八日市市域が日本史の表舞台に登場したのは6~7世紀の古墳・飛鳥時代にあるといわれている。百済の移民千人以上が渡来し、蒲生野が開拓された。天智天皇が、この蒲生野で大がかりな遊猟を行ったことが「日本書紀」に記されている。蒲生野を舞台に繰り広げられた大海人皇子(のちの天武天皇)と額田女王の大人のエピソードは、「万葉集」に歌われているとおりである。
万葉ののどかな時代から数世紀を経たころ八日市は商業の舞台として登場する。その記念碑が八日市南小学校の付近に建っている。保内商人または鈴鹿山脈を越える「山越商人」といわれた近江商人の原型像である。キャラバンを組んで街道を往復したようすは、大河ドラマ「義経」で金売り吉次が一族郎党をひきつれて平泉と京の間を行き来した光景を思い浮かばせる。時代的にも鎌倉時代のことであった。
時代がさらに下り戦国をへて江戸時代にはいると商人のみならず甲賀の忍者や庶民やお公家など多様な人が行き交う交通の要衝として八日市は賑わった。八日市を避けるように湖東を西に中山道が縦走し南に東海道が横断している。江戸から関ケ原越えでやってきたお伊勢参りの人たちは、草津を経由する迂回をいやがり、三角形の二辺をむすぶ斜辺の近道に人気が集まった。中山道の愛知川宿をすぎて川をこえたところの五個荘小幡、小幡商人の発祥地から八日市、日野を経て東海道土山宿にでる道は、「北国街道安土越」ともよばれていた古道であるが、江戸中期になると、御所・大名の名代が伊勢神宮、多賀大社の参詣に利用する道として定着し、いつしか「御代参街道」と呼ばれるようになった。 |