江戸時代の初期、寛文年間紀州徳川頼宣は、江戸屋敷と領国の居城の間、146里に沿って7里間隔の宿場に独自の連絡機関として23ヶ所に中継ぎ役所を設けた。県内では沼津・由比・丸子・金谷・見付・新居に設けられ、この役所を『紀州お七里役所』と呼び5人1組の飛脚を配置した。これには健脚にして剣道、弁舌、に優れた仲間が選ばれ、昇り竜、下り竜の模様の伊達半天を着て「七里飛脚」の看板を持ち腰に刀、十手を差し御三家の威光を示しながら往来した。普通便は毎月3日、江戸は5の日、和歌山は10の日と出発し道中8日を要し、特急便は4日足らずで到着した。幕末の古文書に、入山勘太夫役所、丸子勘太夫などと記されている。丸子宿におけるお七里役所は当家のことである。徳川頼宣は、徳川家康の第10子で家康が亡くなって3年後に駿府を追われ紀州和歌山にお国替えさせられた。こうしたこともあって紀州家では、幕府の行動を警戒する諜報機関としてお七里役所を置いたのである。
お七里役所 丸子7丁目 駿河区 静岡市 静岡県