興津の歴史: 興津は、江戸時代の東海道五十三次のうち十七番目の宿場町として栄え、興津郷とも称されていました。現在興津と呼ばれている地名はかつて「奥津」「息津」「沖津」とも呼ばれていました。 興津川の下流部にあり、東は興津川、薩埵峠、西は清見寺山が駿河湾に迫る難所に位置することから、古代より清見寺山下の清見関は坂東(関東地方・諸説ある)への備えの役割を果たしました。鎌倉時代以降には、興津氏が宿の長者として支配し、戦国時代には今川氏被官としてここに居館を構え、薩埵山に警護関を設置しました。慶長6年(1601)東海道の宿となり、以後宿場町として発展しました。興津からは身延、甲府へ通じる甲州往還(身延街道)が分岐、交通の要衝でした。江戸時代中~後期には興津川流域で生産される和紙の集散地として知られ、明治以降は明治の元勲の別荘が建ち避寒地として全国的にも知られています。

興津宿の規模: 東海道17番目の宿場ですが、東の由比宿には2里12町(9.2km)の距離があります。その過程に親知らず子知らずの難所「薩埵峠」があり、西に至る旅人は峠を超えてほっとするのが興津宿であり、東に旅する旅人は興津宿で旅装を整え、峠の難所を超え由比宿に至ります。 また、西の江尻宿には1里2町(4.2km)ですが、川や山の難所とは異なり平地であることから通過の宿場として興津宿よりも繁華性は低いといわれています。 興津宿の宿内、町並みは東西に10町55間(1.2km)人馬継門屋場1ケ所、問屋2軒、年寄4人、帳附4人、馬指5人、人足差3人、宿立人馬100人100匹 天保14年(1843)宿内家数316軒、うち本陣2軒`脇本陣2軒、旅龍34軒、人数1668入(男809人女859人)でした。
 清見寺 興津清見寺町 清水区 静岡市 静岡県