東海道−7



藤川−岡崎知立(地鯉鮒)鳴海宮(熱田) 
いこいの広場
日本紀行

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藤川

なだらかな峠をこえると岡崎市に入り、急に人家が復活する。本宿町深田の信号左手に本宿碑がありその先に詳しい説明板が建っている。鉄道と道路が集中していることからもわかるように、ここは丘陵地帯の鞍部にあたり古代東海道も通っていた交通の要衝である。本宿町の東隣にある山綱町には古代東海道の駅家があったと考えられている。

歩道に立つ冠木門を通り県道473号を横切った先で国道歩道をはなれて、左斜めに出ている旧道で本宿町内に向かう。すぐに行基上人開基の古刹
法蔵寺がある。徳川家康が子供のころ、ここで手習いを学んだという。境内に赤地に白抜きで「誠」の一字が書かれた幟がたなびいているのは、裏山に近藤勇の首塚があるからだった。

その先冨田病院の前に
「本宿陣屋跡と代官屋敷」の案内板が立っている。正面の病院が陣屋跡で、その右側に残る江戸時代の建物が旧代官屋敷である。煙り出しを置いた大屋根主屋に土蔵が二棟見える。背後の屋敷林にも巨木がそびえている。富田家が代官職を世襲した。

国道本宿駅東信号に通じる丁字路手前に格子造りの長屋門付き建物が目をひく。
神谷合名会社とかかれた古い表札が架かっている。味噌醤油醸造会社の社屋らしい。白ペンキ塗りの半格子に板壁の組み合わせは長屋門からのイメージにモダンな風味を与えている。

交差点角の火の見櫓下に
本宿村道路元標と説明パネルがある。「旧道路法(大正9年4月1日施行)によって、各市町村に一ヶ所、道路の起終点、経過地を表示するために設置され、里程の基準になりました」

駅前交差点の字名は「一里山」ですぐ右手に
一里塚跡碑が立つ。

落ち着いた家並みがおわるころ、
宇都野龍碩という蘭方医宅の長屋門が残されている。間口はそれほど大きくないが暖色の土壁が愛らしい。

旧道は本宿町沢渡信号で国道1号に合流する。500mほど左側歩道をあるき東海中学入口信号で国道をわたり反対側歩道に移る。水をはった田圃を背景にして
名鉄名古屋線がすぐそばを走っている。しばらく休憩して赤い電車が来るのを待った。

国道歩道から降りるように右側の旧道にはいり舞木町の町並をぬけていく。
舞木西信号で国道に合流、左の農道にはいっていくと
山中八幡宮の参道に出る。大きな常夜燈からこんもりした社の森に立つ赤鳥居をながめて引き返した。

右手遠くに名鉄の赤電車や白電車がたむろしているのが見える。ゆっくりと動いているもの、じっと止まっているものなど。車両検査場だそうだ。

市場信号交差点の先で左の旧道にはいりようやく藤川宿にたどりついた。
すぐにでてくる二股の左側が
藤川宿東棒鼻跡である。地名の「馬面」が面白い。棒鼻は左右に石垣を築き道を狭めている。復元された棒鼻と広重の図を比べると、石垣だけでなく柳を植え細長い標柱を建て、復元にあたっては広重の絵に似せようとした努力の跡がうかがえる。

二股の右側の道沿いに当地特産の
むらさき麦が栽培されていて、ちょうど淡い紫に色付いた麦の穂が垂れていた。芭蕉の句にも詠まれている

   
ここも三河 むらさき麦の かきつはた

棒鼻の細い道はすぐに右に折れて二股の右の道に合流する。桝形になっていたのだろう。

古い建物が残る藤川宿の町並を西に進んでいく。藤川宿は東の市場町と西の藤川町からなっている。市場町東町から藤川町中町にはいってすぐ右手、小林米店の隣が問屋場跡、左には出格子に軒卯建があがる銭屋(よろづ屋)、右側にもどって藤川宿第二資料館になっている
森川本陣跡、続いて藤川宿(第一)資料館となっている大西脇本陣跡である。この門だけが江戸時代の遺構である。当時の脇本陣は今の4倍の建坪を有していた。なお、裏手にまわると本陣の石垣が残っているという。たかが石垣と、見過ごしていったが、立派なものらしい。本陣の建物自体が残っていないだけに遺構として見ておくべきだった。

このあと、藤川宿の名残をとどめるのは藤川小学校の前の
西棒鼻の跡。片方だけの石垣が復元され、その脇には名残を惜しむかのように道標、宿域傍示杭などが並んでいる。道の向かいにも紫麦が植えられている。

十字路斜交いに
十王堂があり、格子窓から真っ暗な内側をフラッシュで撮ったら、数体の仏像が写っていた。隣に芭蕉の句碑がある。

   
ここも三河 むらさき麦のかきつばた

すぐ先の民家の石垣に
藤川一里塚跡の札が立っている。

名鉄踏切手前の二股に
吉良道道標がある。東海道は右の松並木を行く。ここまで海風の影響があるとも思えないが、みな揃ったように右側(北側)に傾いて生えている。

松並木はまもなく終わり藤川西の信号で国道1号に合流する。

国道の前方に岡崎市街地の広がりがみえてきた。1kmほど進んだところで左の旧道に入る。わずかながら
美合新町には松並木が残っている。美合新町の信号で松並木は途絶え、ここから先は道幅がさらに細くなる。

県道48を横切り山綱川の手前に、
源氏蛍発生地の碑と芭蕉句碑があるとのことだが、見つからなかった。後で、これらは国道1号、蛍橋の袂に移設されたと聞かされた。源氏蛍発生地は他にたくさんある。そこで、源氏蛍の前に地名をつけて、どこそこ源氏蛍発祥地とする例が多い。これだと紛争の種にはならないだろう。ここは「岡崎源氏蛍発祥の地」である。蛍のDNAは場所によってちがうのかなあ。

旧道は乙川で途絶。右に迂回して国道1号の大平橋をわたる。昔は途絶地点から対岸に旧大平橋が架けられていた。対岸にはそれらしい痕跡が残っている。橋を渡ってその場所へ行く。大平川水神社が旧道筋の証人として建つ。


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岡崎

神社脇の路地を進むと大平町東交差点に出、旧道はそのまま国道1号を横切る。郵便局の角を右に入ったところに白壁の塀がまぶしい西大平藩陣屋が復元されている。旗本だった大岡越前守忠相は寛延元年(1748)、前将軍吉宗の口添えもあって72歳という高齢で1万石の大名となった。遅咲き大名の悲哀か、わずか3年後の宝暦元年(1751)に亡くなった。以降廃藩置県まで7代にわたって大岡家が領地を治めた。

すぐ先の大平西町バス停そばに
大平一里塚がある。現存しているのは南塚だけである。塚木の榎は昭和28年の台風で倒れたため、二代目榎画が成長しつつある。

街道は国道に合流した後、右の傍道で岡崎IC導入路を潜り抜け、岡崎インター西交差点で県道26号を渡って右手の旧道にはいる。交差点角にまだ新しい「東海道」と刻まれた石柱がある。川沿いの旧道はすぐに国道に接しながら上り坂となりまもなく国道から離れて右に曲がり岡崎市街地に入っていく。
 
若宮町にはいった三角地帯に冠木門が立ち、その下に「岡崎城下二十七曲り」の記念碑がある。17世紀初頭、岡崎城下が整備されたとき、防衛上の観点から城下54町を通り抜ける東海道の道筋に27ヶ所の曲りを作った。偶然か1曲がりにつき2町をつなぐ計算になる。

道草を喰いながら旧街道の二十七曲りをたどっていくことにしよう。

1.まず最初の曲がりとして冠木門の先の十字路を右折する。

2.すぐ先の若宮町2丁目信号交差点(投町角)を左折する。角に「岡崎城下二十七曲 欠町より投町角 岡崎城東入口」と刻んだ石標があり、そばに一足の草鞋を乗せた標柱が立って側面に
「これより次の両町角まで650m」と記されている。この石標と草鞋標識はこの先要所に設けられていて旧街道の案内役を務めることになる。ここにも二十七曲がりの説明碑が建っていた。

江戸時代の岡崎の町は東海道の宿駅として栄えましたが、市民病院跡地である若宮町の当所は、岡崎宿内の東端に位置する投町(なぐりちょう)と呼ばれた場所でした。東海道の往還は、当所の南で欠村から宿内に入り、この置で西方へと大きく曲がり、宿内の中心へと進みます。その曲折点は岡崎城下二十七曲がりの一つに数えられます。十九世紀初頭の記録である「享和書上げ」によると、投町には総家数117軒とあり、綿打商、穀商、紺屋、豆腐屋、古手屋、莨(たばこ)屋、酒屋、小間物屋、綿商などの店がか軒を並べていましたが、なかでも茶屋がか多くあり、茶屋で売られていたあんかけ豆腐の「あわ雪」は東海道往来する人に当宿の名物として賞翫されました。

3.右手に根石観音堂をみて両町3丁目交差点をわたり両町2丁目の次の交差点を右に曲がる。角には「両町より伝馬町角」の標石と、「これより次の伝馬町角まで80m」の草鞋標識がある。

4.一筋分の距離80mを進むと伝間通りにつきあたり、そこを左折して西に向かう。草鞋標識に
「これより次の伝馬通1丁目角まで660m」とある。

伝馬通5丁目、4丁目の交差点を通過、「伝馬4丁目西」交差点を左折し最初の路地を左にはいったところに優美な姿の伝馬町常夜燈が建つ。享和3年(1803)建立で、台座には「傳馬町」の文字が深々と刻まれている。空襲で町は焦土と化した中で唯ひとつ戦禍を免れた。

伝馬通りにもどり、伝馬交差点にさしかかる。このあたりが宿場の中心だった。右角の
花屋が東本陣(服部家)跡である。対角に店を構える備前屋は創業天明2年(1782)の老舗菓子舗で、当時街道の名物だった淡雪豆腐(淡雪にみたてた餡かけ豆腐)を模した和菓子「あわ雪」を今も作っている。店先には杉山家脇本陣所蔵の石道標おの複製が設けられている。「左信州道」とあるのは足助街道のことで、東海道と中山道塩尻宿を結ぶ重要な街道であった。また、店舗壁には岡崎宿の町割りが示されていて、三軒の本陣、鍵屋脇本陣、備前屋の名が読み取れる。

通りの右手、市川メガネ店が鍵屋脇本陣跡。備前屋はもともとその隣にあった。伝馬町1丁目交差点角のコンビニが西本陣(中根家)跡である。

通りの左手には備前屋のすぐ先に
旧糸惣(紙屋)と現役の永田屋(肉屋)が並んで古い家並みを残している。その先に「逸品館 伝馬本陣」とある店がもう一つの大津屋本陣跡にあたる。


伝馬信号から伝馬町1丁目信号の間、通りの左右には幾つかの愛嬌ある小さな
石像と説明板が対になって設置されていて、「お茶壺道中」、「朝鮮通信使」、「助郷」、「飯盛女」、「御馳走屋敷」、「旅籠屋」などといった街道用語のわかりやすい解説がある。「旅籠屋」の解説によれば岡崎宿は旅籠屋の数が112軒と東海道53次中3番目の規模を誇る宿場で、また岡崎女郎でも有名であったという。

5.岡崎宿西本陣跡の交差点を左折する。
「次の六地蔵下り口まで60m」と記された草鞋標識が立つ。

6.一筋行った十字路を右折する。角に、「東京みち」「西京いせ道」「きら道」と彫られた明治2年の道標があり、草鞋標識が「次の籠田総門碑まで170m」と知らせる。まもなく右手に見えてくるしょう洒な洋風レンガ造りの建物は、岡崎信用金庫資料館で旧岡崎銀行本店である。赤レンガと御影石の組み合わせは一つの典型になっている。


岡崎信用金庫資料館の向かいの空き地には、昔岡崎藩の御馳走屋敷が建っていた。間口が15間以上もある立派な屋敷でいわば岡崎藩の迎賓館といった外交施設である。特に勅使や宮様、御三家、老中、所司代、お茶壷、朝鮮通信使などの高位高官の一行が岡崎宿を利用する際の接待には岡崎藩から家老がこの屋敷に出向いて丁重にあいさつしたという。

7.街道は広い道に出、中央分離緑地に城の東の出入口であった
籠田惣門跡の碑がある。道はここを右折、籠田公園内をつっきって連尺町角に出る。

8.連尺通を西に折れる。角に「篭田町より連尺町角」の石標が立つ。

9.大通りを横切り、左手シビコの向かいに「岡崎城対面所角」の石柱が立つ細道に入る。草鞋標識に「次の材木町口木戸前まで80m」とある。

10.80m進んで突き当りを左折する。角に「次の材木町角まで100m」と書かれた草鞋標識が立つ。この材木町角までの100mの間には3曲りが省かれている。

11.街道は10mほどですぐ右折、

12.小料理千恵前に突き当たり左折、

13.最初の十字路を右折、材木町の通りに出る。

14.ここが材木町角だがあたりに標識らしきものが見当たらない。ここを左折して材木町を西に進む。

15.やがて柿田橋の手前右手に
唐弓弦(とうゆみづる)の屋根看板をかかげた古い町家が残る。唐弓弦とは綿を打つ道具である。うだつをあげ1、2階ともに連子格子が美しい建物だ。道は柿田橋の手前で伊賀川沿いに南へ向かう。

16.左手に白山神社をみて
三清橋にさしかかる。橋の袂に「下肴町より田町角」の石柱がある。右折して橋を渡る。

17.二つ目の路地を左折、住宅街をぬけて国道1号に出る。歩道上に
「田町角」の石柱がある。旧道は途中で右折、左折を経て現国道に出ていたようだが、宅地の開発で道筋は失われた。

18.旧街道は田町角を右折し、国道1号を東に進んで

19.現国道248号の手前の道を南に行くのだが、ここで寄り道をして
岡崎城に寄っていく。

国道1号に沿って復元された
大手門が堂々とした姿で構えている。白壁がまぶしく映える城壁の中にはいると跡地は岡崎公園として整備され、前庭の中央に家康像が建っている。岡崎城は15世紀半ば西郷頼嗣が築いたのが始まりで、のちに家康の祖父である松平清康が入城し本格的な岡崎城を構えた。

天文11年(1542)12月26日、徳川家康はここ岡崎城内で誕生した。江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重系統/前本多)、水野氏、松平氏(松井)、本多氏(忠勝系統/後本多)と、歴代譜代大名が城主となった。石高は5万石と少なかったが、大名は岡崎城主となることを誇りとしたと伝えられる。


石垣縁にたつ「木のもとに汁も鱠も左久良哉」の芭蕉句碑をみて内堀をわたると本丸跡に岡崎東照宮龍城(たつき)神社と昭和34年に復元された三層の天守閣がある。神社境内には七五三の参詣客にまじってマスク姿の巫女が世相を反映していておかしかった。

城は南を流れる乙川に接していて
舟着場が築かれていた。跡には「御城下舟着場跡」の石標と、花崗岩で帆掛け舟を模ったモニュメントがある。古謡に「五万石でも岡崎さまはお城下まで舟が着く」と謡われ、岡崎は石高こそ高くないが格式の高さを誇りにしており、城に接岸できる帆掛け舟は「五万石舟」とよばれた。

公園の西南口付近に大きな藤棚がある。三本寄せ植えの巨大な株からお化け蛸足のような幹が天に向かって八方に伸びたっている樹相は異様である。7株のうち最大のものは幹周2.4m、枝は11mもあるという。ここでも
「五万石藤」の名が付けられている。


20.岡崎城の見学を終え、西南出口から「板屋町角」の石柱が立つ街道筋にもどる。板屋町角を西に折れて中岡崎町信号で国道248号を渡った左手に
松葉総門跡の碑がある。岡崎城西出入口だった。

愛知環状鉄道の高架をくぐった十字路角に「八帖村」の石柱がある。岡崎城から八丁の距離にあることから、この村が八丁村と呼ばれるようになった。八丁村は
八丁味噌の発祥地で、今も左手に大田商店まる屋が、右手には資料館を併設するカクキューが味噌造りを続けている。建物が派手なカクキューに立ち寄った。

「宮内庁御用達」の金文字と味噌樽のラベルが目立つ本社事務所脇から構内に入る。通常、機密と安全保持の理由で立入り禁止が原則の工場内に、自由に入れる開放的な会社である。構内は本社社屋とは対照的な古風な味噌蔵が立ち並び、その一つが資料館として開放されている。発酵蔵には大きな樽が並び、上部には矢作川から採ってきたという丸味をおびた重石が円錐形に山積みされている。こうして2年間も寝かせるのだという。石積は専門職人の手によるもので、地震でも崩れないそうだ。

旧街道にもどる。カクキュウの裏手通りは黒板壁の味噌蔵と光円寺の白漆喰塀に挟まれた風情ある路地で「八丁蔵通り」と名づけられている。

21.街道は次の通りで突き当たり、右に折れて矢作橋に向かう。突き当りには「右 西京」「左 江戸」と彫られた新しい道標が設けられている。カクキュウ当主早川久左右衛門が昭和61年に寄進した。

22.国道1号を左折して
矢作橋を渡る。矢作橋は、瀬田唐橋、豊橋と並んで、東海道三大橋のひとつであった。江戸時代の橋は現在より下流にあった。当時は東海道一の長さを誇ったという。現在更に新しい橋の架け替え工事が進行中で、広重の絵と同じアングルの写真が撮れなかった。渡り終えると左手に明治天皇駐蹕之所碑が、また右手には蜂須賀小六と日吉丸(木下藤吉郎)「出合之像」があるのだが、共に工事のため移設され見ることはできなかった。

23.旧街道は矢作橋西信号を右折し、

24.すぐ国道の一筋北側の道を左へ折れる。

 

ここまでを27曲りとするのだろうか。田町で消失した2曲りを加えると26となって、まずまずいいところだ。

まっすぐな旧道をしばらく歩いていくと、
右手にある誓願寺(というよりも幼稚園)境内に浄瑠璃姫の墓がある。浄瑠璃姫は矢作の里の長者の娘で、奥州に下る源義経が長者の家に泊まったとき契りを交わし、旅立った義経を慕うあまり菅生川(乙川)に身を投げたという伝説がある。浄瑠璃姫の墓は岡崎公園にもあったし、蒲原宿でも源義経硯水とともに浄瑠璃姫の供養碑があった。

街道は猫田交差点で国道1号に合流した後、しばらく歩いて岡崎市から安城市に入る。
すぐ尾崎東交差点で右の旧道へ入っていく。松並木が続くなか古い家並みものこる快適な道を歩いていく。

右手熊野神社の前に予科練之碑、鎌倉街道跡の案内板そして一里塚跡の碑が集まっている。源頼朝が鎌倉幕府を開くと京都鎌倉間に鎌倉街道が定められ、宿駅63ヶ所が設置された。

左手、「宇頭茶屋説教所」バス停傍に「明治天皇御駐蹕之所」碑がある。宇頭茶屋はその名が示すとおり江戸時代の立場であった。

右手、永安寺の小さな山門の向こうにに樹齢300年といわれる黒松の巨木が幹を地上低く伸ばし雲海のごとき枝葉を形作っている。その様から
雲龍の松という。


この先の交差点を渡った左手には明治川神社、右手に明治用水の碑がある。ここから先、しばらく
松並木が続く。一本一本菰を巻いて冬準備は終わった様子だ。猿渡川を渡って知立市に入る。



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知立

来迎寺町交差点に元禄9年の古い道標がある。「従是四丁半北 八橋業平作観音有」と刻まれており、在原業平ゆかりの八橋無量寿寺への道標である。ここから500mほど北に鎌倉街道(東海道古道)が残っており、八橋界隈は古くから名勝の地として知られていた。
 

交差点を右に折れ、鎌倉街道を越えた突き当たりに無量寿寺がある。かきつばたの庭で知られ在原業平がらころも つつなれにし ましあれば るばるきぬる びをしぞおもふ」とかきつばたの五文字を句頭に入れて詠んだことから更に名声を高めた。境内にある謡曲史跡保存会の説明板が詳しい。

謡曲「杜若」と業平の和歌
謡曲「杜若」は、在原業平が都から東へ下る途中、三河国八橋で美しく咲く杜若を見て都に残した妻を偲び「かきつばた」の五文字を句の頭に置いて
「唐衣 きつつなれにし妻しあれば はるばる来ぬる旅をしぞ思う」と詠んだと書かれている伊勢物語を典拠にして作曲されたものである。東国行脚の旅僧の前に、業平によって詠まれた杜若の精が女の姿で現れ、伊勢物語の故事を語り、業平の冠と高子の后の唐衣を身につけて舞い、業平を歌舞の菩薩の化身として賛美しながら杜若の精もその詠歌によって成仏し得たことをよろこぶという雅趣豊かな名曲である。


高くそびえる松の木の根元に
芭蕉連句碑がある。

  
かきつばた 我に発句の おもひあり 芭蕉
  
麦穂なみよる 潤ひの里         知足

芭蕉が貞享元年(1684)に『野ざらし紀行』を終え翌年4月上旬木曽路を経て帰庵の途、鳴海の俳人下郷知足の家に泊り句会を開いた時の作といわれる。

鎌倉街道を西に進んでいくと左手に
在原寺がある。業平塚が築かれた時、その塚を守る人の御堂として創建された。

その先左手に爪先をあげて立つ奇妙な姿の
「根上がりの松」がある。根の部分にあった土が流出して根が露出しており、大木を支える根がいかに頑丈なものであるかを可視的に認識させられた。

 

名鉄三河線の踏切を渡った右手の塚上に八橋伝説地の案内板と業平墓所碑が、その奥に宝篋印塔の業平供養塔がある。業平伝説のほかに歌枕として知られた八橋は景勝的にも優れた場所であったと思われるが、周囲は街道沿いの人家のほか冬枯れの田園が広がるばかりで、杜若が咲き誇る逢妻川流域の低湿景観を想像するのは難しい。

 

八橋地区を離れて東海道にもどる。すこしいったところに来迎寺一里塚がある。左(南)の塚しかみえないが、通り過ぎて振り返ると立方体の公民館の裏に隠れるように北塚があった。江戸から84番目の一里塚である。

 


古い家並みが散見される落ち着いた
牛田集落をぬけ、やがて新田北信号で国道419号をまたぐ陸橋の向こうに見事な知立の松並木が見えてくる。近年まで1km近くあった松並木だが、住宅の建設などで並木の規模はほぼ半減した。

入り口に立つ平成7年の新しい道標には「旧東海道三拾九番目之宿池鯉鮒 江戸日本橋八拾四里拾七町 京都三条四拾壱里」と刻まれていて、39番目の宿駅池鯉鮒宿に近づいてきたことを伝えている。江戸−京都間の3分の2の地点にあたる。池鯉鮒の地名は、池鯉鮒明神(知立神社)の池に鯉と鮒がいたことからつけられた。

 

並木のなかほどに小林一茶の句碑がある。

  
はつ雪や ちりふの市の 銭叺(ぜにかます)

文化10年(1813)一茶51歳の時、池鯉鮒の木綿市の繁昌を詠んだものである。「池付白」で知られる三河木綿は厚地の白木綿で丈夫なことから印半纏、のれん、足袋底地などに使われた。


並木の終わる手前に設けられた小公園に馬の像が建ち、すぐ先に
「池鯉鮒宿 馬市之趾」の石碑と万葉歌碑がある。池鯉鮒は馬市で有名であった。古代万葉集にも「引馬野」の歌があり、その頃から馬の市があったようである。知立の松並木は側道を持つのが特徴で、この地で行われた馬市の馬を繋ぐためと考えられている。

松並木を通り抜けると御林の交差点で国道1号を地下道で渡り、国道の左側に続いている旧道に入る。名鉄三河線の踏切を渡り、「かどや」のある丁字路手前に小ぶりの常夜灯が立っている。このあたりが池鯉鮒宿の東出入り口だったのだろう。

中町信号五叉路を直進する形で正面の細道に続いているのが旧街道である。交差点周辺には八百勘、えびす屋、山城屋などの古い佇まいをみせる老舗が集まっている。細道に入ってすぐ食品館美松の前に
池鯉鮒宿問屋場跡の標柱がある。

信号を渡り本町郵便局をすぎて次の路地を左に折れると国道419号にぶつかる左手の空き地に一対の常夜灯とともに
明治天皇行在所聖蹟と池鯉鮒宿本陣跡の標柱が建っている。池鯉鮒宿本陣は最初は峯家が勤めたが(杉屋本陣)、寛文年間に没落したため永田家に引き継がれた(永田本陣)。

街道にもどり突き当たりに「東海道池鯉鮒宿」の石柱が立つ丁字路を右折する。左手に
知立古城址がある。知立城は、元々知立神社の神主であった永見氏の居館であった。永禄3年(1560)の桶狭間の合戦時に落城した後、刈谷城主水野忠重が整備し直したが、元禄12年(1699)の大地震で倒壊した。

古い家が残る道の突き当たりにある了運寺前を左へおれる。国道155号を渡る地下道入口に、
総持寺跡大銀杏の説明板がある。右手の道にすこし入ると大銀杏がまだ黄金色の葉を残してそびえたっていた。

国道155号を地下道でくぐって旧道を進んでいくと右手に三河国二の宮
知立神社がある。昔は池鯉鮒大明神と呼ばれ、東海道三大社の一つに数えられた名社である。第12代景行天皇(412)創建と言われている。境内に優美な姿の多宝塔(重要文化財)が建つ。嘉承3年(850)、別当寺となる神宮寺の創立時に建立された。現在の多宝塔は、永正6年(1509)重原城主山岡忠左右衛門が再建したものである。

境内には他にも享保17年(1732)銘の太鼓石橋や、池鯉鮒宿の木綿市を読んだ芭蕉句碑がある。

  不断堂川(ふだんたつ) 池鯉鮒の宿農 木綿市 芭蕉

街道に戻ってすぐ先左手に
総持寺がある。もとはさきの国道付近にあった大銀杏のところに建っていたものだが、明治5年(1872)に廃寺になり、大正15年(1926)にここに再建された。山門前には、「徳川秀康生母於萬之方生誕地」の石碑がある。徳川秀康は徳川家康の次男で、越前北ノ庄藩初代藩主である。その母於万の方は知立神社永見氏の出で、家康の正室・築山殿の奥女中を務めていたが家康の手が付いて秀康を身籠った。

旧道は左にカーブして広い道路にでたのち
逢妻橋を渡って国道1号と合流する。すぐに街道は刈谷市一里山町に入る。この辺りに江戸から85番目の一里塚があった。来迎寺一里塚と阿野一里塚の間に当たる。

沿道に工場や倉庫がまじる国道1号を淡々と歩いて、一里山町新屋敷歩道橋を過ぎた先に右斜めに出ている細道にはいる。右に工場、左は廃家が連なる裏道を通り抜けて今岡町歩道橋で国道1号を左斜めにわたる。

味気ない国道から旧街道らしい雰囲気の道にはいってほっとする。

まもなく左手にある
洞隣寺の墓地には一風変わった墓が並んでいる。一つは生前から仲が悪かった二人の中津藩士の墓で、江戸から豊前(大分県9への帰国途中、この土地で喧嘩となり切り違えて二人とも死んでしまった。土地の人が洞隣寺に墓を建てて弔ったが二人は死んでも憎しみあって二人の墓はいつのまにか反対側に傾き、何度直しても傾いてしまうのであった。死んでからでも顔も見たくないほど嫌な人間はいる。

もう一つは
「めっちゃくやしい墓」。昔、洞隣寺で働いていた気立てのよい娘がいた。あるとき高津波村の医王寺へ移ったところ、この寺の住職に一目ぼれした。しかし、青年僧は容貌の悪い娘に見向きもしなかった。娘は恋煩いで拒食症に陥りついに憤死してしまった。これを聞いた洞隣寺の和尚は亡骸を引き取って葬ったが、この墓石からは青い火玉が浮かび上がり「めったいくやしい」という声と共に医王寺の方へ飛んで行ったといわれる。どちらに同情したものか、なやましい伝説である。

すぐ右手の路地角に見落としそうなくらいに控えめな標識があり、
「旧芋川の地 ひもかわうどん発祥地」と墨書きされている。芋川(現今岡町)は平打ちうどんで知られ、いもかわうどんがいつしか「ひもかわ」とよばれるようになった。

今川町の街道沿いには連子格子の美しい町屋や立派な長屋門を構えた武家屋敷風の旧家がみられ、落ち着いた町並みが続く。

名鉄名古屋本線富士松駅近くにある乗蓮寺の樹齢850年といわれるスダジイの老木をみて、今川町交差点で国道1号の下をくぐって向こう側に続く旧道をたどっていくと、やがて三河と尾張の国境に差し掛かる。


境川
に架かる境橋はむかし、中程より西の尾張側の板橋と、東の三河側の土橋が中央で繋がっていた。

境川を渡って刈谷市から豊明(とよあけ)市に入る。空中を交差する高圧電線と鉄塔がすざましい。まもなく国道1号下のトンネルの右側をまわって国道と合流ししばらく国道を歩く。

県道57号の陸橋手前の二股を左に入る。旧道入り口に「国指定史跡阿野一里塚 この先200m」の看板がある。
阿野一里塚は道の両側に残ってはいるが塚は溶けたアイスクリームのように崩れている。

豊明小学校前に
名残の松がある。立派な一本松だ。

名鉄名古屋本線の前後駅の前を通り、ところどころに格子造りの家が残る旧街道を進んでいくとやがて国道1号に合流し名鉄の高架をくぐると、信号交差点の両側に左方向の矢印と大きな「香華山高徳院」の案内塔と「桶狭間古戦場」の道路標識が見えてくる。左に入ると100mほどで
桶狭間古戦場跡に着く。永禄3年(1560)5月19日、尾張の新鋭領主織田信長(27歳)と駿河・遠江・三河のベテラン大名今川義元(42歳)が激突、10分の1の兵力しか持たなかった織田軍(西軍)が高徳院に陣を張っていた今川義元を討ち取った。跡地は公園になっていて園内には両軍の進路を示す大きな案内板や今川義元の墓七石表などがある。

道路を挟んだ
高徳院には本陣跡の碑や円柱形の芭蕉句碑がある。

  
あかあかと日はつれなくも秋の風

奥の細道、金沢での句である。なぜここにあるのか知らない。

街道にもどり、旧道はすぐ先の二股を左にとるが、何事もなくすぐに国道に合流、150mほど先の大将ヶ根信号で右の旧道に入っていく。有松という魅力ある間の宿が待っている。

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鳴海


池鯉鮒宿と鳴海宿の間にある
有松は絞染めの特産地として栄えた。街道筋には有松絞りを商う豪商が軒を並べていた。旅人相手の小売のほか、江戸や大阪から買い付けに来る絞り商人で賑わった様子は広重の絵にも描かれている。

二股を左にとって有松町にはいるや、絞り染め工場や絞製品を売る民芸調の商家など、独特の町並みが始まる。どこの家も繊細な格子造りが標準仕様といった有様で、それにくぐり戸、卯建、塗篭、屋根看板、駒寄、虫籠窓、海鼠壁、土蔵などのオプションが惜しみなく駆使されている。

圧巻は右手に現れる
服部家井桁屋であろう。海鼠壁の三層土蔵は寛政3年(1791)の建造だという。有松絞問屋の代表格といえる。

左手、有松・鳴海絞会館に入って記念ばかりの絞ハンカチを買った。その建物の裏手に有松絞の創始者、
竹田庄九郎の記念碑が建っている。町の富は在所の神輿や山車の豪華さに反映される。有松に東町、中町、西町の三ヶ所に背の高い白漆喰土蔵造りの山車庫が威厳をはなって建っている。毎年10月第1日曜日の秋祭りには3台の山車が旧東海道を練り歩く。

一階屋根に古い行灯看板を付けた
竹田家(竹田嘉兵衛商店)は有松絞開祖、初代竹田庄九郎の屋敷跡で、母屋は江戸時代の建築である。

岡家(岡兼商店)は同じく絞問屋で江戸末期の町屋建築である。二階の白漆喰壁に優美な縦格子窓と一階袖の海鼠壁は、広重の絵に描かれた後方の問屋と同一と思われる。

黒々とした重厚な塗篭壁に立派な卯建と駒寄を設けた小塚家は江戸時代の絞問屋町並みの取りを勤める建物である。

江戸時代の風情を残す有松の町を出ると景色は一変して、建設中の名古屋環状2号線の高架下に有松一里塚復元予定図が建てられていた。大正13年までここに榎が植えられた一里塚があった。

街道は名鉄の踏切をわたり名残の松が散見される四本木の集落をぬける。平部北交差点に文化3年(1806)の秋葉常夜燈が立ち、東海道40番目の鳴海宿の東入り口をなしている。古い街並みが続き、扇川手前には大正時代を思わせる横板壁造りの銭湯がさびしげに建っていた。


扇川に架かる中島橋の手前を堤防沿いに左折してすぐまた支流沿いに左に折れた先、民家の庭に
中島砦跡の碑がある。桶狭間合戦の前年、永禄2年(1559)に織田信長が今川義元の侵攻に備えて築いた砦である。

橋をわたった右手に瑞泉寺をみて、鳴海宿の中心にはいっていく。沿道には古い家並みが残っている。右手に
「千代倉」という屋号看板を掲げ、大屋敷の玄関だけが取り残されたようなた建物がある。江戸時代の豪商、下郷(しもさと)家の屋敷跡である。下郷家は酒造業を営む大地主で、嘉永年間(1848〜1854)以後は本陣を務めた。下郷本陣は建坪677坪におよび、平均的な本陣の3倍であったという東海道中最大の本陣屋敷であった。芭蕉との関係が深く、当主の下郷知足は芭蕉門人で鳴海俳壇の盟主であった。芭蕉は生涯で4回鳴海に来ているがそのたびに千代倉宅に寄っていた。

1回目:貞亨2年(1685)4月4日、「野ざらし紀行」の途中、熱田の林桐葉の紹介で立ち寄る。三河八橋にも寄っている。
杜若われに発句のおもひあり  知足亭にて

2回目:貞亨4年(1687)11月4日、
「笈の小文」で江戸から伊良湖の杜国を見舞う。11月4日〜9日、16日〜20日の間、知足亭に泊まる。
 京まではまだ中空や雪の雲  11月5日  寺島ぼく言方  
 星崎の闇を見よとやなく千鳥  11月7日  寺島安信方  
 鷹一つ見つけて嬉し伊良湖崎         杜国を訪問
 笠寺やもらぬ岩屋も春の雨  11月17日 笠寺奉納俳諧
 面白し雪にやならん冬の雨  11月20日 鳴海の刀鍛冶岡島佐助(自笑)宅にて

3回目:貞亨5年(1688)7月7日「笈の小文」の帰途。この後8月上旬、岐阜から
「更級紀行」
 よき家や雀よろこぶ背戸の粟 7月8日  知足弟知之亭新築祝い
初秋や海も青田の一みどり   7月10日 児玉重辰方にて     

4回目:元禄7年(1694)5月22日芭蕉
最後の帰郷の途中知足邸に立ち寄る。

街道はその先で
曲尺手となる。角には安政4年(1857)創業の菓子処菊屋がある。

すぐ左手の緑生涯学習センターあたりに問屋場があった。案内標識等はない。

本町交差点の北側左手にある
誓願寺は天正元年(1573)下郷家の菩提寺として創建されたもので、境内には芭蕉堂と芭蕉供養塔がある。自然石の小さな供養塔はお堂の脇にひっそりと建っている。元禄7年(1694)芭蕉が亡くなった翌月の命日に建てられたも
ので、芭蕉最古の供養塔である。

誓願寺の北隣円道寺の通り向かい角に天神社があり、石段を上がると
鳴海城跡碑と芭蕉句碑3基がある。鳴海城は、根古屋城ともいわれ、応永年中(1394〜1428)安原宗範が築城した。桶狭間の戦いでは今川方の岡部元信が最後までこの城に立てこもった。芭蕉の3句はいずれも鳴海での作である。

  「京まではまだ半空や雪の雲」
  「よき家や雀よろこぶ背戸の粟」
  「杜若われに発句のおもひあり」


本町交差点にもどり街道を西に進むと山車庫風の建物の前に
本陣跡の立て札がある。千代倉の下郷家が本陣を勤めるまでは西尾伊左衛門宅が鳴海宿本陣であった。

作町信号を右折、三皿交差点を渡ってすすむと光明寺入り口に寛政4年(1792)建立の
丹下町常夜燈が建っている。鳴海宿の西の入口にあるもので、東の平部常夜燈と共に鳴海宿の東西出入り口に当たっていた。

光明寺は丹下砦跡であったというので寄ってみた。本堂裏手の墓地は鳴海をみおろす高台になっていて、このあたりに砦が築かれていたのであろう。標識らしきものは見当たらなかった。

街道にもどり北に進む。
鉾の木貝塚のすぐ先、右手に「正一位緒畑稲荷神社」の社碑と「千鳥塚」の案内標識が立っている。右に入って坂を上がりつめた千句塚公園内に千鳥塚がある。
貞享4年(1687)11月「笈の小文」の途次、寺島安信宅での歌仙で
「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」を立句とした俳諧の一巻ができたことを記念して建てられたものである。碑文は芭蕉自筆で存命中唯一のものである。表に「千鳥塚」下に「武城江東散人 芭蕉桃青」と刻し、裏面には「千句塚」と鳴海六俳仙(下郷知足、寺島ぼく言、寺島安信,出羽守自笑、児玉重辰、沙門如風)の名、側面に興行の年月が彫られている。

鳴海はその名が示すように中世までは海に面した土地で鳴海潟として知られ千鳥の名所であった。江戸時代になって新田が開かれ宿駅が形成されていった。

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三王山交差点で県道59号を渡り天白川を越える。

赤坪町交差点を渡り右に曲がった直後の二股に
笠寺一里塚がある。 江戸から88番目で東塚のみが残っている。塚一杯に生い茂る榎の大木が見事である。

旧街道の雰囲気を残す笠寺町の町並みを進んでいくと道がS字状にまがる右手に
笠覆寺(りゅうふくじ)の鯱を頂いた仁王門が現れる。天平年間の開基という古刹である。元は小松寺といった。後、寺は荒廃し観音は風雨にさらされるようになってしまった。

そこに一人の美しい娘にまつわる伝説がある。


娘は鳴海長者、太郎成高の家に仕えていたが、その器量を妬まれてかこき使われる日々を送っていた。ある雨の日、ずぶ濡れになっていた観音の姿を見た彼女は、気の毒に感じ自分がかぶっていた笠をはずしてその観音にかぶせたのであった。その縁か後日、関白藤原基経の息子、藤原兼平が下向の折長者の家に泊まった際にこの娘を見初め自分の妻にした。 兼平の妻となった娘はそれから玉照姫とよばれることとなった。この観音の縁によって結ばれた
玉照姫・兼平夫妻は延長8年(930)、この地に大いなる寺を建て、姫が笠をかぶせた観音を安置した。このとき寺号も小松寺から笠覆寺に改められた。

笠覆寺は今も縁結び、交際円満の信仰を集めている。

境内には正保年中(1644〜48)建立の優美な多宝塔のほか、芭蕉の千鳥塚と宮本武蔵の碑が並んである。武蔵が尾張を訪れたときこの宿坊に泊まったという。

笠覆寺西門前に笠寺地区の説明碑がある。

笠寺の歴史  江戸時代の笠寺村は、東海道第40番目の宿場である鳴海から熱田宿を結ぶ東海道筋にあたり、農業を主な業とし、町並みには、小商家、茶屋などがあった。笠寺観音は、尾張四観音の一つとして人びとにも親しまれ、今も節分などには露店が並ぶにぎわいを見せている。 寺伝によれば、笠寺観音はもと小松寺といい、天平五年(733)浜に流れ着いた霊木に僧禅光が十一面観音像を刻み、小堂を建てて安置したことに始まる。その後荒廃し、観音像が雨露にさらされているのを見た土地の娘が自らの笠をかぶせた。この娘はやがて藤原兼平の妻となり、それが笠覆寺の名の由来となる。寺はその後再び荒廃したが、嘉禎四年(1238)僧阿願が再興した。 現存する建物は、正保年中に建った多宝塔を最古とし、本堂は宝暦十三年(1763)の建立で、その他江戸時代の各時期に建った仁王門、西門、鐘楼、達磨堂及び大師堂などが軒を列ね、密教寺院の特色をよく示している。
 また笠寺観音境内には、笠寺千鳥塚、春雨塚といった芭蕉碑も残されているほか、笠寺観音から東西約六百メートルの旧東海道沿いに、市内に現存する唯一の一里塚がある。  平成3年  名古屋市

街道は西門から笠寺商店街をぬけ環状線の広い通りを横切り名鉄の踏切を渡った先の十字路を右折する。角に
「東海道 是より北よびつき」の道標がある。

まもなく先と同じタイプの道標があり、
「東海道 富部神社 塩付街道」と記されている。左に入っていくと右手に石鳥居が建っている。鳥居をくぐると右手に明治天皇御駐蹕之處の碑があった。富部神社は慶長8年(1603)に、当時の清洲城主であった松平忠吉が素盞鳴尊を主神として祀った祠をこの地に移したことに始まる。本殿は桃山時代の様式を伝え、国の重要文化財である。

境内の横から通じている路地をたどると赤鳥居の清水稲荷に出た。入り口に宿駅制度制定四百年を記念した東海道の石碑があった。

今に残る東海道は、徳川家康による宿駅制度制定以来、わが国の代表的な幹線道路として産業・経済・文化の発展に大きく寄与してきた。江戸時代東海道の西側には、呼続(よびつぎ)浜の潮騒が磯を洗い、大磯の名を残している。ここで造られた塩は塩付街道を通じて小牧・信州に送られていた。東側には、松林を遠く望む風光明媚な景勝の地として有名であった。 現在は繁華な町となるも、長楽寺・富部神社・桜神明社など、名所旧跡を多く残し、今日に至るまで数々の歴史の重みに想いをはせるものである。   平成13年吉日 名古屋市・呼続学区

街道にもどり、呼続小学校前交差点をわたったすぐの変則十字路の両側に
「鎌倉街道」の石標がある。曲尺手状に旧東海道を斜めに横切っているが、元はまっすぐであったことがわかる。鎌倉街道を左に入っていくと突き当たりにあるのが白豪寺。本堂の左奥に年魚市潟(あゆちがた)勝景跡碑と万葉歌碑がある。

あゆちは、
あゆちがたしほひにけらし知多の浦に朝こぐ舟もおきによる見る と万葉に歌われた歌まくらで、「愛知」の語源となった。

熊野三社前にも東海道碑があり、このあたりは松巨嶋とよばれる景勝の地であったことを記している。
古来、呼続一帯は四方を川と海に囲まれた、巨松の生い茂る陸の浮島として、「松巨嶋」(まつこじま)と呼ばれ、尾張の名所であった。ここは東海道が南北に通り、これに鎌倉街道が交差している。西側の磯浜は「あゆち潟」と呼ばれ、これが「愛知」の地名の起源になったと言われている。芭蕉は「寝覚めの里よびつぎ」と書き記し、この地に足跡を残している。また、山崎の長坂(今より急坂であった)に接する山崎の立て場は、宮の宿への往還の地として賑わい、宮の宿より渡し舟の出港を呼びついだことから「よびつぎ」の名があるとも言われている。

なだらかな山崎の長坂をくだり
山崎川に架かる山崎橋を渡って左折し県道222号に合流する。もうあたりはすっかり名古屋市街地の風景である。県道は松田橋交差点で高速道路の高架をくぐって国道1号に合流するが、すぐに高架となる国道とわかれて下の道を進み、東海道本線の踏切を渡ったところで左の旧街道に入り熱田橋で新堀川を渡る。東京神田川に似た景色があった。

名鉄の高架をくぐると右手の小公園が
伝馬町一里塚跡である。前に宮宿の案内板がある。宮宿は熱田神宮の門前町として、また名古屋62万石の城下町表口として、更に桑名までの七里の渡し場、美濃・佐屋街道との分岐点として、東海道随一の規模を誇る宿場町であった。

左手に新しい二階建ての
「姥堂」があり、前に「裁断橋跡」「都々逸発祥の地」の碑がある。裁断橋は、豊臣秀吉の小田原攻めに参加し陣中で病死した18歳の息子の供養に母親が架けたもので、擬宝珠に亡き子を偲ぶ母の思いが刻まれた。擬宝珠の銘文は、母の子を思う心が人々に感銘を与えて有名になった。

天正十八年 二月十八日に 小田原への御陣 堀尾金助と申す 十八になりたる子をたたせてよ 又二目とも見ざる 悲しみのあまりに いまこの橋を架けるなり 母の身には落涙ともなり 即身成仏し給え 逸岩世俊(堀尾金助の戒名)と後の世のまた後まで この書き付けを見る人は 念仏申し給えや 三十三年の供養なり

姥堂の裏筋に徳川家康が天文16年(1547)6歳のとき、織田信秀(信長の父)のため人質となって幽閉されたという熱田の豪族
加藤順盛の屋敷跡がある。ブロック塀の内には銀杏の植え込みの中に古い建物が覗かれた。

旧街道は中央分離帯のある広い道路を横切ってこのまま道を進むと丁字路に突き当たりに出る。ここが
佐屋街道との分岐点で、宮から桑名まで七里の海路を嫌った旅人は佐屋街道を選んだ。

正面にはほうろく地蔵、左角には寛政2年(1790)の古い道標がある。
「北 さやつしま 同 みのち 道」「南 京いせ七里の渡し」「東 江戸かいとう 北 なこやきそ 道」と刻まれている。

佐屋街道である右の方向をのぞくと正面奥に熱田神宮の森がみえた。距離にして100mほどであるが、熱田神宮参拝は佐屋街道にまかせよう。

東海道は左に折れて「京 伊勢 七里の渡し」へと向かう。

国道247号を歩道橋でわたり斜め向かいの旧道に入る。歩道橋をおりて蓬莱陣屋の北側の道をすこしはいると左手に
赤本陣跡の説明板が立っている。宮宿には赤白二軒の本陣があり、南部新五左衛門が赤本陣を勤めた。跡地は蓬莱陣屋の駐車場になっていて何もない。

旧道筋にもどり、二つ目の路地を右にはいったところ、白鳥消防団詰所が
西浜御殿跡である。尾張藩2代藩主徳川光友が造営した豪壮な屋敷で尾張藩の迎賓館としても使われていた。

いよいよ東海道は海に出る。ここから桑名まで、長時間の船旅が待っていた。海といっても今は堀川の船着場にすぎず、大規模な埋め立ての結果、ここから伊勢湾にでるにはなお数キロの船旅が必要である。名古屋港の外はすでに桑名よりも南にある。

七里の渡し跡は公園として整備され、常夜灯や時の鐘が復元されて往時の雰囲気を伝えている。宮宿はここまで宿場らしい面影を残す建物はなかったが、道を挟んで、脇本陣格の旅籠であった丹羽家住宅魚半という明治時代の料亭がわずかながら渡し跡に風情を与えていた。

(2009年12月)
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