江戸時代の岡崎の町は東海道の宿駅として栄えましたが、市民病院跡地である若宮町の当所は、岡崎宿内の東端に位置する投町(なぐりちょう)と呼ばれた場所でした。東海道の往還は、当所の南で欠村から宿内に入り、この置で西方へと大きく曲がり、宿内の中心へと進みます。その曲折点は岡崎城下二十七曲がりの一つに数えられます。十九世紀初頭の記録である「享和書上げ」によると、投町には総家数117軒とあり、綿打商、穀商、紺屋、豆腐屋、古手屋、莨(たばこ)屋、酒屋、小間物屋、綿商などの店がか軒を並べていましたが、なかでも茶屋がか多くあり、茶屋で売られていたあんかけ豆腐の「あわ雪」は東海道往来する人に当宿の名物として賞翫されました。
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23.旧街道は矢作橋西信号を右折し、
24.すぐ国道の一筋北側の道を左へ折れる。
ここまでを27曲りとするのだろうか。田町で消失した2曲りを加えると26となって、まずまずいいところだ。
まっすぐな旧道をしばらく歩いていくと、右手にある誓願寺(というよりも幼稚園)境内に浄瑠璃姫の墓がある。浄瑠璃姫は矢作の里の長者の娘で、奥州に下る源義経が長者の家に泊まったとき契りを交わし、旅立った義経を慕うあまり菅生川(乙川)に身を投げたという伝説がある。浄瑠璃姫の墓は岡崎公園にもあったし、蒲原宿でも源義経硯水とともに浄瑠璃姫の供養碑があった。
街道は猫田交差点で国道1号に合流した後、しばらく歩いて岡崎市から安城市に入る。すぐ尾崎東交差点で右の旧道へ入っていく。松並木が続くなか古い家並みものこる快適な道を歩いていく。
右手熊野神社の前に予科練之碑、鎌倉街道跡の案内板そして一里塚跡の碑が集まっている。源頼朝が鎌倉幕府を開くと京都鎌倉間に鎌倉街道が定められ、宿駅63ヶ所が設置された。
左手、「宇頭茶屋説教所」バス停傍に「明治天皇御駐蹕之所」碑がある。宇頭茶屋はその名が示すとおり江戸時代の立場であった。
右手、永安寺の小さな山門の向こうにに樹齢300年といわれる黒松の巨木が幹を地上低く伸ばし雲海のごとき枝葉を形作っている。その様から雲龍の松という。
この先の交差点を渡った左手には明治川神社、右手に明治用水の碑がある。ここから先、しばらく松並木が続く。一本一本菰を巻いて冬準備は終わった様子だ。猿渡川を渡って知立市に入る。
来迎寺町交差点に元禄9年の古い道標がある。「従是四丁半北 八橋業平作観音有」と刻まれており、在原業平ゆかりの八橋無量寿寺への道標である。ここから500mほど北に鎌倉街道(東海道古道)が残っており、八橋界隈は古くから名勝の地として知られていた。
交差点を右に折れ、鎌倉街道を越えた突き当たりに無量寿寺がある。かきつばたの庭で知られ在原業平が「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」とかきつばたの五文字を句頭に入れて詠んだことから更に名声を高めた。境内にある謡曲史跡保存会の説明板が詳しい。
謡曲「杜若」と業平の和歌 謡曲「杜若」は、在原業平が都から東へ下る途中、三河国八橋で美しく咲く杜若を見て都に残した妻を偲び「かきつばた」の五文字を句の頭に置いて「唐衣 きつつなれにし妻しあれば はるばる来ぬる旅をしぞ思う」と詠んだと書かれている伊勢物語を典拠にして作曲されたものである。東国行脚の旅僧の前に、業平によって詠まれた杜若の精が女の姿で現れ、伊勢物語の故事を語り、業平の冠と高子の后の唐衣を身につけて舞い、業平を歌舞の菩薩の化身として賛美しながら杜若の精もその詠歌によって成仏し得たことをよろこぶという雅趣豊かな名曲である。 |
高くそびえる松の木の根元に芭蕉連句碑がある。
かきつばた 我に発句の おもひあり 芭蕉
麦穂なみよる 潤ひの里 知足
芭蕉が貞享元年(1684)に『野ざらし紀行』を終え翌年4月上旬木曽路を経て帰庵の途、鳴海の俳人下郷知足の家に泊り句会を開いた時の作といわれる。
鎌倉街道を西に進んでいくと左手に在原寺がある。業平塚が築かれた時、その塚を守る人の御堂として創建された。
その先左手に爪先をあげて立つ奇妙な姿の「根上がりの松」がある。根の部分にあった土が流出して根が露出しており、大木を支える根がいかに頑丈なものであるかを可視的に認識させられた。
名鉄三河線の踏切を渡った右手の塚上に八橋伝説地の案内板と業平墓所碑が、その奥に宝篋印塔の業平供養塔がある。業平伝説のほかに歌枕として知られた八橋は景勝的にも優れた場所であったと思われるが、周囲は街道沿いの人家のほか冬枯れの田園が広がるばかりで、杜若が咲き誇る逢妻川流域の低湿景観を想像するのは難しい。
八橋地区を離れて東海道にもどる。すこしいったところに来迎寺一里塚がある。左(南)の塚しかみえないが、通り過ぎて振り返ると立方体の公民館の裏に隠れるように北塚があった。江戸から84番目の一里塚である。
古い家並みが散見される落ち着いた牛田集落をぬけ、やがて新田北信号で国道419号をまたぐ陸橋の向こうに見事な知立の松並木が見えてくる。近年まで1km近くあった松並木だが、住宅の建設などで並木の規模はほぼ半減した。
入り口に立つ平成7年の新しい道標には「旧東海道三拾九番目之宿池鯉鮒 江戸日本橋八拾四里拾七町 京都三条四拾壱里」と刻まれていて、39番目の宿駅池鯉鮒宿に近づいてきたことを伝えている。江戸−京都間の3分の2の地点にあたる。池鯉鮒の地名は、池鯉鮒明神(知立神社)の池に鯉と鮒がいたことからつけられた。
並木のなかほどに小林一茶の句碑がある。
はつ雪や ちりふの市の 銭叺(ぜにかます)
文化10年(1813)一茶51歳の時、池鯉鮒の木綿市の繁昌を詠んだものである。「池付白」で知られる三河木綿は厚地の白木綿で丈夫なことから印半纏、のれん、足袋底地などに使われた。
並木の終わる手前に設けられた小公園に馬の像が建ち、すぐ先に「池鯉鮒宿 馬市之趾」の石碑と万葉歌碑がある。池鯉鮒は馬市で有名であった。古代万葉集にも「引馬野」の歌があり、その頃から馬の市があったようである。知立の松並木は側道を持つのが特徴で、この地で行われた馬市の馬を繋ぐためと考えられている。
松並木を通り抜けると御林の交差点で国道1号を地下道で渡り、国道の左側に続いている旧道に入る。名鉄三河線の踏切を渡り、「かどや」のある丁字路手前に小ぶりの常夜灯が立っている。このあたりが池鯉鮒宿の東出入り口だったのだろう。
中町信号五叉路を直進する形で正面の細道に続いているのが旧街道である。交差点周辺には八百勘、えびす屋、山城屋などの古い佇まいをみせる老舗が集まっている。細道に入ってすぐ食品館美松の前に池鯉鮒宿問屋場跡の標柱がある。
信号を渡り本町郵便局をすぎて次の路地を左に折れると国道419号にぶつかる左手の空き地に一対の常夜灯とともに明治天皇行在所聖蹟と池鯉鮒宿本陣跡の標柱が建っている。池鯉鮒宿本陣は最初は峯家が勤めたが(杉屋本陣)、寛文年間に没落したため永田家に引き継がれた(永田本陣)。
街道にもどり突き当たりに「東海道池鯉鮒宿」の石柱が立つ丁字路を右折する。左手に知立古城址がある。知立城は、元々知立神社の神主であった永見氏の居館であった。永禄3年(1560)の桶狭間の合戦時に落城した後、刈谷城主水野忠重が整備し直したが、元禄12年(1699)の大地震で倒壊した。
古い家が残る道の突き当たりにある了運寺前を左へおれる。国道155号を渡る地下道入口に、総持寺跡大銀杏の説明板がある。右手の道にすこし入ると大銀杏がまだ黄金色の葉を残してそびえたっていた。
国道155号を地下道でくぐって旧道を進んでいくと右手に三河国二の宮知立神社がある。昔は池鯉鮒大明神と呼ばれ、東海道三大社の一つに数えられた名社である。第12代景行天皇(412)創建と言われている。境内に優美な姿の多宝塔(重要文化財)が建つ。嘉承3年(850)、別当寺となる神宮寺の創立時に建立された。現在の多宝塔は、永正6年(1509)重原城主山岡忠左右衛門が再建したものである。
境内には他にも享保17年(1732)銘の太鼓石橋や、池鯉鮒宿の木綿市を読んだ芭蕉句碑がある。
不断堂川(ふだんたつ) 池鯉鮒の宿農 木綿市 芭蕉
街道に戻ってすぐ先左手に総持寺がある。もとはさきの国道付近にあった大銀杏のところに建っていたものだが、明治5年(1872)に廃寺になり、大正15年(1926)にここに再建された。山門前には、「徳川秀康生母於萬之方生誕地」の石碑がある。徳川秀康は徳川家康の次男で、越前北ノ庄藩初代藩主である。その母於万の方は知立神社永見氏の出で、家康の正室・築山殿の奥女中を務めていたが家康の手が付いて秀康を身籠った。
旧道は左にカーブして広い道路にでたのち逢妻橋を渡って国道1号と合流する。すぐに街道は刈谷市一里山町に入る。この辺りに江戸から85番目の一里塚があった。来迎寺一里塚と阿野一里塚の間に当たる。
1回目:貞亨2年(1685)4月4日、「野ざらし紀行」の途中、熱田の林桐葉の紹介で立ち寄る。三河八橋にも寄っている。 杜若われに発句のおもひあり 知足亭にて 2回目:貞亨4年(1687)11月4日、「笈の小文」で江戸から伊良湖の杜国を見舞う。11月4日〜9日、16日〜20日の間、知足亭に泊まる。 京まではまだ中空や雪の雲 11月5日 寺島ぼく言方 星崎の闇を見よとやなく千鳥 11月7日 寺島安信方 鷹一つ見つけて嬉し伊良湖崎 杜国を訪問 笠寺やもらぬ岩屋も春の雨 11月17日 笠寺奉納俳諧 面白し雪にやならん冬の雨 11月20日 鳴海の刀鍛冶岡島佐助(自笑)宅にて 3回目:貞亨5年(1688)7月7日「笈の小文」の帰途。この後8月上旬、岐阜から「更級紀行」へ よき家や雀よろこぶ背戸の粟 7月8日 知足弟知之亭新築祝い 初秋や海も青田の一みどり 7月10日 児玉重辰方にて 4回目:元禄7年(1694)5月22日芭蕉最後の帰郷の途中知足邸に立ち寄る。 |
笠寺の歴史 江戸時代の笠寺村は、東海道第40番目の宿場である鳴海から熱田宿を結ぶ東海道筋にあたり、農業を主な業とし、町並みには、小商家、茶屋などがあった。笠寺観音は、尾張四観音の一つとして人びとにも親しまれ、今も節分などには露店が並ぶにぎわいを見せている。 寺伝によれば、笠寺観音はもと小松寺といい、天平五年(733)浜に流れ着いた霊木に僧禅光が十一面観音像を刻み、小堂を建てて安置したことに始まる。その後荒廃し、観音像が雨露にさらされているのを見た土地の娘が自らの笠をかぶせた。この娘はやがて藤原兼平の妻となり、それが笠覆寺の名の由来となる。寺はその後再び荒廃したが、嘉禎四年(1238)僧阿願が再興した。 現存する建物は、正保年中に建った多宝塔を最古とし、本堂は宝暦十三年(1763)の建立で、その他江戸時代の各時期に建った仁王門、西門、鐘楼、達磨堂及び大師堂などが軒を列ね、密教寺院の特色をよく示している。 また笠寺観音境内には、笠寺千鳥塚、春雨塚といった芭蕉碑も残されているほか、笠寺観音から東西約六百メートルの旧東海道沿いに、市内に現存する唯一の一里塚がある。 平成3年 名古屋市 |
今に残る東海道は、徳川家康による宿駅制度制定以来、わが国の代表的な幹線道路として産業・経済・文化の発展に大きく寄与してきた。江戸時代東海道の西側には、呼続(よびつぎ)浜の潮騒が磯を洗い、大磯の名を残している。ここで造られた塩は塩付街道を通じて小牧・信州に送られていた。東側には、松林を遠く望む風光明媚な景勝の地として有名であった。 現在は繁華な町となるも、長楽寺・富部神社・桜神明社など、名所旧跡を多く残し、今日に至るまで数々の歴史の重みに想いをはせるものである。 平成13年吉日 名古屋市・呼続学区 |
古来、呼続一帯は四方を川と海に囲まれた、巨松の生い茂る陸の浮島として、「松巨嶋」(まつこじま)と呼ばれ、尾張の名所であった。ここは東海道が南北に通り、これに鎌倉街道が交差している。西側の磯浜は「あゆち潟」と呼ばれ、これが「愛知」の地名の起源になったと言われている。芭蕉は「寝覚めの里よびつぎ」と書き記し、この地に足跡を残している。また、山崎の長坂(今より急坂であった)に接する山崎の立て場は、宮の宿への往還の地として賑わい、宮の宿より渡し舟の出港を呼びついだことから「よびつぎ」の名があるとも言われている。 |
天正十八年 二月十八日に 小田原への御陣 堀尾金助と申す 十八になりたる子をたたせてよ 又二目とも見ざる 悲しみのあまりに いまこの橋を架けるなり 母の身には落涙ともなり 即身成仏し給え 逸岩世俊(堀尾金助の戒名)と後の世のまた後まで この書き付けを見る人は 念仏申し給えや 三十三年の供養なり |