東海道−6 



新居−白須賀二川吉田御油赤坂
いこいの広場
日本紀行

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新居

橋をわたって新居側に上陸しても江戸時代の上陸地点であった新居の関所まで2km以上もある。湖に突き出した人工半島のせいもあるが、浜名湖自体が地震や津波で度々その姿を変えてきたためである。関所の位置も元来はもっと舞阪に近かった。

浜名湖を渡って最初の信号、新居弁天入口丁字路を左に折れて300mあまりいくと左に浜名湖が見えてくる。国道1号にそって突き出していた部分の根元にきたわけで、本来の湖岸線の位置である。漁港だろうか、多くの漁船が係留されて、船上で洗濯物を乾している漁師の姿がちらほら見える。拡大した漁船の一部を近景に入れて今切りの風景を撮った。広重の
新居渡船場風景をまねたつもりである。

運河の橋をわたった先の丁字路を右におれて関所に向かう。すぐ左手に
大元屋敷跡の冠木門がある。ここが最初に新居関所と宿場が造られた場所である。元禄12年(1699)の災害で500mほど西の中屋敷跡に移転したが、そこも宝永4年(1707)の大地震で倒壊し、現在の位置に落ちついた。

新居高校前に
中屋敷跡の立て札がある。

この辺り一帯は昔、藤十郎山と呼ばれたところで、元禄12年(1699)の災害によって同14年(1701)、宿場の一部と今切関所が移転した場所である。新居宿と関所は、宝永4年(1707)10月の地震・津波で再び大きな被害を受けたため、現在の新居へ総町(全町)移転した。 平成20年10月 新居町教育委員会

その先の十字路を右折し、運河を渡ったところで水路に沿った細道を左に入る。水路沿いに道をたどっていくとやがて関所近くの
船溜り場にたどり着く。地図をみると、どうやらこの水路は本来の浜名湖岸で、新居駅・JR・国道1号が走る横長の区域とその北側にある方形の浜名湖競艇場は埋め立て人工島のようである。

船溜り場を右に見てさらに三筋西にむかうと変則十字路にでる。正面に祠型秋葉常夜灯が建ち、右手角の空き地に
船囲い場跡の標石がある。船囲い場は寄馬場の渡し船版で、常時120艘の渡し船が配置されていたという。今切りの渡船業務は新居宿に独占的にあたえられており、三ヶ所もの雁木を設けていた舞阪宿は単なる乗下船場にすぎなかっか。

船囲い場の角を右におれると国道1号沿いに
新居関所が往時の姿のままで構えている。安政2年(1855)に改築された現在の建物は現存する関所建物として全国唯一のものである。縁側に面した面番所とよばれる東西11間の細長い部屋には関所役人が居並んでいる。刺股(さすまた)、突棒(つくぼう)、袖絡(そでがらみ)の三道具が展示されていて興味深かった。捕獲道具であって相手の動きを制止する目的で作られていて、怖しげでない。袖絡などはいかにも着物文化の日本らしい道具である。

離れに女性が2人いた。
女改め長屋で、女性の検査は女性が担当した。「入り鉄砲に出女」といわれるが特に今切関所は江戸から出る女姓に対しては厳しかったらしい。関所をさけるために女性は北周りの道を好んだ。姫街道の名はそこから来たといわれている。

関所建物の東側の構内に
渡船場がある。かってはここが湖岸であった。埋め立てがつづいて今のように浜名湖が遠のき渡船場跡は陸地に掘られた池みたいなものになってしまった。ここで写真を撮っても湖はおろか船の一隻も写らない。擬似渡船場を撮るための寄り道をしておいてよかったと思う。

宿場は関所の西から始まっている。最初にあるのは
旅籠紀伊国屋である。創業は元禄まで遡る老舗旅館で昭和24年まで旅館を営んでいた。建物は明治7年に改築され、暖簾、用水桶、板看板、出格子、二階高覧など、懐かしい風情を残している。屋号が示すように紀州出身で、早くから紀州藩の御用宿となっていた。中に入ると玄関で福助の挨拶を受ける。
風呂場をのぞくと桃割れ姿の由美かおるが笑顔を振りまいている。二階の一室には枕が並べられていた。髷を結っているからだろうが首が痛くなるような高さである。レンガのような角まくらも硬そうだった。

街道は突き当たりを左に折れて南に向かう。このあたりに本陣が集まっている。東北角の疋田医院は疋田弥五郎本陣跡、突き当たり正面が明治天皇行在所ともなった
飯田武兵衛本陣跡、その南隣の空き地が庄屋疋田八郎兵衛本陣跡と続く。その先右手に寄馬跡があった。古い家が散見される旧宿場街をすすんでいくと左手に民家の花壇のような一里塚跡がある。

道はこの先でジグザグと右にまがって左に折れていく。この左折地点に宿場の出入口に設けられた棒鼻があった。道の両側に石垣か土塁を築き通行量を制限するためのものである。広重の絵により藤川宿の棒鼻がよく知られている。

旧街道は橋本交差点で国道1号線に合流するがすぐに次の橋本西交差点で右斜めの旧道に戻る。橋本西交差点の手前左手に
風炉の井とよばれる古い井戸が残されている。石積みの井戸で現在では深さ2mほどの浅い空井戸だ。説明札に鎌倉時代源頼朝が橋本宿に泊まった云々とあるが、ここ橋本は古くからの宿場であった。橋本の名は古代東海道の浜名川に架かる浜名の橋に由来する。大昔、まだ浜名湖が閉じた淡水湖であったころの貞観4年(862)、湖と海とをつなぐ浜名川の河口近くに架けられた。井戸の傍の道を南にすすんでいくと浜名橋跡に至る。寄っていけばよかった。

交差点から教恩寺を右に見て
古い家並みが残る旧道にはいる。「疋田」の表札がかかる民家の入口に「橋本宿」の標石柱が設置されている。個人のものか、説明板は伴っていない。古代の橋本宿なのか江戸時代の新居宿の加宿を意味しているのか、聞いてみないとわからない。ちなみに新居宿の本陣にも疋田姓が二軒あった。

落ち着いた家並みを西にすすんでいくと前方右手に山並みが接近してくる。歌にも詠まれる
高師山である。明応7年(1498)地震で今切ができ浜名湖と遠州灘が直接つながった翌年、暴風雨で高師山が崩れ浜名川は橋もろとも埋まってしまった。現在の浜名川はその残骸で、以前は海に注いでいた流れは浜名湖に向かって逆流している。

家並みがとぎれるあたりから
松並木が現れる。道の左、南側だけの片側並木である。右には高師山丘陵が迫っている。
浜名学園入口丁字路の角に
「検校ヶ谷」と刻まれた石柱がある。
江戸時代、検校とは盲人社会の最高位をさし、座頭が検校になることは困難なことであった。言い伝えでは、その昔、盲目の座頭が検校の位を得るため、東国より京に上る途中、この辺りで道に迷い倒れ、その望みを絶たれてしまった、という。その後、誰言うとなくこの谷を「検校ヶ谷」と呼ぶようになった。 新居教育委員会

橋本以来気になっていたことだが、道路標識にはこの道路を旧東海道でなくかたくなに
「浜名旧街道」としていることである。すぐ南を走っている国道1号は東海道でなく浜名街道だろうか。

松並木の間に
歌碑があった。歩道側には平成3年3月新居教育委員会建立とあって、道路側には藤原為家と阿仏尼の歌が彫ってある。阿仏尼は小夜の中山でも見たように、十六夜日記で多くの歌をのこしている。藤原為家の側室だった。新居教育委員会は粋なはからいをして二人の歌をならべて比翼の歌碑とした。「浜名の橋」「高師(たかし)の浜」と、しっかり当地の歌枕を詠み込んでいる。

   風わたる濱名の橋の夕しほに さされてのぼるあまの釣船 前大納言為家
   わがためや浪もたかしの浜ならん 袖の湊の浪はやすまで 阿仏尼

やがて松並木がおわり大倉戸集落に入る。入口に立場跡の標柱がある。新居と白須賀宿の中間にあたる。

右手一段高いところに
一対のお堂がならんでいる。小振りながら清楚な姿で互いをいたわっているように見える。天竜川以東でよくみかけた祠型秋葉山常夜灯である。先の歌碑ではないが比翼のお堂という雰囲気であった。

新居町と白須賀宿のある湖西市の境界に来た。手前左手に
明治天皇休憩趾の碑が立っている。明治元年10月1日、天皇は豊橋吉田宿を出てここで休憩したのち新居宿飯田本陣に宿泊した。20km余りの行程である。


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白須賀

火鎮神社の前に大きな白須賀宿の絵マップが建っている。現在地は新町。ここからすこし西にいったところが元町で高札場跡、一里塚跡などがある。元町とは宿場が最初に置かれた町という意である。新居宿が三度場所をかえたように、元町にあった宿場も宝永4年(1707)の地震と津波で崩壊し、潮見坂の上の現在地に移転した。

家並が途切れ街道の両側はのどかな田園が広がっている。右手の丘陵から一基の風力発電機が見下ろしている。柱には浜名湖CCと書かれた赤文字が見える。やがて元町の旧街道らしい家並みにはいり、高札場趾の立て札と標柱を見つける。同じ場所に一里塚跡もあるとのことだが、標識類は見当たらなかった。見落としたか。

格子造りの家や
内藤家の長屋門など、魅力的な町並である。

やがて元町の西端近くにさしかかり、潮見坂旧道の道標にむけてカメラを構えていると、戸口から手招きするおばあさんがいた。こっちへいらっしゃい、という合図にしたがって中にはいるや、色々な写真や手紙類を手当たり次第に取り出して、「700人の人からもらった」と切り出した。なんでもNHKの街道てくてく旅で若い男優と一緒にテレビに出たそうだ。地元の新聞にも「喜び喜ばれて20年 布草鞋つくり」という見出しで出ている。家の前を通る旅人をつかまえては小さな手づくりの布草鞋をあげるのだという。
「いくつに見える?」と聞くから「90歳!」と答えると「近い! 94」とあまりうれしそうな顔をしなかった。

足元で犬がほえる。リカちゃんというらしい。左手であごをつかまえ、顔向きをためしながら片手で数枚連続撮影。リカちゃんはだまってされるままにしていた。尻尾をふらない犬だ。
「誰にでもあげるんじゃないよ。中には急いでいるからとか、なにか売りつけられると思って入ってこない人もいる」と、見透かしたかのようなことを言った後で、「あんたにもあげる」といわれてホッとする。水色のかわいい布草鞋をもらった。それをリカちゃんの首にかけて記念写真をパチリ。リカちゃんは相変わらず伏せ目がちでなにも言わない。はずかしいのかな。
住所をメモするかわりにおばあさんへの宛名書き封筒をパチリ。写真できたら送ります、と別れた。

「右旧道・左新道」の道標がある角を右にはいって風情ある家並みの
潮見坂を上がっていく。振り返った風景が遠州灘を見渡せる絶景だという評判で、広重もそこを描いているようだが、それほどでもなかった。いかんせん坂道の両側の繁みが視界をせばめていて遠州灘の広がりがみられない。

坂をあがりきると白須賀中学の前が小公園になっていて、そこからみおろす眺望が広重の絵に近かった。ただし、坂道はみえない。明治天皇はここでも休憩を取っている。中学校の建つ場所はかって織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張に帰るとき、徳川家康が茶亭を新築して信長をもてなした所だという。潮見坂上はそれほどの景勝地だった。

いよいよ旧白須賀宿にはいってきた。格子造りの家がたくさん見られ往時の面影が色濃く残る町並である。古都にみられるような町家が連なっているわけではく、古い建物が並んでいるわけでもないが全体として整った家並を保ち、独自の景観を作りあげている。

左手の細い路地入口にかかってあった
「東海道一の大えんま様 十王堂」の札につられてはいっていくとつきあたりに小さな公民館風の建物がある。ガラス戸は鍵がかかっていなかった。そろっと開けると顔と手を真っ赤に染めたえんま様がこちらを睨んでいた。

ゆるやかな坂を下っていくと曲尺手を経て宿場の中心にはいっていく。美容院の隣が
本陣大村庄左右衛門宅跡である。そのとなりの公民館のあたりに問屋場があった。

十字路をこえたところに建つ板塀の古い建物は酒造を営む傍ら本居宣長の門に名を連ねた国学者
夏目甕麿の邸宅跡である。二階建ての建物は見事な格子造りである。ここから先には商店もみかけられず白須賀宿の家並みとしては最もすばらしい。

左側に一本だけのこる槙は湖西市指定文化財で、
火防の槙として知られる。防火対策として宿内に3ヶ所の火除け地が設けられそれぞれ10本ほどの槙が植えられた。少しいった右手にある立派な屋根の庚申堂の先は少し道路が待避所のように経こんでいて電柱脇に「火除け地跡」の石柱が立てられている。

唐突に「東海道白須賀宿の加宿、境宿 三枡屋」と書かれた板片が民家の樋に取り付けられている。白須賀を出て境宿にはいっているが、どこが境界であったか気づかなかった。、三差路の角に古そうな格子造りの家があり隣に夢舞台東海道の道標と絵地図が立っている。三差路角には
「高札建場跡」の石標がある。「境宿」は東海道の静岡県西端の宿である。

旧道は県道173号に合流して
境川をこえる。橋の下に「愛知県・静岡県」と書き分けた黄色い三角柱が川から突き出ていた。境川は護岸工事がほどこされた用水路の体である。しかし犬を連れた夫婦、娘の家族連れが散歩する境川土手とその両側にひろがる水田、遠くにつらなる山並みの風景は心を癒す一級品であった。

ところで、次の宿二川の広重絵を先取りするが、二川にはいって広重が描いた
「猿馬場」がどこなのか数人の人に聞いたが誰も知らなかった。今、中部建設協会発行の『東海道さんさくマップ』をみて、それがどこか見つけた。境宿の北東の位置にちゃんと書いているではないか。東海道名所図会の解説まで添えられている。

境川より東に石原山にて小松多し、風景の地也。北の方に大岩あり、高さ十丈余、幅二十丈ばかり、猿馬場の茶店に柏餅を名物とす…・

確かに広重の絵には松の木とかしわ餅をうる茶店が描かれている。二川で探しても見つからないわけだ。

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二川

街道は一里山東交差点で国道1号と合流する。右側に一里山七本松が植えられている。平成12年に植樹されたものだ。

次の一里山交差点を過ぎた当たり右手に
一里塚が残っている。山の一部に見えて塚らしくない。

さて、ここから二川宿まで沿道の風景は平地に赤茶けた土と緑のネギ畑がひろがる田園である。大型車や単車が疾走する国道を黙々と歩くしかない。
大型バイクが2台並んで「即死現場!」の警告を無視して走り去った。東京から285km地点の標識がある。300km地点の準備をしておこう。

平坦な草地にポツンとした木立が目立つ。猿が馬場の風景に似ていなくもない。地名やバス停にも元茶屋とか茶屋ノ下などが今も残り、かってこのあたりに茶屋があったことはまちがいない。柏餅を売っていたかもしれない。苦し紛れに、ここを猿が馬場としておこう。


やがて田園風景は影をひそめ建物がみえだした。国道1号と新幹線が接近してくる。二川ガード南信号で国道とわかれ、旧東海道は新幹線のガードをくぐり、東海道本線の踏切をこえて二川宿にはいっていく。

宿場入口に建つ川口屋の脇に
一里塚跡の標石がある。江戸から72番目ものだ。手前が東見付だった。その先、右にはいった妙泉寺の境内に芭蕉の紫陽花塚がある。

   阿ちさゐや 藪を小庭の 別座敷

寛政10年(1798)建立の古い芭蕉句碑だが、句は江戸深川で詠んだものでこの土地と関係ない。

宿内を西にむかって進むと、右手に駒寄を配し総二階に見事な千本格子を施した商家が堂々たる佇まいをみせている。
東駒屋でもと味噌醸造を営んでいた。両翼の建物と背後に隠れる土蔵をふくめると壮大な屋敷である。

ちょうど道幅分だけずらした
曲尺手をすぎ、二川宿まちなか公園のある十字路の北西角が東問屋場だった。その西に脇本陣跡、そしてその向かいに旅籠清明屋馬場家本陣の建物が並んで保存されている。

本陣の建物は江戸時代のままで、東海道で本陣の遺構が現存するのは二川と草津の2ヶ所だけである。残念ながら休館日で中をみることはできなかった。道向かいに西駒屋があり窓格子に味噌溜のホウロウ看板がかかっている。ここも味噌醸造元だった。

西の曲尺手に常夜灯、高札場跡標石と二川町道路元標が一ヶ所に集まっている。ここを境に二川町から大岩町に移る。大岩町は二川宿の加宿となっていた。

大岩神明宮への参道手前に
立場茶屋跡の標石、十字路左手角地の交番前に大岩町郷蔵跡の標石がある。十字路をすぎると道幅がやや広くなって家並みもぐっと新しくなる。このあたりが二川宿の西出口であった。

しばらくいくと二川駅入口に差しかかる。駅前に古い
道標があり「是より岩屋へ八丁」と刻まれている。「岩屋」とは、西方約1kmにある岩屋山の岩屋観音のことで、天平2年(730)行基が千手観音を刻んで岩穴に安置したのが起源とされる。山頂には昭和25年に再建された聖観音銅像が立つ。

江戸時代の町割がほぼそのままに残る魅力ある
二川宿をあとにして、吉田宿に向かう。

道が右にカーブするあたり、丁字路手前に明治33年(1900)建立の高い道標がある。
「伊良胡阿志両神社道」「右東海道 豊橋一里半」「左渥美奥郡道」等と刻まれている。先の丁字路を左にはいると県道31号となって高師を経て松井町交差点で田原街道(国道259号)に合流する。田原街道は南に進んで老津、田原、野田、福江を経て伊良湖に至る。渥美半島は昔、渥美郡の奥部に位置することから奥郡とよばれ、奥郡道は田原街道の旧名である。

火打坂交差点で県道3号を横断し火打ち坂を登っていく。右に細道がでていて急坂をあがっていくが旧道ではない。坂を登りきってガーデンガーデンの角の信号を左折する。八十八米穀店の前で、園芸店の敷地に取り残された旧道と合流する。

しばらくいくと左手歩道に
クロマツの切り株が残されている。枯れたのだろうか最近になって切り倒されたようだ。飯村南2丁目から殿田川にかけて、二軒茶屋・元茶屋・茶屋という地名が残っている。位置的には二川宿と吉田宿の中間にあたる。

殿田橋を渡り国道1号との合流地点に
飯村一里塚跡の標石が立っている。江戸から73里とある。あと二つ見たあたりが300km地点だ。


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吉田(豊橋)

豊橋市街地に入り広い国道1号の東海道にも古い家が残っている。伝馬町交差点前に旅籠風の格子造りの家があった。となりの長屋も古そうだ。



陸橋右下の一角に立派な燈篭型常夜燈が立つ。旧東海道は交差点の南西角、餅屋の前に降りる。そこに
東惣門があった。ここからしばらく吉田城下の曲尺手が続く。

交差点から一筋南の通りを右に入る。広い通りの中央分離帯に「東海道」の標識が道順を示している。一つ目の通りを左折し突き当りを右折、鍛治町を西に進む。途中で町名が「曲尺手」にかわり大通りを横断する。大通りの分離帯に
「曲尺手門跡」の石碑がある。吉田城門の一つであった。

大通りから一つ目の十字路を左折する。角は嶋田屋本店というそばやである。突き当りのやや広い通りを右折して細切れの曲尺手を終わる。国道259号との交差点手前の十字路角、そば処つるやの前に小さな
豊橋市道路元標がある。ここを右にすすんで吉田城に寄り道する。

一つ目の交差点の東角に
「吉田城大手門跡」の標柱がある。その先で国道1号をエレベーター付き歩道橋でわたる。

歩道橋から正面に美しい近代ビルディングが眺められる。昭和6年に建てられた
市公会堂で国登録文化財である。ギリシャ式列柱、ドーム式階段塔、アーチ窓と、均整の取れた美しい建物だ。

公会堂の脇を通り抜けると豊橋公園にはいり、奥に
吉田城址がある。16世紀のはじめに築城された当初は今橋城とよばれていた。城を拡張し城下町を整備したのは天正18年(1590)から10年間在城した池田輝政である。本丸跡の豊川に臨む西北隅に鉄(くろがね)櫓が復元されている。

修理中の吉田城を右端に配して豊橋を見下ろす
広重の図に近づこうと、櫓の脇から豊川をながめたところ、繁みがじゃまになって川の一部しか見えなかった。場所をかえても手前に見える橋は吉田大橋で、昔の豊橋はその背後にかすかに認められる程度である。しかたなく二枚の写真に分割した。

街道にもどる。国道259号の
札木交差点が吉田宿の中心地であった。NTTビルまえに問屋場跡の標識がある。交差点をオレンジ色の路面電車がしずしずと通っていく。広告主は日通である。国道を渡った右手、うなぎ料理店丸よのあたりに二軒の本陣が並んであった。

道路の反対側にも老舗の店構えがみられる。偶然昼食に入った大木屋鮨が
第八国立銀行跡だった。道路に面した店先に碑がある。なお、その1軒東の交差点が旧田原街道の起点で、渥美半島を縦走し伊良湖岬に至る。芭蕉は愛弟子杜国を訪ねて田原街道を歩いていった。約40kmあまり。芭蕉の足なら一日の行程である。

松葉公園に東海道吉田宿の碑が立っていて「江戸まで73里 京まで52里」との里程が記されている。その交差点を右折して国道23号をわたったところに
西惣門があった。吉田宿を後にして、次の信号を左折。豊橋袂にある湊町公園による。土手にあがりようやく豊橋を心置きなく撮れた。豊川は幅一杯に水が流れているが、シジミ取りであろうか多くの人が川に入っている。膝あたりまでしかない浅い川だ。よほど平らな川底とみえる。

東海道沿いの湊町公園入口に
「松尾芭蕉吉田の宿の旅籠の記」石碑が立つ。芭蕉は貞享4年(1687)笈の小文の旅で、越人を伴い保美に蟄居中の杜国を訪ねるため、渥美半島を縦走する旅に出た。11月10日吉田の湊町に宿泊している。旧暦11月10日といえば今のクリスマスの頃で寒い季節だった。公園内の築島弁天の傍に芭蕉の旅寝塚句碑が建っている。

橋を渡ってすぐ左におれて県道387号をいくのが旧東海道である。右手の聖眼寺山門前に「寺内芭蕉塚有 宝暦四年」と刻まれた古い標石が立っている。中に入ると石積みの上に二基の芭蕉句碑がある。同じ句である。

   
こを焼いて手拭あふる寒さ哉

「松葉」と書いて「こ」と読む。芭蕉塚は松葉塚とよばれている。

道がゆるやかに左に曲がる下地交差点の手前に74里目のの標石がある。江戸から74番目である。あと3kmほどいったところで旧街道の北側を併走している国道1号にもどってみよう。

下地集落の家並みには古い建物が多く残っていて旧街道筋の雰囲気がよくでている。豊川放水路の手前で豊川市から宝飯郡小坂井町にはいる。そろそろ国道1号にもどるころだ。

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御油

旧東海道は豊川放水路に架かる高橋を渡る。私は300km地点が気になっていて国道へでることにした。国道をすこし戻って標識をさがすと果たせるかな299.8kmとあった。多分小坂井大橋の上あたりだろうと歩を急ぐ。100mは結構長い。橋上で299.9m。300kmは橋を渡り終えてすぐにあった。宝飯(ほい)郡小坂井町字小坂井小字欠田(かけだ)である。

堤防から高橋の小坂井側の旧街道にもどる。工場前に小さな橋があり右側に自然石の
「子だが橋」の碑がある。かって若い女性が生贄にされたという残酷な話が伝わる。
このあたりも古い家が軒をならべ懐かしい街道風景を残している。土地柄としても古く、高橋から1kmほど下流の新橋あたりはむかし柏木の浜とよばれ、そこに
古代東海道の駅家渡津駅があった。現在も豊川に渡津橋の名が残る。

才の木交差点を直進し菟足神社参道入口を過ごして宿という名の集落をぬける。宿場寿司とう名の寿司屋があり、宿場でもおかしくない町並である。左手に立派な祠型秋葉山常夜燈がある。伊奈にはいって空き地に二基の句碑がならんでいて
「伊奈村立場茶屋 加藤家跡」の標柱が立つ。加藤家とは茶屋本陣とよばれた格式ある立場茶屋で、「良香散」を売っていた。芭蕉時代の当主加藤烏巣は医者で芭蕉の門人である。笈の小文の旅で、芭蕉はこの家に烏巣を訪ねた。出された食事の質素な生活ぶりに好感をもった。

   
かくさぬそ宿は菜汁に唐が羅し 芭蕉
      ももの花さかひしまらぬかきね哉 烏巣


ほどなく右手の山本太鼓店前に75番目の伊奈一里塚跡がある。
旧街道は佐奈川を渡り豊川市小田渕に入る。一階の格子が美しい千成屋酒店をはじめ、塀や門構えの古い家が多く残る落ち着いた家並を見せている。
 
白川を渡ると風景は一変し工場地帯を縫っていく。国道1号に合流した後、国府町藪下信号で左の旧道にはいって静寂を取り戻す。

国府町はその名が示すとおり
三河国の国府所在地である。国衙は白鳥町三河総社にあったとされる。また県道5号をまたいで、八幡町に国分寺・尼寺跡が発掘された。県道5号こそ御油で東海道に合流する直前の姫街道である。見附宿から出発した姫街道が御油宿でフィナーレをむかえるにふさわしいセッティングではないか。今は国府跡へは寄らない。姫街道の時に。

名鉄国府駅前の旧街道は新旧入りみだれた店舗が続く商店街を形成している。新栄町2丁目交差点手前には総二階の表通りを千本格子で仕上げたうつくしい旧家が建っている。

交差点を左におれて国府観音に立ち寄る。境内の奥に入母屋造りの観音堂がたち、その向い側に芭蕉句碑がある。

   
紅梅や見ぬ恋作る玉すだれ 

芭蕉のロマンチシズムあふれる一句である。

交差点にもどり街道を西に向かう。石垣塀の白漆喰がまぶしい
大社神社によって、社殿の正面からカメラを構えていると5,6歳の子供がよってきて、「何撮ってるの?ねえ、おじいちゃん、何撮ってるの?」とレンズの前まで迫ってくる。今まで自他共に「おじさん」で通っていたのがついに「おじいちゃん」になった。
「じんじゃ!」
すこし離れてたむろしていた母親たちは見て見ぬ振りをしている。

蒲郡信用金庫駐車場をかりて御油一里塚の跡標がある。江戸より76番目。

向かい側角に常夜燈と二基の道標が立つ交差点に出る。美しい古い町並みを見ながら大社神社の前をすぎると、大きな石灯籠のある交差点に出る。
姫街道との分岐点である。道標、常夜燈にはどこにも姫街道という文字がない。石垣に朽ちつつある木製の道標が寄りかかっており、そこに姫街道の名をみつけた。姫街道は俗称であって取調べが厳しいことで知られる新居関を避けるために女性たちが通ったことからその名がついたそうだが、街道自体は古代東海道時代からその脇道として存在していた。浜名の橋が流された時などには男女をとわず三河・遠江国境の本坂峠越の道を利用したのである。三河国府跡を通る姫街道こそ古の匂いが濃い道ではなかろうか。

音羽川にかかる御油橋をわたって五油宿に入っていく。昔ながらの道幅を残した古い町並をすすんでいくと十字路角に旅籠風格子造りの家が建つ。あらゆる政党のポスターが格子の半分以上を汚している。その道向かいの空き地に「ベルツ花夫人ゆかりの地」と題した説明立て札がある。ハナは東京生まれだが父親の実家がここで戸田屋という旅籠を営んでいた。

交差点の西北角の保育園広場は
高札場跡である。立て札を撮っていると、どこからともなく視野に一人の少女が飛び込んできて両手でVサインを作ったと思うや、風のようにどこかへ飛んでいった。どんな子だったか、写真ではじめてみた。

十字路を右におれると右手に
広重絵看板と問屋場跡の立て札がある。御油宿家並みはそのさきの十字路を左に折れて続く。街道の左側に本陣跡の標識がある。前方に味噌・醤油の醸造所である「イチビキ」のナマコ壁が風情を添える。

東海道をまたいでいるイチビキ工場の管の下を通りすぎると左に東光寺がある。室町時代の古刹で徳川家康、芝増上寺管長が訪れている。

東光寺の墓地に飯盛女の墓があるという。特にそれを示す案内板ああるわけでなく、突き止めるのに苦労したが、塀にそって5基の墓がならんでいた。墓石に「大津屋内」という刻字が認められた。大津屋飯盛旅籠の女郎たちであろう。

他の宿場に劣らず御油にも多くの飯盛女がいた。彼女等の客引きの強引さは目だっていたらしく、広重の絵にも留女として描かれている。そういう留女たちがいただろうと思われる
家並みが松並木を前にして続いていた。

御油の宿場をぬけると600mにわたる御油の
松並木が続く。昭和19年には国の天然記念物に指定されている。県道だが車の交通はすくなく基本的に生活道路である。歩行者優先の方針が目に見えて、たっぷりと余裕を持った歩道が整備されている。面白いのはところどころに車道をせばめた杭が設置され、そのところは二台の車がすれ違うことができなく、一方が手前で待避することになっている。現代の棒鼻とでもいおうか、ユニークな発想だ。
松並木が終わると小川があり、ここからはもう赤阪宿である。

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赤坂

天王川をわたると赤坂宿にはいる。ここに東見附があった。格子造りの家が続く中道はゆるやかなうねりを見せて宿内にはいっていく。

連子格子に花をかざり東海道宿札を立てた「手づくりのお店 あいりん」が目をひく。何の店かと格子に貼り付けてある手書きの品書きをみると現産地消にこだわるレストランだった。

すぐ先の
関川神社に楠木の巨木と、鳥居の横に芭蕉句碑がある。

  
夏の月御油よりいでて赤坂や

延宝4年(1676)江戸にでてから二度目の帰郷のさいに詠んだ句である。御油宿から赤坂宿までは1.7kmと、東海道53次のなかで最も短い区間であった。それだけに御油宿との間で客の争奪戦がはげしかったようである。決め手はいつもながら飯盛女の質量にかかっていた。

左手に格子建築の見本のような家がすがすがしく建っている。一階と二階で都合5種類の格子つくりである。特に一階は平格子と出格子、連子格子と小間返し、吹寄せ割り、まばら割り、半格子のコンビネーションをみせていて、見事というほかない。よい勉強をさせてもらった。我が家の庭に計画しているウッドデッキのフェンスを格子づくりにしてみよう。吹寄せ割り半格子でいくかな。

右手民家の前に問屋場跡の説明板が架けられている。
道の斜め向かいにまだ新しい門塀を構えた一角があるが、ここが4軒あった本陣の一つ
松平家本陣跡である。塀の後ろは空き地になっている。

駅前の赤坂紅里交差点に出てきた。宿場をイメージした小公園になっていて高札場が復元され、宿場の町割図が展示されている。由来はしらないが「紅里」という名前がよい。

交差点をすぎてすぐ右手の
尾崎屋も細かな格子をそなえた商家である。二階の格子に掛かる「民芸品製造卸問屋」と書かれた軒行灯が江戸の風情を醸している。

向かい側の細い路地を入ると
浄泉寺で、境内にソテツが植えてある。もとは向かいにあった旅籠清須屋の中庭に植えられていたものを明治20年、道路拡張工事でここに移植されたものである。広重の赤坂招婦図は旅籠大橋屋の中の様子に清須屋のソテツを借りてきて仕上げた。

その大旅籠
大橋屋が隣にある。提灯といい出窓の板といい、いかにも古びた構えの建物は正徳6年(1716)の築という。二階の格子はまた新しい意匠である。芭蕉も泊まったといわれる大橋屋は現在も旅館を営んでいるが、明治の初めまでは旅籠伊右衛門鯉屋とよばれた旅籠兼女郎置屋であった。

   
御油や赤坂吉田がなくば 何のよしみで江戸通い
      御油や赤坂吉田がなけりゃ親の勘当うけやせぬ


と歌われたように、この三宿は飯盛女の多いことでしられていた。

赤坂宿も西出口附近にさしかかった。右手に
赤坂陣屋跡、左には休憩所「よらまいかん」がある。赤坂は幕府直轄地であっただけでなく、ここから三河国の天領全域を支配していた。

赤坂集落をでてしばらくいくと小川にかかる八王子橋の手前左手に下部が埋まった
道標があり「一里山庚申道是ヨリ・・・」と刻まれている。ここから500mほどで長沢の一里塚があるが、それと関係があるのか、ないのか。意味がわからないまま高速道路をくぐっていく。

長沢小学校のすこし手前左手に
一里塚跡の標柱がある。小学校ウラウンド脇に長沢城跡の説明板が建つ。


この先関屋で国道1号に合流すまでの旧東海道(県道374号)は南側ののどかな里山風景と
古い家並が残る懐かしい道であった。

途中にある
観音堂跡には磯丸の歌碑がある。

   
おふげ人 衆生さいどにたちたまう このみほとけのかかるみかげを 八十二翁 磯丸

弘化3年(1846)、観音堂の妙香尼が旅人の落馬を機に地元歌人の磯丸に歌を頼み、念仏供養のために建立したものという。磯丸とは渥美半島伊良湖の漁師で40歳近くになって文字をおぼえ歌をつくりだした。伊良湖岬には芭蕉の碑とともに磯丸の碑が並ぶ。

国道に接近し車の響きで郷愁の夢からさめる。関谷信号からわずかに国道にそって旧道が残っている。国道1号と合流、歩道をいく。左右前後は丘陵がつづき、配送センターのほか人家は全くない。国道1号・名鉄・東名高速が段丘状に併走している地峡地帯である。黙々と歩を進めていくうち岡崎市の市境標識が見えてきた。

(2009年5月)
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