東海道−4 



府中(静岡)−丸子宇津ノ谷岡部藤枝島田金谷


府中(静岡)

旧東海道は県総合運動場駅入口手前で左に入りJR操車場にぶつかる。線路の脇にロータリークラブよる旧東海道記念碑がたつ。東海道本線と静岡鉄道の高架が斜めに交差し、両鉄道の電車が頻繁に行き来する。しばらく休んで電車と遊ぶことにした。

記念碑の右側の地下道を通って向こう側に出、左におれて旧道の延長線上にもどる。後久橋で栗原から古庄にはいり、橋を渡ったところに夢舞台東海道の道標がある。府中宿まで3.3q。今の静岡市である。駿河国の国府があったことから府中、あるいは駿府ともよぶ。戦国時代は今川氏の城下町であった。

古庄交差点で国道1号と合流するが、すぐに次の長沼交差点で県道74号を越え右斜めの細い道に入る。久応院前に寛政12年(1800)銘の庚申塔がある。すぐ先左手に
長沼一里塚跡、右側に里程元標がある。

旧道は護国神社の先で国道1号を横切り操車場を突っ切って曲金地区に続いていたが、今は分断されて通行不能となった。国道をたどって柚木交差点を左折しJR線路をくぐる。階段を上り最初の道路を右にとる。西豊田小学校前の軍神社、四つ辻角の曲金観音をみて、JR線をくぐって、春日1丁目五叉路で国道1号線をわたってそのまま直進する。横田町は府中宿入口で、ここに
東見付があった。

横田町東信号を右折、音羽駅手前の音羽町第3踏切をわたると右手小山に
清水寺がある。永禄2年(1559)の創建で境内には徳川家康が建立したという観音堂のほか、多数の句碑がたっている。中でもひときわめだつのが明和7年(1770)銘の芭蕉の句碑で、背の高い角柱に「駿河路やはなたちばなもちゃのにほひ」と刻まれている。静岡の代名詞的一句といってよいだろう。元禄7年5月17日、芭蕉最後の関西への旅の途次、大井川の増水で芭蕉は島田に4日間足止めをくった。そこでの滞在先、塚本如舟宅での一句である。それからおよそ半年後、芭蕉は江戸に帰ることなく大坂でこの世を去った。

街道は伝馬町に入り賑やかになってきた。ここから江川町交差点までが宿場の中心であったようだ。古い建物は皆無といってよい。ただ標識だけが史跡の位置を示している。

県道354号との交差点左側に、久能山東照宮道の標柱がある。
久能街道は久能海岸で生産された塩を駿府に運ぶ塩の道として古代から使われていた。徳川家康が久能山東照宮に祀られてからは、参勤交代の大名たちは約10kmの寄り道を強いられここから久能山詣でをしなければならなかった。

左手、旧下伝馬町の松本ビル前に「本陣・脇本陣跡」の標柱と立て札が立つ。
下本陣小倉家と脇本陣平尾家が街道を挟んであった。まとめて「跡地」と示したアバウトな標識である。ゆるやかに右にカーブする街道右手のトップセンタービルの前には上伝馬町の本陣、望月家と脇本陣松崎家跡の碑がある。脇本陣は望月家の3軒手前で、問屋場の隣にあった。

江川町交差点のペガサート前に
「西郷・山岡会見の地」の記念碑がある。慶応4年(1868)3月9日、勝海舟の特命を受けた山岡鉄太郎(鉄舟)は駿府まで進出してきた西郷隆盛と、松崎源兵衛(脇本陣の松崎でない)方で会見する。これを受け5日後の3月14日、勝海舟と西郷隆盛は江戸芝の薩摩屋敷で出会い、江戸無血開城が約された。

東海道は江川交差点を左に折れて呉服町交差点を右折し現在の静岡市繁華街を通り抜けていく。江川交差点を右にすすむとすぐに
駿府城である。白亜の巽櫓が外堀の角を占め、東側には典型的な桝形の東御門が構えている。中は広々とした公園で、その奥本丸跡に鷹を手にした恰幅のよい徳川家康像が立っている。駿府城は今川氏の居城としてはじまったが、家康はここに7歳から18歳まで多感な少年時代を人質として過ごした。その後2たび家康自身の居城として駿府城で過ごしている。

旧街道にもどる。呉服町通りを伊勢丹の角で左折して七間町通りにはいる。この交差点の北側に里程元標が、南側には
札の辻の碑がたつ。高札場跡である。通りは石やタイル煉瓦できれいに舗装された現代風の商店街で、家並に昔の面影を求めるのは無理なことであった。

国道362号線をわたり、二つ目の名もない辻を右に入る。少々不安だったが南西角の杉山ビルの壁に「(旧)東海道」とかかれた小さな紙切れがはってあった。よく道をたずねられる店の人が気をきかせたのだろう。 二筋目の梅田町を左折して新通りを南下する。旧道の名が新通りというのはなんだか妙な気分だ。街道は府中の中心街を通り過ぎ、ここは裏通りの風情である。

梅田町の由来碑があった。町名は旅籠「梅屋」からきている。梅屋はただの旅籠でない。慶安4年(1651)駿河出身の軍学者由井正雪は丸橋忠弥、金井半兵衛らとともに江戸、駿府、大坂に分れて蜂起しようとした。由井正雪の担当は駿府城をおそい武器を手に入れ、久能山にある家康の遺産から金銀等軍資金を獲得しようというものだった。由井正雪ら総勢10人は旅籠「梅屋」に逗留したが、計画はすでに密告によって発覚しており、7月25日梅屋は捕り手に囲まれていた。正雪以下僧侶一人を除いて全員が梅屋で切腹自害したのである。

新通りを下っていくと左手に秋葉神社がある交差点にさしかかる。ここを右折すると広い通りの本町8丁目。交差点の北西角に
一里塚跡碑がある。旧街道から100m以上はなれたところだが東海道の一里塚にまちがいない。どうしてここに一里塚が築かれたのか、説明板には「本通りの一里塚はその位置を変え、ここに移動してきたものである」としか書いていなかった。

旧道にもどりやがて川越町にはいる。このあたりに西見附があった。
弥勒1丁目交差点をわたると県道208号とにはさまれた三角地帯の公園にいろんなものが集まっている。交番前が
安倍川の川会所跡である。立て場跡、安倍川架橋碑、由井正雪墓址碑、明治天皇御小休所跡碑など。

鉄橋にむかって左手に
安倍川餅の元祖石部(せきべ)屋が店を構えている。ある日徳川家康が安倍川ほとりの茶店に立ち寄ったところ、そこの店主がきな粉を安倍川上流で取れる砂金に見立て、つきたての餅にまぶし、「安倍川の金な粉餅」と称して献上した。家康はこれを大層喜び、安倍川もちと命名した。若い女性客が多かった。

その隣に立つのは
安倍川の義夫の碑である。旅人の財布を拾った川越人夫がはるばる宇津ノ谷峠まで追っかけて落とし主に渡した。旅人は礼金を申し出たが人夫はことわったという美談が伝わっている。安倍川から宇津ノ谷峠までは2里以上ある。20mほどおいかけて、これで善意は示せたとしてもらっておくのはダメかな。

広重の絵に一番近い風景の写真を撮って安倍川をわたる。


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丸子

橋を渡り堤防を左にすこしすすむと階段の下に短く旧道が残っている。旅籠風の民家、元祖手越名灸所高林寺、造り酒屋君盃酒造、名残の松並木などに間の宿手越の面影を残している。手越原交差点で国道1号と合流するがすぐに佐渡(さわたり)交差点で国道を右に分けて旧道に入る。


街道は右にまがって、長田小学校を通り過ぎたところ右手に
一里塚跡碑がある。位置だけを示す石柱だが大正12年に作られた古いものだ。

左手の水神社のすこし手前に東見付があった。丸子宿入口である。丸子は「まりこ」と読み、もともと「鞠子」と書かれていた。今も両者は混在している。宿場時代の屋号札を掲げる家が多い。

あちこちに
「宿場祭り」のポスターが掲げられている。3月8日の日曜日9時から午後2時半まで、丸子汁がふるまわれ、花魁道中、時代絵巻、梅花踊りがくり広げられる。町並もそのような祭りを包み込むに似つかわしい雰囲気を漂わせている。

宿場街を進んでいくと、明治天皇御小休止趾、横田本陣跡お七里役所跡などの史跡碑が立てられている。

宿場の西端に丸子宿一番の名所、
丁子屋が茅葺の屋根をいただいて広重の浮世絵から抜け出たようにたたずんでいる。ここはとろろ汁を売り物とする現役の食事処で、駐車場は数人の整理人が配置されているほどの盛況振りである。前庭には十返舎一九の碑や芭蕉の句碑が配されていて江戸情緒を盛り上げている。

  
梅わかな丸子の宿のとろろ汁

元禄4年正月、近江大津に滞在していた芭蕉が江戸に出発する近江の門人乙州に与えた餞の一句である。新春の気分から突然はるか駿河鞠子宿のとろろ汁に思いをはせたのがおもしろい。それほど印象深い味だったか。

丁子屋の先で道はわかれ、東海道は左にとって丸子川をわたる。右手の一角に
高札場が復元されていて三枚のレプリカ高札が掲げられている。西見付跡でもある。高札は横幅2.5mもある大きなもので、忠孝奨励諸法度・宿駅諸法度・毒薬にせ金禁制の3例が示されている。なかでも毒薬にせ金禁制は最後に「1.色々な商売で一ヶ所に買占め売り惜しみ或いは申し合わせて高値にいたすべからず事 1.あらゆる職人は申し合わせて作料・手間賃等を高値にするべからずすべて契約をする 結託するは曲事」と不正競争、カルテル禁止を付け加えた先進的な内容で興味深い。

街道は丸子宿をあとにして山に向かって進んでいく。二軒家で一旦国道の歩道にでるがすぐに階段を降りて旧道にもどる。降り口に「ようこそ
日本紅茶発祥の地 丸子路へ」と書かれた立て札があった。明治の初期、元幕臣の多田元吉はこの地で茶業を始めた。政府から輸出産業の育成として紅茶生産を託された多田は清とインドに派遣され、紅茶に適したインド種の茶木の種子や生産技術の情報を収集して帰国し、丸子の赤目ヶ谷で紅茶の生産を始めたのである。国道より旧道におりてすぐに、水車の横に「丸子紅茶」の板看板をかけた茶店があった。

国道に出た街道は歩道橋で反対側にわたり、川沿いの旧道にはいる。国道に併走して旧道をたどるとやがてトンネル手前の歩道橋にでる。ここをわたって再び国道の南側に移る。ここから宇津ノ谷越えの山道が始まる。


宇津ノ谷

「道の駅・宇津ノ谷峠」の裏手に「つたの細道」入口標識がある。宇津ノ谷集落を通る東海道ができる前の古代の東海道である。京と東を行き交う旅人はこの険しい山道を通らなければならなかった。この細道を有名にしたのは在原業平である。伊勢物語の主人公在原業平は東下りの途中、「蔦の細道」で偶然にも京の修行僧に出会う。

「より行き行きて駿河国に至りぬ。宇津の山にいたりて、わがゆくすえの道は、いと暗う細きに、蔦楓(つたかえで)は茂りて、物心ぼそう、すずろなるめを見ることと思ふに、修行者あたり、かかる道にはいかでかおはするといふに、見れば、見し人なりけり。」
「京に、その人の御もとにとて、文かきてつく。」

  駿河なる宇津の山辺の現にも 夢にも人に逢はぬなりけり (伊勢物語9段 東下り)

以降、古道つたの細道は歌枕として文学史上に名を残すことになった。近世の東海道を歩く前に、この古道の峠をみておこうと思う。道はすぐに薄暗い山中に入り、倒木がさえぎる沢つたいの細い登山道をゆく。勾配はかなりきつく膝が笑い始めている。それだけに峠までのみちのりは短く感じられた。20分くらいで峠に着く。峠の岡部側は大きく開け、赤味を帯びた梅の花の向こうに岡部の町が山間に沈んでいる。峠のすぐそばまで茶畑がせまっていて、丸子側の深い谷山とは対照的な景観だ。峠は平らな休憩所になったいて片隅に
業平の歌碑が立っていた。

このまま岡部まで降りて、バスで再び国道を丸子側の峠入口までもどることも考えたが、時間の制約もあり、来た道をもどることにした。半分の時間で降りられる。

こんどは旧国道(県道208号)をたどり途中で左の旧道にはいる。入口には詳しい宇津ノ谷の案内図が用意されている。宇津ノ谷には都合4つのトンネルが通っている。これからゆく旧東海道から派生している明治トンネル、大正時代の旧国道に開削された大正トンネル、現在の国道1号が通る昭和トンネル、平成になってから国道1号が複線化された平成トンネルである。大きな難所であったことをうかがわせる。

橋をわたると坂道にそって風情ある家並みが続いている。どの家にも屋号札がかけられている。部分的な格子造りの家が多い。人も車も通らない博物館のような集落だ。その役目を一手に引き受けているのが
「御羽織屋」の石川家である。横から裏にまわると、呼び鈴があった。二度ならしても反応がなく、戸を開けて声をかけると凛としたおばあさんが出てこられた。羽織の写真を撮るだけでよかったのだが、丁寧な説明を受けることになった。
拝観料200円を盆におくとおばあさんはおもむろにカーテンを開いて御羽織を披露した。綿入れのようにふっくらとしてみえる

事の次第はこうだ。天正18年(1590)、小田原征伐のため、東海道を下っていた秀吉がこの地にさしかかり、石川家の軒下に吊るしてあった馬の沓に目をとめて、使い古した自分の沓と取り換えようとした。ところが主人は三脚分しか差し出さなかった。「なぜだ」と尋ねると、三脚分は道中の安全を祈るもので、残る一脚分で戦の勝利を祈るつもりだと答えた。暗に、戦を前にして四(死)という数を避けたのだともいう。

羽織の隣にはケースに徳川家康拝領の茶碗や諸大名の拝観者名簿など古色な物品が陳列されている。宇津ノ谷は峠の麓につくられた間の宿で、峠を越えた、あるいはこれから越える旅人がひと休みがてらに立ち寄って由緒ある羽織を鑑賞したのであろう。

お羽織屋の裏手、丸子川のほとりに
「十団子」で知られる慶龍寺がある。由来は伝説といえどもあまりに世間離れしているので触れない。小玉にした5色の団子が2個ずつ入った十団子が宇津ノ谷の名物として売られている。

家並みをすすんでいくと街道は石段の坂になり、登り切ったところで交差する道を左にとり丁字路にぶつかる。右にいけば旧国道に出、左に進むと
明治トンネルにいたる。左に行った。古いトンネルが好きだ。苔むした煉瓦造りが多く、暗闇の内部には電燈が暖かい灯のリングを連ねて、孤独な美しさを放っている。

元の場所にもどる。ここからは時代劇のセットのような宇津ノ谷集落が一望できる。旧道の延長線上に旧東海道入口の標識があり、そこから山道をたどる。しばらくは左に風景がひろがる快適なハイキング道だが次第に山深くなって「つたの細道」を思わせる山道となる。地蔵堂跡をすぎるとまもなく峠である。狭い鞍部だけの味気ない峠だ。下りの山道は歩きやすく、まもなくして蔦の細道と合流して坂下地蔵堂脇にでる。

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岡部

道の駅「宇津ノ谷峠」の先の廻沢口交差点歩道橋をわたる。ここから右に入り県道208号を進む。しばらく行くと左手に岡部宿の案内板、すぐ先の右手高台に江戸時代末期建立の十石坂観音堂、その先の歩道脇に桝形跡の石碑がある。この辺りが岡部宿の東入口である。


岡部川を渡る手前で道が分かれ、旧道は右の細道に入る。入口に
「笠懸松と西住墓」と題した案内板が電柱に立てかけられている。右手路地をはいって民家の裏手にでると、公園風に整備された丘がある。その頂上に松をはじめ樹木の植え込みや石仏、説明札などが所狭しと配置されている。西行とその弟子西住の心打たれる悲話が伝わっている。

とある事件で破門された西住は師を慕って後を追うが岡部まで来て病に倒れ、最後に体を休めた松の木に辞世を書き残した笠を懸け、命絶えた。
  
  
西へ行く雨夜の月やあみだ笠 影を岡部の松に残して

東国からの帰りこの地に宿泊した西行はかっての愛弟子西住の笠をみつけ、その死を痛む。

  
笠はありその身はいかになりならむ あわれはかなき天の下かな

岡部橋を渡って県道208号にもどる。左手に建つ堂々とした二階建て格子造りの建物は
旅籠「柏屋」で、天保7年(1836)に建てられたものである。国の有形文化財ニ指定され現在は歴史資料館として開放されている。

そのとなりは門だけが残る
内野本陣跡。隣接して宿場公園広わずかに場が設けられているが、町並は柏屋と本陣跡を除いて県道沿いに宿場の面影はない。

わずかに
造り酒屋初亀醸造の重厚な屋根と土蔵がその片鱗を見せるのみである。

街道はその前で左にわかれて岡部宿内の旧道を進んでいく。車も通らず雰囲気は急に街道めいて、古い家も見かけるようになった。一跨ぎできそうな小さな石橋が用水路に掛けられていて、側石には
「姿見の橋」と刻まれている。なんでも小野小町が東国へ下る途中でこの岡部宿に泊まったというのである。確かに宇津ノ谷も岡部も東海道53次以前からの古い宿駅ではあった。小町はこの橋の上に立ち止まりふと目を橋の下の水面に移すと、そこにはやつれた女の姿が映っていた。小野小町の一生は伝説めいた話に満ちているが中でも美女だっただけに晩年の彼女が注目を集めている。鬼婆のように醜くなってどこかに身を隠したとも言われている。

民家の竹垣の前に問屋場跡の石碑がある。説明は磨耗して読み取れなかった。
やがて丁字路にぶつかって右におれ県道208号に合流する。この直角のジグザグは後世の区画整理ではなく、昔からの桝形跡である。

交通が頻繁な県道をゆくとまもなく
松並木が現れる。その先で国道1号と同藤枝バイパスとに複雑に立体交差し、旧街道は右側の道(県道81号)を行く。交差点手前の三角地帯に、常夜灯と「岡部宿」碑を兼ねた自然石のオブジェが立っている。

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藤枝

暗渠となっている水路で藤枝市岡部町内谷を出て藤枝市横内に入る。

うなぎやの向かいに竹垣に囲まれて
「従是西巖村領 横内」と墨書きされた復元傍示杭がある。享保20年(1735)より明治維新までの135年間横内村は岩村藩領であった。美濃国岩村城(恵那郡岩村町)を居城とする岩村藩は駿河国に15ヶ所もの飛領地があり、その一つ横内にも陣屋が置かれていた。民家の前に「高札場跡」、「代官屋敷跡」、「陣屋跡」などの標柱がある。いずれも横内歴史研究会が立てたものだ。

宿場でもないのに所々に屋号札を掲げた家をみかける。
「松の茶屋」は天井を一段高くした程度の低い二階をのせた古い佇まいをみせている。朝比奈川を渡り引き続き静かな横内集落を進んでいく。右手民家の立派なブロック塀に掲げられた「かみゆい 床安」の屋号札が心をなごませる。

国道1号、仮宿六差路交差点の歩道橋をわたって、対角線上の旧道に入る。左手に立つ立派な御影石の傍示石柱は、もとこの場所に建てられた
岩村領と田中領の境を示す傍示石の複製で、オリジナルは田中城跡(西益津中学校正門脇)に保存されているという。街道はすぐに国道1号と接して、広幡交番の前で再び左に分かれて鬼島地区に進んでいく。

まばらな松並木の中に、
「鬼島一里山」と丸い鉄板に赤地白字抜きの妙な看板が立っている。その先左手には民家の外壁にへばりつくように「史跡一里塚跡」の標柱があった。江戸から47番目とある。

黄梨川にかかる八幡橋を渡ると、そのまま真直ぐに進む道と、右に曲がっていく道とに分れる。前者が田中城に至る
御成街道、後者が旧東海道である。橋の袂にその追分道標が残っている。

旧東海道を進んでいくと左手民家の一角を借りて
「鬼島の建場」の石碑がある。新しそうなのだが彫りが浅いのか碑文は少々読みづらい。

街道の松、枝を鳴らさず往来の旅人、互いに道をゆずり合い、泰平をうはふ。大井川の川留めが解けたので、岡部に滞留せし旅人・駕・馬と共に弥次郎兵衛、喜多八の二人も、そこそこに支度して、朝比奈川をうち越え、八幡・鬼島に至る。 ここは宿場間のお休み処茶屋女「お茶まいるサア・お休みなさいマシ」と進められるまま、昼間ッからイッパイ昨日の鮪の肴、この酒半分水だペッペッ ブツブツいいながら、鐙ヶ渕にさしかかる「処もとは鞍の鐙ヶ渕なれど、踏んまたがりて通られもせず」「街道の松の木の間に見えたるはこれむらさきの藤枝の宿」 十辺舎一九 東海道中膝栗毛      平成17年(2005)乙酉年吉日 池谷桂次 建立

石碑の傍には常夜灯と半鐘も設けられていて、どうやらこの家の私物のようである。

鬼島の先は水守で、ここの
須賀神社境内にそびえるクスの木は樹齢500年、樹高24m、根廻り15mという巨木である。鳥居がみすぼらしく見えるほどに巨大な楠木である。さてここからいよいよ藤枝宿にむかうのだが、区画整理が進行していて、道筋が分かりにくい。

地図をみると現在の葉梨川より南に蛇行した形で、八幡(北側)と水守(南側)の境界線が引かれており、それに沿って右半分に葉梨川と結ばれた水路が残っている。この蛇行部分が、先ほど東海道中膝栗毛でも触れていた
鐙ヶ渕である。蛇行部分の形が馬具の鐙に似ていることから鐙ヶ渕と呼ばれるようになった。

同地域内にある「アブミ工業」はその名残だろうか。須賀神社をすぎ丁字路を右折すると右手に
松並木道が残っているが、これが鐙ヶ渕沿いに通っていた東海道の旧道である。旧道は新しい道路を横断し200mほど先で国道1号を斜めに横切る。実際はその地点は横断不能で、手前の信号交差点を迂回しなければならない。

国道の西側に渡って300mほどいくと右手天理教会前の歩道に
「東海道藤枝宿東木戸跡」「領主番所跡」と記された標柱が立つ。藤枝宿の東見付跡である。

成田山新護寺前を通り過ぎ本町4丁目、3丁目と宿場の中心に向かって歩を進めながら、心では他の事を考えていた。もうそろそろ国道1号へ出たほうがよいのではないかと。藤枝のどこかで国道1号東京から200km地点があるはずなのだ。

本町3丁目の大きな交差点で左折して国道大手交差点にでた。ここから南東500mほどのところに田中城跡がある。国道を南にたどってキロ程標識を探すが一向に出てこない。100m単位で細切れに設置されている場所もあれば、歩道のないところでは数キロにわたってなにもない所もある。箱根の100km地点がとうとう見つからなかっただけに200kmは見逃すわけにはいかなかった。両サイドの歩道を凝視しながら歩いていくうち、はたして緑町交差点の先、スロットMGM前にあこがれの道路標識を見つけた。一里塚25個分の楽しみだ。

緑町交差点から旧道にもどると本町2丁目と1丁目の境の交差点に来た。すこし東へもどってみる。小川眼科医院の前には徳川家康の絵を描いた「徳川家康ゆかりの町 1586年白子町誕生」の大きなパネルが外壁に取り付けられ、さらには
「白子由来の碑」の立て看板が歩道に立てかけられている。これが碑かと思った。本物の碑は眼科入口脇にある小さな石碑だ。見逃す人も多いだろう。碑文は立看に書かれている文と同じである。

凡今より390年前本能寺事変の折 伊勢白子の住人小川孫三徳川家康公の危急を救い賞として天正14年8月14日御朱印を賜はる 是より藤枝町白子町と称えこの地に居住す  昭和47年4月 藤枝市本町2丁目6ノ1 旧白子町 第13代 小川博 後日の為これを誌す

白子という旧町名は伊勢の白子から来た。それをもたらしたのは小川家だという内容である。なお、白子は伊勢街道の宿場町。いずれ訪れる。

本町1丁目の蓮生寺前に立つ
秋葉山常夜灯は笠に苔を載せ、胴のかわりに4脚で立つ珍しい形をしている。頭でっかちな姿が愛らしい。蓮生寺は平敦盛を討った熊谷直実が出家して蓮生と名乗り、故郷熊谷に帰る途中に立ち寄った場所である。樹齢700年というイブキの大木が身をよじって立っている。左手に旧家らしき家を見つけた。宿場内では唯一ではないかと思われる。


街道の右手奥まったところに創業天保元年(1830)の老舗
藤枝だるまが店を構える。現在五代目で、明治期にはじめた張子だるまが大量生産を可能にし販路を広げることになった。左右の鬢を8の字に描くのが特徴で、小泉八雲が愛玩したことから『八雲だるま』とよばれて親しまれている。

宿場街は本町をすぎて藤枝商店街にはいる。左手
大慶寺の久遠の松は圧倒的だ。日蓮上人手植の松といわれ、こちらも樹齢700年になる。老松にしては姿勢が良く老いをかんじさせない勢いがある。見ごたえある巨木であった。

道が左に曲がるところに待望の宿場の証がそろっている。すべて右側の歩道上にあるタイルである。最初が柴田医院駐車場前の「下本陣跡」、次が「ニコニコヤ」前の「上本陣跡」、そして上伝馬交番前の
「問屋場跡」である。その周辺をみわたしてもアーケード商店街が続くだけで、家並みに面影の片鱗もない。

その先の正定寺にある
本願の松をみる。この宿3本目の歴史的樹木である。こちらは江戸時代のもので、先の二本に比べれば新しい。樹高も6mと低い。ただ枝張りが見事な笠形をなし、古図にもよく描かれているという。

このあたりに藤枝宿の
西木戸があり、宿場はすぐ先の瀬戸川で終わる。かっては橋の袂付近に川会所と番所があったが、今はその跡を記すものもない。

橋を渡ると右手に秋葉山常夜灯と志太一里塚跡碑がフェンス内に保存されている。常夜灯はずんぐりむっくりした五輪塔のようで愛嬌ある姿をしている。

宿場を出た旧街道は青木交差点で国道1号を斜めにわたり、六地蔵で県道222号と合流、ところどころに残る松並木などをみて、左右一対の
古東海道跡にさしかかる。すこしのずれをもって旧東海道と直角に細道が残っている。源頼朝以前の古道だという。宇津ノ谷の古道「蔦の細道」にかえて「御羽織屋」を通る道筋に変えたのも源頼朝だといわれている。律令時代の東海道のうち、大規模な行軍に適さない部分を源頼朝は付け替えさせた。

下青島地区をすすみ上青島にうつるところ、石野モーターズのあたり右手に
「染飯茶屋蹟」、左手に「千貫堤」の標柱がある。いずれも藤枝市指定文化財で、標石・説明板は青島史蹟保存会によるものである。

千貫堤は寛永12年(1635)田中城主となった水野忠善が大井川の治水事業として千貫もの巨費を投じて造った堤で、街道より南に40mほどの土塁が残っている。
市指定文化財 染飯茶屋蹟 瀬戸の染飯は東海道が瀬戸山の尾根伝いに通っていた頃から尾根の茶店で売り始めたといわれ、天正十年(1582)の「信長公記」にその名が記されている。 東海道が平地を通るようになっても現在の茶店蹟で江戸時代の終り頃まで売られていた。 染飯とは強飯をくちなしで染め薄く小判型にしたものであったという。くちなしは足腰が強くなるというので旅人には好評だった。染飯を売る時の包み紙に押した版木が市の指定文化財として石野家に残っている。平成10年5月 青島史蹟保存会

県道をすすみ、「喜久酔」醸造元青島酒造を通り過ぎ、川を渡った右手に明治天皇御小休所址の小碑がある。その先、上青島の松並木が現れ、左手に
上青島一里塚跡の標柱が立っている。松は高く育ってはいるが木々の間に見え隠れする工場の建物が景観を損ねている。

ほどなく国道1号と合流し島田市に入る。

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島田


JR六合駅入口交差点から国道の右側に残る500m余りの旧道を通って、すぐに国を斜めに横切り50mほどの短い旧道にはいる。そのわずかな旧道沿いに白壁土蔵と格子造りの民家をみてほっとする気分だった。静岡以来なかなかこういう家並みを見ていないのだ。


橋をわたり御仮屋交差点で旧道は国道を右に分けていく。本通り7丁目にはいり
桝形跡(宿東入口)の立て札が民家のブロック塀の内側に立っていた。歩道に十分な余裕があるのに珍しい例だ。島田宿の東入口として5間四方の桝形見付が設けられていた。

本通7丁目交差点の先、島田信用金庫の前に「島田宿」の碑が立つ。その西側の道を800m行けば大井川をまたぐ日本一長い木橋
「蓬莱橋」に至る。徒歩での寄り道としては悩ましい距離だが木橋という魅力に負けて敢行した。堤防に上がると明るい大井川の河川敷が広がっている。それと直角に華奢な木橋が一直線にのびていた。手摺は手づくり風な素朴さをみせ、か細い橋脚は頼りなさそうにみえる。橋脚だけはコンクリート製であるが木橋の情緒を損なわないように丸太棒以上の太さにしていない。その上を数人の観光客がそろりそろりと渡っていった。

街道にもどる。道がやや右に曲がるところに
島田一里塚跡碑がある。大井川まであと2.4kmだ。

本通り5丁目交差点左角に
問屋場跡碑と刀匠島田の碑がならんでいる。島田は刀鍛冶集団で知られていた。

この交差点を右に曲がってつぎの信号交差点の北西角地に広大な敷地を占めた秋野宅の大屋敷がある。長々とした黒板塀をめぐらせ、向こう端には二棟の白亜の土蔵が清楚な佇まいを見せている。棟門の前に
「明治天皇島田行在所」の碑が立つ。

秋野邸の西側に
御陣屋稲荷神社がある。脇に黄色い房状の花が満開であった。初めてみる花だ。葉は合歓の木に似ている。後日これがアカシアの花であることを知った。西田佐知子が鼻声で「アカシアの雨に打たれてこのまま死んでしまいたい」と歌った、その花である。

島田宿は天領で、駿河国志太郡や遠江国榛原郡などの幕領を支配する御陣屋(代官所)が置かれていた。
島田御陣屋は、駿河国府中城主徳川頼宣の代官であった長谷川藤兵衛長親が、元和2年(1616)に建てた屋敷がはじまりで、その子藤兵衛長勝が寛永19年(1642)、幕府の代官職に任命され、その屋敷が御陣屋となった。御陣屋稲荷は陣屋の屋敷神として敷地内の北西(乾)の堤上に祀られていたものである。

御陣屋稲荷から南にくだると、プロムナードに
陣屋跡が示されている。本通りとの接点に宿場の中心地としてからくり時計のモニュメントが立つ。下本陣跡である。

すぐ西側右手に
中本陣(大久保新右衛門家)跡、その先ホテル三布袋前に上本陣村松九郎治家跡の石柱が立っている。共にまだ新しい。

向かいの静岡銀行前に
俳聖芭蕉翁遺跡・塚本如舟邸趾の碑がある。塚本如舟は元禄のころ川庄屋を務めた名家であり、俳人でもあった。松尾芭蕉は元禄4年10月、長らく近江に滞在しての帰り道、初めて如舟の家を訪れた。

  
宿かりて名を名のらする時雨かな

  
馬方はしらじ時雨の大井川

次に元禄7年5月芭蕉最後の旅の途中、島田で大井川の川止めにあい如舟邸に4日間逗留する。

  
さみだれの雲吹きおとせ大井川

  
ちさはまだ青葉ながらになすび汁

本通り2丁目交差点角の島田信金の前にも芭蕉の句碑がある。

  
するがぢやはなたち花もちゃのにほい

交差点を南におれてJR島田駅前にあるという
宗長庵址に寄る。島田宿の俳人塚本如舟が自分の土地に、連歌師宗長の昔を慕って宗長庵(長久庵)を建てたものである。芭蕉もここを訪れた。駅前にきてみると全面的な改修工事の真っ最中で、史蹟は線路脇に追いやられていた。石碑が三基ならぶだけのそっけないものである。


連歌師宗長は文安五年(1448)島田市の鍛冶職の家に生まれた。十八歳で宗長は駿河守護の今川義忠に仕えた。後に宗祇の門弟に加わり宗祇に同行して各地を旅する。文亀2年(1502)宗祇は宗長らと関東各地で連句を催しながら駿河・美濃に向かう旅の途上、箱根湯本で病に倒れ客死した(享年82)。


宗長は宗祇のあとを継いで連歌界の第一人者として活躍する。格言「急がば廻れ」の創作者である。

  
武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも 急がば廻れ瀬田の長橋

駅西通りで街道にもどる。西に進んだところ、右手に
大井神社、左に正覚寺がある。このあたりに島田宿の西見付があった。大井神社の鳥居前には飛脚たちが道中の無事を祈って奉納した道中飛脚燈籠が立つ。鳥居から続く両側の土手石垣は川越人足たちが毎日の業を終えて帰る際河原から1つずつ石を持ち帰って積み上げたものであるという。

石橋をわたると日本三大奇祭のひとつ、帯祭りに登場する奴等が両手を広げ片足を上げた格好で立っている。島田に嫁いできた花嫁が町中をあるいて晴れ着を披露する恥ずかしい風習にかわって、大井神社の例祭、
帯祭で大奴が木太刀に安産祈願の帯を下げて練り歩くようになった。

島田はまた文金高島田など女性髷の
島田髷の発祥地でもある。島田宿はあでやかな宿場町であった。

時の鐘があった大善寺をすぎると前方に白煙をあげる高い煙突が見えてくる。富士川河口に林立していたものと同じ製紙工場の煙突である。工場の前で道が二又に分かれ左の道を行くと、やがて
川越遺跡の町並みが現れる。両側に水路を通し居住用の家と見学用の建物とが混ざった家並みが、往時の川越え場風情を残している。

家並みの最後に
川会所が保存され、中に川庄屋と年行事の2人の川役人が不動の姿勢で事務を執っていた。川庄屋といえば俳人塚本如舟が勤めた役職である。

川会所の前に芭蕉句碑がある。元禄4年10月如舟邸での句である。

  
馬方はしらじ時雨の大井川

土手の手前の広場に
朝顔の松がある。深雪・阿曽次郎の悲恋物語が伝わる。


ついに大井川堤防に立つ。広い河川敷は公園となっていて、水の流れは遠くに細くみえるだけで、越すに越されないほどの迫力を感じない。広重の絵に似た場所をと探しているうちに大井川橋の中ほどにさしかかった。この辺、流れが二手にわかれ、川幅もさすがに広い。こんなものだろうと2,3枚撮って金谷側に入る。

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金谷

広重の金谷宿の絵も同じ大井川の金谷岸を俯瞰したものである。対岸には絵にあるような険しい山は見当たらない。

橋を渡り堤防を200mほど下流に進むと右に下りる道があって、旧東海道に通じている。

新堀川にかかる東橋(八軒屋橋)のほとりに小公園が設けられ、夢舞台東海道の道標、水神社がある。ここが金谷宿入口で、川会所、札場、一番宿から十番宿など島田の川越え場に対応する施設が並んでいた。金谷宿は河原町と金谷本宿とからなっていた。

旧街道筋の名残を感じさせる家並みの途中で左の路地に入り、250mほどいった宅円庵の
日本左衛門首塚に寄る。日本左衛門は白波五人男日本駄右衛門のモデルになった盗賊である。江戸伝馬町で処刑され見付宿でさらし首になっていたものを金谷宿の愛人小まんが首を持ち帰りここに埋葬したという。罪人の墓に寄ることもなかったか。

旧街道にもどりSLで知られる
大井川鉄道の「旧国道踏切」をわたる。左手に新金谷駅が覗いて見える。SLが毎日走っているとは知らなかった。時刻表は月と曜日によって1日1往復と2往復があって複雑だが、一つの共通点として毎日午前11:58分には千頭行きのSLが新金谷駅を出る。

川を二つ渡ったあたりから金谷本宿にはいってくる。本陣が3軒(佐塚屋・柏屋・山田屋)あったとされ、佐塚書店と地域交流センター前にそれぞれ
佐塚本陣跡、柏屋本陣跡の標識が立つ。町並に面影は残っていない。


金谷駅ガードの入口に夢舞台東海道碑が
一里塚跡碑を兼ね、そばに立つ一里塚の説明札が江戸から53番目と記している。

旧街道はガードをくぐって線路の向こう側に出る。石段をあがった長光寺境内に
芭蕉句碑が残っている。野ざらし紀行にて大井川で川止めにあった日の馬上吟である。金谷でなくて島田側での句であろう。

  
道のべの木槿(むくげ)は馬に喰はれけり

道は
不動橋で金谷宿を出、古い家が残る坂道を上っていく。

国道473号を横切る地点で、国道をたどって牧之原公園によっていくことにした。茶の本場静岡の中の本場牧之原台地を見ておきたかった。大井川、大井川橋を中心に手前の金谷、対岸の島田が一望できる
牧之原公園に着く。橋の後方に富士山が位置する。雲の白さと富士山の雪の白さが一体になっているのか、稜線が判別できなかった。

丘の頂には中国から茶をもたらした鎌倉時代の
禅僧栄西が杖に手をそえて立っている。斜面は一面の茶畑で、きれいに刈り込まれた濃緑色のかまぼこが規則正しく並んでいる。扇風機を取り付けた柱が点々と立つ。新芽がでるころ風を起こして霜が降るのを防ぐ装置だそうだ。一定面積に一基の設置が義務付けられているという。

旧東海道との交差点にもどり、旧東海道
石畳にはいっていく。430mにわたってコンクリート舗装をはがし、かって敷かれていた石畳を復原した。かえって歩きにくくなったと苦情を呈する人もいるらしい。

石畳が終わって合流してくる車道をすこし戻ったところに明治天皇御駐輦阯の碑と芭蕉句碑が立っている。

  
馬に寝て 残夢月遠し 茶の烟

野ざらし紀行、小夜の中山の段にある一句である。石は丸形の自然石で中央よりやや左に奇妙な一対の突起がある。腫れ物か、あるいは土偶の乳房か。

さらに車道をさかのぼると左の視界が開けて待望の
白く輝く富士を望むことができた。茶畑でしばらく孤高の美に見とれたあと、街道歩きの現実にもどり、諏訪原城跡へと向かう。バス停の裏から順路をたどる。諏訪原城は、天正元年(1573)、武田勝頼が馬場氏勝に命じて築いた山城である。

土塁、空堀がくりかえす山道に二ノ丸、三ノ丸、天守台、本丸の跡が現れる。空き地は茶畑として開かれている場所もある。最後には箱型の諏訪神社が静かにたたずんでいた。規模は小さいながら遺構の存在が明確に認められ国指定史跡である。

旧街道は諏訪原城跡からすぐ県道234号を横切って今度は
菊川坂の石畳を下る。車道が併走していて石畳は遊歩道である。ここも復元道であるが菊川の里の手前には160mにわたって江戸時代からの石畳が残っている。気のせいか現代物とは石の丸みがちがい表情も愛らしい。

菊川の里は小夜の中山を控えたひなびた山里である。江戸時代は日坂と金谷の間にあって間の宿として栄えた。古くは鎌倉時代から利用されていた古い宿場町である。宿場の中央あたりに二基の石碑が建てられている。承久の変で鎌倉幕府軍に捕らえられた中御門中納言藤原宗行の詩と、それから100年後の正中の変で捕えられた日野俊基の歌である。共に鎌倉への護送中、この菊川の里に泊まった。

静かな菊川の里を静かに通り抜ける。四郡橋を渡ったところで、広い道を横切り石段を昇って細い坂道を登っていく。二股を右にとって短い林をぬけると両側に茶畑がひろがる急坂が続く。右手に、島田・掛川市境を示す標識が立つ。

(2009年2月)
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