東海道-3 



箱根西坂-三島沼津吉原蒲原由比興津江尻(清水)
いこいの広場
日本紀行

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箱根西坂

箱根峠を越えると、すぐ右手の「箱根旧街道」と書かれた
冠木門を通っていく。三島青年会議所が設置した新箱根八里記念碑のそばを通って、「箱根旧街道入口」の道標に従ってしばらく行くと、左手の笹藪に旧道の入口が開いている。三島市教育委員会による箱根旧街道の解説板、江戸・京都までの里程道標などが脇にある。箱根西坂の始まりである。

竹のトンネルをくぐるように細い道をたどるとまもなく国道1号にでる。右手「接待茶屋」バス停の先に旧道入口があり、「史跡 箱根旧街道」と題した文化庁・函南町連名の屋根つき解説板、接待茶屋の説明板、石碑などにぎやかだ。左に江戸から26里目の
山中新田一里塚がある。草木の茂みに隠れて塚らしきものが判然としないが、国指定史跡とあるから現存しているのであろう。

史跡 箱根旧街道
この旧街道は、慶長9年(1604)江戸幕府が整備した「五街道」の一つ、東海道の一部である。 箱根路には、古代の碓氷道・中世の足柄道・近世の湯坂道などがあったが、延暦21年(802)富士山の噫出物で埋もれた湯坂道に代って、現在の経路をとるようになった。 東海道の箱根山中は、道幅が狭く二間以下(3.6m)の所もあり急坂が多いので竹を敷き滑り止めとした。 寛永12年(1635)参勤交代の制度が布かれ、諸大名を始め一般旅人の通行が盛んになった。延宝8年(1680)頃から永久釣なものとして石が敷きつめられたといわれる石畳などの貴重な資料が一部残っている。 ここから西、下り坂約600mが、当時のまま現存している。昭和47年4月3日建立  文化庁・函南町

杉木立の中、石畳を歩いていくと、苔むした巨石が箱根路の見張り番のように立ち潜んでいる。小田原征伐にやって来た豊臣秀吉が、この石に兜を乗せて休んだという
「兜石」、「南無阿弥陀仏 宗閑寺」と刻まれた碑とともにある念仏石が圧巻だ。

静かな石畳の道をすすんでいくと急に視界が開けて左下に国道が現れる。二股道を左にとって台地の縁を進むと、旧道は民家の庭先に出たところで途絶えている。直角に左折して国道1号線を横断し歩道を下り、「三島市」にはいったところで左手に旧道が復活する。

願合寺地区の石畳の整備・復元を解説した案内板が立っている。排水溝と石橋の遺構も発堀されて復元されるなど、平成になって三島地区の箱根街道は大規模な整備がなされたようだ。一つ一つの石が大きくて平らで歩きやすい。

石畳の旧道が再び国道1号線に合流する手前に徳利を浮き彫りにさせた雲助の墓がある。墓の主は久四郎という腕の立つ武士だったが酒におぼれて雲助の仲間に落ちぶれた。

国道に出て反対側の
山中城址に上る。戦国末期、小田原の西の守りとして築かれたが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際、豊臣方の大軍に攻められてわずか半日で落城したという悲劇の山城である。自然の地形を利用して石垣を用いず土塁・空堀だけの城址だが、地面の凹凸はけっこうきつい。

旧街道は蛇行をくりかえす国道1号を突っ切る形でまっすぐに延びている。
芝切地蔵の前を通り、「山中城跡」信号で国道を横断すると腰巻地区の石畳が始まる。写真入の詳しい復元整備解説板がたっている。「箱根八里記念碑」として路傍に司馬遼太郎他数人の文学碑が建てられていた。

左が大きくひらけて国道1号に合流する。右側歩道を100mほどあるいて再び旧街道にはいっていく。今度は330mの浅間平地区の石畳である。地区ごとに解説板があるようだ。坂道が国道を横切る富士見平にでる。角に東京上野の家具センターが建立した巨大な長方形の
芭蕉句碑が立っている。

これは貞享元年(1684)野ざらし紀行での箱根越えの句である。野ざらし紀行は奥の細道に先立つこと5年、芭蕉最初の長旅であった。

    関越ゆる日は雨降て、山皆雲に隠れたり。

     霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き


芭蕉が富士山を見損ねたのはこの場所であったのか、それとも関所手前の芦ノ湖畔であったのかしらないが、富士見平とあるからここからも富士が望めたのであろう。私の場合、箱根であれだけくっきりと見えた富士がここからは見えなかった。方角をまちがっっていたか、それともかすかにかかる薄雲の向こうに隠れていたのか。

国道をわたり急な階段をおりて
上長坂の石畳に出る。すぐに国道にでて歩道をわずかに進んだところで左の旧道に入ると、ラブホテルの脇から笹原の石畳が出ている。石畳を300mほどすすんだところ、国道との交差点手前左手に笹原の一里塚が残っている。階段を上るほどの高台に大木がそびえ、周囲に石柱がめぐらされている立派な塚である。一里塚のすぐ側を石畳にそった細い農道がのびているのは古道であろうか。江戸から27里目である。ちなみにすぐ先の国道に111kmの標識を見た。3kmほど旧街道のほうが短い。箱根街道の国道の曲がり具合を考えると、いい加減だ。

箱根旧街道の石畳の道はここまでで、国道1号をわたったその先は普通の舗装道路が集落の中をいく。
下長坂別名こわめし坂とよばれる険しい坂だ。背負った米が、人の汗の蒸気で蒸されて強飯となってしまったといわれるほどきつい。歩いても膝が笑いそうなそんな急坂を、リュックを背負った男女のグループが軽快な足取りでかけぬけていった。甲州街道の犬目あたりでもみかけたが、最近ジョギングによる街道歩きがはやっているらしい。

こわめし坂もやがて緩くなり旧国道1号に出る。景色は長く険しかった箱根の山道をぬけてすっかり三島の町である。笹原新田から三ツ谷新田にはいったところに松雲寺がある。参勤交代の西国諸大名や、徳川将軍も泊まった寺本陣で、明治天皇の小休所ともなった。

旧街道は今やおちついた塚原住宅街となっている
臼転し坂を下り、やがて国道1号バイパスと合流する。「富士見ヶ丘」バス停付近から車線を分離するかたちで1kmにわたって初音ヶ原松並木がつづく。歩道はセメントで固められた石畳が敷かれている。松並木を200mほど進んだところに江戸から28里目の錦田一里塚が現存している。登り車線の両側に鏡餅状の塚をのこし、松の大木が茂る立派なものである。西側の塚元に「箱根関所跡13km、三島宿2km」とあった。

旧街道は松並木が終わったところで国道と分れて右に一筋ずれ、石畳風に整備された
愛宕坂をくだっていく。東海道本線のひなびた「旧東海道踏切」をわたる。前方に三島市街地がみえてきた。最後の坂である今井坂をくだり、愛宕橋で山田川をわたる。右手に建物はめだたないが広大な敷地にながい竹塀をめぐらせた民家がある。その向かいの道角に「鞍掛け石」の立て札が立っているが、石そのものは石垣の角石になっていて「なんだ、こりゃ」的史跡であった。

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三島

大場川にかかる新町橋からの富士山の眺めがよいという。パネル写真とそっくりの景色を撮れてニンマリとした。橋を渡ったところに三島宿の東口にあたる東見附があった。案内板はみあたらない。


三島宿にはいり、まもなく
三島大社に至る。立派な社碑と大きな石鳥居の後ろに左右一対の常夜燈があるが、広重の浮世絵ではこの常夜燈が鳥居の前に描かれていて、広重は東海道を歩いていないのではないかという説の根拠にされた。他方で、創作行為は事実である必要はないとして、気にしない人もいる。ちょうど、芭蕉が奥の細道で曾良の日記とは矛盾する行程を想定しているように。

三島は伊豆国の国府で、三島大社は伊豆国一宮である。源頼朝が源氏再興の兵を挙げるに際し、ここで三ヶ月もの祈願を続けた。舞殿横の樹齢1200年というキンモクセイの老大木が印象的だった。根回り3m、枝先は地面に届きそうに垂れ下がっている。9月ごろは壮観だろう。その強力な香りは二里先まで届いたというから、樹下ではおそらく花粉と共にむせかえることであろう。

鳥居の前から下田街道が出ている。天城峠を越えて下田に至る。70km近くあるからフルに歩けば3泊4日の旅になりそうだ。歩く前に『伊豆の踊り子』を読みかえさなくてはならない。できるなら旅は同じ季節にしよう。

旧宿場街を西に進む。右手に
「丸平商店」の板看板を掲げた古い商家がある。正月休みで二階の雨戸はきれいに閉められれているが、聞くところによればここは江戸末期の建物で、おにぎりを出すレトロ喫茶店だそうだ。風貌からいえば、米屋みたかった。

中央町郵便局の脇に
問屋場跡の石碑がある。三島宿は街道有数の大宿で、交通量が多く問屋場はいつも人手不足をかこっていた。宿場通りの今の姿は旧国道沿いの商店街で、いくつかの古い看板を見かけたほか、家並みには宿場の面影は残っていない。

本町交差点付近が三島宿の中心であったらしく、
世古本陣と樋口本陣が道を挟んであった。今はその跡地をしめす標識があるのみである。初代領事ハリスが将軍謁見のため江戸に向かう途上世古本陣に宿泊した際、その日本庭園の素晴らしさを日記に記している。樋口本陣跡の解説板には三島宿についても詳しい解説がある。三島宿は三島大社の門前町として、箱根峠越えのベースキャンプとして、また下田・甲州街道と交差する交通の要衝として多機能的に賑わった。

三島宿について解説板で触れられていない重要なものの一つに「三島女郎衆」がある。単に大宿につきものの飯盛女というだけでなく、三島宿に集まった女郎には特別の経緯があった。天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原北条氏を攻めるに際し、将士の休養のために女たちを与えたというのである。いわば太閤版慰安婦だ。秀吉の命により集められた女たちは、遠く京や大阪の関西からつれて来られたものもいたという。 彼女たちは秀吉以降もそのまま居ついて三島の宿場女郎となった。後にこの女たちは「三島女郎衆」と呼ばれ、農兵節にも歌われて東海道で有名になっていく。

その歌碑が駅近くの白滝公園に建っている。

  富士の白雪 朝日に溶けて 三島女郎衆の化粧水

富士の白雪ノーエ 富士の白雪ノーエ 富士のサイサイ 白雪朝日でとける
とけて流れてノーエ とけて流れてノーエ とけてサイサイ 流れて三島にそそぐ
三島女郎衆はノーエ 三島女郎衆はノーエ 三島サイサイ 女郎衆は御化粧が長い
お化粧ながけりゃノーエ お化粧ながけりゃノーエ お化粧サイサイ ながけりゃ御客がおこる
お客おこればノーエ お客おこればノーエ お客サイサイ おこれば石の地蔵さん
石の地蔵さんはノーエ 石の地蔵さんはノーエ 石のサイサイ 地蔵さんは頭が丸い
頭丸けりゃノーエ 頭丸けりゃノーエ 頭サイサイ 丸けりゃからすが止まる
からす止まればノーエ からす止まればノーエ からすサイサイ 止まれば娘島田
娘島田はノーエ 娘島田はノーエ 娘サイサイ 島田は情けでとける

農兵節のでだしにあるように、三島は湧水の町である。富士の雪解け水が溶岩にしみこみ、伏流水となって三島にたどりつき町のあちこちから湧き出ている。白滝公園の脇を流れる桜川も湧水を集めたものである。水量は年々細っているようであるが。三島大社の西側まで、桜川に沿った歩道は「三島水辺の文学碑」と銘打って、いくつかの碑が立っている。三島は文学者に愛された町らしい。

正岡子規
三島の町に入れば小川に菜を洗ふ女のさまもややなまめきて見ゆ
面白や どの橋からも 秋の不二 「旅の旅の旅」(明治25年 作) より

若山牧水
宿はづれを清らかな川が流れ、其処の橋から富士がよく見えた。
沼津の自分の家からだとその前山の愛鷹山が富士の半ばを隠しているが、
三島に来ると愛鷹はずっと左に寄って、富士のみがおほらかに仰がるるのであった。
克明に晴れた朝空に、まったく眩しいほどに、その山の雪が輝いていた。
「箱根と富士」(大正9年 作)より

司馬遼太郎
この湧水というのが、なんともいえずおかしみがある。
むかし富士が噴火してせりあがってゆくとき、溶岩流が奔って、いまの三島の市域にまできて止まり、冷えて岩盤になった。
その後、岩盤が、ちょうど人体の血管のようにそのすきまに多くの水脈をつくった。
融けた雪は山体に浸み入り、水脈に入り、はるかに地下をながれて、溶岩台地の最後の縁辺である三島にきて、その砂地に入ったときに顔を出して涌くのである。
小説新潮昭和61年2月号掲載
「裾野の水、三島一泊二日の記」より

三島広小路の手前で小さな源兵衛川をわたる。左の川端に
時の鐘がある。元祖は寛永年間の鋳造で、三島宿の人気者であった。現在のは戦後昭和25年に再鋳されたものである。源兵衛川は湧水を集めたもので、川に沿って親水遊歩道が整備されている。

伊豆箱根鉄道の踏切の先は大きな五差路の三島広小路である。踏切のすぐ右が三島広小路駅で、ホームと線路の向こうに富士山がのぞいて見えた。三島の町は常にその北西の位置に富士山が控えていて、建物の隙間から頻繁に富士が顔を出す。三島の人たちにとって富士山は日常的風景なのである。三島は富士を借景にできる贅沢な町だ。

旧街道は広小路をまっすぐにわたって県道145号に移る。西本町を通り抜け加屋町の左手に小さな秋葉神社がある。階段をあがって振り向くと、ここからも富士が見えた。道路わきに「千貫樋・
西見付跡」の石碑が立っている。新町橋からはじまった三島宿の終わりである。

道の反対側をのぞくと境川の細い流れがあって、その上をコンクリート製の樋が横切っている。境川はその名のとおり伊豆国と駿河国(三島市と清水町)の境をなしている。樋は
「千貫樋」と呼ばれ、戦国時代に築かれたものである。

新宿で江戸末期に造られた姿よい
常夜燈をみて、八幡交差点で国道1号をよこぎる手前、伏見と八幡の境界に江戸から29番目の伏見一里塚が現れる。道の両側にあるが、別々の寺の境内に属し、右側は玉井寺(ぎょくせいじ)に、左の新しい復元塚は宝池寺(ほうちじ)にある。玉井寺の後ろには富士が控えている。

八幡交差点から300mほどいった右手に
八幡神社があって、境内の奥のほうに源頼朝・義経兄弟の対面石なるものが安置されている。治承4年(1180)10月、源頼朝が富士川のあたりで平家軍と対峙したとき、、弟の義経が奥州平泉から駆けつけ、涙の対面を果たした。これが義経悲劇の始まりである。やがて義経は同じ奥州平泉で兄頼朝に殺された。


長沢の松並木をすぎると黄瀬川をわたり沼津市にはいる。黄瀬川橋からの富士山も美しかったが、若山牧水が三島の文学碑でぼやいていたように、愛鷹山がだんだん目障りになってきた。

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沼津

黄瀬川橋を渡ってしばらく行くと、右手に潮音寺があり、境内に「亀鶴之君碑」がある。土地の長者の一人娘で、曽我兄弟が討ち入ったとき工藤祐経と床をともにしていた白拍子だそうだ。美人だったそうである。

まっもなく街道は旧国道1号(県道380号)に合流する。民家の庭先をかりて「従是西 沼津領」と刻まれた傍示石がたっていた。

西友の先の二股で旧道は左にはいる。黒瀬橋架橋をくぐったところの左手に
平作地蔵がある。「日本三大仇討ちの一つ」と題して山王前自治会による絵入りの説明板があった。読んでもよく分からなかった。標識などはないが、このあたりが沼津宿の東口だったようだ。

平作地蔵からすぐ先右手の角地に
30里目の一里塚がある。塚には葉をすっかり落とし枝を払われて丸裸になった榎が立っている。同じ敷地内に「玉砥石」なるものが2つ並べてあった。奈良時代に玉類を磨くために用いられた砥石だそうで、よくみるといずれにも直線的な溝があり、ここに玉の原石を入れて磨いたのだという。珍しいものを見た。

再び旧国道と合流、三園橋交差点の先で左に「旧東海道 川廓通り」の道標がある小路に入る。川廓の由来が記されている。沼津宿船着場として栄えた場所だ。
川廓町は志多町と上土町との間の東海道往還沿いにあって東川は狩野川に接し、背後は沼津城の外郭に接した狭い町であった。「川廓」は「川曲輪」とも記し、狩野川に面した城廓に由来して名付けられたものと考えられる。

通りのなかほどで、右の石段をあがると沼津城本丸跡の中央公園に出る。沼津城は安永6年(1777)水野忠友が築いたものだが、その前身は天正7年(1579)、武田勝頼が築城した三枚橋城であった。今は石垣に使われていた石が石碑を取り囲んでいるだけである。


川廓通りをぬけ、さんさん通りを南下し、御成橋通りを右折して、次の交差点を左折する。つまり沼津宿の鍵の手で、短い東西の区域を通横町といって、問屋場がおかれた宿場の中心地であった。今はすべてが新しい商店・オフィス街で、昔の面影は皆無である。

新町で右折する。浅間神社の鳥居がある交差点を越えると出口町で、町名が示すようにここに沼津宿の西見付けがあった。平作地蔵のあたりの東口からここまで、いくつかの案内板はみかけたものの情緒の感じられない町並みである。

交差点を左におれ、
千本浜通りをゆく。すぐ右手の乗運寺には若山牧水の墓がある。旅を愛した漂白の詩人若山牧水は宮崎県の生まれ。大正9年に沼津に居を構え、昭和3年この地に没した。千本浜に記念館がある。

千本松原にでる。防風林として長年潮風を一身に受けて、松林全体が陸側になびいている。富士海岸の砂浜でたわむれる家族連れが多かった。松林の向こうの愛鷹山の後ろに白く輝く秀麗な富士の峰が浮かぶ。牧水はこの松林の一角に土地を買って家を建てた。この風景を毎日のように眺めていたのであろう。

街道にもどって西へ進む。西間門交差点で旧国道1号と斜めに交差して県道163号を直進する。片浜駅前をすぎて今沢地区の落ち着いた町並みを通り抜け、踏切をわたって原宿にたどり着く。


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原宿のキーワードは白隠禅師と浮島である。宿場にはいるや左手に松蔭寺がある。簡素ながら趣ある山門をくぐると、寺名が示すとおり境内には年輪を重ねた老松が多くみられる。その中のひときわ高い松の木の梢に妙なものがひっかかっている。白隠禅師が懇意にしていた備前の池田氏からもらった備前焼のすり鉢を、台風で裂けた松の木にかぶせたものが、そのままに育ったものだという。備前焼はその後保管され、かわりに京焼の鉢がかぶせられた。高所にあるうえ松の枝葉に隠れて、限られたアングルからでしか下から鉢をみることはできない。写真は200mm望遠で撮ったもの。

松蔭寺のすぐ先左手に「白隠禅師生誕地」の石碑が建っている。禅師の母親の生家で味噌屋を営んでいたらしい。禅師が使ったという
産湯の井戸が瓦屋根の下に保存されている。

原交番の交差点をこえたところ、原浅間神社の前に原宿の碑と絵入りの「原宿と浮島マップ」が建っている。旧街道の北側を併走する国道1号の向こう側にはかって浮島ヶ原とよばれる湿地帯が広がっていた。案内板にも野鳥や水鳥の絵があって、是非寄ってみたいと思ったが、手元の地図には「沼川」、「平沼」、「浮島小」、「浮島中」の名前をみつけたが、沼らしき印は見当たらない。おそらくこの案内板が建って以降、農地・宅地の開発でもう跡形もなくなってしまったのだろう。

案内板からすぐ先の道向かいにある
渡邉家が原本陣である。源頼朝・義経兄弟阿野全成の末裔という由緒ある家系で、代々原宿の問屋、名主等を勤めてきた。明治天皇行在所にもなった名家である。入口前に標柱があるだけで本陣の建物等は残っていない。

原駅前交差点をすぎたところで、文化元年(1804)創業で山岡鉄舟が命名したという銘酒「白隠正宗」で知られる高嶋酒造を左にみて、一路西に進む。

沼川放水路に沿って国道の方へ寄ってみた。まだ、北のほうに
浮島ヶ原を彷彿させる風景が残っているのではないかという望みを捨て切れなかった。沼川とその放水路系は低湿地の名残を思わせる。国道を横切っても視界に沼沢らしきものは捕らえられなかった。土地造成地のなかにかろうじて水田が残っている程度である。その背景にはなだらかな愛鷹山麓の上にそびえる白富士があった。人物こそいないが広重の絵に最も近い風景ではないかと思われる。

街道にもどり、「沼津自動車検査場」の標識がある信号手前に
一里塚跡の標柱がある。解説パネルにあるように「現在は宅地化されてその面影はない。」

桃里に浅間愛鷹(あしたか)神社がある。その鳥居のそばに「改称記念碑」が立っている。浮島ヶ原の開拓に尽力した鈴木助兵衛の名をとって、このあたりの土地は助兵衛新田とよばれていたが、明治になって鈴木家からの申し出により、地名を助兵衛新田から桃里に改称された。

そろそろ日が傾いてきたので、急遽夕日を撮るために浜に出ることにした。
桃里東踏切を渡った直後にタイミングよく警報がなった。振り返ると富士がこれから赤みを増そうとしているところだった。踏切・電車+富士山、というおいしそうな一枚が撮れた。


浜にはまだ千本松原が続いている。駿河湾の左方向には伊豆半島の山並みが低く延びている。右側の湾曲は田子の浦だ。その端に橙色の日が落ちようとしていた。遠浅の砂浜にときおり高波がおしよせ、夕日の中にしぶきをあげる。日が沈みきるまでそこに休んだ。


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吉原

旧東海道は踏切を越えて東海道本線の南側に移り沼津市から富士市にはいっていく。東柏原交差点で千本松原沿いに走ってきた千本街道(県道380号)に合流。

東田子の浦駅の南側に原宿と吉原宿の間宿があった。立場茶屋では、ちかくの浮島沼でとれたウナギが名物だった。ビジネスホテル柏屋の駐車場端に
「間宿柏原・本陣跡」の標柱が建っている。

その先右手の立円寺(りゅうえんじ)境内に
望嶽の碑がある。尾張藩の侍医がここから眺める富士山を賞賛して建立した。少しでも近くからと、墓地まではいって富士を見たが民家の屋根に景観を邪魔されて、けっきょく寺の塀越しに見た富士のほうがましだった。


柏原宿をあとにして広沼橋で
昭和放水路をわたる。江戸時代、浮島沼を干拓した増田平四郎が、昭和放水路と同じ場所に排水路を築いていたが、完成後まもなく高波におそわれて跡形もなく破壊されてしまった。橋をわたった左手の林の中に、33番目の一里塚跡と、増田平四郎の像がある。

右手には富士が付き添っている。よくみると笠をかぶっているようで、天気が下り坂にさしかかっているようだ。

旧東海道はこの先、檜交差点で県道380号と分れ、海岸よりの旧道(県道170号)にはいる。このあたりの海岸が万葉集の歌でしられる田子の浦である。

  
田子の浦ゆ、うち出でて見れば、真白にそ、富士の高嶺に、雪は降りける   山部赤人

清水以来延々と続いてきた千本松原は
田子の浦でも健在で、松葉をふみしめるやわらかい感触は快い。しかし堤防に上って愕然とした。落日とたわむれた桃里の浜は足裏にしみこむような砂浜であったのに、わずかに西の田子の浦は消波ブロックが積みならべられた資材置き場と化している。この無粋さはなんとしたことだろう。振りかえっても松林が近すぎて真っ白な富士の高嶺は見えなかった。かわりに白い煙がもうもうと立っている。

元吉原公民館の前を通って街道にもどる。もともと吉原宿はこのあたりにあった。津波で破壊され、中吉原-新吉原と内陸へ二度も移し替えられた。妙法寺毘沙門天の前にある立場旅館がわずかに元吉原宿の面影をのこしているようであった。

吉原駅の東側で踏切を渡る。正面に日本製紙の工場正門が構えている。さっきの煙の主である。旧道は線路沿いに左にまがり、駅の北口で右にまがって海岸から離れていく。
河合橋袂の駐車場舎が情緒ある建物だった。規則正しく3列にならんだ屋根と、板壁に切られた窓の雰囲気からみて、かっての製紙工場の一部ではないかと想像した。

橋から沼川越しにみる日本製紙の大煙突と白煙は、地球温暖化の権化にみえる。富士川河口は製紙業を中心とする工場地帯である。

河合橋を渡り二股を左にとって国道139号と合流する。すぐに国道139号を左に分けて国道1号、新幹線のガードをくぐり、県道171号にはいっていく。ようやく工場煙突から解放されて街道筋らしい旧中吉原宿の家並みにはいってきた。

左富士神社があるこのあたりから西方にかけて、寛永17年(1640)元吉原宿が移転してきた。この地点は道が大きく右に曲がっているために、京に上る旅人が普段右にみる富士が進行方向に向かって左にみえるのである。茅ヶ崎以来の左富士である。それだけのことで、名所になった。

すこし進むと一本松と
左富士の碑が建っている。広重はここを吉原宿の浮世絵スポットに選んだ。あいにく曇が厚くなってきて何も見えなかったが、晴れていれば平屋工場の屋根の上に富士山が立っているはずであった。広重の絵では街道の左右は水田か沼地のようである。

ふたたび工場地帯をぬけて和田川にさしかかる。橋の名が
「平家越え橋」。橋の袂に碑が建っている。源平が富士川をはさんで対峙したとき、水鳥の羽音に驚いた平家軍は戦わずして逃走したのが、この辺りだといわれている。富士川まではまだ数キロあるが、広い意味で「富士川の合戦」と呼んでいる。

橋をわたったあたりから新吉原宿が始まっていた。中吉原宿も延宝8年(1680)の大津波で全部流され、2年後の天和2年(1682)宿場はここに移ってきた。芭蕉は野ざらし紀行(1684年)で、まだできたばかりの新しい吉原宿を通り過ぎたことであろう。

岳南鉄道の踏切を一両の電車が通っていった。そこから吉原本町通りはアーケード商店街となる。まもなく左手の空き地に丸まった自然石の明治天皇御小休所碑がある。普通は宿場時代の本陣が使われる例が多いが、ここは吉原本陣跡でもなく高砂館跡だと記されている。高砂館がどんな建物だったのか知るすべはない。

本陣はともに街道の右側で、
下本陣が長谷川八郎兵衛(コンドウ薬局)で、上本陣は神尾六左衛門(富士見会館)が勤めた。富士見会館はパチンコ店である。「まちの駅」で入手した吉原宿歴史探訪マップと照らし合わせて脇本陣跡をたずねてみるが、いずれも現在の該当地にある店名を探し当てるのがやっとの体だった。

街道の南側に、野口祖右衛門脇本陣跡(野口カメラ店)、下本陣コンドウ薬局向かいあたりに四ツ目屋杉山平左衛門脇本陣跡(おもちゃのキムラ)、上本陣パチンコ向かいにある南岳堂菓子舗が銭屋矢部清兵衛脇本陣跡。北側に移って、コンドウ薬局の先に扇屋伊兵衛脇本陣(オオイカメラ店)と問屋場跡(やなせメガネ)とが隣接している。

そんな中で、天和2年創業という
老舗旅館鯛屋與三郎が唯一宿場時代の面影を伝えている。天和2年といえば新吉原宿ができた年である。清水次郎長や山岡鉄舟が常宿としていたという。間口は狭いが町家特有の細長い造りになっていて、一歩中にはいると通路に宿札がずらりとならべてある。探訪マップにある鯛屋旅館の紹介文に、気になる一文があった。

「東海道の中で、近江八幡の薬屋さんと吉原の鯛屋旅館の二つだけが当時の場所で、当時の商いを続けています」

そもそも近江八幡は東海道に沿っていない。薬を商う近江商人といえば八幡や五個荘でなくて、日野であろう。そんな疑問から吉原本宿事務局に問い合わせてみた。鯛屋旅館の若主人らしき人がでてきて、かって鯛屋旅館に泊まった身延山参詣者のなかに、そんなことを言った人がいた、というだけのことで、薬屋の名前も、東海道のどこかも知らなかった。根拠のある話ではなさそうだ。東海道沿いの近江の薬屋といえば、栗太郡六地蔵村梅木の和中散ではあるまいか。

静岡銀行の角に吉原宿の説明がある。その角を左折し妙祥寺の題目碑がある二つ目の辻を右におれて県道2号で西口木戸跡に向かう。途中みかけた
「だんご処たむら屋」は石蔵造りの風情あるたたずまいである。

吉原宿をあとにして、街道はわずかに国道139号に合流したあと、
錦町交差点で一筋西にずれて再び旧街道に入る。入口に「旧東海道跡」碑と説明板が設けられている。

昭和41年、富士、吉原、鷹岡の二市一町が合併して現富士市となりこの周辺は、中心市街地として依田原新田区画整理事業により整備されましたが、それに伴い旧東海道がこの地で分断されました。この西側に東海道の碑が置かれ平成13年東海道400年祭に因み今のように改修されました。砂利道に敷かれた細長い石は、ここより南方350m青島地先より出土した当時の石橋の石です。この上を大勢の旅人や荷車、参勤交代の大名行列が通ったことでしょう。東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんが渡ったかもしれません。すべすべした石の表面を触ってみると賑わった往時が偲ばれます。 吉原地区まちづくり推進会議

住宅街をすすむと左手に
青島八幡宮神社、別称「磔八幡」があり入口には大きな立て札に漫画入りの由緒書きがある。過酷な検地を拒んで磔になった青島村の名主が祀られている。街道は県道353号と396号が交叉する高嶋五差路に出る。県道396号を西にとって100mほど数sんだところで右の路地に入りすぐに左におれて富安橋で潤井川を渡る。

しばらく歩くと静岡県富士総合合同庁舎があり、隣に
「間の宿・本市場(もといちば)」の碑が建っている。吉原と蒲原宿の間は11km余もあって、途中の景勝地に立場が設けられ茶屋で旅人は足を休めた。すぐ先にあった鶴の茶屋から眺める雪の富士は、中腹に一羽の鶴が舞っているように見えて、その奇観をたたえた碑、「鶴芝の碑」が建てられている。

街道は広い道路を中央分離帯のため迂回してわたり、すぐ県道396号を斜めに横切って旧道にはいる。しばらく忘れていた巨大な煙突と立ちのぼる白煙の醜景が突如目の前に復活する。今度は王子製紙だ。

道が右にカーブするあたりのバス停横に
「旧東海道一里塚」と刻まれた石碑がある。見慣れた定型文の説明板もなく、ただ自然石がポツンと置いてあるのもかえって新鮮味が感じられた。

道なりに西進して身延線柚木駅の手前で再び県道396号と合流する。身延線高架をくぐり「橋下」六差路交差点をわたり県道396号を直進する。次の信号で右に入る旧道があり、角に松茸のようなずんぐりした
秋葉山常夜燈と「左東海道」の古い道標がある。二つ目の辻を左折し道なりにすすむとまもなく陸橋の下で県道396号にもどる。

緑色の富士川鉄橋を前にして、唐突に
明治天皇御小休所跡の石碑が立っている。傍の石碑文を読むと、天皇巡幸に際して富士川橋梁までもが架け替えられたという。江戸時代はもちろん橋などなく、富士川の急流を船で渡った。その渡し場跡付近に水神社があり、境内には渡し場跡碑、常夜燈、道標、庚申塔などが集まっている。

民家の庭先を通って堤防に出る。富士川の流れは堰止めされて東西の岸寄りに誘導されている。渡し場は三ヶ所あって、ながれの状況によっていずれかを決めていた。

芭蕉が野ざらし紀行で富士川のほとりに捨て子を見つけたのはこの辺りか。一句を詠んだ後、食べ物を投げ与えて通り過ぎた。アフリカで餓死寸前の少女をじっとみつめる禿たかの写真でピューリツアー賞を受賞した報道カメラマンのことを思い出した。後日、なぜ彼は子供を救わなかったのかと、道徳家から非難を浴びた。戦場カメラマンがいちいち負傷した兵士に構っていたら仕事にならない。富士川のエピソードが事実であれ創作であれ、芭蕉はこの旅で蕉風を確立することにのみ関心があった。

野ざらし紀行
富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の、哀気に泣有。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたへず、露計の命待間と捨て置けむ。小萩がもとの秋の風、今宵や散るらん、明日や萎れんと、袂より喰物投げて通るに、
 
猿を聞人捨子に秋の風いかに
いかにぞや、汝父に悪まれたる歟、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。唯これ天にして、汝が性の拙きを泣け。

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蒲原

橋を渡ると間の宿岩淵である。岸を少し上流に行くと渡船場跡に灯台がわりの常夜燈と角倉了以の石碑がある。角倉了以は京都の豪商で、幕府の命により富士川を開削して甲州鰍沢河岸までの船運を開いた。

当時の主な積み荷は「下げ米、上げ塩」と呼ばれ、下り荷は甲州や信州から幕府への「年貢米」、上り荷は「塩」などの海産物が鰍沢で陸揚げされ、「鰍沢塩」として甲州さらには信州まで運ばれた。最上川、球磨川にならぶ日本三大急流の富士川を船で遡上することは不可能で、鰍沢から岩淵まで半日で下ってきた船は、帰りは縄をつけて船頭たちが引っ張りながら4、5日かけて上っていったという。どれほどの塩を運べたものか、気が遠くなりそうな景色である。

ここから富士川越しにながめる富士山が、ときには川面に逆さ富士も写って美しいとされている。残念ながら雲が多くてすっきりした富士を見ることができなかった。レンズを望遠に替えてしばらく休憩。晴れた一瞬をねらったが、やはり川の写っていない富士はおもしろくない。

県道10号の西側にのこる旧道のなかほど、「善魚」鮮魚店の横から坂道を登っていく。生垣、植え込みがうつくしい家並みをながめながら、はっきりと残る鍵の手をすぎた右手に
小休本陣常盤邸がある。江戸末期の建物で黒板塀に医薬門が端正なたたずまいを見せている。

道は県道188号に合流して南に下り、突き当たりを直角に右折する角に江戸から37番目の見事な
岩淵一里塚が現存している。特に右側の榎は初代のものだそうだから樹齢は400年ちかくという貴重な巨木である。

突き当りの路地をはいったところに茅葺の歴史民俗資料館があるのでよってみた。稲葉家という農家を復元したものである。軒下においてある大きな樽が印象深かった。なんの樽だろう。

街道は中之郷を南下し、富士川郵便局の手前の十字路で右に折れていく。東名高速道路をくぐり左折する。宮町を通り抜け新幹線をくぐって小池地区に入る。山裾にそった静かな里の風景のなかを歩いていくと、民家の庭に
明治天皇御駐輦之址の石碑が建っている。全国に散在する明治天皇行幸の跡はまさに旧街道の頼もしい証である。泊まったり、休んだり、水を飲んだり、時には田植えのパフォーマンスをしたり。今は廃道となった峠道にも直立不動の石碑は明治天皇の足跡を守っている。

旧道は左下方を走る東名高速道路に接近する。富士川町中之郷から静岡市清水区蒲原にはいったところで、右手にいかにも古道の雰囲気を漂わせる土道がのびている。右のほうへはいっていったが、どうやら山裾の畑につながっている農道のようだった。そこから
中之郷集落と遠景の雲の上に浮かぶ富士山の絶景を眺めることができた。

200mほど高速道路に沿ってすすんだ後、陸橋(新坂橋)で反対側にわたる。東名高速の北側真正面に富士山が切り通しを塞ぐように立ちはだかっていた。箱根以来、東海道はどこまでも富士山である。

新坂橋を渡ると急な下り坂となり、正面に駿河湾が見えてくる。民家の塀に丸太板に書かれた新坂の説明板が掛けられている。

(旧東海道)
この峠は天保14年(1843年)9月中頃から12月初旬にかけて普請をして同月7日から通行開始した  旧往還はここより東南の崖上(七難坂)を辿った  是より新坂

新坂を下りきったところから西方向に蒲原宿がはじまる。その前に左に折れて県道396号(旧国道1号)沿いにあるという
義経硯水をみておくことにした。道路際に石柵にかこまれて小ぶりの松の木とともに後方に小さな五輪塔、前には御影石の石碑が並べてある。全体の造作は新しそうだ。浄瑠璃姫は、三河の国・矢作の長者の娘で、奥州下りの牛若丸と一夜の契りを結んだ。その後の悲恋話を琵琶法師が連綿と歌い継いできた。創作伝承のために建てられた供養碑である。蒲原中学校前の松林に浄瑠璃姫の墓と伝えられている石碑がある。いずれ岡崎宿で、姫の素性をたっぷりと検証してこよう。

蒲原宿にむかうと早々に赤い鳥居を構えた蒲原一里塚跡の祠がある。当初の一里塚は元禄12年の大津波で流失し、蒲原宿が山側に移替えられた時に街道ごと一里塚もこの場所に移された。

諏訪神社の前に小規模な桝形跡がのこっており、ここに蒲原宿
東木戸跡の石碑、常夜燈、宿内案内板などが集中している。ここから始まる蒲原宿は今でも往時の面影を色濃く残し、連子格子・海鼠壁・土蔵など江戸末期から大正にかけての建物が多く残っている。それらを確かめながら宿場町を散策するだけで楽しい。そのなかでいくつかを紹介しよう。

まずは海鼠壁に塗り家造りの商家
佐野屋である。案内札にあるように寄棟造りの屋根を宿場でみかけるのは珍しい。

その先を左に入っていくと蒲原宿を有名にした広重の
「蒲原宿夜之雪」記念碑がある。昭和35年の国際文通週間の記念切手に採用されたことを記念して建てられた。広重の絵が蒲原宿のどこなのか、特に左端にみえる崖らしき地形はこの宿内には見当たらない。とにかくこのあたりの風景だろうといわれている。

街道に戻って右手に江戸時代の
旅籠和泉屋(鈴木家)が美しい格子建築を見せている。特に二階の櫛形の手すりはなまめかしくも優美である。

その向かいは
西本陣(平岡本陣)跡で、重層の屋根造りと黒々とした門塀が重厚な雰囲気を醸している。

比較的新しいガラス戸の多い
磯部家は明治末期の建物で、総欅の美しさに加え、その手づくりのガラスこそが自慢であった。

宿場もおわりちかくになって右手にモダンな建物が出てくる。町家を洋風に改築した
五十嵐歯科医院の建物である。総二階の箱型建物に白ペンキとガラス窓で、すっかり洋風になる。

最後は江戸末期の商家を残す
志田家住宅である。蔀戸がみどころである。

異なった時代の建物がそれぞれ一点特徴付けるものをもって、宿場全体にうまく組み合わされている。展示会場としては一流のレイアウトではないかと感じ入った。

突き当りを道なりに左におれて旧国道1号にでる。その交差点が
西木戸跡で、宿場案内板や道順立て札が設けられている。ここで踏み切りの警報がきこえてきた。金比羅踏切で待機していると実直そうな貨物機関車が黙々とやってきた。蒲原は最後までもてなしの良い宿場だった。

なお、蒲原宿の最寄り駅は新蒲原駅で、蒲原駅は西木戸跡から2kmあまり行った所にある。その先東名高速をくぐり、二股で国道を分けて左の旧道をとり、神沢川をわたると庵原郡由比町に入っていく。

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由比

すぐ右手に「清酒正雪神沢川酒造」の高い煙突が見えてくる。

右手民家の軒先に江戸から39番目の
一里塚跡を示す小さな標柱が立っている。その先道が鍵の手に曲がっているところが由比宿の東木戸跡である。桝形の南側を格子が美しい昔の商家(志田家住宅)が陣取っている。ここからの町並みは蒲原におとらず風情が漂う宿場町であった。

右手の大きな板壁倉庫の隣が紀州藩の
七里役所跡である。紀州徳川家は江戸との584kmの間に7里毎に中継所を設けて専属飛脚を詰めさせていた。計算すればその役所の数は20ヶ所に及ぶ。七里飛脚は紀州―江戸間を4日で次いだ。

由比本陣公園として整備された
由比本陣跡にたどりつく。1300坪の広大な本陣敷地内には正面門塀、物見櫓のほか、奥には明治天皇が小休止した離れ屋敷を復元した御幸亭と、東海道広重美術館が建てられている。現存する本陣の建物こそ残っていないが、内容の充実した本陣跡となっている。

本陣の向かいは江戸時代から400年近く続いたという染物屋
「由比紺屋」である。間口の左は格子戸、右は障子の蔀戸にした趣ある建前である。すぐれた軍事家由比正雪がここで生まれた。慶安4年(1651)、由井正雪・丸橋忠弥らは浪人対策の改善を掲げ幕府転覆を計画した。しかし仲間の密告により事前に露見、正雪は駿府で自害した。

紺屋のとなりの黒塀に見越しの松を配した粋な邸宅は明治時代の郵便局舎だという。今は平野氏の私邸である。

由比川の手前に
西木戸、高札場があって由比宿の西出口に来た。橋の袂に新旧二基の常夜燈が並んでいて宿場の西口をしっかりと締めくくっている。由比川はさほど大きな川ではなく、徒歩で渡っていた。

川をこえて街道の景色は宿場の古びた雰囲気からなんとなく漁港が近い駅前商店街の臭いが濃くなってきた。沿道には
桜えびを売る店が多い。明治のはじめに地元の漁師の網に偶然ひっかかったのが始まりという。主に駿河湾に生息し由比漁港がほぼ水揚げの全部を占める。


街道の左手におもしろい造りの家がある。
稲葉家で、雨戸にその説明札がかけてある。軒先を長く出した屋根を支えるためのせがい造りと、装飾を兼ねて平軒桁の両端の腐食を防ぐための下り懸魚(げぎょ)が施されている建物である。こういう専門用語は弱い。


左手の道路が小さなトンネルにぶつかっていて、その向こうに船がみえる。東海道本線と国道1号の高架をくぐりぬけると、前面を東名高速道路でふさがれた
由比漁港であった。いびつな形の港に漁船がひしめき合っている。かってはもっとのびやかな漁港であったのが、後ろに国道が、前の防波堤には高速道路がきずかれた結果こんな風になったものと思う。

桜エビは春秋二回の漁期にあわせてここで桜エビ祭りが開かれる。特に冬は浜一面に干されたエビが濃い色をした芝桜の浜にみえて富士を背景にそれは美しい風景を作り出すという。一ヶ月遅かった。

由比漁港から街道にもどりすぐ先の路地を右に入って県道396号に出る。由比駅をすぎたあたり県道370号との合流するところの寺尾歩道橋で右の細い旧道にはいっていく。ここから寺尾、東西の倉沢集落の家並みはひなびたたたずまいを見せて、心なごむ街道風景がつづく。

旧小池邸は寺尾村名主小池文左右衛門の邸宅跡である。明治時代の建物であるが、くぐり戸、ナマコ壁、格子戸などに往時の面影を残している。

寺尾、東倉沢の落ちついた町並みを過ぎると間の宿西倉沢である。薩埵(さつた)峠の東坂登り口にあって、十軒ばかりの休み茶屋が並んでいた。旧川島勘兵衛宅は西倉沢村の名主をつとめた旧家で間宿本陣跡とされているが、間宿であるため大名が休んだだけで宿泊はしていない。

その先には明治天皇が休息した脇本陣柏屋。これも茶屋であっていわゆる本宿の脇本陣ではない。

集落の最後、峠道の入口に
望嶽亭と呼ばれた藤屋がある。富士の眺めがよいということで文人墨客に人気があった。玄関をのぞくとガラス障子の間に昭和時代の調度品がみえる。向こう側の戸をあけると駿河湾が広がってその向こうに富士が眺められたのだろう。

望嶽亭の向かい、峠への登り口に江戸から40番目の
西倉沢一里塚跡の標柱がある。説明書きに40里約160kmと由比駅―東京駅間の東海道本線の距離158.4kmを比較していた。おもしろい。ちなみに1里3.93kmで計算すると40里は157.2km。由比駅からここまで200m、東京駅から日本橋まで1kmとするとピッタシではないか!!!

急な坂道を登っていく。箱根のように山中の険しい石畳をいくのではなくて、山の東斜面をつたっていく舗装道で、左手の駿河湾に落ちていく崖をみると少々高所の恐怖に襲われるが、道の両側に開かれたみかん畑を縫いながらの坂道は、箱根越えとは比較にならないほどに楽な難所である。峠の手前に駐車場がある。実はここまで車で来られるのだ。

この先は遊歩道となって、等高線状に山腹をゆく。
峠の標識まできたが一向に達成感がない。すこし先の展望台にあがる。ここで広重は絵を描いたのだなと、しばらくリュックを置いて休んだ。富士はかすんで、絵葉書で見るような写真は撮れなかったが、しょうがない。海岸線には合計5本の筋がうねって見える。海側から:東名高速上下線、国道1号上下線、それに東海道本線の鉄路である。

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興津

なだらかな遊歩道をすすんでいくと由比町と興津側の清水区を分ける鞍部地点にあずまやが設けられていて、そこにも「東海道薩埵峠」の碑があって、広重の絵入りの解説板が立っている。

牛房坂をあがっていくと由比側の展望台と同じような眺望地点があって、○○写真クラブのおじさんたちが粛々と富士山に向かって三脚を構えていた。ここには三種類もの「薩埵峠」の碑や標識が並んでいる。三ヶ所で峠の標識をみたことになるが本当の峠は山側にあるのであって、東海道は峠下の山腹をめぐっているに過ぎないのだ。三ヶ所のどこも峠ではない。どうりで達成感がわいてこないはずだった。

この先コンクリートで固められた急な階段を降りていく。墓地を抜けて下りきったところに興津側の峠登り口があった。丁字路に標識があって、左は「車両通り抜け不可」、
右が「中の道」とある。左が「下の道」なのだろう。付近は宅地造成中で旧街道は失われつつある。やがて集落にはいり、瑞泉寺を回り込むようにして興津川沿いの旧街道筋にでる。

なお、下道・中道・上道については案内板によって混乱があるようで、上述の標識がいう「中の道」を「上道」、「下の道」を「中道」、そして上説が想定する「上の道(古代の道)」を「脇道(地蔵道)」とし、下道は山腹をいかず、西倉沢の望嶽亭から海岸線の親知らず子知らずを通る道とする解説板もある。

JR線手前の興津東町公園に、
川越遺跡の大きな案内板が建っている。興津川は徒歩渡しで、ここの川会所で越し札を買い、蓮台や人足の肩車で川を渡った。川の様子はまったく違うが広重は興津の絵としてこの渡し風景を描いた。広重の絵では駕籠と馬でわたっている。

今はJRの高架をくぐり、すぐ右手に架かる
浦安橋を渡る。橋を渡ったところで旧道は右手の土手下におりてJR沿いに民家の裏手から興津団地をかすめて、興津中町東交差点でバイパスと分れたばかりの国道1号に合流する。

興津中町交差点からでている
国道52号は現在の身延山道で、身延まで46km、甲府まで88kmとある。身延道(甲州道)の旧道は宗像神社をこえたしずおか信金の脇からでていて、そこの石碑群の中に「身延山道」と刻まれた元禄6年の古い道標がある。

宗像神社はクロマツの森にある。沖からでもこの森はよく見えたそうで、船人たちは「女体の森」とよんで灯台がわりの目印としていた。森の愛称に若干飛躍があるが、遠くからはそのようにこんもりとした姿にみえたのであろう。

興津の宿内にはいる。古代には清見ヶ関という関所があって、交通の要衝として知られていたという。現在の家並みに宿場の面影はまったくない。

まっすぐな国道1号を西に進んでいく。

右手に一里塚跡の石標。宿場の中心は駅の西方、現在の興津本町あたりか。右手に東本陣(市川家)、西本陣(手塚家)址の石標が、左手の
水口屋跡は脇本陣であった。

道が右に曲がるところの右手高台に
清見寺という古刹がある。奈良時代に設けられた清見ヶ関所の守護として建立されたのが始まりだという。坂道をかさねた台地上に白壁の塀を築いた様は城郭の風格である。どういうわけか山門から本堂へいくのに東海道本線を橋でまたぐ。街道脇には興津宿に関するくわしい解説パネルが設置されている。古地図、宿場の旅籠分布図まで用意してあるのには恐れ入った。

橋の上で電車を待つ誘惑をふりきってとにかく中へ入ってみる。正面に
本堂、左奥に五百羅漢、庫裏近くの庭には家康手植えと伝えられる臥龍梅が寒々と横たわっている。みどころの多い中でも秀逸だったのは立て札に記された山下清の一文であった。彼のするどい感受性には改めておどろかされた。清見寺訪問の印象は彼のコメントに尽きている。

清見寺のほぼ道向かいに
西園寺公望の別荘、坐漁荘がある。もともとは大正時代の建物だが全体に清楚なつくりに仕上がっていて、すがすがしい。かっては海岸線が前庭までせまっていて、遠くに横一文字にのびる三保の松原が見渡せたという。今は山下清が指摘したように、埋め立てられて巨大な興津埠頭に変わってしまった。

興津宿を後にして国道1号を西に急ぐ。国道1号がバイパスの高架下で波多打川をこえたところで左に入る道が旧道である。ふたたび国道に合流するまでわずかな距離だがこの
横砂東町の路地がすっかり気に入った。軒先にところせましと植木をならべ、軒下には下着も上着もかまわず干してある。扇風機でゴマをまぶした魚のひらきを干している。ペット屋かと思うほどに鳥かごをならべて悦に入っているおじさんがいた。東京下町の路地に迷い込んだ気分であった。

横砂踏切をわたって国道1号との合流点に延命地蔵と整った形をした秋葉山常夜燈がある。隣の石蔵の入口前にもプランターがたくさん並べてある。わき道からおばさんがプタンターをもう一つかかえて運んできた。まだ並べるつもりだ。

国道1号は横砂中町で庵原川を渡り江尻宿にはいっていく。

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江尻(清水)

袖師交差点をすぎ、辻町信号で道が二股に分かれている。右の道が旧街道である。三角地帯に東海道標と「細井乃松原」の案内板がある。かっては街道沿いに200本あまりの松並木があったが、昭和19年戦時の航空ガソリン材料として松根油採取のために伐採された。今は平成4年に植えられた松が1本立っている。

このあたりから江尻宿がはじまっていて、辻4丁目と本郷の境に東木戸があったという。物静かな商店街である。本郷町にはいったところ左手に白壁土蔵につづいて連子格子が美しい間口の大きな商家風の家がどっかと構えている。江尻宿では唯一の古い建物と思われた。

清水駅前にさしかかり、街道歩きを中断して
三保の松原へ寄り道することにした。駅前から頻繁にバスがでている。松原まで約25分。

羽衣の切れはしを保管しているという御穂神社から500mほどの
神の道とよばれる松並木の中をあるいて、海岸にたどりつく。7kmにおよぶ白砂青松の松原は、京都の「天橋立」、佐賀の「虹の松原」に並ぶ日本三大松原の一つで、また北海道亀田郡七飯町の「大沼」、大分県中津市の「耶馬渓」とともに日本新三景のひとつにかぞえられる名勝地である。

あいにく曇ってみえなかったが、松原越しに雄大な裾野を広げる富士の姿はさぞかし絶景であろう。砂は意外に黒ずんでいた。松原の中にひときわ古そうな老木が樹齢650年という
羽衣の松である。天女の舞をおもわせる枝振りである。数ある羽衣伝説の中で三保の松原がもっとも有名で、近江余呉湖がもっとも古い。先住日本人の渡来人にたいする憧れが底流になっているらしい。

清水駅にもどる途中で
によった。広重もここを描いているからでもある。マリーンパークとして整備され、大小さまざまな船が浮かんでいる。清水湊といえば清水次郎長が連想される。近くの次郎町通りに生家があり遺品がのこされているというが、寄ってみる気はしなかった。

私は昔のやくざがどんなであったのか知らない。仮に現代の暴力団と本質的に差異がないのであれば、国定忠治だろうが、清水次郎長だろうが、そんな人間には興味がない。ちなみに、途絶えていた清水一家を最近になって山口系暴力団が6代目を襲名して復興させた。清水区民(旧清水市民)は、暴力団はいやだが次郎長は好きだと、苦しい選択に迫られている。6代目山口系次郎長こそ、本質を見抜いていたというべきか。

駅前の街道にもどる。江尻東1~3丁目、江尻町と、昔の宿場名がわずかに残っている。清水銀座で右折すると電線を地下に隠しレンガで舗装した一見瀟洒なアーケード商店街に入る。ここが江尻宿の中心街で、3軒の本陣などがあった場所であるが、夢舞台東海道の宿場道標とおもちゃ富岡屋の前に宿場の解説板があるだけで、古い建物や史跡などは見当たらない。商店の4分の3以上がシャッターを降ろしたままの
シャッター通りとなってしまった。他にもこのような商店街はみてきたが、清水銀座は通りがよく整備されているだけにさびしい限りであった。

案内板によると五差路交差点の右側あたりに問屋場と高札場があった。街道は交差点を左折して
稚児橋を渡る。最初は江尻橋といったが、川に河童が現れて稚児橋というようになった。詳しいことは写真にまかせる。橋をわたった右手に船高札が立てられていた。

2つ目の信号入江2丁目交差点を右斜めに行く。しばらく行くと追分2丁目に
「名物追分羊かん」の真っ赤な大きな暖簾が見えてくる。その前にある道標には「是より志ミづ道」と刻まれている。清水湊にいたる清水道との追分である。「追分羊かん」は元禄8年(1695)創業の老舗羊羹屋である。甘さを抑えた味で竹の皮で包んであるというから近江八幡名物の丁稚羊かんと同じものかもしれない。

道端にみかん一袋が100円で売られている。代金箱があるだけの無人売店だ。そのとなりの五輪塔は都田吉兵衛供養塔だという。解説を読むと、次郎長の子分森の石松を殺した都田吉兵衛(通称都鳥)を次郎長が殺したのだという。つまりやくざ同士の殺し合いである。どうでもいいではないか。

大沢川を金谷橋でわたる。「追分と金谷橋の今昔」と題した銅版パネルが橋の親柱に取り付けてある。
昔からこのあたりは、東海道と清水湊への道 「志ミづ道」の分岐点であることから 「追分」と呼ばれていた。周囲には数軒の家が並び街道の両際は松並木が続き、その外側には田んぼが広がり遠くには富士山が望めた。 往来の旅人は土橋であった金谷橋を渡ったが、重い荷物を運搬する牛馬は橋横の土手を下り渡川して土手に上り街道に合流した。 古来、牛道と言われた名残りを今にとどめている東海道の史跡である。

街道は東海道本線と
静岡鉄道の踏切を渡る。
狐ヶ崎駅前付近で道は上原堤とよばれる池を回り込む。手前の十字路左手に安永7年(1778)の古い道標が立っている。その道向かいには「東海道」の語源から始まる詳しい解説板があった。

東海道という言葉は崇神天皇10年9月、四道将軍として武淳川別(たけぬなわけ)東海(うみつみち)に派遣した日本書紀の記事に始まる。ヤマトタケルが東征の道に草薙剣の物語りを残し、古代大和朝廷確立と律令国家のための重要路として、防人(さきもり)達が遠く九州に下り、調(ちょう)を積んだ荷駄が大和に向けて通ったことであろう。 中世には「いざ鎌倉」のために整備された。徳川時代になり東海道に松並木を植え一里塚を築き整備された。慶長十二年(1607年)徳川家康公の命により、当時の東海道は今の北街道を通っていたものを、七日市場の巴川に大橋(現在の稚児橋)を架け追分上原を通り駿府横田迄駅路(正規の道)となった。善男善女が旅を急ぎ、大名行列が通り村人は助郷の課役に難渋し、幾多の物語を残した東海道も国の発展と共に昔日の面影は消えてしまったが、ここに日本の歴史と共に歩いて来た古道が有ったことを末永く記憶の中に留めておきたい。
昭和59年1月  有度まちづくり推進委員会 有度公民館歴史クラブ

街道は御門台駅の前で県道407号に合流する。交差点をわたったすぐ右手に徳利をぶらさげて立つ信楽焼きのたぬきのそばに、新旧二つの
草薙一里塚碑と一里塚由来を刻んだ碑がある。江戸から43里来た。街道はこの後草薙神社の大鳥居の先で一筋東の旧道にはいり、東名高速道路をくぐったさきの突き当りを右折して静岡鉄道の県総合運動場駅前で西に東海道本線の栗原操車場を横切っていた。

(2008年1月)

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