島田刀鍛冶の由来
島田の刀鍛冶は、室町時代より江戸時代末期に至る約400年間の歴史をもち、繁栄期には、この島田に多くの刀工が軒を連ね、鍛冶集団を形成していたという。その系譜は、義助、助宗、広助を主流とし、作風は、相州風、備前風な どのみえる業物打ちであった。江戸時代になると、貞助系、忠広系が派生し、信州などに進出していった刀工たちも ある。彼ら島田鍛治は地方的な存在であったが、戦国大名の今川・武田・徳川氏などに高く評価され、多くの武将に 珍重された。とくに、義助の『お手杵の槍』や、武田信玄所蔵という助宗の『おそらく造りの短刀』など、刀剣史上 に今なお名をとどめる秀逸な作品も少なくない。紀行文や文芸作品、芸能にも島田鍛治は取り上げられ、往時の繁栄 ぶりと名声のほどがうかがわれる。また、室町末期に活躍をした連歌師宗長は、島田の刀工義助の子であったといわ れている。島田鍛治集団は、中世末期から近世にいたる島田の歴史のなかでも、とりわけ燃然と輝いている。 昭和61年3月吉日 島田市
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問屋場とは、宿場の中心となる施設で、主に公用の文書や物品、公務旅行者に人足や伝馬を提供し、継ぎ立てを行う施設てした。 島田宿問置場の敷地は、間口8間(14.5m)、事務所は間口5間半(10m)で奥行5間(9.1m)の建物でした。そして、ここには長である問屋、その補佐役の年寄、事務担当の帳付、人足や馬方の指揮をする人指・馬指と呼ばれた宿役人が月交替で詰めていました。また常備人足は136人、伝馬は100匹で、このうち人足30人、馬20匹は特別の場合に備え、さらに不足のときは周辺の助郷村から補いました。 飛脚(御継飛脚)は10人が常駐し、昼夜交替で御状箱を継ぎ送っていました。  島田宿史跡保存会
刀匠島田顕彰碑・問屋場跡 本通5丁目 島田市 静岡県