東海道−9 



土山−水口石部
いこいの広場
日本紀行

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土山

伊勢と近江の国境線を越える。境界石の側面に「是より京まで十七里」とあった。東海道最後の70kmを歩きはじめる。国境線に沿って鈴鹿山脈尾根伝いの道が作られている。道の左側は鬱蒼とした杉林であるに対し右側は明るく開けた茶畑である。茶の木は国境を一歩も侵していない。これほどくっきりと風景が異なる国境をみたことがない。

緩やかに下る畑中の道をたどると右手に巨大な自然石の常夜燈が現れた。
「万人講常夜燈」と呼ばれ、重さは38tだという。重機がなかった江戸時代にどのようにして大きな笠をのせたのだろうと思わずにいられなかったが、すぐに古代のピラミッドやストーンヘンジのことを思い出して、方法はあるものだと納得した。

常夜燈からすぐに国道1号に降りてくる。振り返ると鈴鹿トンネルの出口上に常夜燈が立っていた。国道をしばらく歩き、「山中西」信号の手前で山中集落を通り抜ける旧道にはいる。前方に新名神高速が高々と空中を横切っている。集落を通り抜け高架を見上げながら国道1号に合流する。合流点に
「山中一里塚公園」が設けられていて、道標と鈴鹿馬子唄之碑、それに馬と馬子の石像が添えられている。一里塚の説明板がなかった。公園の道向かいに旧道がわずかに残っているがすぐ建物のところで途絶えているようである。

国道の猪鼻信号で右に出て猪鼻集落の旧道に入る。集落の入口に自然石の
猪鼻村碑があり中ほど浄福寺の前に猪鼻村の説明板と、赤穂浪士の一人大高源吾(俳号は子葉)が旅の途中に詠んだ句碑がある。

  
いの花や早稲のもまるゝ山おろし

集落の終わり近く右手に
「旅籠 中屋跡」と「明治天皇聖跡」の石碑が並んでいる。猪鼻は土山と坂下宿の間にある立場だった。宿泊施設もあったことがうかがえる。

国道にもどりゆるやかな峠をこえた先で右側の旧道に降りて蟹ヶ坂集落をぬける。蟹ヶ坂の地名は、集団を組んで鈴鹿峠に出没した山賊を蟹とよんだところからきたといわれる。峠でみてきた鏡岩にまつわる伝説にあるように鈴鹿峠は道の険しさよりも山賊の横行で悪名高かった。そういえば山中の国道沿いに「山賊茶屋」という廃業したドライブインの建物が残っていた。集落の西端、工場内を通り抜けたところに
蟹坂古戦場跡の標石があった。伊勢国北畠軍と近江軍との間で戦われた地元山中城をめぐる攻防戦があった所だという。

道はまっすぐ西にのび、その先に大きな森がたちはだかっている。土山宿の入口をなす田村神社の森である。森の手前に
田村川が流れまだ新しい橋が架かっている。広重の絵にも描かれている板橋を5年前に復元したものである。橋のたもとには高札場も復元されていた。


高札の解説について
 この高札の文章は、田村川橋について、道中奉行所から出された規則(定め書)の内容が書かれているものです。この田村川橋ができるまでは、この橋から約六百メートル程下流に川の渡り場がありましたが、大水が出るたびに溺れ死ぬ旅人か多く出たため、その対応に土山宿の役人達をはじめ、宿の住民の苦労は大変なものでした。また、川止めも再三あり、旅人を困らせていました。 そこで幕府の許可を得て、土山宿の人達が中心になりお金を集め、今までの東海道の道筋を変えて新しい道を造り、田村川木橋を架けることになりました。『この橋を渡ることのできるのは、安永4年(1775)の閏月12月の23日からである。この橋を渡る時、幕府の用で通行する人達や、武家の家族が渡る時は無料である。また、近村に住む百姓達の中、川向うに田畑があり、毎日橋を渡って生活しなければならない人達の渡り賃も無料である。しかし、それ以外の住民および一般の旅人については1人につき3文、また荷物を馬に乗せて渡る荷主についても馬1頭につき3文、渡り賃を取ることになっている。この規則は一時的なものでなく、橋があるかぎり永遠に続くものである』と書かれています。

広重は橋の下流あたりから雨の中をいく大名行列を描いた。橋を渡ったところにはこの絵の解説板がある。森に入るとすぐ田村神社の参道があり、ここにも高札場跡の標石があった。
田村神社は平安時代の創建とされ坂上田村麻呂を祀る。坂上田村麻呂は鈴鹿峠の鬼を退治したという。鬼とはおそらく山賊だったろう。

南にむかう表参道が旧東海道でもある。鳥居をくぐり国道を横断し、道の駅の裏側から土山宿が始まっている。しっとりとした家並みから旧宿場町の息遣いが感じ取れた。

「お六櫛商三日月屋」の屋号札が掛かる家の向かいに
東海道一里塚跡の標石がある。お六櫛といえば木曽路薮原の名産ではなかったか。中山道を歩いたとき元祖お六櫛製造本舗黒木半蔵商店でつげ櫛を買ったものだ。なんでも信濃の櫛職人が伊勢参りの帰り土山で急病になり、宿場で世話になったお礼に櫛の作り方を教えたという。その後お六櫛は土山でも名産として人気を集めるようになった。

来見橋(くるみはし)を渡ると左手に森白仙終焉の地井筒屋跡の石標がある。白仙は森鴎外の祖父。津和野藩の典医として参勤交代で国元に帰る途中この地で病に倒れ井筒屋で息をひきとった。向かいの平野屋には、伯父の墓参に訪れた鴎外が宿泊している。

すぐ左手の茶房うかい屋で昼食をとる。虫籠窓に格子造りの町屋は江戸時代の建物を改造したものだという。ご主人が旧東海道に詳しく、松尾渡しから頓宮跡にかけての道筋を確認した。馬子唄にある「坂はてるてる鈴鹿はくもる あいの土山雨が降る」の「あい」が何を意味するかについて7説あると、資料をいただいた。どれも説得力に欠ける。

左手に二階屋脇本陣跡、その向かいに
問屋場・成道学校跡の標柱がある。

問屋場跡
 問屋場は、公用通行の客や荷物の人馬継立、宿泊施設の世話、助郷役の手配など宿にかかわる業務を行う場所で、宿の管理をつかさどる問屋とそれを補佐する年寄、業務の記録を行う帳付、人馬に人や苛物を振り分ける馬指・人足指らの役人が詰めていた。 土山宿の問屋場は、中町と吉川町にあったとされるが、問屋宅に設けられていたこともあり、時代と共にその場所は移り変わってきた。明治時代の宿駅制度の廃止にともない問屋場も廃止されたが、その施設は成道学校として利用された。平成十六年三月  土山の町並みを愛する会

その一軒先右手にその
問屋場の役人宅跡がある。二階の白壁と一階の黒基調の格子造が美しいコントラストを見せている。建物自体は新しそうで、往時の問屋役人居宅を復元したものか、説明文は建物には触れていない。

その隣が
土山本陣跡である。二階の黒漆喰壁と駒寄を設けた繊細な格子窓が品のある佇まいを見せている。甲賀武士土山鹿之助の末裔、土山喜左衛門が初代を努めたとある。現在も土山家が居住している。西隣に明治天皇聖跡の碑が建てられている。明治元年の行幸の際、土山本陣宿泊の日が明治天皇即位最初の誕生日だった。土山の住民は全戸酒肴を賜ったという。

広い道路との交差点角に小公園があり、
「大黒屋本陣跡」「問屋場跡」「高札場跡」の標柱が並んでいる。豪商大黒屋立岡氏と土山氏の両名が本陣を勤めていた。

街道から少し離れた
常明寺による。芭蕉句碑がある。

  
さみたれに鳰のうき巣を見にゆかむ

貞亨4年(1687)夏、芭蕉が『笈の小文』の旅に出る前に詠んだ句である。鳰とはカイツブリのこと。琵琶湖を意味している。

道は右にカーブして、国道に出る。出口に土山宿の標柱と案内板、そして自然石の常夜燈がある。国道を渡ったところが御代参街道の分岐点で、道標が二基並んでいる。3年前御代参街道を歩いた時は道標がならんでいるだけでそっけなかったが、今回は竹垣で囲まれ説明板も設けられていて待遇が改善されていた。

その先で右斜めの旧道に入る。集落がつきるあたり十字路角に旧東海道の案内板があり、野洲川通行止めのための迂回道が示されている。旧道をそのまま突き進んでいくと右手木立の陰に
馬頭観音を祀った祠があり、昔の面影を偲ばせる風景が広がっている。

堤防らしき堤もなく、道はそのまま野洲川の流れに消えていった。当時野洲川はこのあたりでは松尾川と呼ばれ、この地点は
松尾の渡跡である。対岸にみえる細い道がこの続きであろう。後もどりして国道に出、白川橋をわたって最初の交差点を右に折れ、旧道の対岸地点に向かう。左道端に「瀧樹神社神領田」と刻まれた石柱が立っている。その先の十字路で交差している道が旧道であろう。右に折れた下り坂入口には馬子唄の歌碑があった。

交差点にもどり、そのまま西南にのびる旧道をすすむ。左手に
「旅籠 水口屋跡」と記された標柱をみつけた。まだ土山宿内のようである。

まもなくこんもりとした森がみえてきて、右にでている道をすすむと左手の森の中に
垂水斎王頓宮跡がある。裏口から入ってきたようだ。薄暗い境内に立派な石碑と小社があった。毎年3月の最終日曜日に土山大野小学校からこの頓宮跡まで、斎王群行が再現される。土山宿場祭りのようなものである。それが明後日なのであった。

木の鳥居がある表入口から出て森と茶畑の境をたどって旧東海道にもどる。

GS脇で国道を横切ったところに
「伊勢大路(別名 阿須波道)」と刻まれた標石がある。古代東海道は平安京に都が遷されてからは、平城京から伊賀上野−柘植−関のルート(大和街道)から、大津−草津−柘植−関と、現在のJR草津線に沿った道が開かれた。その後仁和2年(886)になって草津からの道筋が水口−土山−鈴鹿峠−関という近世の東海道に沿うルートに変更された。近江では勢多(瀬田)、甲賀(三雲)、垂水(土山頓宮)に駅家が設けられた。この鈴鹿越え古代東海道が阿須波道である。

旧道はすぐに広い道に合流して前野集落を西進する。まもなくなつかしい
紅殻(弁柄)格子の家を見つけた。紅殻(ベンガラ)は原産地のインドベンガルに由来する。酸化鉄からなる赤色顔料で、格子のみならず、柱、梁、板壁などあらゆる木材部に使われる。最近は歩道の着色材としても利用されているようである。街道歩きを通じて古い町並みを多くみてきたが、ベンガラ塗りの家は滅多にみることはなかった。ここ近江ではそれが普通のように見られるのである。すこしくすんだベンラガ色は赤錆色に似た古色を帯びて、見るたびに生家を思い起こさせる。紅殻色は近江の色ではないかと思ったりしている。

市場集落にはいり長泉寺をすぎ前方に松並木の片鱗が見え出したあたり、右手に市場一里塚跡の標石があった。川の手前に惚れ惚れとする
茅葺の民家がある。しかも壁中紅殻塗りだ。川の向こうに松並木が続いている。ここで休むことにした。

時計を2日はやめて28日にあわせる。
斎王群行が少し前大野小学校を出たという。ここで行列を待ち伏せ、休憩地点である市場自治会館まで追いかける予定である。そこで「道中の舞」のパフォーマンスがあるらしい。沿道には観光客や同年代の写真愛好家が集まっていた。場所取りを強いられるほどの混雑ではない。

やがて静々と幟を掲げた男性を先頭に古代装束に身を包んだ雅やかな女人行列がやってきた。実際の群行は数百人の大行列だったというから、今回はその10分の1ほどのミニ群行である。子供から中年女性まで、みな表情を固くして歩いていく。輿に乗った女性が斎王である。ミス土山だろうか、それともタレントか、うつむき加減の顔を下から覗き込むようにしてシャッターを押す。徒歩の命婦や采女よりも美しかった。

自治会館広場で休憩。黄粉餅と酒がふるまわれランチかわりになった。斎王は輿から降りて中央に座る。横には滋賀県雅楽会のメンバーが控えている。休憩のあと、女性数名による
「道中舞」が始まった。なんとも優雅で能よりもさらに象徴的な動きである。道中の安全を祈願する舞であった。群行はこの後頓宮跡で「禊の義」を行って終わる。実際の群行はそこで宿泊し、翌日鈴鹿峠を越えていった。峠の伊勢国側入口にある片山神社が鈴鹿頓宮跡といわれており、そこに泊ったのであろう。その後の道のりは関で伊勢別街道に入り津で伊勢街道に乗ったと思われる。古代の東海道は伊勢や熱田への参詣道であった。

橋をわたると街道の北側が大野、南側が徳原となる。松並木道は
反野畷とよばれた一本道であった。並木の中、左手に「従是東淀領」の領界石がある。

大野公民館に鴨長明の歌碑があった。

  あらしふく雲のはたてのぬきうすみ むらぎえ渡る布引の山

布引山は名山であり、また歴史舞台であった東西三里の間、布を引く如く。春はたなびく春がすみ、夏は松の緑に映え、秋は月にさえ積もる雪も美しき雪の朝、山の姿うるはしく、春夏秋冬それぞれ趣あり。 平安の昔より阿須波道を行ききし斎王群行や、大宮人参宮の旅人によりて詩に歌によまれてきた。有名な歌人、鴨長明もこよなくこの布引山を愛し、詠まれた歌がある。 
 あらしふく雲のはたてのぬきうすみ むらぎえ渡る布引の山
水口大岡寺で得度された長明は歌よみの世界に枝を引く。 江戸時代、東海道の大改修により道すじは麦るも東西布引にそったコースに変リなく、近世、明治天皇明治13年行幸の供奉池原香採のよまれし歌に
 ○吾が袖に通ふも涼し布引の 山より下す夏の潮風
 ○みゆきます道のとばりと見ゆる哉 布引はへし 山の姿は
           平成3年3月25日  土山町教育委員会

このあたり、街道の両側に旅籠の屋号を記した石柱が散見される。「旅籠枡屋」はいまも同じ屋号の料理旅館である。「小幡屋跡」は
明治天皇聖跡碑と並んである。大旅籠だったのだろう。左手に松の植え込みに立派な門塀を構えた武家屋敷風の家があった。

道は国道1号に出、斜めに渡って再び旧道にはいる。国道を左下にみて野洲川段丘上の集落を西に通り抜けると大野西信号で国道に合流する。三角地に土山今宿の石碑と石燈籠、それに時計塔のようなものが建っている。ここが土山の西端。鈴鹿峠から、土山町はずいぶんとながかった。

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水口

大野西交差点信号で国道をわたって県道549号にはいる。左手の小公園に水口宿のモニュメントがある。水口町入口である。旧街道はすぐ先で右手の坂道をあがっていく。左側に杉並木が現れる。密度といい杉木立の高さといい最近植樹されたものではなく、土手を伴った立派なものだ。

すこしいくと浄土寺の三叉路に差し掛かり、角に
一里塚が復元されている。旧地名は今在家というらしい。その角を左折して県道にもどる。300mほど進んだところで右からの道に合流し、道端に「街道をゆく」と題した石碑がある。てっきり司馬遼太郎の文学碑かと読んでみるとまったく関係のないものだった。石碑のある道は一里塚の丁字路をまっすぐに来た道だが、手元資料では旧道はあくまで県道になっている。道筋の流れとしてはこの道のほうが自然だ。
古い街道には、いにしえ人の気配があります。その曲がりくねった道筋に、路傍の道標に歴史があります。 あるときは戦の道となって人馬どよめき、あるときは参宮の道となって賑やかな歌声に包まれたであろうこの道。 東海道は遠い昔にその役割を終え、今や暮らしの道として、風景の中にのびています。

すぐ先で右の旧道にはいる。今郷集落は古い家並をのこした趣ある道風景を呈している。県道126号を横断して県道549号にもどり、今郷から新城に移る。左手野洲川に架かる石橋(岩上橋)は古そうで風情ある橋だ。街道はバス停前から再び県道とわかれて旧道に入っていく。

しばらくすると二股に出る。右の道が旧東海道であるが、左に行った川原に
磨崖仏があるというので寄ることにした。県道におりたところに立場バス停があり、その後ろ側の川原に大きな岩があった。頭部に鳥の巣のよな小枝をかぶっている。岩の割れ目に育った木の茂みだ。岩肌に彫られた仏像は風化がひどく、なんとか数体の仏像が認められた。説明等はない。

二股にもどり旧街道をすすむと竜ヶ丘団地のバス停あたりに松並木がある。木はまだ若い。前方になだらかな湾曲をみせるのは大岡山(だいこうやま)で、古城山ともよばれ山頂に現水口城の前身である岡山城(水口古城)があった。天正13年(1585)、羽柴秀吉が家臣中村一氏に命じて築かせたものである。のち長束正家が居城するが関が原戦いで東軍池田長吉に攻められて落城した。新しい水口城の築城は家光の時代になってからである。

秋葉集落の古い町並みをぬける。国道307号を横切り坂を上がった右手に冠木門が建てられている。水口宿の
東見付跡である。当時は土井と木戸で囲まれていた。ここから西端の五十鈴神社までが水口宿である。早々から古い家並みが続く。一見して土山より確実に古い。田町・片町の山蔵がある。

坂道をくだり国道を渡った左手に割烹宏陽園の古い建物があり、その棟続きの弁柄塗り格子に
「元脇本陣文右衛門跡の札が掛かっている。並んでいるのは4月20日の水口曳山祭のポスターだ。16基の豪華な曳山が巡行する。

脇本陣跡のすぐ先が
本陣跡で、竹垣に囲われた通路を入っていくと本陣跡石碑と明治天皇行在所跡の碑が建つ。代々本陣役は鵜飼氏が勤めていた。

突き当たりの二股に
高札場が復元されている。東海道は左をゆく。はがれた土蔵壁をみせる建物は酒蔵だろうか。向かいには古物店、ベンガラ塗りの町家がならび、その先で道は再度二手に分かれる。電柱脇に立つ「旧東海道」の標識にしたがって右側の道をいく。これで高札場の二股を加えて道は三本に分かれた。しばらく三筋の商店街が水口の町を並走して1km先で一束にまとまる。東海道は真ん中の道だ。特徴のある町並みを作り上げた。

老舗菓子処一味屋の向かいに
問屋場跡の標石がある。大きな交差点に出た。右角にからくり時計台がある。ちょうど10時前だった。10時をすぎても何も起こらなかった。曳山を引く人形が動くのは毎時でなく、9時、正午、3時、6時の4回らしい。

交差点を右折して
大岡寺による。屋根が変わっている。二層の屋根だろうか、上段の屋根は赤いトタンで覆われていた。瓦葺の上に茅葺が乗っているわけでもなかろう。改修中の仮屋根か。よくわからない。境内の右手に芭蕉句碑がある。貞享2年(1685)3月、大津より野ざらし紀行の帰途に着いた芭蕉は水口で若い門人服部土芳と19年ぶりに再会した。

  
水口にて、二十年を經て故人に逢ふ  命二つ中に活きたる桜かな

この桜は大岡寺の桜だという。

街道にもどり郵便局の先の交差点をわたった次の路地を北に入って
大徳寺による。「城下町北道 塗師屋町」の標石がある一筋北の通りはひなびていて、白壁に蔦がからまる小さな土蔵、すまし顔の汲み上げポンプなどが目立たないようにあった。大徳寺は徳川家康が宿泊した由緒ある寺で、山門には葵紋が刻まれている。石積塚が築かれ上に徳川家康公腰掛石が置かれていた。

城下町北道をそのまま西にいくとすぐ近江鉄道踏切の手前で
三筋が合流する。ここにもからくり時計と、広重の浮世絵とともに水口宿の案内プレートがあった。広重は水口名産の干瓢干しの風景を描いている。現在でも夏になるといくつかの農家では干瓢を干す風景が見られるという。広重の絵は街道筋の畑だがそれだけでは場所の比定ができない。これまで東海道の各宿場で広重の絵の現代版を写真に収めてきたが、ここだけはあきらめざるを得ない。せめて夏に来て干瓢干しの現場を撮るしかないだろう。水口の干瓢作りは水口城主長束正家の時に始まる。その後正徳2年(1712)に鳥居忠英が栃木県壬生に転封した際干瓢を携えていった。それが縁で水口町と壬生町は姉妹都市の関係にある。

さてここで街道をはなれて南のほうへ寄り道をする。水口神社と水口城へ寄るためである。
三筋のうちの一番南側の道をすこし逆戻りして右折し道なりに南にむかっていくと鳥居があらわれて、ここが旧東海道かと思うほどの整った松並木が続いている。参道並木の終わりに柳町と大池町の山蔵が建ち並んでいる。

土地の開拓祖神を祭る式内社
水口神社は明るい境内に甲の高い石造り太鼓橋、青銅製鳥居、拝殿、本殿が一直線に並ぶ。常夜燈が左右対称形に配置されているほか余計なものがない、簡素にして明快な神社である。

隣の農家で婦人が二人立ち話に興じていた。菜の花が満開である。

近江鉄道の西側にうつり、北にもどる途中に
水口城跡がある。矢倉が資料館として復元された。石垣と白壁の優美な姿を水堀に映して美しい。1週間後だったら桜がはなやかに色を添えていたであろう。水口古城が落ちた後、家光の時代になって新しい城が築かれた。家光上洛の際の宿として城を築くというのだから恐れ入る。

藤栄神社の角を右折して三筋合流点にもどる。藤栄神社の桜がちょうど見ごろだった。その東隣にある朝日医院が大きな屋敷を構えている。虫籠窓を開けた格子造りの主屋と白漆喰土蔵をつなぐ棟には丸窓がくりぬかれていて、面白い建築意匠にみえる。

左手の
水口教会は八幡のボーリスの設計によるものである。大岡寺の西隣にあった水口小学校の旧図書館も同様である。

湖東信金水口支店前の電柱に「水口城天王口跡」の説明札がかけられて、東海道はここで北に折れることを示している。石橋、三筋合流点から200mもない。

江戸時代この場所は水口城の東端にあたることから木戸か置かれ、「天王口御門」と呼ばれました。もともと直進していた東海道も、ここで北へ直角に曲がり、北町・天神町・小坂町と城の北側を迂回し、林□五十鈴神社の南でふたたび当初の道に戻りました。「天王□」の名は、天王町の名の起源でもある八坂神社(八坂)がもと牛頭天王社と呼ばれたためです。これより木戸内には「広小路」「南小路」などの武家地がひろがり、ふだんは藩士以外一般の通行は制限さていましたが、四月の水口祭には藩主や藩士に見せるため曳山が曳き入れられました。

天王口を北に曲がって旧道歩きを再開する。突き当りを左折し、最初の十字路を左折した右手に明治天皇聖蹟碑が立っている。大きな屋敷でもあったのだろう、今は空き地である。街道にもどり西に進んで突き当りを左折、最初の丁字路角に小坂町の標石と
水口石とよばれる石がある。石は江戸時代からすっとここにあった。

右折するとまもなく左手の公園に「北邸(きたやしき)町}の標石と
「百間長屋跡」の案内板が建っている。明治時代と昭和50年頃の長屋風景が載せてあって興味深い。突き当たりの右に五十鈴神社があり丁字路角に林口一里塚跡がある。

一里塚の前を左折し最初の十字路を右に折れる。ここに
西見付があった。水口宿の西端にあたる。天王口を西に直進するとここに出る。この間の6曲りは城下町特有の防衛上の理由ではなく、新らしい城を築くにあたり町割りの関係で、既に在った東海道の道筋が変更を余儀なくされたということであろう。

とにかく旧来からの東海道の道筋にもどって水口宿をあとにする。
美冨久酒造がある。造り酒屋が家並みに深みを与え歩くものに風情を与える。杉玉のある酒屋だけでない。麹、味噌、醤油など醗酵食料の造り屋は日本の原風景の代表的カテゴリーである。

家並みが途絶え、ここから3km先の横田の渡しまで延々と一直線の道が続く。
北脇畷とよばれている。形だけの松並木が再生されている。かっては伊勢大路とよばれていた古代の東海道は自然がなすままに曲がっていたものを江戸時代に入って東海道はまっすぐな道に近代化された。

街道の左右は開けた田園風景である。南方に横たわる低くて長い山並みは近江と京をわける山であろうか。その後ろに更なる山脈が待ち受けているのであろうか。旅心は限りなく京に接近している。はやる心を路傍の石仏で慰める。かがんでのぞき込むと素朴ながら愛らしい仏像だ。男女手を取り合う双体道祖神の横で単体道祖神がうらやましそうに立っている。

又、いくつかの石仏が一つ屋根の下に長屋住人よろしく並び住んでいるのもほほえましい風景であった。住民の幼児を慈しむようなやさしさが伝わってくる。道端の石仏は日本の原風景であると同時に日本の原文化である。

柏木集落をぬけ泉集落の終わるあたりに若木の松並木がある。その先泉川を渡って細い旧道をたどると竹やぶの一角に
泉一里塚が復元されている。自然な形の塚盛で塚木も大きく育っておりよくできている。

道は県道535号に突き当たる。目の前に冠木門と柵が設けられ関所のような雰囲気である。
横田の渡跡で、東海道はここで野洲川(横田川)を渡った。東海道十三渡の一つとして幕府の管轄下に置かれた。3月から9月は船で渡し、渇水期の10月から2月の間は流れの箇所に土橋を架けた。渡し場には見上げるような巨大な常夜燈が建っている。高さは10mを越え、火袋は人も通れる大きさだ。

明治24年になって長大な板橋が架けられ、今も橋台の石垣が残っている。

県道535号で国道1号に出、甲賀市から湖南市に入る。横田橋で野洲川を渡り、三雲駅前の旧東海道にもどる。水口は見所が多かった。土山から草津まで簡単にいけるだろうと思っていたのが甘かった。旅は辛いほうが楽しい。

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石部

三雲駅前から横田渡跡の対岸地点に遡る。JR草津線に寄り添って野洲川の堤防の道をたどっていくと川向こうに常夜燈が小さく見えてきた。ここが渡しの対岸地点だが、なんの標識もなさそうだった。記録写真を一枚撮って引き返す。一段高いところを電車が後ろから追い越していった。

集落にもどり橋をわたった丁字路に横田渡し常夜燈がある。泉側のものに比べはるかに小ぶりであるが古さにおいては勝るのではないか。

この丁字路を南にいくと小山の頂に二基の常夜燈を従えて堂々としたオベリスク風石碑が建っていた。
天保義民の碑で明治31年の建立である。天保13年(1842)、苛酷な検地に対する一揆であった。

三雲駅前交差点にもどる。角に
「微妙大師萬里小路藤房郷墓所 妙感寺」の石碑が、つづいてすこし先に明治天皇聖蹟の碑がある。三雲は古代東海道の甲賀駅家が置かれたところである。具体的場場所は特定されていない。

やがて荒川橋を渡った十字路左手に
3基の道標がある。自然石が「立志神社」、中は「万里小路藤房古跡」、側面に寛政9年(1797)の銘があった。手前の石標には「田川ふどう道」とある。

この交差点を左(南方向)に進むと県道4号に合流してJR草津線に沿って柘植で大和街道に通じている。つまり平安時代当初の古代東海道の道筋ではないかと思う。芭蕉の若かりしころ上野から京の北村季吟のもとに通っていた道は鈴鹿峠でなくてこの道であったろうと想像する。いつか歩かなくてはなるまい。甲賀忍者屋敷のそばも通るようだ。

街道は三雲をぬけ県道4号でJR踏切を渡って吉永に入っていく。水路脇に現代の道標があり、三方を示している。南に向かう「妙感寺・信楽」への道が東海道古道である。妙感寺は石標で二度もでてきた藤原藤房の寺である。

吉永集落を進むうち、
大沙川トンネルが出てきた。湖南地方名物の天井川である。トンネル手前の休憩所のような小屋(バス停?)には三雲城跡関係の資料が展示されている。トンネルを越えて堤防に上がる。細い水流であるが確かにトンネルの上を川が流れていた。

堤防上にそびえたつ杉の巨木は弘法杉とよばれ樹齢750年をこえる古木である。川の上流方面は竹林でうっそうとしており岸辺には三雲城と書かれた幟が一定間隔で立てられている。それをたどれば三雲城跡にいけるのだが1.7kmあるというのであきらめた。

古風な家並みの吉永集落をぬけると夏見に入る。東海道の立場だったらしく診療所前に
「夏見立場」と書かれた立て札がある。竹垣を囲った家をよく見かける。ベンガラもいいが竹垣もいいなと思いながらよくみると天然の竹ではなくて竹にみせかけた人工建材であった。レストランの陳列メニューのようによくできている。

見集落の終わりに二つ目の天井川である由良谷川トンネルがある。トンネル手前右手に「新田道」と深く刻まれた道標があった。昭和10年のものだ。

トンネルをくぐると針集落である。落ち着いた家並みがつきるころ一段と風情ある立派な屋敷が現れた。創業文化2年の造り酒屋
北島酒造である。白壁がめだつ造りになっている。高い煉瓦煙突はなかった。

家棟川をわたると平松のおちついた町並みが続く。白線の外側を薄緑に彩色した歩道が清潔な感じを与えている。板塀や格子造りの家にはベンガラ塗りの家もあってすばらしい。奥村姓が多かった。柑子袋(こうじぶくろ)という地区をぬけるとようやく石部に入る。

落合川の橋の袂に「これより石部宿」、すぐ先の左手には「見付」と、解説抜きのぶっきらぼうな立札がある。意味はわかる。このあたりが石部宿の東の出入口だった。

街道沿いに
吉姫神社がある。白木の鳥居をくぐると品をそなえた拝殿と本殿が清楚な空気に包まれている。気のせいか女性らしいやさしさが伝わってくるようだ。宿場の西側にある吉御子(よしみこ)神社と対になっているということだが、どういう意味の対なのか、よくわからない。土地では吉姫神社を女神様、吉御子神社を男神様とよぶらしい。両社を参れば縁が適うとでもいうことか。帰る途中石段を上がってくる10人余りの若い女性グループとすれ違った。丁寧に「こんにちは」と挨拶をかわす。グループ仲間での会話は日本語ではなかった。

石部宿のメインストリートを西に向かって歩く。古美術、京人形を商う商店などが古い町の面影を伝えている。 石部宿は「京立ち石部泊まり」といわれて、京都をたった旅人が最初に泊まる宿であった。当時の5人は一日40km歩いたといわれている。国道1号を石部から京都三条まで34kmくらいだから、よい相場だ。

右手に松を植え、
門に犬矢来を配した立派な家がある。竹内酒造の母屋だろうか。犬矢来のある門は開かずの裏門だろう。

石部中央交差点の一角にポケットパークが設けられている。ここが
高札場跡で対角線に問屋場跡がある。それぞれ縦長の立札があった。

交差点をこえて少し行くと左手に休憩所「いしべ宿駅」がある。中に石部宿の町割り図が掲示されていた。先ほどの問屋場跡から数軒西に
三大寺小右衛門本陣が示されている。それに該当する立札は見なかった。

休憩所の少し先が
小島本陣跡である。現在の小島家住宅はモダンな家だ。前庭に明治天皇聖蹟の碑と石部本陣跡の標石があった。敷地2845坪というからおよそ1万u、つまり100m平方という広さだ。

その先、左手にある真明寺に
芭蕉句碑をたずねる。

  
つつじいけて その陰に 干鱈さく女

水口での「命二つの 中にいきたる 桜かな」の句と同時期の「野ざらし紀行」での作といわれているが「野ざらし紀行」には入っていない。「昼のやすらひとて旅店に腰を懸けて」詠んだとある。旅店とは石部の
田楽茶屋ではないかという人もいる。その田楽茶屋がすぐ先の曲がり角にあるのだ。

民芸調茶屋風の建物に幟や縁台、それに駕籠までおいてあった。大名駕籠とちがって竹を曲げて作った粗末な篭である。担ぎ棒につり革ならぬ縄が結わえてある。縄につかまっているうちに手の皮がめくれるのではないかと思われた。営業時間外のため田楽は食べられなかった。

その先を左に入って
吉御子神社に寄る。吉姫とペアだという神社である。崇徳天皇の創建と伝わる古社で、現在の社殿は京都上賀茂神社の旧本殿を移築したもので国指定重要文化財である。

田楽茶屋にもどり、鍵の手にまがっていく。西進する道にはいってすぐ右手に一里塚の立札があった。説明文が下に付けられていたが一里塚の一般的な説明であった。

石部西交差点あたりが
西見付跡であるが立札はみかけなかった。すぐ先に小公園があり東海道53次の石碑、「西縄手」の説明札があり、松並木が復元されている。

街道は橋をわたって草津線に接近する。宮川に架かる五軒茶屋橋を渡って南にむかう道は天和3年(1683)の野洲川大洪水で新しく付け替えられた道で上道とよばれ、当時採掘されていた金山の南側を迂回する道筋だった。五軒茶屋とはその上道沿いにある地名である。一方、直進する道は下道とよばれ野洲川に沿って西に向かっていた。上道は金山を回り込んだ後、結局現在の名神高速の西側で下道に合流している。

金山跡は現在石灰の採掘場になっていて削り取られた山の残骸の他何も残っていない。金山といっても金が産出されたわけではないようで、奈良時代に銅が採掘されていたという。それでも「石部金吉」という融通の利かない男の代名詞だけは現代に残された。銅山で働いていた坑夫のことか、朝廷あるいは後の幕府から派遣されてきた役人のことか。後者であろう。

草津線に沿って下道をゆく。右手に近江富士、
三上山が見えてきた。標高は432mと低いが藤原秀郷のムカデ退治伝説など古くからの由緒ある歌枕である。

下道は名神高速のガードをくぐって左から合流してきた上道を吸収する。合流点に手作り板行灯があった。灯袋に「栗東町伊勢落」と書かれた紙が貼ってある。湖南市から栗東市にはいった。伊勢落とは気になる地名だ。この辺り、かっては伊勢大路村といった。東海道古道を指している。伊勢斎王が当地の野洲川原で禊ぎ祓いをしたことに由来するという。

薬師如来堂の前に「従是東膳所領」の領界標があり、その先の丁字路には「新善光寺道 是より1町余」の道標がある。突き当たりの奥に国宝六地蔵がある。覗いてみたが暗くて見えなかった。

道なりに左におれて少しいくと前方に大きな切妻屋根の建物が現れた。
「史蹟 旧和中散本舗」の標石があり、国指定重要文化財である。「和中散」とは食あたりによく効く道中常備薬で慶長年間(1596〜1614)に大角家が開発した。後に分家が江戸大森に開業し、本家所在地梅木にちなんで梅園を造り茶店を開いた。薬だけでなく鎌田の梅屋敷として江戸の名所となった。

本家の在所は草津宿と石部宿の中間にある間宿で梅ノ木立場とよばれていた。その梅ノ木がどこからきたのか知らない。和中散本舗の大角家が茶屋本陣であった。庭園が有名で説明板があったが梅には触れていなかった。どこかほかの場所だろう。

向かいに間口の広い長屋門(馬つなぎ場?)を構えた大きな屋敷がある。同じ大角家の建物で
「大角家住宅隠居所」として重要文化財に指定されている。主屋が本陣として使われている間、家族が居住した建物である。

この先左からきた広い道と接するところに
六地蔵一里塚があり、街道をはさんで向かいあう大角家の店舗・主屋と隠居の建物が描かれた名所図会が石碑に線刻されていた。「ぜさい」の看板をのぞけば図会の建物の様子は現在のものとかわっていない。

集落は六地蔵から
小野に入る。ここも歴史と風格を感じさせる立派な家が建ち並んでいる。出格子はもちろんのこと、虫籠窓、柱にベンガラをほどこした板塀など、通り過ぎていくのが惜しい気持ちにさせる町並みである。「酒屋清右衛門」、「飴屋」などの屋号札を掛けてある家々だ。

名神栗東IC導入路をくぐって手原駅前通との交差点に
稲荷神社があり、「明治天皇手原小休止」の碑が建つ。寛元3年(1245)手原氏の祖馬渕広政によって創建された。境内には松の木が多い。東海道名所記に「左の方に稲荷の祠あり老松ありて傘の如しなり傘松の宮という」と記され江戸時代は傘松が有名であった。

交差点を渡った街道沿いに立派な家がある。猪飼時計店は代官邸。その先左右に古風な屋敷が向かいあっている。見越しの松、白壁、駒寄、煙出し、土蔵、連子格子格子、虫籠窓。何度見ても好ましい。

右手丁字路角に傘つき石柱があり、「東海道 すずめ茶屋跡地」とある。田楽茶屋があったらしい。

街道は左にカーブして県道55号を横切り県道116号に入る。池の堤に
「足利義尚公釣の陣所ゆかりの地」の碑が立っている。応仁の乱後、室町幕府の勢力は衰え、近江守護職佐々木高頼は社寺領等を領地とした。佐々木氏を討伐のため将軍足利義尚は長享元年(1487)10月近江へ出陣、鈎に滞陣した。滞陣2年後病のため25歳の若さで当地で陣没した。土手にあがって池を見る。池の左手遠方に近江富士のかわいらしい姿があった。

シーボルトが訪ねたという善性寺を左にみて街道は金勝川堤防につきあたる。土手下に道標があり
「東海道 やせ馬坂」「中仙道 でみせ」とある。共に意味深で、何のことか分からない。

目川池を回り込む金勝川に沿って街道を進む。専光寺の手前に
一里塚の標石がある。側面に「草津宿まで半里」とあった。石部宿からここまでずいぶんとかかった。広重は石部宿の絵としてほぼ草津宿に近いここ目川の田楽茶屋を描いているのである。田楽茶屋は石部にもあったはずで、芭蕉が休んで一句を詠んだかもしれない茶屋もあったと思われる。なぜ広重はわざわざここまで引き延ばしたのか。そのために本紀行の石部編は写真集ともども長大になってしまった。

茅葺屋根をベンガラトタンで覆い、堂々とベンガラ出格子を誇る民家があった。近江を代表するような家で拍手をおくりたくなる。

その先右手に
「田楽発祥の地」の標石があった。ここが目川立場にあった三軒の田楽茶屋の一軒で、地元の食材を使った菜飯と田楽は東海道中の名物となった。これが石部宿まで広がっていったものと思われる。広重は本場にこだわって石部の田楽茶屋を描くことを潔しとしなかった。

続いて二軒目の古志ま屋跡(寺田家)があり、すこし離れて京伊勢屋跡(西岡家)があった。

街道はその先で右にカーブする。旧草津川堤防に沿って西に進み、新幹線の高架をくぐっていくと右手に
「史跡 老牛馬養生所阯」の碑がある。湖西和称村の庄屋であった岸岡長右衛門が、年老いた牛馬の養生所を東海道と中山道の合流点に近いこの地に設立した。和称とは琵琶湖西岸にあって、古代北陸道の駅家が置かれた所である。わざわざこの地を選んだ岸岡長右衛門は視野の広い人物だった。

その先でようやく草津市に入る。

(2010年3月)
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