夜泣石伝説に関わりの深い久延寺はかっての掛川城主山内豊一が境内に茶亭を設け関ヶ原に向かう徳川家康をもてなしたことで知られています。境内の五葉松は(横に二代目が育っています)家康の手植えであり、その脇にひっそりと夜泣石が横たわっています。

伝説 小夜の中山夜泣石
その昔、小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里へ働きに行っての帰り中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が通りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。  その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、お石の魂傀がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。 里人はおそれ、誰と言うとはなく、その石を「夜泣石」と言った。傷口から生まれた子供は音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若者となり大和の国の刃研師の弟子となった。そこへ轟業右衛門が刃研にきたおり刃こぼれがあるので聞いたところ、「去る十数年前小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったので、母の仇とわかり名乗りをあげ、恨みをはらしたということである。 その後弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、立ち去ったと言う。  文化元年滝沢馬琴の「石言遺響」より
久延寺・夜泣石 佐夜鹿 掛川市 静岡県