岡崎城下二十七曲り 岡崎城下を通る東海道は、その曲折の多さで知られ、通称二十七曲りと呼ばれていました。享和元年(1801)当地を見聞した大田南畝も「町数五十四町、二十七曲ありとぞ」と「改元紀行」に書いています。 二十七曲りは、田中吉政が城主だった時(1590−1600)城下に東海道を導き入れたことに始まり、のち本田康重が伝馬町を慶長十四年(1609)創設して以後、道筋がほぼ決定したと思われます。このねらいは城内を防衛するためのものと言われますが、これにより岡崎の城下町は東海道筋の宿場町としても繁栄することになりました。 二十七曲りの一部は、戦災復興の道路整備などにより失われはしたものの、現在でもその跡をたどることは可能です。この歴史の道とも言うべき二十七曲りを後世に伝えるために、城下二十七曲りの東口であった当所に記念碑を建て、道標とします。 平成3年3月 岡崎中央ライオンズクラブ |