み処茶屋女「お茶まいるサア・お休みなさいマシ」と進められるまま、昼間ッからイッパイ昨日の鮪の肴、この酒半分水だペッペッ ブツブツいいながら、鐙ヶ渕にさしかかる「処もとは鞍の鐙ヶ渕なれど、踏んまたがりて通られもせず」「街道の松の木の間に見えたるはこれむらさきの藤枝の宿」 十辺舎一九 東海道中膝栗毛 平成17年(2005)乙酉年吉日 池谷桂次 建立 |
凡今より390年前本能寺事変の折 伊勢白子の住人小川孫三徳川家康公の危急を救い賞として天正14年8月14日御朱印を賜はる 是より藤枝町白子町と称えこの地に居住す 昭和47年4月 藤枝市本町2丁目6ノ1 旧白子町 第13代 小川博 後日の為これを誌す |
市指定文化財 染飯茶屋蹟 瀬戸の染飯は東海道が瀬戸山の尾根伝いに通っていた頃から尾根の茶店で売り始めたといわれ、天正十年(1582)の「信長公記」にその名が記されている。 東海道が平地を通るようになっても現在の茶店蹟で江戸時代の終り頃まで売られていた。 染飯とは強飯をくちなしで染め薄く小判型にしたものであったという。くちなしは足腰が強くなるというので旅人には好評だった。染飯を売る時の包み紙に押した版木が市の指定文化財として石野家に残っている。平成10年5月 青島史蹟保存会 |