東海道−8 



桑名−四日市石薬師庄野亀山坂下


桑名

桑名駅東口から八間通りを川に向かって歩いていく。広い通りだ。左手海蔵寺に「宝暦治水薩摩義士墓所」とあるのが目にとまって寄ってみた。宝暦治水とはなんのことか、九華公園に木曽三川の治水史について詳しい解説板がある。そこから宝暦治水の部分を引用する。当時の河口付近の地図が示されていて興味深い。複雑怪奇な水流のなかに佐屋川もあった。

木曽三川は、木曽・長艮・揖斐川の順で河床か低くなっており、その川筋は輪中を取り囲んで網の目のようになって流れていたため、木曽川の洪水は長良川、揖斐川を逆流し、氾濫を繰り返していました。徳川幕府による木曽川左岸の御囲堤の完成(1609)により、美濃(現在の岐阜県)の水害がますます多くなりました。 その後、徳川幕府は宝暦3年(1753)、美濃郡代伊沢弥惣兵衛為永がたてた木曽三川の分流計画をもとにした治水工事を薩摩藩(現任の鹿児島県)に命じました。宝暦4年2月(1754)、薩摩藩家老の平田靭負(ゆきえ)を総奉行として工事か始められ、油島締切、大榑川洗堰、逆川洗堰締切などの大工事(宝暦治水)を1年3ヶ月で完成しました。が、平田靭負をはじめ80余名の病死、割腹者をだしました。 工事にかかった費用約40万両(当時の薩摩藩全収入の2年分以上)のうち、幕府の負担はわずか1万両で、薩摩藩は多くの借財を抱えることになりました。宝暦治水では、三川の完全分流はできませんでしたが、近代治水工事の先がけとなったものといえるでしょう。  


今様にいえば、公共工事に名を借りた中央政府によるえげつない地方いじめであった。

すぐ先右手の寺町アーケード商店街に骨董市が出ていた。少し入った右手の
本統寺に野ざらし紀行途上の芭蕉が泊まっている。住職大谷琢恵(たっけい)は、北村季吟門下の俳人で芭蕉とは同門の間柄だった。そこで詠んだ句が自然石に刻まれている。
  
  
冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす

田町交差点を左折して今度は
六華苑に寄る。なかなか桑名宿のスタート地点に着かない。
六華苑は桑名の富豪諸戸清六の邸宅で、コンドルによる洋風館と高須御殿の移築を含む和風建築とからなる大邸宅である。広い芝生庭園で少女の一団がダンスの練習に余念がなかった。アクロバット的な動作が多くて、バレーなのか曲芸なのかよくわからないパフォーマンスである。衣装はなんとなく中国風にも見えた。

揖斐川堤防に出る。川に浮かんでいるのはシジミ採りの船だろう。すこし下流で長良川と合流している。狭い伊勢湾に木曽・長良・揖斐の大河が互いにくっつきあうようにして流れ込む特異な場所である。

住吉神社の鳥居が建ち、この地点は
十楽の津とよばれた水運の拠点だった。少し先の川辺に小さく櫓がみえる。あそこが本日の出発点、七里渡跡だ。

堤防の上を櫓の手前まで来た。ここに建つ石鳥居は伊勢神宮の一の鳥居である。桑名は伊勢国の東の入口にあたり、伊勢参りの第一歩を踏み出す地点としてはふさわしい。宮からはるばる七里の海路を渡ってきた船も、あるいは佐屋から佐屋川を下ってきた船もここで帆をおろし桑名の宿場に旅客をつなぐ。熱田参りや江戸に向かう旅人はここで7里か3里の選択を迫られ、それぞれの舟に乗り込んだ。

広重は帆船と桑名城を描いているが、今の渡跡は防波堤に囲まれて川がみえない。蟠龍櫓の先は桑名城跡公園として整備され、先に引用した木曽三川治水史のパネルがある。

渡し跡の土塁から宿場通りに降りる。西にもどる道沿いに
大塚本陣跡と駿河屋脇本陣跡が並んでいる。共に現在は船津屋、山月として料理旅館を営んでいる。船津屋は泉鏡花の小説「歌行燈」の舞「湊屋」となったところ。塀の窪みにある句碑は鏡花の小説を戯曲にした久保田万太郎の句である。

  
かわをそに 火をぬすまれて あけやすき  万

山月の入口にある石碑には

  
勢州桑名に 過ぎたるものは 銅の鳥居に 二朱の女郎

とある。各地にある「過ぎたるもの」は二つあるケースが多い。語呂がよいのと、一つでは物足りず三つは字余りということか。

ようやく東海道を歩き始める。すぐ左手に
「舟会所跡 問屋場跡」の標柱がある。ともに空き地で、車が留まっている。丹羽本陣跡は後藤商店あたりだそうだ。「通り井跡」のパネルがあって、記述通り、道の中央に「井」と書かれた10cm平方くらいの石があった。

桑名は地下水に海水が混じるため、寛永3年(1626)に町屋川から水を引いた水道をつくり、町内の主要道路の地下に筒を埋め、所々の道路中央に正方形の升を開けて、一般の人々が利用した。これを「通り井」と言う。
昭和37年(1962)工事のため道路を掘っていて、「通り井」跡の一つが発見された。現在は道路面に「井」と書いた石がはめこまれている。


川口町から江戸町にはいった右手に堂々とした青銅製の鳥居とその足元に情緒豊かな石標が立つ。
青銅鳥居は寛文7年(1667)のもの。石標は「志類べ以志」と刻まれているが「しるべ石」または「迷子石」とも呼ばれ、迷子の伝言板である。それにしてもひどい当て字だ。「たづぬるかた」が迷子の特徴を書いて貼っておくと、「おしゆるかた」が見つけた場所を書いて貼り付けた。上部に貼り付ける余白が設けてある。日本文化の細やかさを感じる風景だ。

左手、堀沿いが公園になっていて遊歩道に東海道53次の凝縮版が設けてある。富士山のふくらみなどかわいらしい。堀にはボートが係留されていて、桑名城の
城壁の遺構だという堀の東側壁とともに公園の景観に一役買っている。

街道は突き当りを右折する。京町交差点を渡った次の十字路が
京町見附跡で、角に毘沙門天堂が、すこし入った右手の京町公園には市役所跡の碑があった。見附跡十字路を左折して物静かな商店街をぬけていく。格子窓に二階手すりを設けた建物が街道風情を残している。

やがて広い通りをよこぎって鍛冶町にはいると絵に書いたような枡形が残っている。
吉津屋見附跡で、ここに吉津屋門があった。4辺のうち3辺をたどって90度方向を変える。2辺目右手にある貝増商店には美しいしぐれ蛤の貝殻が箱に詰められていた。これも売り物かな?

枡形で東にむかった後、次南におれる道に迷う人が多いそうだが、目印は一見ゴミ屋敷に見える玩具屋
「いもや本店」とするのがよい。

県道401号をわたって県道613号に合流したらすぐ日進小学校前交差点(七曲見附跡)で右折する。

右手に暖かいベージュ色の石塀がめぐらされている敷地はかっての
鋳物工場跡である。桑名は鋳物の産地としても知られていた。

右に
天武天皇社がある。天武天皇を祀る神社としては全国でもここだけだそうである。兄の天智天皇との抗争に敗れ吉野に退いた大海人皇子は天皇の死後吉野を出、伊賀・伊勢を経て美濃で態勢を整え壬申の乱を勝利した。滋賀県人として天智天皇・大友皇子派であることを当然のこととしていたが、場所がかわればそうでもないことを知らされた。

矢田町交差点で国道1号を横断し、馬つなぎ輪を残す連子格子の家をみて、突き当たりを左折する。角に火の見櫓があるこの辺りはかつて
矢田の立場で茶店などがあった。

かっては松並木があったという江場地区をぬけ、
安永地区では古い家並みを見ることができる。街道は員弁(いなべ)川堤防に突き当たる。桑名の西側入口にあたるこの場所は町屋川(現員弁川)舟運の船着場でもあり茶屋が並ぶ立場であった。文政元年(1818)の伊勢両宮常夜燈や、こんな場所に料理旅館があるのも立場の名残であろう。堤防の一部が公園化され、「町屋橋跡」の説明板が設けられて往時の様子を描いた名所図会が載せられている。

員弁川を国道1号で渡って桑名市から三重郡朝日町に入る。昔は中州を利用して二本の板橋が架けられていた。町屋橋を渡ったら国道と分れて右に折れ安永の対岸地点から続く旧道に入る。

まもなく左手民家脇にまだ新しい
縄生(なお)一里塚跡標石が設置されている。

近鉄名古屋線伊勢朝日駅の踏み切りを渡る。そばに朝日町の案内板があり駅の自転車置き場にも「旧東海道」石標と焼き蛤の挿絵をそえた東海道案内板がある。宿場でないのに地元紹介に熱心な町だ。

古萬古発祥の地 朝日町  三重県でも北部に位置する朝日町は、北は町屋川(員弁川)を挟んで桑名市へ、南は朝明川を隔てて四日市市へ、東は川越町を経て伊勢湾に達します。西には標高50m前後の朝日丘陵があり、その東麓には旧東海道がほぼ南北にはしり、それを境に丘陵地帯と田園地帯に分れる5.99kuの小さな町です。
 朝日町には弥生時代以降の遺跡が西部丘陵を中心に点在しています。なかでも、昭和61年の発掘調査によってその塔跡が明らかになった縄生廃寺跡は、白鳳時代創建と考えられる寺院跡で、全国的に注目を集めました。塔心礎から一括出土した舎利容器は、平成元年に国重要文化財に指定されました。
 この町は、『日本書紀』に「朝明駅」(縄生付近と考えられている)と記述され、壬申の乱(672年)の時には、大海人皇子らが美濃国へたどった道筋にあたります。
 また、江戸時代には東海道筋として栄えたところでもあります。
 この町からは、著名な国学者橘守部、萬古焼を再興した森有節、日本画家栗田真秀・水谷立仙らが生まれました。


すぐ先浄泉坊の向かい側に国学者橘守部誕生地の説明板があった。

西光寺の白壁の塀越に生茂っている松は
松並木の名残りだという。

格子造りの家もみられる落ち着いた町並みをぬけ、JR朝日駅を過ぎたところの二又を左にとって進んでいくと国道1号手前の柿交差点で県道66号となる。

朝明(あさけ)川に架かる朝明橋の手前の右側土手脇に多賀大社の大きな常夜灯が建っている。多賀大社は伊邪那岐・伊邪那美両大神を祀る近江第一の大社である。近江に近づいたことを実感できてうれしかった。


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四日市

朝明橋を渡ると四日市市である。県道66号を南下し、塀と濠に囲まれた長明寺を右にみて県道26号を渡る。

県道26号をわたった左手民家脇に
鏡ヶ池(笠取り池)跡の標石がある。聖武天皇と当地田村家の娘にまつわる伝承の地である。明治時代には街道の両脇に池が残っていたという。近くの三岐鉄道沿線には久留倍(くるべ)官衙遺跡(大矢知町)や古代東海道の朝明駅(中村町)があって古代の要衝地であった。聖武天皇、天武天皇など古代要人が行き交ったことは十分に想像できる。

次の十字路で交差する細い道が、わが生家を通る近江商人の道、旧八風街道である。八風街道は東海道と東西に交差して富田一色の浜で終わる。残念ながら交差点には何の道標もなかった。

旧東海道は三岐鉄道高架下とJR踏切を同時に渡る。その先西富田町の十字路を左折し三岐鉄道と近鉄名古屋線の高架をくぐると、一里塚橋の右手に
富田一里塚跡の碑がある。

出格子の美しい同じ造りの家が二軒並んでいる。その先八幡神社のあたりが富田立場の西端だったというから、昔の町並みは現JR冨田駅の方向に延びていたのだろうか。旧東海道はその外側を回り込むようにして司クリーニング屋の角(電柱に「右東海道」の貼紙あり)を右に曲がり南に進んでいく。

富田小学校の前に
「明治天皇御駐輦跡」の石碑がある。昔は地区市民センターから富田小学校正門にかけての広い敷地に広瀬五郎兵衛の屋敷があった。広瀬五郎兵衛は代々の酒屋で酒屋五郎兵衛ともいわれていた。のち「酒五」という屋号で旅籠を営む。この広瀬五郎兵衛方に明治天皇は都合四度休憩している。富田名物の焼き蛤を天皇も賞味したという。

十四川を渡った右手に南富田の常夜灯が建つ。茂福町の「新設用水道碑」と「力石」に突き当たったところで曲尺手を経て米洗川を渡る。橋の手前に五段の優美な常夜燈が建つ。

まもなく左手に一本の松が見えてくる。樹齢200年余を経た
「かわらづ(川原津)」の松という。てっきり「変わらず」の松かと思った。

光明寺の先で左へまがって国道1号に合流する。大きな五差路交差点角に深く刻まれた道標がある。「羽津四区除雪紀念」という珍しい道標である。「右 桑名 左 四日市とあるのは東海道である。「右 四日市 左 大矢知」は斜めに出ている県道9号であろう。

三ツ谷町信号の先で国道を右に分け多度神社に向かう。川に突き当たったところに
三ツ谷一里塚跡碑があった。元は海蔵川縁にあったが、昭和になって川の拡幅工事で塚は川の中に取り込まれてしまった。

海蔵橋を渡り一里塚跡地の対岸に移る。旧道はまもなく三滝川(三重川)にさしかかる。じつに川が多い。ここには
三滝橋が架けられていて、橋を渡るといよいよ四日市宿である。広重の四日市宿はこの三滝橋を描いている。広重絵の左遠方にみえる帆柱は三滝川河口の四日市湊である。私は橋の上流側から撮らねばならなかった。川原の草むらがつい広重の土手と柳の風景に似合っていると思って・・・・。因みに四日市湊からは宮宿まで10里の渡しが出ていた。桑名の7里渡しと客を奪い合ったという。

四日市宿にはいってすぐ左手の
笹井屋に入って名物なが餅を買った。創業天文19年(1550)という老舗で、足軽だった藤堂高虎が贔屓にしていたという。「記念に、一番小さいのを・・・」というと、7個入り630円の竹包みを出してくれた。一個90円だ。それを昼飯かわりに歩き歩き食った。諏訪神社につくころには無くなりかけていた。

旧宿場通りはなんの感慨もわかない通りである。調べておいた問屋場跡という福生医院、脇本陣跡近藤建材店、黒川本陣跡の黒川農薬店をなが餅をくわえながら撮る。標識も立て札もない。

国道164号を横切った旧南町にある
文化7年の道標が唯一の遺構だ。「すぐ江戸道」とある。「まっすぐ前進」とう意味である。昔はここから諏訪神社までまっすぐのびていたが、今は一旦国道へ出て、諏訪町北信号で西側に渡りすこし国道をもどって斜めに出ている商店街に入っていく。

すぐ右手が
諏訪神社である。アーケード商店街は「スワマエ」とあり、バドミントンコンビを思い出した。神社には鳩が多かった。それが私の後をぞろぞろついてくるのだ。頭上を飛び回る連中もいる。手に持った長餅の包みがエサとみられたのだろう。視覚的にか嗅覚的にか、他人には寄らず私を取り囲む。「お前らにやるもんか」と残った餅を一気に喰って竹包みをポケットにねじ込んだ。いくらかはあきらめて散らばっていった。

昼食を終え商店街をぬけると、浜田町赤堀と格子の美しい家が建ち並ぶ気持ちよい街道がつづく。こちらのほうこそ宿場跡として保存したい街並みである。途中、鵜の森公園にある
浜田城跡碑とかわいい近鉄内部(うつべ)線の電車を撮った。

鹿化(かばけ)川を渡ると日永地区である。右斜めの旧道に下りると引き続き日永の古い街並みが延びている。天白(てんぱく)川手前の興正寺をみて天白橋を渡り笹川通りを横切ると
日永神社がある。鎌倉時代創建と伝わる古社で、社殿脇に玉垣に囲われて東海道最古といわれる道標が保存されている。もとは日永追分にあったものだが、追分に新しい道標ができて、ここに引退した。

西唱寺の先、右手の建物の隙間に隠れるように日永一里塚跡の碑が立っている。真横で気づかなければ見逃す存在である。

名残の一本松をみて街道はやがて国道1号に合流、ほどなく道は二手に大きく分かれる。左が伊勢街道、右が東海道である。分岐点に低い塚が設けられ、
伊勢神宮二の鳥居、東海道最古の道標を日永神社においやった新道標、日永の追分碑、常夜灯、鳥居の水が植え込みに混じって所狭しと集まっている。日永は四日市宿と石薬師宿との間の宿として追分を中心に旅籠や茶店が軒を並べていた。

近鉄内部線追分駅の踏切を渡るとすぐに国道とわかれて左の旧道に入るが、あらかじめ秒読みで予定していた
国道1号400kmの標識を求めて国道をいましばらく進むことに。400mほど歩いたところにいつもの標識でなく黄土色の地味な三角柱をみつけた。

旧道にもどり観音寺のさきでクランク状に右・左と折れ、近鉄内部駅の西側をかすめて内部川に突き当たる。かってはここから采女橋が架かっていた。国道の内部橋を渡って対角線上の旧道に入る。

国道の喧騒を一挙に断ち切ってひなびた采女の集落を縫っていく。
うつべ町かど博物館前に采女姿の解説図をみた。内部町なのか采女町なのか、大和時代なのか大正時代なのか、時空が交錯している感覚に襲われる。

道なりに進んで
杖衝坂にさしかかった。かなりな急坂ではある。杖を衝いたのは日本武尊に帰する。それを有名ならしめたのは芭蕉の笈の小文であった。貞享4年(1687)12月、「桑名より食はで来ぬれば」と云日永の里より、馬かりて杖つき坂上るほど、荷鞍うちかへりて馬より落ぬ。
 
  
歩行ならば杖つき坂を落馬哉

と来た。

坂を上がりきったところに
日本武尊血塚が用意されている。

旧街道は台地上の采女集落をぬけ、下から這い上がってくる国道1号に合流して現実にもどる。
右手ガソリンスタンド前に、
采女一里塚の碑がある。説明等はない。

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石薬師

国道の采女南交差点を南に折れて伊勢国分寺跡をたずねる。ここは鈴鹿市である。物流センターの倉庫群をぬけて国分集落にはいると右手に「史蹟国分寺跡道」の道標がある。まっすぐにつけられた道をたどると田園の真ん中に史蹟碑が立っていた。埋められた収用地か収穫後の乾田なのか、四方が乾いた草地である。石碑の近辺には礎石の遺構が見られる。遠くで作業する人の姿がみえた。発掘調査が続いているのであろう。南のほうに博物館が建てられている。敷地としてはかなり広い。

集落の中をたずねて
光福寺を探した。境内に国分寺の由来を記した亨和2年(1802))の石碑がある。この石碑によれば当地には南院・北院の2か寺があり、南院が僧寺、北院が尼寺と云う。国分寺と国分尼寺が近くにあったということだろう。なお、ここから南に1km余りいったところ鈴鹿川北岸にJR関西本線河曲(かわの)駅がある。そのあたりが古代東海道の河曲(かわわ)駅だった。鈴鹿駅と朝明駅の中間にあたる。かってはそこで鈴鹿川が大きく湾曲していたために河曲の名がついた。

国道にもどり石薬師に向かう。小谷バス停付近で改めて四日市市采女町から鈴鹿市国分町にはいり、街道は国道と分かれて左の旧道をとる。すぐ国道と再会、地下道で反対側に出て歩道を100mくらい進んだところで旧道が右側に復活する。
石薬師宿の入口である。

入口には北町地蔵堂の脇に宿場碑と石薬師町の案内板がある。集落の中に入ると落ちついた佇まいをみせる家並みが続く。式内社の氏神大木神社の先右手に
小沢本陣跡がある。駒寄と連子格子の縦線が優美である。

小学校の横に石薬師文庫、佐佐木信綱の生家、佐佐木信綱資料館が並んでいる。前庭に設けられた歌碑を含め全体が
佐佐木信綱記念館となっている。明治・大正・昭和にわたって日本を代表する歌人であった。

  
卯の花 匂う垣根に 時鳥(ほととぎす)早も来鳴きて 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ

懐かしい歌だ。卯の花は芭蕉もこだわった花である。

歌碑に刻まれた歌にも郷愁をおぼえずにはいられなかった。

  
ふるさとの鈴鹿の嶺呂の秋の雲 あふぎつつ思ふ父とありし日を

私のふるさと八日市は鈴鹿山脈を挟んでほぼこの地と対称の位置にある。八日市からも永源寺の方をながめるとその後方に鈴鹿山脈の美しい山並みがあった。私はそこで生まれ、父はそこで亡くなった。父と共にあったのは21年間、夕方の散歩道は八風街道だった。

民家の壁にこんな歌も見つけた。

  
夕されば近江境の山みつつ 桐畑の隅によく泣きゐしか 佐々木信綱

なつかしさがこみあげる街並みをあとにして石薬師の宿場を去る。

東海道陸橋で国道1号をまたぎ坂を下りると
石薬師寺の山門がある。ここにも佐々木信綱の歌碑がある。

  
蝉時雨石薬師寺は広重の 画に見るがごとみどり深しも

広重の絵には寺の背後に大きな山がある。どうしてもそのアングルが見つからなかった。どうやら鈴鹿山脈を引き寄せたらしい。

風雪でシルバーグレイに変色した白木板塀がまたしても故郷の風景を思い出させた。なだらかな坂を下ると川につきあたる。小さな蒲川橋をわたって左にまがったところに
石薬師一里塚がある。説明板にあった「くたびれたやつが見つける一里塚」との川柳に「よけいなお世話だ」と独り言を返して先を急いだ。

このあと旧道の道筋は定かではない。JR関西本線の高架をくぐって右折し、線路土手から今度は国道1号の土手下をたどって、水路の手前のトンネルで西側に出る。丁字路を左折して水路を渡り県道27号の陸橋をくぐって国道1号に合流する。合流点に石薬師宿・庄野宿の標識があった。

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庄野

国道の反対側にわたると鈴鹿川の堤防に舗装道路が残っていた。しばらくして道は消え堤防は藪と化した。拡幅工事前の旧国道だろう。その堤防の景色が広重の有名な「白雨」の背景にふさわしいのではと思った。「白雨」は創作度が強く実際どの場所が描かれたのかはっきりしていない。国道を歩いていっても右手の土手下はコンクリート工場で、情緒もあったものではなかった。

庄野北信号で国道をおりて右にすすむと最初の信号の左側に古い
庄野宿の街並みが延びていた。入口に宿場碑と案内板がある。

格子窓や二階に手すりを設けた古い家が残っている。人気を感じない静かな通りである。
犬矢来をほどこした
旧小林家住宅庄野宿資料館は閉まっていた。

集会所前に
庄野宿本陣跡の標柱と里程元標があり、その南隣の家の前には高札場の立て札があった。標識等はないがこの家が脇本陣(楠余兵衛家)跡であるらしい。街並みの古さにくらべて個々の宿場遺構の案内板類があっさりしている。

宿場の西端近くにある川俣神社のスダジイは、見ごたえがある。幹は一本でなく、数本の株立ちに見える。

十字路角に庄野宿の標柱がたっている。東入口にあったものと同じだ。ここが
西口であろう。ここから先の家並みは急にモダンに見える。

道はやがて国道の汲川原町立体交差点に出る。対角線上に続いている旧道にわたる順路は複雑で、設置されているくわしい案内図にしたがって渡る。図をスケッチしなければ、見た順路を覚えておくのは結構難しい。

旧道をみちなりにたどって、真福寺の先に大きな石碑がたち、道の両側には「従是東神戸領」と刻まれた領界石があった。大きな石碑は
「女人堤防」記念碑である。鈴鹿川の氾濫を防ぐために、村人たちは神戸藩に堤防の構築を願い出たが許可されず、やむなく女性たちが打ち首覚悟で堤防を築いたという。文政12年(1829)のことである。記念碑から南方向に名残りの椿並木が鈴鹿川まで続いている。

中冨田集落にはいって左手に川俣神社があり、そこに
一里塚跡碑があった。中冨田村は亀山領の東端にあたり、神戸領との境界をなしていた。「従是西亀山領」の領界石がある。近くには御馳走場があったといわれている。普通、御馳走場は城下の端あたりにあるものだが、亀山藩は藩領の際まで出向いて接待したとすると、ずいぶん丁寧なことである。さらに一里塚の説明板はこの近くに「東百里屋」という屋号をもつ家があるという。江戸から100里(約400km)の場所だとするとこの一里塚は100番目の大変めでたい一里塚だったということになる。残念ながら説明板に、何番目とは書いていなかった。なお国道1号の400km地点はすでに日永追分付近でみてきた。そこから12kmの距離があるのは旧街道が国道よりもまがりくねっているからであろう。国道里程表の距離を3%増しすれば対応する旧街道のおよその距離がわかる。もちろんそんな計算をしなくても用は足る。

歩きながらそんなことを考えているうちに西冨田にきた。ここも街道筋の雰囲気をもった街並みである。鈴鹿川の支流安楽川の堤防に突き当たる。手前にまた川俣神社があった。境内に神戸城主織田信孝(信長の子)が愛飲したという「無上冷水井跡」の石標がある。

堤防を100mほど下流にずれて和泉橋をわたり100mほど上流にもどったところで旧道のつづきを行く。

道が三方に分かれる右手角にある
地福寺境内に「明治天皇御小休所」碑と旧和泉橋の親柱、少し離れて観音堂跡がある。境内なのか空き地なのか、本堂もふくめて全体がガランとしている。

三叉の一番左の道をとる。すぐに車道を斜めによこぎり道なりにすすんで関西本線の狭い
井田川踏切を渡ると、そこは亀山市である。



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亀山

街道筋らしい家並みをぬけると井田川駅前の空疎な道となる。駅を過ぎたあたり右手に「旧井田川小学校跡」の碑と素朴な二宮金次郎が立っている。そばに「亀山宿・江戸の道(旧東海道)」と題した図入りの説明板があるが、主眼は日本武尊能褒野墓に置かれているようだった。日本武尊は近江伊吹山とも関係が深く、その末路をぜひ尋ねたいと思っていたが、いかんせん東海道から離れているため(3kmのこと)泣く泣く断念したものであった。

街道は国道1号を川合歩道橋で渡り西信寺の前を通る旧道に入る。川合椋川橋を渡り国道1号亀山バイパスの陸橋をくぐった先、右手に
谷口法悦供養塔がある。独特の書体で「南無妙法蓮華経」と刻まれている。谷口法悦は京都在住の日蓮宗信者で、刑場跡に題目碑を建てて刑死者を供養することを発願し、元禄8年(1695)から3年かけて東海道と江戸の北出口に6基の供養塔を建立した。三雲、関、川合、江尻、品川千住の6ヶ所である。関、川合(亀山)と2宿連続して建てたのはなにか特別な理由でもあるのか。川合の説明板には刑場に触れた記述はなかった。

まもなく、左の歩道上に元禄3年(1690)の和田の道標がある。三重県内東海道の中で最も古い道標である。

国道に接近したところで方向を西にかえ県道41号を行く。
道は緩い登り坂となり石上寺を過ぎたあたりに
和田一里塚がある。右側だけが復元されている。

栄町交差点で国道306号を横断し、道路幅が狭くなったあたりに能褒野神社二之鳥居、つぎの通り角に
露心庵(友松庵)跡の標柱がある。この辺りが亀山宿の東端になっていた。


露心庵跡
天正12年(1584)神戸正武が亀山城を急襲したが、城を守る関万鉄斎はわずか13騎でこれを撃退した。この合戦の戦死者を城下東端に二つの塚を築き葬ったという。関氏一門の露心はその近隣に仏庵を建立し戦死者を供養した。この仏庵が露心庵で、本来の名称は友松庵というが、建立した露心の名から露心庵と呼ばれていた。明治に至り廃寺となった。この庵から西が亀山宿となる。平成15年10月  亀山市教育委員会

古い下町風情の商店街に入っていく。

本町郵便局のある交差点は
巡見道との分岐点である。角に説明板がある。

巡見道
 巡見道という呼称は、江戸時代にこの道を巡見使が通ったことによる。巡見使が最初に派遣されたのは、三代将軍家光の寛永10年(1633)のことで、その後将軍の代替わりごとに、諸国の政情、民情などの査察や災害などの実情調査を行う目的で実施された。 巡見道は、ここで東海道から分岐して北上し、菰野を経て濃州道と合流した後、伊勢国を通過し中山道とつながる。 平成16年9月 亀山市教育委員会

道は大きく左にまがっていく。道は広いアーケード商店街にでて直角に西に曲がる。ここが「江戸口門跡」で亀山城東の惣門があった。

各店に宿場当時の屋号札がかかっている。「宿場の賑わい復活プロジェクト 」としてはじめた由の案内板がある。当時の町割りがそのままに残っていて、現在の各戸と一対一対応できる状態にあるのは驚きであった。


通りの左側に
「椿屋脇本陣」「樋口本陣」がある。
山形屋がある交差点が大手門・高札場跡である。東海道はその交差点を左折し、曲尺手をへてうねりながら坂を下っていく。この一角も白壁、板塀、格子窓が城下町情緒を残してすばらしい街並みである。京都東山界隈の坂道を思わせた。

広い通りに出ると右手遠くに櫓が見える。 手前には松並木の名残があって、とっさに広重の絵はここだと思った。

亀山城跡を見ていく。右手池のほとりに
「石井兄弟敵討跡」の碑が、そのさきに「石坂門跡」の標識がたっている。西之丸と二ノ丸の間に設けられた枡形門跡である。

多門櫓は今に残る唯一の亀山城建造物である。正保年間(1644〜48)に本多俊次が築造した。野面石を櫓の倍以上の高さに積み上げた石垣は見事というほかない。

街道にもどる途中、田中病院の南側の通りをはいると立派な長屋門をかまえた武家屋敷が残っている。藩主石川家の家老を勤めた
加藤家屋敷である。

街道は「青木門跡」の案内標識にしたがって坂をあがると格子窓に
「ひのや」の屋号札を掛けた家があり、並んで「問屋場 若林家」があった。西町の中心のようである。その先左手の見事な格子造りの家は呉服商枡屋跡である。玄関の庇を幕板で丁寧に覆っている。

街道は鍵形に折れていく。加藤家住宅の前を通る道と合流する角地に近江屋の屋号札を見つけた。宿場屋号一覧の手元資料を調べたところ、日野屋が3軒、近江屋が2軒、八幡屋が1軒あった。いずれも近江商人であろう。

「近江屋跡」の角を左折して亀山城下を出る。その出口が
京口門跡であるが広重の絵とはおよそ縁遠い風景である。かっては深い谷から這い上がっていく急な坂で、白壁の京口門番所があたかも天守閣のように高くそびえていたのであった。

京口坂橋からたどる
野村の集落は宿場街におとらず古風でしっとりとした街並みである。指定文化財かと思われるような気品ある連子格子の家を撮っていると、「何しているの?」とその玄関から出てきた小学生に問われた。
「家を撮ってるの。素敵な家だね」
見送りに出てきた若いおばあさんが「ここにこうもりの彫り物があるのですよ。ちょっと取れたところがありますけどね」と、装飾された出格子の横板を教えてくれた。

右手に巨大な木が見えてきた。
野村一里塚である。三重県下に現存する唯一の一里塚で塚上の椋の木は高さ20m、樹齢300年をこえる巨木である。

布気集落にはいり道が左にカーブするあたり左手空き地に
「史跡 大庄屋 打田権四郎昌克宅跡」と書いた白いの標柱がある。近江から移ってきた打田家17代当主は86ヶ村をあるいて「九々五集」という見聞録を著した。9x9+5の数だけの村を見てきたというのでる。郷土史では彼の著書から多くが引用されている。亀山城の別名が「粉蝶城」であるというのもこの本によるものである。近江のどこからやってきたのか知りたい。

すぐ先の三叉路を右にまがる。角に「東海道 →」の標識があるのでまちがわない。
感じのよい一角をぬけると布気神社である。その向かいに
能古茶屋があった。禅僧道心坊能古(のんこ)が開いたもので、友人であった芭蕉も泊まって

  
枯枝に鳥とまりたるや秋の暮

という句を残しているという。どの旅の途次であったか、いつのことかなどこの句の成立については疑問が残る。

やがて道は左半分が陥没したかのような二又にさしかかり、その左の急坂を下っていく。下まで降りる途中に左に出ている陸橋で国道とJRを跨いで右折し旧道の続きに入る。電車がこないかとしばらく待ったが、あきらめた。

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道は鈴鹿川北岸にそってまっすぐにのびる大岡寺畷である。かつては鈴鹿川の北堤を3.5qにおよぶ東海道一の長縄手であった。広重の浮世絵が描かれた名阪高速道路の高架をくぐり、大岡寺畷 橋を渡る。橋名が刻まれた親柱は古そうで趣がある。川面にこれから越えようとする鈴鹿の山並が映って畷の情景を豊かにしている。

街道は徐々に川からはなれ、国道1号を短くたどったあと、右斜めにのびている関宿の宿場道にはいっていく。


関宿の入口に「関の小萬のもたれ松」の説明板がある。夫の仇を討とうとした母の遺志をついで見事果たした烈女、小萬の伝承が伝わる。

関宿に入っていくと鳥居が立っている。ここは
東の追分といわれ伊勢別街道が分岐している。江戸方面から伊勢に詣でる人は桑名から日永の追分で東海道と分かれて伊勢街道にはいる。他方京都方面から伊勢に向かう旅人はここで東海道とわかれて伊勢別街道で津に出て伊勢街道に合流した。鳥居の横には常夜燈が、その後ろ側には一里塚跡の標石がある。ここが 宿場の東入口をなした。

ここからの関宿の町並みが圧巻で、昭和59年(1984)に国の
重要伝統的建造物群保存地区に指定された。地区内の7割が戦前までの建物だという。景観を保つために電柱が撤去された。ヨーロッパと日本の街並みで決定的な景観の違いは電線・電柱(プラス看板)の有無であると思っている。個々の事物や景色にたいして繊細な美意識をもつ日本人が、こと集団的生活空間となると突如として無神経になるのは人間の二面性を見る思いがする。

宿場は東から、木崎・中町・新所からなる。これまでの基準で個々の建物を撮っていたらすべてを撮らねばならない。京の町家が持つすべての意匠をここで見ることができる。「連子格子が美しい」と繰り返すのはやめて、単に写真をならべることにする。

旧浅原家:しっかりした
「ばったり」がある。
雲林院家(開雲楼)と坂口家(松鶴楼)は共に芸妓置屋であった。開雲楼の二階の窓格子と手すりが色っぽい。
鶴屋脇本陣:虫籠窓と千鳥破風が目玉。
岩木屋:犬矢来
百六里庭からの街並み眺望:右側手前に「まつい呉服店」の無粋な看板が景観を損ねていた。写真はそこをトリミング。
伊藤本陣松井家:現電気屋。
広重の「本陣早立ち」の絵が掛かっていた。
玉屋(歴史資料館):大旅籠。おばさんが散歩の犬をあやしていた。
深川屋:老舗菓子屋。「関の戸」は関宿の名物である。
庵看板が立つ。
高札場:家ほどの高さに8枚の高札。
関の小万の墓:宿場入口で紹介された烈女の墓。
川音(尾崎家):米屋。水車の音を屋号にしたロマンチスト。
地蔵堂:関の町はもともと地蔵堂の門前町として発達した。日本最古の地蔵堂。
会津屋:大旅籠。小万が育った山田屋が前身。
松葉屋(田中家):火縄屋。鉄砲のほか煙草にも使うのだという。卯建があがっている。
名知らず:中二階白壁の両側に
鶴亀の漆喰彫刻駒寄。

で、宿場が終わる。

西の追分休憩所に「鈴鹿の関」に関する資料が掲示されていた。そうだった。肝心の関所のことをすっかり忘れていたものだ。
箱根や新居の関所とちがって、鈴鹿の関(東海道、三重県)は不破の関(東山道、岐阜県)、愛発の関(北陸道、福井県)と共に古代官道が近江の国を出たところに設けられた。いずれも8世紀には廃されたもので、鈴鹿の関の確かな場所はわかっていない。最近、その城壁築地と思われる遺構が発見された。場所は国民宿舎関ロッジの西方らしい。

国道1号との合流点に出た。すぐ南に分岐している
国道25号が大和街道で、柘植・上野を経て笠置経由で奈良に通じている。電柱・電線が復活した。「ひたり いかやまとみち」と記された大きな道標はその上部に刻まれたヒゲ書体の法華経題目でわかるように谷口法悦の供養塔である。つまりここに刑場があったということになる。どの資料にもそんなことは書いていなかった。

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坂下

国道1号を歩いていく。市瀬信号の右側にある駐車場に「転び石」と呼ばれるいわくつきの巨石があるとのことだが、隅々まで探しても見つからなかった。あきらめきれず山側の草むらを探索していると半分が土に埋もれた岩があった。立て札類はなく、弘法大師の供養を受けた石ともおもわれなかったが、念のため写真を撮っておいた。今資料と比べているが、どうやら別物のようである。

その先鈴鹿川の手前で国道と分かれて旧道にはいり、道なりに進んで一度国道を横切り市瀬集落を通り抜け再び国道にもどる。 

国道がおだやかな峠にさしかかる。右側に
「名勝筆捨山」の石柱がある。川の対岸に見えるのが広重も描いている筆捨山である。すぐ先に数軒の小さな集落がある。絵にみえる茶屋はこの辺りにあったのだろう。崖を求めて民家のあいだをはいっていったが、家と川の間は畑と植木で川岸の線がはっり見えない。そばで世間話をしていた二人にリュックを下ろし広重の絵を取り出して、
「この絵と同じ場所はありませんかね〜」と聞く。
「この山はあれですよ」というばかりである。

畑を前景にした筆捨山の写真を一枚撮って集落をでる。国道にもどると鈴鹿川が急接近してきて、川の流れが見下ろせる位置にきた。振り返ると筆捨山がかろうじて残っている。ここの方がいいだろうと一枚撮る。

その先、国道が大きく右にカーブしたあたりの左手、電柱の脇に
一里塚址の標石を確認して、右の旧道にはいっていく。沓掛集落には格子造りの古い家が残っていて旧街道の面影を偲ばせる町並みである。家並みをぬけると視界が開け前方に三つのこぶがならぶ三子山が全容をあらわした。峠は三子山の左側鞍部にある。

やがて二股を右にとって坂をあがると左手にモダンな建物があった。
鈴鹿馬子唄会館である。鈴鹿は馬子唄の南限だそうだ。改めて鈴鹿の馬子唄をよむとこれは小万の歌だ。関の小万はいかに人気があったかがうかがい知れる。

坂は照る照る鈴鹿は曇る   あいの土山雨が降る
馬がものいうた鈴鹿の坂で  おさん女郎なら乗しょというた
坂の下では大竹小竹     宿がとりたや小竹屋に
手綱片手の浮雲ぐらし    馬の鼻唄通り雨
与作思えば照る日も曇る   関の小万の涙雨
関の小万が亀山通い     月に雪駄が二十五足
関の小万の米かす音は    一里聞こえて二里ひびく
馬はいんだにお主は見えぬ  関の小万がとめたやら
昔恋しい鈴鹿を越えりゃ   関の小万の声がする

河原谷橋を渡ると
旧坂下宿集落である。 バス停のある坂下集会所のあたりが宿場の中心であったのだろう。宿場町だった面影はほとんどない。わずかに松屋本陣跡の石柱と坂下宿の案内板があるのみである。往時は本陣を3軒ももつ大きな宿場であった。場所は峠直下にある片山神社下の谷間にあったが、慶安3年(1650)の大洪水で宿場は壊滅し現在の場所に移ってきた。

その先茶畑に
大竹屋本陣跡と梅屋本陣跡の標石があった。
梅屋本陣跡の道向かいにある
法安寺庫裏の玄関は松屋本陣の門を移築したもので、坂下に残る唯一の遺構となっている。その先の右手に小竹屋脇本陣跡の石柱がある。鈴鹿馬子唄にある「大竹小竹」はこの大竹本陣と小竹脇本陣をさす。せめて脇本陣にとまってみたいという庶民の願望が伝わってくる。

宿場も西端に近づくころ、左手に虫籠窓を含め総格子造りの美しい家があった。坂下宿を代表する家といってもよいだろう。その向かいに石垣の遺構が残っている。
金蔵院という古刹の跡である。徳川家康や家光が休息したという格式高い寺で、参勤交代の大名は山門前で駕籠を降りる慣わしだった。

旧道が国道と接する右手に
岩屋観音があり横を清滝が落ちている。
ここから国道の横につけられた舗装道が旧街道で、しばらくいくと国道は左に分かれ旧道は片山神社の参道へと入っていく。かつてはこのあたりが坂下宿であった。

片山神社は式内社で斎王(伊勢神宮に巫女として奉仕した未婚の内親王または親王の娘)群行の際に皇女が宿泊した鈴鹿頓宮跡ともいわれている。頓宮は斎王群行のたびごとに建造され、群行が終わると解体された。城のように高くて堅固な石垣の脇の石段を脇上がっていったが上には何もなかった。社殿は平成11年に焼失したそうである。鳥居横には鈴鹿流薙刀術発祥の地の石碑がある。その脇から峠道がはじまる。石畳が残る山道を登っていくと高いところを国道1号が横切っている。階段をあがって一気に国道の反対側にぬける。この階段が一番きつかった。

案内標識に従って山道をゆくと芭蕉句碑がある。

  
ほっしんの初にこゆる鈴鹿山

道の勾配が徐々にゆるんできて峠の気配を感じるようになったころ、左手に石垣の遺構がみえた。
茶屋跡である。当時の峠には6軒の茶屋が建ち並んでいたという。平たい峠にたどりついて納得できた。近江側につづく道は平坦である。盗賊さえでなければここは難所というより立場である。

峠の左に道がのびていて入口に「田村神社跡10m 
鏡岩150m」の標識がたっている。狭い道をたどっていくと行き止りの崖淵に大きな岩があった。一見したところ鏡のように反射している面はない。ただ部分的に緑色をおびた半光沢の岩肌が認められる。

崖のはるか下を国道1号が蛇行していた。はじめて峠についた実感を得る。

杉林と茶畑の境に道がつくられ脇に
国境(県境)標石があった。

  
左 三重県 伊勢国  右 滋賀県 近江国

ここからは自分の庭を歩くようなものである。

(2010年1月)
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