水神ノ森と富士川渡船場 
江戸時代、東海道を東西し富士川を渡るには渡船を利用しました。これは富士川が天下に聞こえた急流であり、水量も多いことと、幕府を開いた徳川家康の交通政策によるものでした。街道の宿駅整備にあわせ渡船の制度を定め、渡船は岩渕村と岩本村との間で行われました。 東岸の渡船場は松岡地内の一番出しから川上二十町の間で、上船居、中船居、下船居の三箇所があり、川瀬の状況で使い分け、そこから上、中、下の往還が通じていました。今でも当時のなごりとして、下船居のあった水神ノ森辺りを「船場」と呼んでいます。用いた船には定渡船、高瀬船、助役船があり通常の定渡船には人を三十人、牛馬四疋を乗せ、船頭が五人つきました。  渡船の業務は岩渕村で担当していましたが、寛永十年(1633)以後、船役の三分の一を岩本村が分担しました。 これは交通量の増加に伴って業務が拡大したためで、岩本村が渡船に重要な役割をにないました。  水神の森には安全を祈願し水神社を祀り、著名な「東海道名所図会」にも記され、溶岩の露頭は地盤堅固であり、古郡氏父子の巨大な雁堤(かりがねづつみ)は、ここから岩本山々裾にかけて構築されています。このほか、境内には富士登山道標や帰郷堤の石碑が建っています。
 
     昭和60年1月10日  富士市教育委員会

 水神社 松岡 富士市 静岡県