田原街道



吉田(豊橋)−田原保美(渥美)伊良湖神島

いこいの広場
日本紀行



原田街道は東海道吉田宿(豊橋)から分岐して渥美半島の三河湾沿いを縦走して半島の西端、伊良湖岬に至る約45kmの街道である。一方、東海道の白須賀宿から渥美半島の太平洋側遠州灘沿いに伊良湖岬に通じる道は
表浜街道あるいは伊勢街道とよばれた。国道259号と国道42号が現代の原田、表浜街道である。

渥美半島と知多半島が蟹の爪のように三河湾を抱えている。その湾外に目をやると伊勢湾の出口にあたっていて、伊良湖岬の先に志摩半島の鳥羽が見える。東方から来る場合、東海道と伊勢を結ぶ経路としては渥美半島は七里の渡しに勝る近道であった。伊勢街道とよばれる所以である。古くは西行が伊勢から伊良湖に渡り表浜街道を通って東海道へ出た。

原田街道は芭蕉が笈の小文の旅で足跡を残したことで有名になった。名古屋に滞在中の芭蕉がわざわざ吉田まで引き返してきて伊良湖に流罪中の杜国に会いに行ったのである。

私の旅は一義的には芭蕉の足跡をたどることにあった。伊良湖岬はそれにつきない。柳田国男が一ヶ月滞在したおり
恋路ヶ浜とよばれるロマンティックな海岸で椰子の実を拾った。島崎藤村はその話をとって「椰子の実」を作詩した。

また、伊良湖岬と鳥羽の間に浮かぶ小島は
神島といって三島由紀夫の「潮騒」の舞台となったところである。元は流刑の地だった島は以来、「恋人の聖地」となった。

今回は妻を伴っている。結婚40周年記念の旅である。妻は神島まで渡ってみたいと言うだろうか。

さらに伊良湖岬は鷹をはじめ
渡り鳥の中継地としても知られている。北からやってきた鳥たちがここでしばし羽根を休めた後、更に南をめざして飛び立っていく。その盛期は9月下旬から10月上旬で多くのカメラマンで賑わうという。11月の記念日を前倒しにして渡りの季節に合わせることにした。



吉田

三川の國保美といふ處に、杜國がしのびて有けるをとぶらはむと、まづ越人に消息して、鳴海より跡ざまに二十五里尋かへりて、其夜吉田に泊る。
 
   
寒けれど二人寐る夜ぞ頼もしき

貞亨4年(1687)11月10日、今で言えばクリスマスシーズンの寒い頃である。芭蕉は滞在先の名古屋から豊橋に戻る。渥美半島の西端近く、保美に流罪中の最愛の弟子杜国に会うためであった。吉田宿で同行の越人と一泊した。旅籠は豊橋袂の湊町公園あたりにあった。旧東海道沿いの湊町公園入口に「松尾芭蕉吉田の宿の旅籠の記」石碑が立つ。公園内の築島弁天の傍には芭蕉の旅寝塚句碑が建っている。

芭蕉は翌日そこから東海道吉田宿の中心地に向った。湊町から国道23号をよこぎって上伝馬町にくると松葉公園北東角に東海道吉田宿の碑が立っていて江戸まで73里、京まで52里との表示がある。その交差点を左折すると右手に文政年間創業の「きく宗」が店を構えている。宿場の味を伝える菜めし田楽で知られる老舗である。その先大木屋鮨の前に
第八国立銀行跡碑がある。明治10年(1877)に開業した中部地方で最初の国立銀行であったが経営不振で8年後には名古屋の第百三十四銀行に吸収されてしまった。

その東側の交差点が旧原田街道の起点である。新本町と札木町の境界を南に向って入っていく。花園町を通りぬけ広小路通りで左折して次の十字路を右折する。広小路通りから一筋下った十字路を左にはいったところに白吉田天神社があり、その境内の一画に金山神社がある。ここが江戸時代「寛永通宝」を鋳造していた
吉田新銭座の跡である。

駅前大通りを横切り新川町にはいる間に、「牟呂用水」と掘られた橋を渡る。明治時代牟呂新田開発のために開削されたもので、豊橋市内では「新川」と呼ばれている。この用水路の上に
「水上ビル」と呼ばれる三階建ての商業ビルが幾棟にも建てられて商店街を形成しているのだ。暗渠跡の高度利用ということであろう。

現役銭湯「菊の湯」、諏訪神社を通りすぎて中柴町交差点をよこぎった後、柳生川を越えるまでの旧道は若干ややこしい。しいて旧道跡をたどれば、松山町の五叉路で黒田大学道薬局の前を右折し、豊橋鉄道渥美線手前の十字路を左折、柳生橋駅の手前の交差点を右折して豊鉄踏切を渡って東海道本線にぶつかる。南に折れて線路沿いに進んで
元柳生橋を渡る。

曲尺手状に東海道本線を渡ってすぐ左の細道にはいる。200mあまり進むと
潮音寺北側で常夜燈の建つ二又にでる。右南西に進むのが田原街道である。左は小松原街道とよばれ、途中県道405号をたどって太平洋岸の小松原に至る。この分岐を示す石仏道標が潮音寺境内にあるということで、かなりの時間をさいて探したが見つからなかった。境内は保育園児と保育士であふれかえっていた。

旧道は潮音時の西側を進んで新幹線をくぐり、住宅街の路地を通って車道を斜めに横切りすぐに再び広い道をよこぎって鴨田町と小池町の境界道に入る。富本町にはいると道は細くなり二つの二股をともに左にとって国道高師口交差点手前で県道502号に出る。

国道にでれうことなく県道502号をよこぎったところの二股に
十三本塚とよばれる石柱がある。天保7年(1836)建立の道標を兼ねた供養塔で「右大崎 左田原道」と刻まれている。永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で敗れたのち、今川方から松平方へ寝返る者が続出し、これに怒った今川氏真が寝返り者の妻子13人を殺害した。十三本塚はこれらを葬った供養塔であると伝えられる。「十三本」は「トミモト」とも読め、富本町の由来になった。

田原街道は高師口交差点で国道259号に合流し、愛知大学の西側を南下する。空池信号で
野依街道(県道407号)との分岐点にでる。高師緑地公園の北端に道標があって「前豊橋道、 →田原ヲ経テ伊良湖ニ至ル、 ←野依ヲ経テ小松原ニ至ル」と刻まれている。小松原に至る道はすでに潮音寺から分岐する県道405号があった。小松原は表浜街道の要衝であった。

田原街道旧道は空池交差点の先辺りから高師緑地公園に入って国道と並行して南下していた。
公園内の道が旧道跡とされている。公園の南端で旧道筋は途絶え、国道にもどる。

高師駅前で街道は豊橋鉄道渥美線と次第に離れていく。沿道はカーディーラー、ガスステーション、飲食店、パチンコパーラーなどがならぶ典型的な国道風景となる。

なだらかな丘を下って植田橋で梅田川をわたり左の旧道に入る。この道は旧国道で、真っ直ぐに伸びる新国道(植田バイパス)はこの先老津で行き止まりとなって工事進行中である。

植田農協前交差点の先に街道筋の雰囲気を留める民家が見られる。旧道は植田奥の谷交差点で、植田バイパスから迂回してきた国道259号が合流し、車の流れが増える。

路傍はアワダチソウが繁茂している。河川敷に多い外来種だが、その旺盛な繁殖力に在来種の雑草が駆逐された。美しく耕された畑地は
キャベツの緑で覆われている。渥美半島は日本有数のキャベツ生産地である。大中小の株ごとに畑が分けられ、常時出荷できる体制がとられている。

旧道は突然、黄色のコインランドリー前で右の細道に入り塩ノ谷整形外科の裏(北側大崎町伊豆沢と南側植田町関取の町境)を通って大崎インター東交差点で国道にもどる。この気まぐれな迂回は沼などの障害物のせいであったのだろう。

旧道は
老津集落のなかを通っているのだが、どこから国道とわかれているのかはっきりしない。国道「老津山の神」信号で右に折れてみた。植田橋南から直進してきた植田バイパスがここで行き止まり、西にむかって延長工事が進行中であった。この新道は近い将来老津集落の北側をぬけて境橋手前で現国道259号に合流する計画になっている。

工事中区域の傍道をたどり岩塚から落ちついた家並みの老津集落に入る。突き当りを左折し小学校前をすぎると右手に
老津神社がある。街道との間に石垣で盛られた三角地帯は宮脇1号墳で、直径14mの円墳の三分の一に当る。地元豪族の墓と言われている。

老津神社拝殿は重厚で品格を漂わす造りである。

旧街道の面影をとどめる
家並みの中を国道にもどる途中、右手奥に観音堂があって瓦屋根の下に40体近くの石地蔵が二列に整列していた。

老津交差点に老津村
道路元標がある。国道259号にもどり西に進む。

右手の老津公園には
芭蕉句碑が4基もある。

    蛤のふたみにわかれ行く秋そ 
    きてもみよ甚べが羽織花ころも
    旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
    よし野にて桜見せふそ桧の木笠


これらの4句が選ばれた経緯などはわからない。いずれも立派な石碑であった。

旧街道は老津郵便局の先あたりから左にそれて清水川をこえ豊橋鉄道渥美線鉄橋付近で紙田川をわたって右折していたようである。今は境橋をわたるしかない。渥美線は本数が多くて1時間に上下8本の電車が通る。道がなくて鉄橋に近づけない埋め合わせに電車が通るのを待つことにした。

旧街道は境橋をわたりすぐに右折し二股を左にとって天津集落にはいていく。入り口の畑に植えられた
コスモスが満開で出迎えてくれた。道なりに天津(あまつ)集落を東西に通り抜ける。

集落の西端近くに大きな
秋葉講常夜燈が建ち右手に常心寺がある。ここにも瓦屋根つきの細長い祠に36体の地蔵が整列している。老津観音堂脇にみた石仏群と同じように見える。左右に8体二列、中央部に4体の石仏群である。

天津の集落をでると右手には広大な田園がひろがる。田原湾を干拓して開発された新田だ。湾の入江を堰き止めた堤防上を歩く。田原町までの約4キロほどの街道は新田の中を海沿いに一直線にのびる
縄手道だった。

海上から吹きわたってくる季節風で冬は寒さを極めた。芭蕉も12月下旬にここを通った。まさに寒い季節で天津縄手の寒さを身にしみて感じたことであろう。笈の小文の句ではないが、芭蕉は寒さを紛らわす越人のようすを詠んでいる。場所は定かでないがこれも天津縄手で詠んだのではないかと考えられている。

あまつ縄手、田の中に細道ありて、海より吹上る風いと寒き所也。

     
冬の日や馬上に凍る影法師

伊羅古に行く道、越人酔うて馬に乗る
雪や砂馬より落ちよ酒の酔

旧街道は杉山町の新々田と久古下境界をたどって国道に合流、天津縄手の跡を一路田原に向う。

ここで国道を逆にもどり最初の信号を南に折れて踏切りを渡り、松岡集落にある
寶林寺を訪ねる。「南無観世音菩薩」と白抜きされた赤幟がずらりと立ち並んで圧倒されそうである。境内はその派手さを知らぬ顔の静けさで、庭石のならびに芭蕉の句碑があった。

  
冬の日や馬上に氷る影法師

国道に戻ってまもなく右手のJA営農支援センター駐車場脇にも芭蕉句碑がある。

  
すくみ行くや馬上に氷る影法師 

『笈の小文』の句の直前稿である。

知原川に架かる境橋が豊橋市と田原市の境をなす。川は暗渠となっていて、信号をはさんで立つ歓迎標識で田原市に入ったことを知る。

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田原

街道は今田橋で蜆(シジミ)川を渡ったところで左の旧道に入る。大きく右にカーブして国道を潜りぬけ豊鉄に沿って西進すると大坪信号の二股交差点を左にとる。船倉橋東信号の二股を左に取るのが旧道だがすぐに汐川に突き当たって結局県道28号で船倉橋をわたることになる。

橋を渡った左手に旧道が復活しており県道との合流点に立派な
常夜燈が建っている。常夜燈は寛政11年(1799)に建立されたもので元はここからすこし西の東木戸にあった。

田原萱町信号交差点手前で右斜めに折れていく路地がある。このあたりに
東木戸があった。歩道の電柱脇に田原町道路元標がある。角に建つ商家らしい木造家屋は格子造りの風情を残している。

街道はまっすぐ県道28号を進むがここで街道を離れて田原城跡周辺を散策することにする。田原は渥美半島のほぼ中間に位置し海陸交通の要衝にある宿場町としてだけでなく、城下町として栄えた町である。

田原萱町信号を右折して木造時計台の建つ殿町信号で左折する。坂をあがるとすぐに左手に民族資料館、右手に復元された
田原城桜門が出迎える。田原城は文明12年(1480)頃、戸田宗光が渥美半島統一の拠点として築城し、以来、70年にわたって栄えたが今川義元によって攻略され落城した。その後、城主は交代し、慶長6年から戸田尊次が1万石で、寛文4年(1664)には1万2干石で三宅康勝が入城し、三宅氏の居城として栄え明治維新を迎えた。田原城は、かつて海が城の周囲に入り込み入江を形成していたため、その状況が巴文に似ていることから、巴江城とも呼ばれている。

門をはいると左手に
二ノ丸櫓がありその奥に博物館がある。展示物は渡辺崋山関係のものが多かった。ここで館員に野田地区の田原街道の旧道を教えてもらった。下準備では国道259号からどこで宇津江坂に至る旧道に入るのか定かでなかったからである。開口一番、「野田地区は最も大規模に区画整理が行われた地域ですから、厳密な旧道は残っていないと思います」といいつつ明治時代の古地図と照らし合わせながら、最有力候補を示してくれた。

城跡を出て民族資料館の南側の通りを東に入っていく。すぐ左手に「報民倉跡」の立て札があった。「報民倉は、天保6(1835)年に田原藩によって一の御倉、二の御倉の二棟(60坪)が完成しました。領民の勤労奉仕によって建てられた義倉であり、天保7、8年の飢饉では、一人の餓死者も出ませんでした。「報民倉」と刻まれた額が博物館に展示されています。平成19年3月 田原市教育委員会」

すぐ右手の中部小学校が
藩校成章館跡である。石垣の上にりっぱな石碑が設けられている。

小学校の西端で鉤型におれた先の角に
田原城惣門跡の石垣が残っている。となりには現代の報民倉が建てられて周辺は大手公園として整備されている。

惣門跡から西に細い路地をはいっていくと左手に
武家屋敷土塀跡の標識があった。どこがそれなのかはっきりしない。木立の背後に崩れた土塀や家屋が覗かれる。これがそうだろうと推測するしかない。このあたりは武家屋敷地区であった。

そのまま北に歩を進め田原中学の西にある池之原公園に寄る。数奇屋風の池之原会館入り口に「只今呈茶をしています」とあった。我慢して通り過ごす。裏手にお目当ての渡
辺崋山幽居屋敷跡があった。屋敷と自決した納屋が復元され、向かいに崋山の銅像が立っている。

江戸時代後期の画家で洋学者であった田原藩士渡辺崋山は天保3年(1832)家老職に就いた。鎖国日本が西欧の水準より遥かに遅れていることを憂いた崋山は天保10年(1839)幕府を批判した廉で国許の田原で蟄居を命じられた。殖産家大蔵永常の屋敷に2年あまり幽居したのち納屋で自害した。その13年後日本は開国した。

崋山神社、崋山会館の建物を見て田原萱町信号にもどる。西に向かい宿場中心街の本町を過ぎて新町信号で左の路地に入る。途中龍門寺と龍泉寺に挟まれた坂を下りたところに
西木戸があった。龍門寺による「田原城下町入り口跡」の説明板が設けられている。

突き当たりの通りは
寺下通りと呼ばれ、昭和時代の趣を残す路地となっている。龍泉寺の芭蕉句碑をみて街道とは反対側の東に進んで城宝寺に寄っていく。城宝寺は崋山の菩提寺である。山門をはいったすぐ左手に崋山をはじめ両側に母、妻の墓碑が並んでいる。

右手には小山の石垣に格子戸が設けられている。
穴倉とよばれる古墳の横穴式石室入り口のようである。6世紀半ば頃の物と思われる円墳で海に向って築かれていた。頂上部にはかって「船つなぎ松」があったという。昔はこの辺まで海が入り込んでいて、今も寺下通りの南側に東大浜、西大浜の地名が残る。

帰ろうとすると散歩のおばあさんから
崋山霊牌堂の天井画を是非見ていくように薦められた。本堂に上り左手奥に進むと天井に色彩鮮やかなさまざまな花の絵が張り詰められている。日本有数の画家・書家の筆によって描かれたものだという。壁面には水墨画などの掛け軸が展示されていて見ごたえのある一室になっている。

西木戸跡にもどり西に旧街道をたどる。二叉路を左折して清谷川を渡り車道を横切って三叉路を右にとって
八軒家集落を通り抜けていく。横焼板張りの長屋門が街道の風景に情緒を与えている。この辺りは地名を西砦といい、永禄7年(1564)松平(後の徳川)家康が田原城攻略のために加治砦を築かせた場所である。隣接する取手の地名も同様であろう。

一里塚、道標、馬頭観音などの乏しい田原街道では今や常夜燈が重要な旧道の象徴となった感がある。ここにも城壁のような立派な石垣の上に常夜燈が建っていた。

旧街道は田原署前で県道28号に接したのち再び南側にそれて中恩中農高前バス停手前で県道に合流する。

大久保信号で南に折れる県道28号と分かれ旧街道は直進、大久保町集落を東西に通り抜ける。旧道は東久保あたりから北に回りこんで長興寺前を通り籠池から西山にでていた。常夜燈が建つ東久保集会所、門前集会所はその道筋の一部であろう。付近のイチゴ園では一時間食べ放題という大胆なイチゴ狩りが多くの人を集めていた。一時間分の入場料がいくらか確かめなかった。

参道の突き当たりに格式高そうな山門が構え、さらに回廊を配した中門をくぐると泰然として本堂が現れる。
長興寺は室町から戦国時代にかけて田原城主であった戸田家の菩提寺である。鎌倉時代の創建で、山門には元禄7年(1694)再建の銘があった。

国道以北の大久保町は長興寺を対称軸とした放物線の形状を描いている。長興寺から西側にある籠池地区に入る。どれが旧道筋なのかはっきりしない。長屋門の民家にさしかかり突き当りの細道を左に折れると、左手の半ば藪化した空き地に
籠池古墳があった。直径20mの小さな古墳である。

この西側を南下して西山地区の二股を右にとり山裾の道を西に進むと久保町から野田町に入る。このあたりは地蔵坂と呼ばれるところで、田原城をめぐって今川方と徳川方が激突した古戦場である。路傍に小さな窪みがあって石組みが残されている。ここに化粧地蔵とよばれた地蔵堂があったようだ。石塔の一つには
八人塚と刻まれていた。古戦場の名残であろうか。

旧道はこの先三方に分かれる。中の道を進んでいったがますます山手に入っていって集落から離れていくようであった。これが旧道なのかもしれない。戻って左の道をたどるとすぐに国道259号に出た。野田保育園北信号から国道の左側に300mほどの短い旧道が残っている。国道沿いに移転する前の古びた
郵便局が旧道の面影をとどめている。

国道にもどり宮川橋で今池川をわたったところで、左に県道416号が出ている。芦ヶ池の東縁を通って赤羽根に至る道である。芦ヶ池の北西には旧渥美郡で唯一の式内社阿志神社がある。東海道二川宿西はずれに建っている「左渥美奥郡道」「伊良胡阿志両神社道」と刻まれた道標が示す阿志神社である。かなり離れているので寄らなかった。

現在の田原街道である国道259号は野田から北西に向って馬草に出て海沿いに江比間へ下りていた。一方、旧道は野田から直接西に向って田原街道の難所宇津江坂を越えて江比間に出ていた。野田から宇津江坂に至る道筋は定かでないが、田原市博物館で確認した道筋をたどることにする。

国道が緩やかに右にカーブするあたり、
大栄鉄建工業・ディーテックの手前の十字路を左に入る。ここで国道と交差する道は明治時代の地図にもある古い道だそうだ。長屋門の農家が見られる。今方公会堂を通りすぎ、間坂と天神地区の堺をなす川沿いの変則十字路を左折して50mほどですぐに川を渡る。川沿いの道を南下し道なりに右折して山道に入っていく。山越えといっても見たところなだらかな丘陵でいつも感じる緊張感は湧いてこない。

田原街道で唯一の山道、
宇津江坂である。途中、道の左右が大きく開かれた箇所があった。山崩れでもあったのか、頂上からふもとの田圃まで幅30mほどにわたって山肌が露わになっていた。きれいに整地されていて道路でもつけるのではと思われるほどだ。

まもなく峠にさしかかった。野田から宇津江に入る。峠の前後だけ両側に石垣が築かれていて旧街道の風情を感じさせるが、歴史街道としての案内板や峠を示す標識の類は見当たらなかった。

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保美(渥美)

坂を下って宇津江町の南端を直線的に通り抜けると江比間町に入る。旧道は引き続き国道の南側を並走する気持ちよい山道である。西に進んで今掘川の手前で国道に合流して泉橋を渡る。

橋を渡って右手に残る弓なりの旧道に入る。すぐに国道を斜めにわたって南側に移ったところで左にでている成道寺参道入口に享和3年(1803)建立の
常夜燈が立つ。

そのさきの十字路を右折して江比間集落の中心街を通り抜ける。普通は側にある溝が、ここでは道の中央にが設けられている。下水道か。越後の三国街道でみかけた消雪パイプ溝のようでめずらしい。

途中の丁字路に
高札場跡がある。遺構の足元に泉村道路元標があった。道はそこでこころもち曲尺手の気分で進んでいく。県道419号にぶつかって左折、すぐに右におれて左折する。おそらくかっては県道419号に突き当たったところからこの地点まで一本の道がつながっていたのだろうと思う。

以後は道なりに江比間町二字郷中と江比間町三字郷中の境を西に進んでいく。
紺屋川をわたると女郎川という地区にはいる。花街でもあったのか、橋向こうは風情あるたたずまいである。

なお、国道が紺屋川をわたる橋名が
「酔馬橋」とある。馬が酔ったのか、馬に酔ったのか、あるいは馬上の人が酔っていたのか、気になる名だ。芭蕉は伊良湖への道で「雪や砂馬より落ちよ酒の酔」と詠んでいる。これを意識した名かもしれない。

新堀川を渡って泉中学の西端で女郎川をわたると伊川津町に入る。すぐの二股を右にとって伊川津交差点で国道を横切り伊川津の町中を南西に向って通り抜ける。

旧道は伊川津町集落をぬけ大川をわたった先の二股を左折して国道に合流する。1.5kmほど行った高木東交差点で左におれていく国道と分かれ、そのまま直進し高木集落を通り抜ける。浜沿いの漁村の香りがただよう街道をすすみ清田小学校の先で二股を直進する細い道に入る。永井畳店前の二股を左にとり曲尺手状に曲がった後二股を右にとって坂を下ると県道420号に出る。

途中に常夜燈のある風景を何度かみた。人が通った跡を感じ取れてなつかしい気分になる。犬のマーキングをたどっているようだ。

県道を左折していくのが旧道筋である。県道をよこぎって免々田川(めめだがわ)堤防に上がってみた。右手、水門の向こうは
福江港である。かっては伊勢、尾張、三河の各地をむすぶ海上輸送の拠点として賑わった。県道を左におれると古田から福江町に入る。かっての畠村で旧渥美町の中心地である。

福江橋の一つ手前の十字路右手に
安政3年(1856)の常夜燈が建っている。民家に挟まれた凹み地に身を隠すようにあって、その前で気付かなければそれまでというあやうさである。かっては建物もない見晴らしよい場所で灯台の役目をしていたものであろう。

同じ十字路を左にすすむ道は
城坂と呼ばれ、坂を上がったところに大垣新田藩の畠村陣屋があった。跡地はなにもない広い空き地であった城坂界隈には料亭、旅館など風情ある一角をなしている。遊郭らしき家屋も見られたがかっての賑わいはその断片さえない。

旧道は福江橋をわたりそのまま西へ向うのだが、左手にある
潮音寺をたずねるために一筋南に移動する。潮音寺本堂の左手脇に芭蕉の愛弟子杜国の墓と三吟の句碑がある。

麦生えて 能隠れ家や 畑村 芭蕉
冬をさかりに 椿咲く也 越人
昼の空 蚤かむ 犬の寝かへりて 杜国


畠村は俳諧の盛んなところで、毎年4月10日に潮音寺で杜国祭が行われる。杜国は本名を坪井庄兵衛といい、名古屋御薗町の富裕な米穀商であったが、空米売買の罪に問われ畠村に流刑となった。元禄3年2月20日、34歳の若さで死去、潮音寺に葬られた。

芭蕉は俳文「保美の里」を残している。

此里をほびといふ事ハ、むかし院のみかどのほめさせ玉ふ地なるによりて、ほう美といふよし、里人のかたり侍るを、いづれのふみに書きとヾめたるともしらず侍れども、かしこく覚え侍るまゝに、

梅つばき早咲ほめむ保美の里

いらござきほどちかければ、見にゆき侍りて、

いらご崎にる物もなし鷹の声
 

潮音寺裏の旧街道にもどる。街道筋の雰囲気をのこす家並みが見られる。旧道は水戸橋をわたった先の十字路を左折、右にカーブして県道421号を横切り一直線に南西に向って西原交差点で国道259号に合流する。

ここで国道を逆戻りして杜国の保美での隠棲屋敷跡を尋ねる。保美交差点のひとつ東側の小さな十字路に「杜国屋敷跡」の標識がある。南に細道をたどっていくとまもなく道の左手に杜国公園が整備されていて
「杜国屋敷址」の標柱が建ち、「春ながら名古屋にも似ぬ空の色」の句碑がある。

芭蕉は杜国を夢に見て泣くというほど杜国を愛していたという。

国道にもどり天白川に架かる大辻橋をわたって保美町から亀山町に入る。橋の西詰で国道をはなれ、北側に出る。最初の道を左折して亀山集落にはいっていく。旧道の南側は
札の辻という地名だ。二つ目の三叉路を左折すると二股に出る。札の辻・起・本畑の3地区が接する地点で、ここに高札場があった。

旧街道はこの二股を右にとって亀山小学校前を通過して国道梅藪信号交差点の手前で国道に合流する。途中、長屋門や常夜燈など亀山町を貫く旧道にも趣を残した風景を見ることができた。

いよいよ渥美半島西端の町伊良湖に入る。

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伊良湖

保美村より伊良古崎へ壱里計も有べし。三河の國の地つヾきにて、伊勢とは海へだてたる所なれども、いかなる故にか、万葉集には伊勢の名所の内に撰入れられたり。此洲崎にて碁石を拾ふ。世にいらご白といふとかや。骨山と云は鷹を打處なり。南の海のはてにて、鷹のはじめて渡る所といへり。いらご鷹など歌にもよめりけりとおもへば、猶あはれなる折ふし
 
  
 鷹一つ見付てうれしいらご崎

国道が左にカーブするところ、水路の手前で左に初立ダムに通じる道路が出ている。ダムの堰堤下に国史跡伊良湖東大寺瓦窯跡がある。巨大な足跡を川原石で囲んだような史跡だ。平安から鎌倉時代にかけて盛んに生産された渥美古窯の一つで、「東大寺大佛殿瓦」と刻印された軒丸瓦や軒平瓦が出土された。建久6年(1195)東大寺大仏再建の際に焼かれたものである。西行が二見ヶ浦から海を渡り伊良湖に上陸し、表浜街道からはるばる奥州まで、砂金勧進の旅に出た頃のことである。伊良湖は東国と伊勢、大和を結ぶ交通の要衝であった。

瓦窯跡の反対側を振り向くと遠くにあたかも古墳のような小山がなだらかな稜線を描いている。山頂に一つ、右側の山裾に一つ、かすんで小さく見える建物はレジャーホテルである。風力発電機が田圃の中に一本、のどかな風景である。田原街道の旅も終点に近づいてきた。

国道が右に曲がるところの伊良湖神社北信号交差点を左に入って道なりに細道をたどっていくと林の中に鎮座する
伊良湖神社にたどり着く。創建は嘉祥元年(848)と伝わる古社で、野田の阿志神社と共に渥美を代表する神社である。東海道二川宿の追分道標が記していた「伊良胡阿志両神社道」はこの両社をいう。

伊良湖シーサイドゴルフ場駐車場近くの国道沿いに
芭蕉の句碑公園がある。昭和58年渥美町によって建立された句碑に、笈の小文の一句が刻まれている。その碑の撮影に心を奪われていて、同所にもう一つの句碑があることを忘れていた。高い岩の上に立つ方形石柱の碑で、こちらは寛政5年(1793)とう古い句碑である。当地の俳人が芭蕉来訪100年を記念して建立したといわれる。
  
   鷹一つ見付てうれしいらご崎

貞亨4年(1687)旧暦11月12日、芭蕉は杜国、越人と連れ立って伊良湖岬に遊んだ。伊良湖を渡る鷹に杜国をかけて芭蕉は愛弟子との出会いの喜びを句にした。

二人は伊良湖でわかれるがこの時越人の目を盗んで密かに後日の密会を約していたのである。翌春杜国は密かに船で鳥羽に渡り上野に帰郷していた芭蕉を訪ねた。春、二人は吉野山の桜見を第一歩として大阪、須磨、明石、京都、近江と禁断の旅に出た。


弥生半ば過ぐる程、そゞろに浮き立つ心の花の、我を導く枝折となりて、吉野の花に思ひ立たんとするに、かの伊良古崎にて契り置きし人の伊勢にて出迎ひ、共に旅寝のあはれをも見、かつは我が為に童子となりて、道の便りにもならんと、自ら万菊丸と名をいふ。まことに童らしき名のさまいと興有り。いでや門出のたはぶれ事せんと、笠のうちに落書す。

乾坤無住同行二人

  よし野にて桜見せうぞ檜(ひ)の木笠
    
    よし野にて我も見せうぞ檜の木笠  万菊丸

その赤裸々な心の昂ぶりを見よ。万菊丸とは芭蕉が杜国につけた童名である。「菊」は衆道(男色)を象徴する。なんと即物的な隠語ではないか。芭蕉はあからさまであった。

田原街道(国道259号)は右手に大きなリゾートホテルをみながら
伊良湖港入口交差点で渥美半島の太平洋側を走ってきた表浜街道(国道42号)と合流する。右におれると道の駅クリスタルポルトに着いて道が尽きる。田原街道の終点である。ここから船で鳥羽へ55分、知多半島師崎港まで30分、そして神島まで15分。

鎌倉時代、西行は鳥羽から伊勢湾を渡りここで船を降りて陸路、表浜街道−東海道−奥州街道とはるかな東大寺再建勧進の旅に出た。神島乗船場近くに
西行の歌碑がある。 

    浪もなしいらごが崎にこぎ出でて われからつけるわかめかれあま

江戸時代、杜国はここから船に乗り、密かに芭蕉の後を追った。鷹はここから空路南国や大陸めざして飛び立っていく。

街道歩きはここで終わる。 ここからは結婚40周年記念観光旅行である。ようやく妻が眠りから覚めだした。

まずは伊良湖ガーデンホテルリゾートスパにもどってバイキング昼食。レストラン支配人に鷹の渡りのことを聞いた。見られるのは9月下旬から10月上旬まで。しかも飛び立っていくのは日の出直後のしばらくの時間だけ。渡らなかった鳥は夕方になると宮山原始林に戻っていくそうだ。10月下旬近くのまっ昼間に来ても何もみられないと。来年是非ここに泊るように薦められた。

ホテルの前庭に
柳田国男の逗留記念碑があった。明治31年(1898)の夏、東京帝大の学生だった柳田國男は、渥美半島出身の画家の紹介で伊良湖網元の離れ座敷を借りて1カ月余り逗留した。網元の家はこのホテルの敷地内にあった。昔の学生は2泊3日とか3泊4日といったみみっちい旅をしない。夏休み全部を使い切るスケールがある。伊豆の踊り子に出合った学生もそうだった。

彼が歩いたという恋路ヶ浜へ降りる。モニュメントがあって、
恋路ヶ浜は「日本の白砂青松100選」「日本の道100選」「日本の音風景100選」「日本の渚100選」に選ばれていることを誇っている。

灯台から日出の石門までの約1kmの砂浜を「恋路ヶ浜」となづけた。観光誘致策として付けられたものではなく、古い時代の高貴な男女が恋ゆえに都からこの半島に駆け落ちしてきたという伝説に由来するものである。必ずしも恋が実るという前向きの話ではない。それでもここは「恋人の聖地」になった。


傾き始めた西日の影にかがやく浜辺は恋心をくすぐる情景ではある。沖に浮かぶ神島のシルエットも叙情歌的である。

太陽の方向に歩いていくと白亜の
伊良湖岬灯台に至る。昭和4年の建設で高さは15m。「日本の灯台50選」の一つである。

灯台と神島の間に船のシルエットが入るタイミングを待ってしばらく休んだ。も画題を求めてデジカメ操作に忙しそうだった。

灯台の背後に山道がついていて上り詰めると遊歩道にでる。すこし左にいった山側斜面に
万葉歌碑がある。伊良湖は杜国の流されたはるか以前、天武朝の時代に皇族麻続王(おみのおおきみ)が流された地でもある。

  うつそみの命を惜しみ浪にぬれ伊良虞の島の玉藻刈り食す
    (この世の命が惜しさに私は波にぬれてこの伊良湖の島の海藻を刈って食べているのです)


貴人にしてはなんともいじましい惨めな姿ではある。

遊歩道を東にもどる。一段高いところから見下ろす恋路ヶ浜も美しい。
柳田は恋路ヶ浜を散策中、偶然どこからか流れ着いた椰子の実を拾った。帰京後この話を親友の島崎藤村に語ったところ、藤村から「君、その話を僕に呉れ給へよ、誰にも云はずに呉れ給へ」と頼まれ柳田は承諾した。2年後藤村は「椰子の実」を発表した。昭和に入ってその詩に曲がつけられ国民歌謡として全国に放送された。

国道42号から日出の石門に下りる遊歩道の途中に
椰子の実記念碑がある。記念碑は新旧二つあって、古い碑のそばに聳える椰子の木は昭和54年、北マリアナ諸島より放流した椰子の実が漂着した記念として植樹されたものだという。それに触発されたのか、昭和63年から沖縄県石垣島から椰子の実の投流実験が始まった。14年目の2001年8月、初めて渥美半島の浜辺に石垣島の椰子の実が漂着した。以来椰子の実放流は石垣島の年中行事となっているらしい。

    名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ  故郷の岸を 離れて 汝はそも 波に幾月
    旧の木は 生いや茂れる 枝はなお 影をやなせる  われもまた 渚を枕 孤身の 浮寝の旅ぞ
    実をとりて 胸にあつれば 新なり 流離の憂  海の日の 沈むを見れば 激り落つ 異郷の涙
    思いやる 八重の汐々 いずれの日にか 国に帰らん



新しい碑には音符が付いている。

そこからながめる神島の風景もロマンティックだった。多分妻は絵のことしか考えていない。


海に突き出している岩に登ると眼下の海中に
日出の石門が波を受けていた。岩は思ったほど大きくなく、その上角度が十分でなくて洞窟がよくみえなかった。日の出の時間、岩の影絵と共に、穴から漏れる朝日が美しいのだという。

左の方角にはこちらも恋路ヶ浜に劣らない美しい日出町浜が延びている。この砂浜を擁する海岸線は延々浜名湖まで50kmにわたり、
片浜十三里と呼ばれている。西行が通った表浜街道筋である。



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寄り道

神島


神島は伊良湖岬の西方約3.5kmの伊勢湾口に位置し、周囲約4kmの山である。昔は鳥羽藩の流刑地で志摩八丈とも呼ばれた。神島はまた、歌島(かじま)、亀島、甕島などと呼ばれた。歴史は古く、八代神社の神宝は古墳時代に遡るという。

三島由紀夫はこの島を舞台に『潮騒』を著した。小説では「歌島(うたじま)」としている。その後小説は5回も映画化され、島で撮影が行われている。同世代の映画は吉永小百合主演の第二作(昭和39年)、すこしおくれて山口百恵が初江を演じた。島内の主要ロケ地には「潮騒」案内板があって、挿入されているスチール写真は吉永小百合のものである。

神島は恋路ヶ浜とともに「恋人の聖地」に選ばれている。ただしこの聖地選定主体はブライダル業のコマーシャリズムと強く結びついたものであって個人的には評価していない。

伊良湖港から「かみしま」に乗船し15分で神島港に着く。しばらくは波静かな水道もしだいにうねり始め小さなボートの全体を大きく揺すぶる。気持ちの悪いものだ。満員の船内に観光客らしい者は数人で、他はすべて釣道具一式をかかえた重装備の釣客である。川辺でひねもす糸をたれる太公望のイメージからはほど遠い闊達な人たちであった。

湊に到着する。山の斜面にへばり付くように家が立ち並んでいる。上陸すると早速大きな「潮騒」案内板があった。
郵便局前の細い路地を入る。竜飛岬の袋小路のような道である。突き当りを左におれた辻に時計台跡がありレトロな時計が今も時刻を刻んでいる。10時18分。伊良湖を10時に発って着いたところだ。帰りの船は11時と14時、16時半。島を一周するには2時間はかかる。昼食でもすれば4時間コースが手ごろであろう。

時計台から坂道がはじまりまもなく
洗濯場に来る。案内板には島の女性達が世間話に興じる様子が記されている。そのすぐ上、左手の家が時の組合長だった寺田氏宅で、そこに三島由紀夫が逗留した。

階段を上がりきったところから左におれると
八代神社参道の長い石階段に出る。途中の見返り風景がよいことは三島も推薦しているところである。港から斜面に這い上がる町並みが一望できる。

石垣を右に回りこんで社殿に至る。神社にはめずらしいクリーム色のモダンな社殿である。案内板には若い二人がそれぞれの愛を祈っている写真が添えてある。

神社の裏手から本格的な登山道にはいる。島の西側を見下ろす山腹をめぐるとやがて思ったより背の低い
灯台が見えてきた。場所自体が十分な標高を得ているため、それ以上背伸びする必要がなかったのだろう。

ここに
「恋人の聖地」のプレートが貼り付けてある。英文での説明書きがあってBridal Mother と称して選定主催者の名が署名されている。いかにもセレブ志向の商業主義が臭ってくる代物だ。下り坂に向う側にはカメラ台が設置されている。三脚を持ってこなかった訪問客のためだろう。そこにカメラを乗せて妻の記念写真を撮った。

下り道は
木製の階段である。何段あったか、ずいぶん降りて膝が笑い出しそうになったころ、神島観光のハイライト監的硝にたどりついた。亡霊が現れ出そうなコンクリートの箱である。繁みで窓からの見晴らしはなく、薄暗い空間の中央に方形の窪みがあった。初江がそこで焚き火をして浴衣を乾かすのである。その後、信じられないほど清らかな愛のシーンが展開する。

今の二人もしばらくそこで時間を費やした。脚を休めるためである。

階段下りを再開、まもなく視界が開けて左手に
カルスト地形の岩場が現れ絶壁の下に狭い浜がみえてくる。ニワの浜という。ニワとは何か、広辞苑を開けて「波の平らかな漁業を行う海面」とあるのを見つけた。多分これだろう。海中に落ちそうな岩場で釣をする人が二人いた。望遠レンズで撮る。「かみしま」に乗ってやってきた釣り人だろうか。

階段は終わってなだらかな下り道を降りていくと祝が浜に出る。
八畳ヶ岩とよばれる巨大な岩が海中に横たわっている。進むと二つに割れていることがわかる。

その先の砂浜は
古里(ごり)の浜で、海女達が胸を露わにして乳房を競い合った。その時吉永小百合はどうしていたか。

海に迫る岩には皺のような地層がくっきりと残っていて、海底からの隆起を想起させる。

道はその先二手に分かれ、右に折れて山中にはいっていく。湊への近道のようだ。途中に
鏡石とよばれる岩がある。さざれ石が岩となった体だが、昔、島の女性がこれに油を塗って鏡にしたと伝わっている。古里の浜に帰ってくる夫を迎えるため、ここで髪を整え化粧をして浜まで降りていった。万葉の情景を髣髴とさせる話である。

神島中学校跡地を通り過ぎて集落にもどる。まだ帰りの船まで1時間を残していた。近くの民宿で昼食をとる。小雨が降り出してきた。記念旅行の目的は果たせたように思う。

(2010年10月)
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