御代参街道



五個荘小幡-八日市岡本石原日野鎌掛土山
いこいの広場
日本紀行


五個荘小幡

近江を縦貫する中山道の愛知川宿と武佐宿の間に、五個荘という近江商人発祥の地がある。安土、日野、八幡などの城下町に楽市楽座が確立される以前、中世の商業活動を担っていたのは、延暦寺、園城寺、日吉神社など特定の寺社権門の庇護の下、座と呼ばれる職能集団を形成し、独占通商・販売権などの特権を与えられていた座商人であった。彼らは特定の街道の通商権を持つ商人として、固有の呼び方をされている。九里半街道を通って日本海側の若狭との間で、塩魚などの海産物を扱う卸売商は、小幡・八坂・薩摩・田中江・高島南市の商人によって独占され、彼らは五箇商人と呼ばれた。一方、太平洋側の伊勢へは八風・千草両街道を通って、小幡・保内・沓掛・石塔の商人が通商した。彼らは四本(しほん)商人、また鈴鹿山脈を越えるため山越商人とも呼ばれている。

五個荘小幡集落は愛知川御幸橋の西たもとから南西にのびる旧中山道にはいったところにある。中山道(東山道)という地の利を得て小幡商人は、五箇商人と四本商人とを兼ねる唯一の商人団として活躍していた。小幡商人は戦国時代になると、独占的地位を剥奪され、安土や八幡城下に移住していった。ちなみに江戸時代に活躍した近代五個荘商人の本宅群は小幡ではなく、中山道から西に外れた金堂・川並地区を中心に分布している。

近江商人発祥の地小幡はまた、中山道と伊勢とを結ぶ近道が分岐する交通の要衝でもあった。愛知川宿から伊勢に向かう場合、草津経由の東海道をいけば済む話ではあるが、三角形の二辺をゆくことになって非常に遠い。そこで中山道小幡から東海道の土山宿に通じる36kmのバイパスが開かれた。この道筋には五個荘のほか、八日市(保内)、日野など近江商人のふるさとがつながっていて、市(いち)道とも呼ぶ。(小幡商人ら四本商人は鈴鹿の関所を避けて、土山には出ず八日市から東進して八風・千草両街道を通って鈴鹿山脈を越えた。)

中山道-東海道の近道は、伊勢神宮と多賀大社を結ぶ参詣の道でもあった。多賀大社には伊勢神宮祭神である天照大御神の両親、伊邪那岐命・伊邪那美命が祀られている。「お伊勢参らばお多賀へおいやれ、
お伊勢お多賀の子でござる」とうたわれたように、江戸時代伊勢神宮と多賀大社の参詣はパック旅行になっていた。なかでも寛永17年(1640)5月、三代将軍家光の乳母春日局が上洛の途中、伊勢から多賀への参詣をするにあたって、この道が大々的に整備された。さらに江戸時代中ごろになると、京都仙洞御所から毎年、正月、五月、九月に伊勢神宮と多賀大杜へ公卿を名代として参詣するようになり、伊勢道、北国多賀道などと呼ばれていたバイパスが後年「御参代街道」とよばれるようになった。

小幡から八日市、蒲生、日野を経て甲賀土山まで、約9里36kmの旧道を歩く。日野まで、湖東を走る1、2両編成の近江鉄道が付かず離れず付き合う。高校時代の通学電車である。なお、旧道の道筋ならびに沿道の旧跡等については岡井義明氏・日比野渥美氏の共同制作による『歩いてみよう 御代参街道 平成13年3月発行』を参考にさせていただいた。新旧街道を対比させつつ130枚もの写真に解説を付した貴重な折りたたみ式冊子である。

文政8年(1825)の常夜灯から堤防の坂を下り、旧中山道にはいった最初の変則四辻で、左に旧御代参街道が出ていた。その先右手に、唯一の小幡人形窯元、九代目細居源悟氏の居宅があり、窓際にいくつかの完成品が街道に向かって並べられていた。旧道を歩き出すとまもなく、左手の空き地に厳島神社の小さな石鳥居を背にして芭蕉の句碑がある。近江に関係のある句ではない。

 
八九間空で雨降る柳かな  芭蕉

旧道は県道52号をこえたところで工場の敷地に消えている。その先も工場がつづき、愛知川堤防と県道の間に延びていた旧道の面影はありそうもない。中山道にもどって、
現代の御代参街道を歩いてみることにした。その分岐点にある道標は、もと旧道の起点に建っていたもので、「左 伊勢 ひの 八日市みち」「右 京みち」 とある。右の京道は中山道。

新幹線、近江鉄道を越え、「奥」集落の手前で左にカーブしたあたりの民家脇に旧道の痕跡らしき道すじをみかけた。はいってみたが、50mほどで林の中に消えていた。

奥村神杜の社務所の庭に道標が保管されている。「すぐいせ八日市道」「すぐたがゑち川道」と刻まれていて、もとは街道沿いに建っていた。「すぐ」とは「まっすぐ」の意。

奥集落をぬけ、建部下野にはいったところの五叉路で県道に合流する。そこから3つ目の民家脇の細道を右に入り、集落の中を蛇行して白漆喰の築地壁がまぶしい
弘誓寺の前に出る。あたりは田植えが終わって緑の芝生を敷きつめたような水田が広がっている。田の脇にたつ小祠の横からあぜ道をたどっていく。旧道の道筋は近江鉄道をわたって大同川沿いに大塚の牛王神社前にでるのだが、あぜ道は線路のところで左に折れて線路沿いに南下していた


大塚集落の県道に出る。右手に埴輪を植えた小さな円墳があり、脇に「建部の郷 古墳の里大塚」と見出し書きされた図入り案内板が建っている。大塚地区には多数の古墳が密集しており群集墳とよばれている。県道を横切って集落の東端にのこる短いジグザグの旧道に入る。

県道に出る手前の民家の土壁に、落書きのような跡がのこっており、泥棒の符丁ではないかといわれている。「大」をさかさまにしてその下に十字を丸で囲んである。ターゲットは大逆(大阪)の丸十ではないかという。誰がいい出したのか、消すほどのことでもないからと、そのまま残されているのであろう。

一旦県道に出て50mほど進んだところで右手の民家の軒下を通って田んぼのあぜ道に出る。地図ではこの線が建部下野町と建部上中町の境界になっている。足元をたしかめながら水路を避けて田んぼを通りこし、農道にあがって左折する。ここは建部下野町と建部日吉町の境である。建部公民館横を直進し、
日吉神社に寄る。入口に絵入りの大きな案内板があって、付近の住吉池にまつわる嫁取り橋伝説が解説されている。道をひきかえし、近江鉄道の踏切を渡った先にある吉住池によってみた。周囲は1kmもあろうかという大きな池だが、干しあがっていてただの草むらだった。水路をまたいでいる県道にかっては橋があったのだろうか。傍に迫力ある竜を描いた看板がある。

日吉神社の南側の道に入り金賞寺の山門前をすぎて、十字路をよこぎる。左手角の民家の生垣に「右ハいせみち」と彫られた道標がある。道なりに静かな日吉の集落をぬけ、田畑が広がったところの二股を右にとり、曲がりくねった土の道を一路八日市に向かってすすむ。あぜ道の真ん中に立ちはだかるようにある石地蔵は旧道の証でもあろう。右手に走るのは近江鉄道、その向こうは箕作山(みつくりやま)の丘陵が横たわる。北に瓦屋寺、南は延命山、その裏側には太郎坊がある。すべて小学校時代の遠足先だった。今そのふもとを歩いているのだが、丘陵の稜線近くにあるそれらのなつかしい場所には行こうとしない。

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八日市
 

駐車場の敷地を抜けるようにして八日市駅前に出た。山小屋風の駅舎は様変わりだ。いつまでこの旧道がつかわれていたのか知らないが、明治時代にはもう竹鼻町経由の現在の街道が開けていたのではないか。日吉町の最後の二股を左にとると
竹鼻町で現在の御代参街道に合流する。大きな町内絵地図が設けられていて、ここが八日市宿場・八日市場の北入口で賑わっていたと記されている。米屋、鋸屋、畳屋、刃物屋など、旧い商家が残る町並みをすすんでいくと浜野町から宿場の中心であった本町通りに至る。大正時代の本町通りの写真が手元にある。蔵造りの商家が黒々と軒を連ね、分厚い綿入れを着込んだ商人と荷車が通りを埋めている。庶民がショッピングする商店街というより、丁稚・手代が働く問屋街の風景である。

以下、「近江紀行」より八日市の歴史を紹介しよう。

八日市市域が日本史の表舞台に登場したのは6~7世紀の古墳・飛鳥時代にあるといわれている。百済の移民千人以上が渡来し、蒲生野が開拓された。天智天皇が、この蒲生野で大がかりな遊猟を行ったことが「日本書紀」に記されている。蒲生野を舞台に繰り広げられた大海人皇子(のちの天武天皇)と額田女王の大人のエピソードは、「万葉集」に歌われているとおりである。

万葉ののどかな時代から数世紀を経たころ八日市は商業の舞台として登場する。その記念碑が八日市南小学校の付近に建っている。保内商人または鈴鹿山脈を越える「山越商人」といわれた近江商人の原型像である。キャラバンを組んで街道を往復したようすは、大河ドラマ「義経」で金売り吉次が一族郎党をひきつれて平泉と京の間を行き来した光景を思い浮かばせる。時代的にも鎌倉時代のことであった。

時代がさらに下り戦国をへて江戸時代にはいると商人のみならず甲賀の忍者や庶民やお公家など多様な人が行き交う交通の要衝として八日市は賑わった。八日市を避けるように湖東を西に中山道が縦走し南に東海道が横断している。江戸から関ケ原越えでやってきたお伊勢参りの人たちは、草津を経由する迂回をいやがり、三角形の二辺をむすぶ斜辺の近道に人気が集まった。中山道の愛知川宿をすぎて川をこえたところの五個荘小幡、小幡商人の発祥地から八日市、日野を経て東海道土山宿にでる道は、「北国街道安土越」ともよばれていた古道であるが、江戸中期になると、御所・大名の名代が伊勢神宮、多賀大社の参詣に利用する道として定着し、いつしか「御代参街道」と呼ばれるようになった。

八日市駅前アーケード商店街である
本町通りは現在の御代参街道であり、旧道は本町通りから一筋駅よりの細い飲み屋街を通っていた。延命地蔵の横を通り過ぎ、すれ違えば肩も触れんばかりの路地裏にはいっていく。右手は明治元年創業の老舗高級懐石料理店招福楼の裏にあたる。


鉤の手にまがって金屋通りへ向かう。昼間はうつろな狭い空間だが、夜には酔い客の歌声と女の嬌声に満たされた歓楽の路地である。そんな中にも街道沿いの旅館を思わせるたたずまいが見られた。突き当りを清水橋の方に迂回する。橋のたもとに昔ながらの高札が立っていた。ゴミを川に捨てた者は処罰する、ときつい達し書である。

本町通り商店街を歩く。八日市随一の繁華街で、昔弁当箱のバスにゆられてここにくることは、今電車で銀座や渋谷に出ることに等しかった。路地を東に入った
市神神社に寄る。市神神社の由緒に八日市の起源が書かれている。推古天皇元年(593)聖徳太子が大坂四天王寺を建立するため、八日市で屋根瓦を造らせた。近辺に瓦に適した土と渡来系の技術者がいたのだろう。それが縁で箕作山に瓦屋寺を開き筏川の北に民を住まわせて、推古天皇9年(601)の8の日にはじめて市場を開かせた。その後8の日を市日に定めたことから八日市の地名が起こったといわれている。境内には八日市の開祖聖徳太子が直立不動の姿で建ち、祠の中では蒲生野のアイドル額田王が膝をおって女性らしいポーズを作っていた。

八風街道と栄町商店街入口の丁字路角に、文政9年(1826)の
常夜灯道標が建っている。 

 左 いせひ乃みな口道(南:伊勢・日野・水口)
 右 京むさ八まん道 (西:京・武佐・八幡)
 
右 多賀 ゑち川 ひこね道(東:多賀・愛知川・彦根)

五個荘を経て中山道で愛知川、多賀、彦根に向かうのは御代参街道の北方向である。ここに右(東方向)とあるのは鉤の手に本町通りにはいっていく道順を示しているのであろうか。だとすれば江戸後期には旧道は廃され、現在の道筋がひらかれていたのかも知れない。

街道は金屋、中野と昭和時代の家並みがつづく。国道421号(現八風街道)との交差点手前に、雨に難儀していた旅人に自分の笠を貸し与えたという
笠屋地蔵がある。脇に道標があり、「左たか道」「右いせ道」と刻まれていてまさに御代参街道は多賀大社・伊勢神宮への参詣の道であったことがうかがえる。

国道をこえ中野地区にはいると大きな屋敷風の家が目を引く。高さのそろった切り妻屋根に白壁と黒格子が端正なたたずまいを見せている。

レンガつくりの高い煙突は醸造所の象徴だ。表札に「珠玖(しく)」とあった。八日市から通っている高校の同級生に同姓の男がいた。彼の実家であろう。、
珠玖醤油(現マルハチ醤油)の旧醸造所である。江戸時代後期のものといわれる古醤油蔵を改造して、地元の女性たちがたちあげたNPO「レンガのえんとつとまれ」の活動拠点となっている。高齢者のために、惣菜、日替わりランチ、仕出し弁当などをつくっているという。

立派な門構えの宮路医院もこどものころによく聞いた名前だ。ヤクデン薬局は低い二階に虫籠窓を残す商家のたたずまいで、店先をかざる看板も書かれている薬の名も建物にあわせてレトロ色に仕上がっている。

左手に
中野神社がある。勧請は延暦18年(799)に遡り、現存社殿は天明8年(1788)建立という古社である。境内に散らばって三基の江戸時代の道標が保存されている。享和3年(1803)が二基、一基が天保7年(1836)という古いもので、いずれも畑街道沿いにあったものだ。その畑街道を横切り今崎、今堀、蛇溝とすすんでゆく。

八日市宿場の北入口だったという竹鼻からはじまり、浜野・本町通りを経て、中野・今崎に至る御代参街道は農村地帯を通りながらも松並木や昭和時代の商店街の面影を色濃く残す町並みで、城下町だった近江八幡の朝鮮人街道のように鉤型をくりかえすのでなく、2.5kmにわたってほぼ一直線に南北に延びている。途中、駅前の再開発区域を除けば、非常によく保存された道の景観といってよい。

八日市の町は昭和の中ごろから高度経済成長期をへて今にいたるまで、御代参街道を中心に発展してきた商業地域を開発発展させるのでなく、新田を開くように東に向かって面を広げていった。かって町の東端に位置していた八日市高校はいまや、官庁街の西にある。どこが中心なのか、あいまいな町になってしまった。それだけに、開発を拒絶したかのような御代参街道筋の町並みはますます貴重な存在になりつつある。かといって、長浜、彦根、日野、八幡のように、旧宿場町・旧市場町・近江商人発祥の地をテーマとした町おこしの話はあまり聞かない。

蛇砂川をわたり今堀地区にはいると家並みは疎になって、万葉時代の蒲生野を彷彿とさせるのびやかな田園風景が広がってくる。南に横たわるのは布をひいたようにゆるやかな布引山である。鴨長明が「嵐吹く雲のはたての色薄み 村消えわたる布引の山」と詠った歌枕の地である。その丘陵の中に四本商人の一つである石塔があり、名神八日市CCがある。西は布施山で消え、東はそのまま鈴鹿山脈につながっている。北のふもとを布引街道(県道170号)がのびて甲津畑で山越えの千種街道に接続している。

左に大きな池がでてきて、その先の小山に小さな赤い鳥居が見える。道はゆるやかに曲がる坂になって、のぼるにつれ大規模な住宅団地がその全容を現した。ふと古代と中学時代をミックスした懐古気分から目覚めさせられ、この辺だと土地50坪建売でいくらくらいだろう、と思ってしまった。いつのまにか近江鉄道の長谷野と桜川の間に、大学前と京セラ前という二つの駅ができている。布引山に大学や工場と住宅の団地が誘致され、歌枕の情緒は確実に蝕まれつつある。

大きな池は三日溜、赤い鳥居は
見送り稲荷。今堀老人会・八日市市うるおいのある街づくり推進協議会の連名で、「見送り稲荷の由来」案内板が立っている。

この周辺、長谷野は昔、原野であり、伊勢神宮参詣のための道、御代参街道として数多くの旅人が往来していました。また、樹木が繁茂して、往来する人々に不安を与え賊が潜んで旅人を妨害し、お金や持ち物を奪うなどの悪事をはたらいていました。その中でも、明治23年12月下旬、遠国の旅人がこの道にさしかかった時、賊が突然現れて、お金や持ち物を奪おうとしました。その時、山中の何処からとなく、大勢の人々がこの旅人を救おうとする声が響きわたり、これに驚いた賊は、一目散に逃げ去ったということです。このことは、その姿を見た者は誰一人としてありませんが、この原野に往古より一匹の白狐が住んでいるといわれており、まさしくその白狐である「見送り稲荷」の神威であったのでしょう。そこで永世に渡る保護を祈願するために、明治26年、周辺の篤志によってこの保護稲荷を築きました。

旧道はここで右にある道標の前を通って団地の中を逆くの字形に抜けて大きな蛇溝町交差点に出る。最初と最後にかすかな痕跡がのこるだけであとは団地の区画に整形されていた。住民の多くは近辺の企業にはたらく人達であろう。蒲生野には縁のなかった外部からの転勤組も多いにちがいない。ところで先ほどの道標は地元蛇溝出身の近江商人が寄付したものである。この周辺、中野・今堀・蛇溝を含む地域は中世時代、
得珍保内と呼ばれた比叡山延暦寺の荘園で、各郷村は山門の保護の下で自立的惣経営を行っていた。延暦寺の僧、得珍が愛知川の水を引いて荒地を開いたといわれている。その中で発生してきたのが保内商人とよばれる商人団で、御代参街道・八風街道・千種街道の交わる地の利を生かして四本商人のリーダー格であった。保内商人を概して八日市商人とよぶこともあるが、宿場・市場町としての八日市からは大きく南にはずれた灌漑状態もよくない蒲生野の農村に生まれた商人である。

蛇溝出身の保内商人の末裔が寄進した立派な
道標を後に、布引台の団地を駆け抜け、大きな交差点角のポケットパークに明治27年の道標が建っている。その交差点の南で二股を左に入ると、林の木立で半ば隠れた地蔵堂と脇に道標がある。見送り稲荷の解説板と同じ「八日市市うるおいのある街づくり推進協議会」が地蔵堂と蛇溝町の由来を解説しているので読んでみよう。
昔々、この辺りは山渓がきわめて険しく、また、川は深くて淵となって長く連なって流れていました。淵には、大蛇が住んでおり、道行く旅人の通行を妨げていたといわれています。白鳳時代に行基という僧侶が、この大蛇を退治して一塊石(お堂前の蛇つなぎ石)を立てて、地蔵菩薩を彫刻し、安全を祈祷されたと伝えられています。後に、この溝淵を埋めて開墾したとき、お堂を建ててお祀りしたといわれたことから、この地を蛇溝というようになったそうです。また、地蔵菩薩は雨乞地蔵、子安地蔵、町内鎮護の地蔵として信仰を集め、かっては縁日に草競馬や草相撲が催され、露天も軒を並べていたということです。後略。

今堀にはいるとき蛇砂川をわたった。なんとなく蛇の多い土地柄だ。

その先の二股を右に入り、すぐ直角に右折して広い道路に合流し、名神高速道路をくぐって山を切り開いた工業団地の中をぬけていく。左に広大な
京セラ工場の敷地がつづく。このために新駅を造ったくらいだから市をあげての誘致だったのだろう。母校玉園中学校の横に村田製作所の近代的な工場ができたころと同時期の話である。布引山の峠を越える。全農中央集乳場の前の二股を左にとって峠を下ると山から抜け出て豊かな桜川の田園が広がっている

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岡本 


坂を下り、栩原神社の前の弁天溜と堤尻溜の間の農道をすすんでいく。旧道はそこから斜めに東桜川集落にはいっていたようだが、今は田畑が長方形状に区画整理されており、蒲生東小学校前農道から
桜川東町集落へと入っていった。手前の水路を「ほたるの住む川」にしようとする試みがなされている。桜川東町は小さな集落で、桜川の中心は近江鉄道桜川駅の西側に展開している。集落の南端の上小房バス停で県道524号を横断し、その先で県道46号に合流する。佐久良川をわたり、ゆるやかに左にカーブしたのち、大きな十字路を右折する。掛出溜に沿って左折して踏切を渡ると、大溜越しに大塚の家並みが現れる。

大塚にきて思い出すことがあった。日光街道で小山を歩いたときのこと、「三方よし」関係で、「近江屋ラーメン」とその後ろの
「西堀酒造」をたずねたとき、西堀家の出身地は大塚だということだった。法事に帰ることがあるというから実家があるはずだ。地蔵堂の空き地でキャッチボールをしている子供に聞いてみようかとも思ったが、やめて脇に集められている石仏群の写真を撮って大塚を離れた。大塚が宿場だったらもう少しこだわっていたかもしれない。

集落はずれにある
高岡大塚行者堂の前を通り、県道46号に乗って南下、古川をまたいで岡本集落へ入る。入口で「御代参街道 ようこそ 岡本宿へ」と彫られた石碑が出迎える。岡本宿は延宝6(1678)年、遊行上人が布教のため、この道を通ったおり、八日市・岡本・鎌掛を継立所として整備したことにはじまる。ただし、岡本宿はつぎの石原宿との相宿で、機能を分担し、鎌掛に向かう旅人に継ぎ立てをおこない、八日市に行くときは石原宿が受け持った。集落内には数年前から整備された新しい標石があちこちに設けられている。角屋、尾張屋跡、煙草屋、本陣跡、特別郵便局跡、御代参街道分岐点、八幡街道など。県道41号との合流点には旧い道標もあり、「右たかみち 左八まん道」とある。多賀道が御代参街道(県道46号)で、八幡道とは県道41号のことだろう。

合流点の道向かいは公民館前の広場になっていて、その一角に
旧堀井新治郎家住宅「ガリ版伝承館」として保存されている。堀井家は江戸時代、関東で酒・醤油の醸造を営んでいた近江商人であるが38代目の新治郎がガリ版を発明して東京神田で謄写堂を開業した。当時は主屋をはじめ洋館、離れ、土蔵、小屋、回遊式庭園などを生垣や石垣で囲い、隣地には分家、親族の住宅が建ち並んで純農村にあって瓦葺きの町家の景観を呈していたという。白壁にツタが茂る土蔵も堀井家のものであろう。ガリ版といえば、手を青黒く汚しながら半年がかりで卒業文集を刷り上げたものだ。道具はドイツ人かイギリス人あたりが発明したものだろうと思っていた。

本陣・問屋場跡をすぎ、
高木神社入口に新旧の道標が建っている。古いのは「左いせミち」「右 水口いがミち」とあり新しい道標には「京街道起点」とある。「水口・伊賀道」が東海道経由の京街道のことだろうと思うが現在の道筋に該当するものがみあたらない。ともかく高木神社の前を通ってくる道は国道477号で、この角で南に方向をかえて御代参街道となっている。

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石原 

鋳物師町という、城下町のような地名の集落をとおりすぎ、鋳物師交差点の角に建つ徳本上人碑の先で東近江市から蒲生郡日野町に入る。近江鉄道朝日野駅の南にあたり、ここに岡本宿との相宿、石原宿場があった。左斜めにそれる国道に対し、直進して左折する鉤の手状の旧道が二箇所のこっている。その間の交差点にある辰巳屋酒店あたりが宿場の中心であったようで、向かい角にある道標とともに街道の面影をかすかに伝えている。

街道は二つ目の鉤の手のわずか先で国道477号とは別れて、左の旧道に入っていく。入口角の民家の敷地内に「右ステーション、左ひの道」と刻まれた道標がある。明治33年に完成した近江鉄道日野駅を記念して建てられたものらしい。誇らしげに英語で発音してみたあたり、近代日本の息吹が感じられる。

小谷集落をぬけたところの左手、田の畦わきに小谷畷の戦い供養碑があり、自然石に「南無阿弥陀仏 称阿、嘉永五壬子三月 願主 講中 世話方 小谷村 石原宿」と刻まれている。幕末1852年のものだ。どんな戦だったのか解説板はない。

田園のなかの農道を左折、右折して集落が途切れた所の五叉路を左斜め前へすすんで
近江鉄道の踏切を渡る。五個荘小幡以来、つかず離れずつきあってくれた近江鉄道とは、この踏切を最後に別れる。小御門交差点で国道477号を横断し、出雲川をわたって内池交差点に出る。角に「左 いせミち 右 た加北国道」の道標がある。いずれの方向も御代参街道であって、今来た道が多賀北国道、これから向かうのが伊勢道。

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日野 

日野駅から出ているバス路線を東に約500m行くと、右手に松を従え石垣の上に建つ立派な常夜灯がある。文化9年(1812)の建立で、本体に「伊勢両宮 常夜灯」、台石に「左いせミち」と彫ってある。傍には別の道標があって「右  いセみち 馬見岡神社二十丁」、「左  ひの山王宮十丁 いセ道へ通りぬけ」と刻まれている。右が旧道で、左は日野商人関係旧跡が集中する日野町中心街を通って、大窪で県道41号に乗る現在の御代参街道である。新旧両街道は次の宿場鎌掛で再び合流する。「いセ道へ通りぬけ」とはそのことをいっているのであろうか。

大窪地区散策の旅は「近江紀行」に譲って、今は旧道の旅を急ぐ。常夜灯の横を南に向かう。旧道は上野田と十禅師の境界をなしている。すぐに集落をでて、農道が延びている。向こうに山並みが見えてきた。あのどこかが笹尾峠だ。

道なりに農道をすすんで、国道307号を横断したところで旧道は痕跡を失っている。方形に整地された農道を左折・右折して日野水口グリーンバイパスを横ぎり、
木津集落へはいっていった。

雨引神社の前をとおって左に折れ、日野川堤防沿いの竹やぶの小道をたどっていく。轍はあるが一般公道ではない。路傍には採り残されたタケノコが初々しい若竹に成長している一方で、道路にまで頭をつき出しているおくてのタケノコもある。


薄暗い藪道をぬけて
寺尻集落に入ると左からくる道との合流点に地蔵堂と道標がある。御代参街道が賑わっていた時代、このあたりを茶屋町といった。位置的にも石原宿と鎌掛宿のおよそ半ばにあたり、人馬が足を休める立場であったのだろう。

再び堤防沿いの竹の道をすすんでいったが、ついに途切れてしまった。やむなく逆戻りして、東方を走っている現在の御代参街道、県道41号に出る。


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鎌掛(かいがけ) 

日野川を御代参橋で渡ったところで右に出ている細い農道をたどると、南砂川に沿って旧道が復活している。堤防沿いの道はやがて川から離れ、水田の真ん中を貫通して須原橋を渡り、鎌掛集落の中へはいっていく。途中、広域農道の手前に旧道を見守る小さな地蔵堂があった。

集落入口の丁字路に道標があり、「右 た加北国道」と刻まれている。そこを左折すると県道41号に合流する。お堂の脇に小さな石仏にまじって道標がひとつ、「右いせみち」と刻まれている。

合流点からすこし新道をさかもどってみた。北砂川をわたった先の三叉路に昭和3年の新しい道標が建っている。「右 御代参街道」「左 石楠木谷」今まで多くの道標をみてきたがその殆どが「伊勢道」であった。「御代参街道」と刻まれた道標はこれが初めてではないか。さすがに昭和になって「伊勢道」とよぶのは抵抗があった。石楠花は滋賀県の県花である。鎌掛の鈴鹿山脈よりにある2万株をこえる石楠花の群生地は国の天然記念物に指定されており、GWには多くの観光客で賑わう。先の道標は観光客用のものとも見える。

鎌掛の旧宿場街をあるく。鎌掛が八日市とならぶ御代参街道の二大宿場であったわりには町並みにその香りがすくない。静かで落ち着いた家並みであるが、どの家屋も整いすぎていて、旧い建物に特有な崩れた臭いが漂ってこない。基本的には農家の集落で、旅籠・商家風のたたずまいも見かけなかった。

それでも、「角屋」の屋号を示す案内板があり、ここが宿場の中心であったとある。昭和12年建立の道標があり、ここにも石楠花谷への道が案内されている。街道は鎌掛集落の西端を南北にはしっており、集落は東に広がっている。古今の鎌掛の姿を見るには道標が示すように、左の道にはいって旧村役場あたりを歩いてみるのがよさそうだ。

鎌掛からも多くの近江商人が出ている。天明7年(1787)
岡忠兵衛は赤城山に近い群馬大間々に出て醤油醸造・荒物販売を始めた。現在、東京町田に本社を置く(株)岡直三郎商店の群馬工場として、今も天然醸造による醤油造りにこだわり続けている。

鎌掛宿を出て、街道はいよいよ最後の行程に入った。河原口橋で南砂川をこえ、道はしだいに山道の様相を呈してくる。奥長野橋をわたったところで道は二手に分かれる。草むらに道標があり、
「右前野 左土山道 昭和3年11月」とある。昭和3年11月とは鎌掛入口にあった道標と同時期に建てられたものである。「左土山道」が旧御代参街道であるが、ここからが実は大変悩ましい。

「歩いてみよう御代参街道」に、旧道は記されているが現在の街道をしめす緑色の線がないのだ。そして結局旧道は見つからなかった。右の県道41号をそのまま進むと鎌掛峠をこえて国道1号にでるが、そこは土山宿のかなり西方にあたる。ところでその県道は緑色に塗られていない。

緑の道筋は、旧道が笹尾峠をこえ緑ヶ丘ファイブ団地の開発区域にはいったところから復活している。つまりその間の区間については、通行不能の旧道にかわる現代の御代参街道は準備されなかったということになる。もっと現実的にいえば、県道41号のどこかの地点から緑ヶ丘団地に通じる車道がつくられていれば、その道はまちがいなく緑に塗られたにちがいない。地勢がそれをゆるさなかったのであろうか、獣道はあった。

旧道と思われた左の道は土砂採掘現場の入口付近で二手にわかれる。最初、現場から遠い左の舗装道路をのぼってみた。すぐに青深く澄みきった神秘的な鎌掛池があわられ、眼下に旧道らしき土の道がみえる。直感的に引き返し、現場の横を通る道へとすすんでいった。小橋があって、その先に道が左右に分かれている。枝に結ばれているピンクのリボンの誘惑にまけたのが命取りだった。登山道のしるしとばかり、リボンを頼って左の道をとり、ひたすら山道を進んで行ったが、冊子に書かれている地蔵にも出会わねば、峠らしきクライマックスもなく、素敵な池だなと感慨にふけっている間に、先に間違った鎌掛池の入口にもどってきたのだった。結局この道は鎌掛池を一周するハイキングコースか林道だったのだ。

消去法で、先ほどの二股道をリボンのない右方向に進むと、旧道筋の東をほぼ併走して、笹尾峠付近にいたることがわかった。また、旧道がまったく消滅したわけではない。砕石現場によって入口付近は消されてしまったが、その奥には意外と歩きやすい山道が残っているような気がする。ただ、そこへのアクセスがなくなった以上は道としての機能を失ってしまったといわざるを得ない。


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土山 

冊子の赤線(旧道)と、地図を詳細に見比べてみると、笹尾峠は日野町鎌掛と、土山町瀬ノ音、土山町頓宮との3地域が接する点であり、そこから緑ヶ丘団地までは、土山町瀬ノ音・土山町頓宮の境界線、つづいて土山町瀬ノ音・土山町野上野の境界のようである。境界がなんらかの地勢的形状を利用しているものと考えれば、この場合、昔の道が境界をなしていたと考えるのが最も自然に思われる。

写真集に笹尾峠として掲げているのは、上述の真正な峠ではなく、擬似旧道の先端が尾根の一点を越えて緑ヶ丘に入っていく通り抜けの道を示しているに過ぎない。地点としては笹尾峠の50mほど東だと思う。

緑ヶ丘ファイブ団地はバブル期に開発したものだろう。売却された敷地は半分以下で、家が建ってあるのはその1割程度か。敷地には開発業者管理地という立て札が多かった。人影少ない別荘地に犬の泣き声だけがやけにひびく。

緑ヶ丘をおりる急坂の遠く前方に土山の町が見えてくる。まぼろしの笹尾峠と県道41号のことをわすれれば、旅は終わったようなものだ。坂のおわり右手に句碑が立っている。かっては笹尾峠近くにあったものだという。

  
涼しさの 処得たれば はや不足  

作者は煨芋(わいう)虚白という地元の俳人禅僧である。夏の街道歩きにぴったりの句だ。

坂下の広い道を横切ってまっすぐ農道をたどってゆくと、前にポケットパークがみえてきて車道に出る。左に折れて御代参橋で
野洲川をわたり、すぐ右折して農道を下っていく。二股を左にとって林をぬけると北土山の集落に入ってくる。「あいの土山マラソン」コースの「御代参街道北口」地点の標識とおり、二差路を左にとってそのまま東海道、国道1号にゴールインする。右手に旧い道標が二基並び立っている。

「右 北国たが街道 ひの八まんみち」 文化4年(1807)
多賀大社、日野、八幡に通じる道である。

「瑞石山永源寺 たかのよつぎかんおんみち」 天明8年(1788)
永源寺へいくには八日市から八風街道で10km以上東にいかなくてはならない。永源寺は当時からそれほどに知られていた名刹であったことがうかがわれる。

国道1号の左50m前方に土山宿にはいる旧道が出ていて、右方50mからも西に向かう旧道が出ている。その中間に御代参街道の分岐点がある形になっているが、国道が分断する前はおそらく三者は有機的に結合していて一つの三叉路をなしていたものと思う。今は分岐点の両側は、片方が空き地で、片方は自動車販売店となっており、なんの情緒もないなかで、ただ二基の道標がけなげに自己存在を死守しているようで哀れであった。土山宿については写真を掲げるだけにして、案内は「東海道」にまかせることにする。

2007年6月)
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