奥集落をぬけ、建部下野にはいったところの五叉路で県道に合流する。そこから3つ目の民家脇の細道を右に入り、集落の中を蛇行して白漆喰の築地壁がまぶしい弘誓寺の前に出る。あたりは田植えが終わって緑の芝生を敷きつめたような水田が広がっている。田の脇にたつ小祠の横からあぜ道をたどっていく。旧道の道筋は近江鉄道をわたって大同川沿いに大塚の牛王神社前にでるのだが、あぜ道は線路のところで左に折れて線路沿いに南下していた
鉤の手にまがって金屋通りへ向かう。昼間はうつろな狭い空間だが、夜には酔い客の歌声と女の嬌声に満たされた歓楽の路地である。そんな中にも街道沿いの旅館を思わせるたたずまいが見られた。突き当りを清水橋の方に迂回する。橋のたもとに昔ながらの高札が立っていた。ゴミを川に捨てた者は処罰する、ときつい達し書である。
左に大きな池がでてきて、その先の小山に小さな赤い鳥居が見える。道はゆるやかに曲がる坂になって、のぼるにつれ大規模な住宅団地がその全容を現した。ふと古代と中学時代をミックスした懐古気分から目覚めさせられ、この辺だと土地50坪建売でいくらくらいだろう、と思ってしまった。いつのまにか近江鉄道の長谷野と桜川の間に、大学前と京セラ前という二つの駅ができている。布引山に大学や工場と住宅の団地が誘致され、歌枕の情緒は確実に蝕まれつつある。| この周辺、長谷野は昔、原野であり、伊勢神宮参詣のための道、御代参街道として数多くの旅人が往来していました。また、樹木が繁茂して、往来する人々に不安を与え賊が潜んで旅人を妨害し、お金や持ち物を奪うなどの悪事をはたらいていました。その中でも、明治23年12月下旬、遠国の旅人がこの道にさしかかった時、賊が突然現れて、お金や持ち物を奪おうとしました。その時、山中の何処からとなく、大勢の人々がこの旅人を救おうとする声が響きわたり、これに驚いた賊は、一目散に逃げ去ったということです。このことは、その姿を見た者は誰一人としてありませんが、この原野に往古より一匹の白狐が住んでいるといわれており、まさしくその白狐である「見送り稲荷」の神威であったのでしょう。そこで永世に渡る保護を祈願するために、明治26年、周辺の篤志によってこの保護稲荷を築きました。 |
| 昔々、この辺りは山渓がきわめて険しく、また、川は深くて淵となって長く連なって流れていました。淵には、大蛇が住んでおり、道行く旅人の通行を妨げていたといわれています。白鳳時代に行基という僧侶が、この大蛇を退治して一塊石(お堂前の蛇つなぎ石)を立てて、地蔵菩薩を彫刻し、安全を祈祷されたと伝えられています。後に、この溝淵を埋めて開墾したとき、お堂を建ててお祀りしたといわれたことから、この地を蛇溝というようになったそうです。また、地蔵菩薩は雨乞地蔵、子安地蔵、町内鎮護の地蔵として信仰を集め、かっては縁日に草競馬や草相撲が催され、露天も軒を並べていたということです。後略。 |
その先の二股を右に入り、すぐ直角に右折して広い道路に合流し、名神高速道路をくぐって山を切り開いた工業団地の中をぬけていく。左に広大な京セラ工場の敷地がつづく。このために新駅を造ったくらいだから市をあげての誘致だったのだろう。母校玉園中学校の横に村田製作所の近代的な工場ができたころと同時期の話である。布引山の峠を越える。全農中央集乳場の前の二股を左にとって峠を下ると山から抜け出て豊かな桜川の田園が広がっている
街道は二つ目の鉤の手のわずか先で国道477号とは別れて、左の旧道に入っていく。入口角の民家の敷地内に「右ステーション、左ひの道」と刻まれた道標がある。明治33年に完成した近江鉄道日野駅を記念して建てられたものらしい。誇らしげに英語で発音してみたあたり、近代日本の息吹が感じられる。
「歩いてみよう御代参街道」に、旧道は記されているが現在の街道をしめす緑色の線がないのだ。そして結局旧道は見つからなかった。右の県道41号をそのまま進むと鎌掛峠をこえて国道1号にでるが、そこは土山宿のかなり西方にあたる。ところでその県道は緑色に塗られていない。
旧道と思われた左の道は土砂採掘現場の入口付近で二手にわかれる。最初、現場から遠い左の舗装道路をのぼってみた。すぐに青深く澄みきった神秘的な鎌掛池があわられ、眼下に旧道らしき土の道がみえる。直感的に引き返し、現場の横を通る道へとすすんでいった。小橋があって、その先に道が左右に分かれている。枝に結ばれているピンクのリボンの誘惑にまけたのが命取りだった。登山道のしるしとばかり、リボンを頼って左の道をとり、ひたすら山道を進んで行ったが、冊子に書かれている地蔵にも出会わねば、峠らしきクライマックスもなく、素敵な池だなと感慨にふけっている間に、先に間違った鎌掛池の入口にもどってきたのだった。結局この道は鎌掛池を一周するハイキングコースか林道だったのだ。
消去法で、先ほどの二股道をリボンのない右方向に進むと、旧道筋の東をほぼ併走して、笹尾峠付近にいたることがわかった。また、旧道がまったく消滅したわけではない。砕石現場によって入口付近は消されてしまったが、その奥には意外と歩きやすい山道が残っているような気がする。ただ、そこへのアクセスがなくなった以上は道としての機能を失ってしまったといわざるを得ない。
緑ヶ丘をおりる急坂の遠く前方に土山の町が見えてくる。まぼろしの笹尾峠と県道41号のことをわすれれば、旅は終わったようなものだ。坂のおわり右手に句碑が立っている。かっては笹尾峠近くにあったものだという。