江尻宿〔十八宿目〕
 むかし「矢倉の辻」より、秋吉町の東側に称名寺集落があり、また吉添町・大手町あたりに、元宿という小字名が残残っているので、その周辺がもとの江尻(家尻)の宿場があったと思われる。 時代の変遷により、今川氏の頃から、この江尻は三日市場として栄え、永禄12年(1569)武田信玄が江尻城(小芝城)を築くことにより、江尻は城下町となり職人の町が発達した。  慶長6年(1601)徳川家康は、東海道五十三次を定めるにあたり、それまで今の北街道が主要街道であったものをあらため、銀座通りを通すこととし、この地を江尻宿とした。 慶長12年(1607)巴川に初めて稚児橋が架けられ、交通が便利になり、江尻宿は上町(魚町)中町(仲町)下町(志茂町)の宿通りを中心に、西は入江町の木戸、東は伝馬町・鋳物師町・鍛冶町・本郷町から辻村の木戸まで長さおよそ2kmであった。 宿は伝馬町と魚町で鈎の手に曲がり見通しが悪く、また紺屋町・七軒町は袋小路になっているのは、万一の場合の警備のためであった。 宿には、人馬や物資の移動を管理する問屋場を中心に、大名の宿泊する本陣三軒、それに準ずる脇本陣三軒と、一般の旅籠屋が五十軒程たち並び、人びとの往来で栄えていた、江尻宿の昔の姿であった。 昭和五十九年一月江尻地区まちづくり推進委員会
旧江尻宿(銀座通り)町並み 銀座 清水区 静岡市 静岡県