近江紀行

東近江


近江八幡

八幡城は長享元年(1487)頃に六角氏家臣伊庭氏が拠っていたのが始まりで、天正13年(1585)に豊臣秀吉の甥、秀次が本格的に築城した。このとき安土城の遺構も利用したといわれる。安土から多くの商人がこの新しい八幡の町に移ってきた。その後京極高次が城主となったが大津城に移封されるとともに八幡城は廃城となった。

八幡堀は八幡城の掘割で、琵琶湖水運に活用され近江商人と城下町の発展を支えてきた。土蔵の白壁が深緑の水面に映り、両側の石垣から柳が垂れる。水路には半ば壊れた堀船が放置されている。船着き場は石が敷き詰められ、折り目正しい風情である。

新町通りは紅殻格子の豪邸や白壁の土蔵が並ぶ八幡商人の屋敷町である。「京街道」と彫られた石標が商家の塀ぎわにひっそり立っていた。商家の一つは、蚊帳や畳表などの行商から始めて、江戸日本橋の豪商となった西川家の屋敷で、中は帳場や生活道具が当時のままに再現されている。「扇屋伴荘右衛門邸跡」とある屋敷の前庭は濃いピンクの花びらを密生させた百日紅が満開であった。 

古い商家そのままの店を構えてういろや丁稚羊羹を売っている一軒に入ってみた。丁稚羊羹は、かつて商家に奉公に来ていた丁稚がやぶ入りするときに故郷への土産に買って帰ったことからその名が付いたとされる。上質のあんを竹の皮に包んで蒸し、甘みに竹の皮の香りがしみ込んだ手作りの味が素朴である。皮をひろげると羊羹に竹の皮の跡がついているのがおもしろい。昼寝したあとの頬や腕についた畳目跡を思い出させる。あずき羊羹とちまきを掛け合わせたようなものである。羊羹のように悪甘くなく押さえられているのがよい。土産に買った羊羹は子供の頃に食べた味と変わってはいなかった。

日牟礼神社は八幡掘りにかかる古びた橋をわたったところにあった。千年の歴史を誇るこの神社は古くから八幡商人の信仰を集め、3月の左義長まつり、4月の八幡まつりは特に有名である。祭りのない時期のこの場所は、八幡商人西村太郎右衛門が奉納したという「安南渡海船額」の絵が目当てである。神社の事務所をうろついていると視線の上にりっぱな額に納められたその絵があった。彩色はやや薄れてはいるが、10人の人物が遠洋航海用とは思われない小振りの船に乗っていた。西村太郎右衛門は安南国、今のベトナムに20年間滞在して財をなし、郷里に錦を飾ろうとしたが鎖国のために入国できず、やむなく日牟礼八幡宮に記念の絵を奉納した。その後の彼の行末は知られていない。



朝鮮人街道(京街道)

滋賀県は古代から韓国・朝鮮からの渡来人との交流が盛んな地であった。湖東を縦断する朝鮮人街道は江戸時代の両国の交流を象徴するものであろう。慶長12年(1607)から文化8年(1811)までの約200年間に亘って12回の朝鮮通信使が来日した。そのうち10回が野洲から中山道を外れ、近江八幡を通り彦根鳥居本で再び中山道と合流する約40kmの道を通った。これが朝鮮人街道または彦根道と呼ばれている道である。鳥居本には「左中山道 京 いせ、右彦根道」と書かれた道標があるが、右の道がそれである。
なぜわざわざ幹線の中山道を逸れたのか。大津、膳所、草津と楽しんできた琵琶湖の美しい景色から離れたくなかったらしい。

豊臣秀吉は16世紀の末期に二度に亘って朝鮮へ出兵、両国の関係は悪化した。秀吉の没後、 徳川家康は対馬藩宗義智に命じて、和平交渉にあたらせ国交回復をはかった。その結果、日朝両国の友好の証として1607年、朝鮮から通信使が送られてきたのである。家光による鎖国時代でも朝鮮国(李氏朝鮮)のみは例外で、幕府は朝鮮国を「通信の国」つまり信義をもって交わる国とした。これに対し、中国とオランダは貿易船の来航のみが許される「通商の国」と呼ばれる。
私は「通信使」を電報でも発信できる技術者か、大量の手紙類をたずさえたメセンジャーかと思っていた。それにしては扱いが仰々しいなあ――という疑問は抱いていたのだが。

通信使は外交使節であり、文化使節でもあったのである。外交団に混ざって、学者、文人、書家、医師なども選ばれており、全体で500名近くの大使節団であった。京城を発ち釜山から下関、瀬戸内海を経由して大阪に上陸、淀から京都、近江、名古屋を経て 東海道を江戸に向かった。文字どおり鳴り物入りの豪華な行列は沿道の人々に強烈な印象を与えたようである。近江の生んだ儒学者雨森芳州は第八次と第九次の二度、対馬藩の真文役(漢字を解読する役)として通信使の一行に加わっている。


水郷

琵琶湖八景のひとつにも数えられる西の湖の水郷は司馬遼太郎が船頭と、よし・あし談義をした場所である。私は水郷や湿原の風景が好きだ。ナイルやチグリスのデルタは壮大な湿地帯で、一見不便で不健康的とも思われる風土から文明がおこった不思議が魅力的でならない。アメリカではニューオリンズの海洋性湿原と、ニューハンプシャーで高原性湿原をみた。日本の尾瀬をまだ見ていない。釧路にも行ってみたい。

よしと水の里めぐりの始まりは、400年の昔にさかのぼる。八幡城主豊臣秀次は近くの水郷地帯で宮中の舟遊びに似せた遊びをすることを考えついた。人工池の舟遊びよりスケールが大きかったし野生味に満ちていた。水郷めぐりは、近江八幡と安土にまたがる琵琶湖最大の内湖・西の湖を中心に、よしの群生地と田畑の中を網の目のように入り組んだ水路を小さな屋形船で巡る。芭蕉が好きだったにお(かいつぶり)もいる。四季折々に水郷の風情が異なり、一日のうちでも日の光線具合で趣が変わってくる。

船乗り場にいってスケジュールをみると定期船は10時に出たばかりであった。次は午後の3時までない。事務所からおじさんがでてきて、不定期船は一人4千円だがせっかくだから二人6千円にしておくといってくれた。妻のほうを振りかえると、かぶりをかすかに振っている。船をあきらめて車でぶらぶらまわりをドライブし、それらしき雰囲気のあるところに停まっては記念の写真を撮った。ここはぜひ、空気の澄んだ秋の夕日のときに訪れて黄金色にかがやく葦を撮ってみたい。

葦は琵琶湖畔の代表的なイネ科の植物である。 近江八幡は西の湖でとれる葦から作るすだれを特産する。この植物は茎が水流を減速させて汚濁物の沈殿を促し、水中の茎に付着する微生物が有機物を分解するなど、琵琶湖の水質浄化に大きく貢献している。県でも葦の群落を保護する運動が展開されていて、数年まえから「葦刈り」を奨励してきた。枯れて水中で腐敗するにまかせるのでなく、枯れた葦を刈って水中を浄化し、葦の再生を促そうとするものであるが、最近の研究で葦刈りはかえって再生を妨げるという結果が報告された。刈るか否かで今熱い論争が展開されているという。一度奨励したことを止めるには勇気がいる。

司馬遼太郎が水郷に遊んだとき、「よし」と「あし」について、一般には同じと解されているが地元の人々は区別をしていることを書いている。よしは茎の節と節の間が空で軽く、あしは茎のなかに綿毛のようなものが詰まっているのだという。すだれに使うのは軽いよしであってあしではない。一方で、両者は同じ物だが、あしは悪しに通じるため、よしとよぶことにしたという。漢字ではいずれも葦と書く。要するにあしよりよしのほうがよいということである。

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八日市

八日市市は、滋賀県のほぼ中央部に位置し、琵琶湖の東部に広がる湖東平野の中心にある。滋賀県下七市のなかで唯一琵琶湖に面していない。北に愛知川が東西に貫流している。三重県境をなす鈴鹿山脈に源を発し琵琶湖に注ぐ。上流に臨済宗の名刹永源寺があり、その奥の蛭谷は木地師のメッカである。南は布引山で、東西数kmに横たわるなだらかな丘陵である。

八日市市域が日本史の表舞台に登場したのは6〜7世紀の古墳・飛鳥時代にあるといわれている。百済の移民千人以上が渡来し、蒲生野が開拓された。天智天皇が、この蒲生野で大がかりな遊猟を行ったことが「日本書紀」に記されている。蒲生野を舞台に繰り広げられた大海人皇子(のちの天武天皇)と額田女王の大人のエピソードは、「万葉集」に歌われているとおりである。駅舎は見違えるようなモダンな山小屋風の建物にかわり正面には蒲生野のようすをえがいたタイル画が壁を飾っている。

万葉ののどかな時代から数世紀を経たころ八日市は商業の舞台として登場する。その記念碑が八日市南小学校の付近に建っている。保内商人または鈴鹿山脈を越える「山越商人」といわれた近江商人の原型像である。キャラバンを組んで街道を往復したようすは、大河ドラマ「義経」で金売り吉次が一族郎党をひきつれて平泉と京の間を行き来した光景を思い浮かばせる。時代的にも鎌倉時代のことであった。以下、碑文による。

鎌倉、室町の頃、鈴鹿の八風峠、千草峠を越えて近江と伊勢の間を往還する商人群があった。彼等は保内の野々郷(現八日市市金屋、中野、今崎、蛇溝、市辺、小今、)三津屋、玉緒そのほか石塔、沓掛、小幡などの人々で、世に山越商人と呼ばれている。 保内商人の活動が史料に出てくるのは平安末期からである。この平安から鎌倉期は、我国商工業の勃興期にあたっているから、ここに現れる近江商人こそ、日本商業史の第一頁に登場した人達ということができよう。 この頃の商人は、後世の近江商人のように、一人二人が天秤棒を担いで行商をするというのでなく、多人数がキャラバンを組んで行動していた。応仁2年、京都の僧が千草越で道づれとなった近江商人の一行は、「荷を担ぐもの百余人、護衛の者六、七十人、荷を積んだ駄馬はその数を知らず」という盛んなものであった。このような集団としての団結と自治の気構えは、「今堀日吉文書」に残る多くの村掟からも推察することができる。 江戸期に入って、近江商人の活動が全国的に宣伝されたその前段階に、郷土から輩出した、不屈の行動力と、豊かな先見性、時代に先駆けた自治の精神を有した商人群があったことをこの群像建立により、長く記憶にとどめておきたいと念ずる。
小幡・保内・沓掛・石塔の商人を「四本商人」とよぶ。

時代がさらに下り戦国をへて江戸時代にはいると商人のみならず甲賀の忍者や庶民やお公家など多様な人が行き交う交通の要衝として八日市は賑わった。八日市を避けるように湖東を西に中山道が縦走し南に東海道が横断している。江戸から関が原越えでやってきたお伊勢参りの人たちは、草津を経由する迂回をいやがり、三角形の二辺をむすぶ斜辺の近道に人気が集まった。中山道の愛知川宿をすぎて川をこえたところの五個荘小幡、小幡商人の発祥地から八日市、日野を経て東海道土山宿にでる道は、「北国街道安土越」ともよばれていた古道であるが、江戸中期になると、御所・大名の名代が伊勢神宮、多賀大社の参詣に利用する道として定着し、いつしか「御代参街道」と呼ばれるようになった。かっての八日市駅前の繁華街であった本町通りはその名残である。八風街道と交わる交差点には明治時代に整備された「八日市道路元標」がある。時代の先端をいくアーケード商店街への入口であった。

東近江地区を走る脇往還、「御代参街道」「朝鮮人街道」「八風街道」は独立させる予定である。

万葉の森船岡山

古代の蒲生野は行政地域としての現在の蒲生郡よりははるかに広い地域であって、おそらく野洲郡や、近江八幡市や八日市市の一部もふくむ湖東平野の広い地域をさしたものと思われる。額田女王と大海人皇子の相聞歌がうたわれた場所の特定をめぐってはいろいろ議論が重ねられた。結局、天智天皇が大津から大勢を引き連れて猟にあそんだという、古代朝廷の遊猟の地、蒲生野の中心は近江鉄道の市辺駅近くの船岡山あたりであるということになったらしい。その地を万葉の森となづけ、昭和43年に頂上に万葉歌碑が建てられた。毎年10月の第3日曜日に「蒲生野万葉まつり」が開かれ、歌会や茶会などが催される。

芝生の広場に幅広いシネマスコープ・スクリーン大の壁が立てられて、男女4人が日本画で描かれていた。広々とした野に、ゆるやかに裾まで流れる古代服をきて男性を見守る若い女性2人と、得意げに馬に乗って女性に手を振る男性2人がいる。野には紫草が咲き乱れている。画面の外には野の管理人がいたのであろう。天皇は猟に夢中になっていたのか、主宰者の目を盗んで、かっての恋人どうしがきわどい愛のことばを交わし合っている。

 
茜さす 紫野行き 標野行き 野守りは見ずや 君が袖ふる(額田女王)
 
紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に われ恋ひめやも(大海人皇子)

人目もはばからずに袖を振って見せる大海人皇子を額田女王がとがめたのに対し、大海人皇子が大胆にも人妻である額田への激しい恋情を表した歌であるという。天智天皇に対して挑戦的で、開き直っている風にも見える。額田はもと大海人皇子の妃であったのが、天智天皇に取られてしまった。恨みがあってもおかしくない。現象的には、青空の下の一見のどかながら大胆不適な不倫関係である。

額田はもともと宮中にいて神事をつかさどる巫女的存在であった。たまたま歌をよくする美貌の持ち主であったばかりに蒲生野に歌碑を残すことになったのである。
額田は20歳のころ大海人皇子に梅林に誘われて関係を持つ。しかし自分の天職をわきまえて彼女は大海人の後宮には入らなかった。やがて女子、十市皇女(とおちのひめみこ)をもうけるが、密かに大海人にゆだねる。額田は形の上では独身の自由の身である。そこへ情夫の兄である中大兄皇子が求愛してきた。皇太子の誘いを断ることはできない。その後朝鮮半島の情勢が急変するなかで斎明天皇が崩御し、支援していた百済が滅びた。三角関係はしばらく中断した。

667年都を大和から大津にうつし中大兄は天智天皇として即位する。息子の大友皇子を皇太子とし、弟の大海人が後を継ぐ可能性を閉じた。一方で十市皇女は大友皇子の妃として後宮に入り、額田と天皇は親同士となった。
面白くないのは大海人である。女はとられ(といっても他にもっと若い妃はいっぱいいたのだが)、皇位も逃げた。人生に絶望したのか、復讐の準備のためか、あるいはただやけをおこしたのか、天皇が病に倒れると大海人は祈願のためにと出家を申し出、吉野の山に引き込んでしまった。その後のことは歴史に詳しい。

蒲生野の歌は、天智天皇即位の年で、額田が34歳の時のことである。十市皇女はまだ大海人のもとで乙女であった。どちらの貴人にもつかず離れずの態度をとる才色兼備の神秘的中年女性をめぐって、ひときわプライドの高い兄弟が目に見えぬ火花をはげしく散らしていたのである。



雪野山古墳

蒲生野の古さはこれだけではない。平成元年、船岡山から車で15分東南にいったところ、八日市市・近江八幡・竜王町及び蒲生町にまたがる雪野山(標高309m)の山頂に、4世紀中頃の前方後円墳が発掘された。日本で初めての未盗掘古墳の発見として当時話題を呼んだ。全長70mの古墳の、後円部の墳頂部に南北方位で堅穴式石室一基があり、邪馬台国の女王卑弥呼が中国の魏に遣使した時に賜ったとされる三角縁神獣鏡などの銅鏡や石製品・土器、武具など副葬品も多く出土した。被葬者は武具や武器が多く埋葬されていたことから大和政権と密接な関係を持つ武人で湖東一帯に基盤をもつ豪族であろうと考えられている。
現在古墳は埋め戻されているが、山頂まではハイキングコースが整備されている。麓にある歴史公園の子供だましのような竪穴住居の模型を見ただけで、山に登ることはやめた。


延命公園

延命公園は近江鉄道八日市駅裏に位置し、昔この山の上にあったといわれている延命山尊勝寺の名をとって名付けられた。幼い頃八日市へ買い物について行ったたびにこの公園によった。小さな金網の中に2、3匹の猿がいた。1羽の孔雀と檻には猪も飼われていたと思う。そのミクロ動物園の一角を訪ねるのが楽しみだった。中学になっても延命公園はよく行った。10分ほどかけて頂上まで登る。そこから東を望む風景が好きだった。展望台からは御園・玉緒村、沖野ケ原が一望できるのだ。
また、延命公園、太郎坊宮、瓦屋寺を含む箕作山一帯は、約1500本のソメイヨシノで知られていて、春には延命公園で桜まつりが開かれる。公園内の桜がライトアップされ、ぼんぼりにも灯がともり、お花見気分を盛り上げる。東京の人が上野公園に行くような感じで、私たちは延命公園を愛したのである。
 
公園内には「江州音頭発祥の地」の碑が建てられている。実は中山道を歩いたとき豊郷でも「江州音頭発祥の地」の碑を見た。どちらが本家であるのかここでは詮索しない。江州音頭は、毎年夏になると各地の広場で催される。櫓の上で音頭とりが
「エーミーナエサーマタノミマス」ととなえると、踊り子が輪になって「ヨイトヨヤマカドッコイショノセー」と唱和して踊る。私はこの公園での江州音頭総踊りを見たことはないが、村の祭りでも江州音頭で締めくくるのが習わしであった。踊りの楽しさよりも、主役の青年団のお兄さんやお姉さんの熱気に圧倒されて、松の木陰から恐恐として見ていたというのが実態であったように思う。

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太郎坊宮(阿賀神社)

近江鉄道太郎坊駅から北へ約1km、標高350mの巨岩が露出した赤神山の中腹に、「太郎坊さん」の名で親しまれている「太郎坊宮」がある。「太郎坊」とは京都鞍馬の次郎坊天狗の兄天狗で、この社を守護していると言われている。約1400年前の開基と伝えられ、天照大神の子を祀る原始信仰の神社である。勝運授福の神として崇められ、厄除け・開運・商売繁盛にもご利益があるとされる。その昔には、聖徳太子や最澄も参拝したと言われ、また神秘的な霊山として修験者の修行の場でもあった。

参道から約740段の階段を登ると本殿にたどり着く。本殿前に夫婦岩とよばれる高さ数十メートルの巨岩がある。神力によって左右に開いたといわれ、巾80cm、長さ12mの巨岩の隙間を嘘つきな人間が通ると途端に岩に挟まれてしまうといわれる。少し下がって岩全体をながめると女陰の形に似ているというのが土地の常識である。言われないときづかない程度である。本殿前から眼下に広がる蒲生野の眺めがすばらしい。



大森

名神高速を八日市インターでおりて国立病院前の五智町バス停から八日市CCに向かって南に1kmほどいったところに旧玉緒村では最大集落の大森がある。江戸時代もまだ始まったばかりの元和8年(1622)山形の57万石の大名最上家が、くりかえされる一族長老間の派閥抗争が原因で改易され、最上義俊は1万石を与えられて大森に移されてきた。義俊の早世後、嗣子・義智は僅か2歳であったため知行地を半減され藩も廃され、5千石の旗本に降格された。最近まで最上氏は大森に在住していたが、大阪に移転していったとのことである。

最上氏は足利氏の支流斯波氏の分家である。南北朝時代に最上郡山形に入部して「最上氏」を興した。山形最上の地ではじまった最上踊が、発祥の地では絶えて、終焉の地大森で守られている。一家の長男だけが許される古式豊かな最上踊りは元来最上氏の陣屋前で踊られていたが、現在は尻無町八坂神社、大森町大森神社境内でそれぞれ4月の第1土曜日に奉納されている。山形からの依頼をうけて定期的に大勢で里帰りをするそうである。


八風街道

八風街道、421号線を東進する。八日市インターチェンジの出口のロイヤルホテルを指さして、そこでこの夏中学の同級会があったことを妻に教える。そこから東に1km行ったところが五智町である。時速10kmほどに速度を落とし自転車屋、八百屋、散髪屋、加藤宅、藤谷宅の前を通り、信号を点呼する駅員の独り言のように私は40年前の記憶を口で確認する。妻は何の感慨も示さなかった。過去に見切りをつけたかのようにその町を通り過ぎ速度をあげて永源寺へ向った。

八風街道を東に進み、青野を越えるころには愛知川の背後に色づいた山の木々が見えてくる。黄色や赤に染まった葉が緑に混じって秋色の斑模様をなしている。歩を進めるにつれて錦色の山が近づき、まもなく遠足の終点であることを知らせてくれる。子供心に気分の高まりをおぼえたものであった。

今回、道中の風景は一変していて鬱蒼とした林はきれいになくなっていた。御園町までは家や店がつながっている。町と町の間にはハイテク企業が進出していた。それでも如来町までくるとひなびた田園風景が広がって古い記憶をよみがえらせる。
葉を落とし朱色の果実だけをつけた木が風通しよく並んでいた。

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永源寺町

永源寺町は八日市市の東に位置し、鈴鹿山脈で三重県と接する。町の約半分が鈴鹿国定公園である。南北朝時代、寂室元光和尚が伽藍を建立したのがはじまりといわれる。名刹永源寺の門前町として栄え、また愛知川沿いに伊勢に向かう近江商人が通った八風街道の要点として、多くの武士や商人の往来で賑わった。さらに古くは惟喬親王が伝えたとされる木地師発祥の地である君ヶ畑と蛭谷をかかえ、今でも木地師のメッカである。そのほか、「京の水」とよばれるあまり人に知られていない名水、識廬の滝や、美しい姫に化けた竜の伝説が残る姫ヶ滝、県境近くにそびえる鈴鹿山脈の最高峰、御池岳そして八風峠など、ハイキングやキャンピングの材料に事欠かない。山全体が錦織になる秋の紅葉はすばらしい。

永源寺は遠足、マラソン、識廬の滝までのサイクリングなど、思い出を残す土地である。また、私にとっての滋賀県の東限であって、その向こうにできた愛知川ダムはまだ見ていなかった。蛭谷、政所、君ヶ畑などの地名は知っていたがその地が木地師の発祥の地であること、石榛峠近くに京の水という名水が湧き出ていることなど、54歳になって初めて知ったことである。

永源寺の紅葉橋付近にくると駐車場不足で車は道路にあふれ、一歩も動かなくなった。永源寺を迂回し遠くの所を先に見ることにした。421号線を愛知川に沿って鈴鹿山中に入っていくと左手に愛知川ダムが現われる。思っていたよりも小さい。東京では梅雨のような秋であったにも拘らず近江はさほど雨が降らなかったとみえて、水位は低く少し上流にすすむと、かって水没した棚田が干し上がっていた。さすがに家の跡形はなかったが、棚田の石垣は流されずにあった。

川は緑色の水が緩やかに蛇行して、両側の岸は紅葉に彩られて斜陽をあびて輝いている。ニューイングランドのように山全体が真っ赤になることはない。日本の山は秋でもあくまで緑が基調をなす。その中にどれだけ暖色が混じっているかで秋の深さをはかる。今年の秋は例年よりも暖かく、全体の色合いに冴えるような鮮やかさがなかった。それでも局地的には燃えるような赤や、網膜に一瞬焼き付いた太陽の残像のような明るい黄色の葉をつけた木々がある。その多寡が紅葉の名勝であるか否かを分ける。

ダムの上流を登って行く。道幅をもう少し広げ、景色のよい場所に待避所を兼ねたアウトルック駐車場を増やせれば立派なパークウェイになりそうだ。幾つかのそのような待避場所に車を停めてカメラを構える。晩秋の日差しは真昼でも低く、朝夕の光線のように万物に陽陰のアクセントをつける。すすきの穂が斜光を受けて銀髪に輝いている。紅や黄の葉のなかに黒い枝が細く鋭い曲線を描く。木々の隙間に緑の川が横切り、遠景の川面や土手の土は光を反射して邪魔なディテールを隠す。この上なく好ましい画像ができあがる。レンズからみた色のままにでき上がってくれればいいがと願わずにはいられない。

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蛭谷(木地師発祥の地)

永源寺より川沿いに曲がりくねった山道を20分ほど行ったところで左手に34号線の細い道がでてくる。10分ほどで蛭谷の集落に着いた。そのまま行くと筒井峠を越えて愛知郡に入る。この山間の地に今から千百年以上も昔、平安時代前期の貞観元年(859年)に、都から落ちのびてきた惟喬親王が隠棲の場所としてたどり着いたのだという。木地屋というのは、木地師とも称し、近世末まで手挽きろくろなどの工具を使って、椀・盆などの木地を造った工人のことである。

惟喬親王は平安時代承和11年(844年)に、第55代文徳天皇の第一皇子として生まれた。外戚であった時の太政大臣藤原良房との継承闘争に破れ、第四皇子であった惟仁親王(のちの清和天皇)に皇位を譲って隠遁の旅に出た。たどりついたところがこの小椋谷だったというのである。蛭谷に幽棲した親王は、巻物のひもにヒントを得て考えついたといわれるろくろを使って、膳・盆・椀などを作る仕事を小椋実秀卿に教えた。ろくろ製品が知れわたるにつれ全国から多くの工人が集まってくるようになった。木地屋たちは良質の木地を求めて全国各地の山中を渡り歩いたというから、蛭谷の他にも惟喬親王伝説はあるらしい。

蛭谷バス停のそばに「ろくろ木地発祥の地」という標識が立っており、それに並んで集落の地図版があった。10軒に満たない家の苗字はすべて
「小椋」である。その中の一軒である小椋政己氏に電話で木地師資料館を開けてくれるように予約をしておいた。一見民家風の資料館は筒井神社の境内の奥にあった。ろくろを使ったこけし、ボール皿、椀、こまなど全国の伝統木地製品をはじめ、木地師の免許を得た工人の名を伝える氏子狩帳や往来手形などの古文書類が展示されている。氏子狩帳には正保4年(1647年)から明治15年(1882年)までの236年間45ヵ国に、木地師の名が延べ約45000人も記されているという。ある情報によると、氏子の名なのか地名なのか判然としないが、この地が木地師の最盛期であったころは筒井千軒、小椋千軒、藤川千軒といわれたらしい。

ここから更に20分ほど山中に入っていったところに君ヶ畑という集落がある。「君ヶ畑」と言う地名は親王が小松村畑に金竜寺を建立し高松御所として住むようになってから改められたそうだ。金竜寺の境内に隣接して「日本国中木地屋氏神惟喬親王御廟所」という石標があり、親王の墓所と伝えられている。金竜寺には、元禄7年(1694)から明治23年(1890)までの200年間の巡国記録で、30ヵ国延べ約11500人に及ぶ木地師の名が記載されているという。金竜寺では現在でも不定期的だが、全国から木地師が集まり親王の法要が盛大に行われているそうである。

「ところで惟喬親王のことですが、親王はたしか出家してからは京都の小野に隠棲したということになっていますね。ここにきたというのは伝説なんでしょう」
「いえ。親王がなくなられたのは小野ですが、それまではここに住んでおられたのです」
「それにしては親王の歌に蛭谷をうかがわせるものがありませんが。在原業平とともに小野ではたくさんの歌を残しているのですがね」
「親王はここでも歌を詠まれています」
「どんな歌ですか」

  
世をいとう愛智の深山の呼小鳥 ふかき心を誰かしるらん

愛智は愛知川、愛知郡というように、確かにこの辺の地名に通ずる。それ以上追求しなかった。土産品としてその歌が書かれた木札が売ってあった。「木地師の里」「永源寺」と印された朱書きが札を尊く見せる。

境内の筒井神社は惟喬親王が入谷6年後の貞観7年(865年)、この地に宇佐八幡神を勧請、奉祀したのが起こりと伝えられている。最初はこの場所よりもさらに奥まった筒井峠付近に建立されたものだが、祭事などが不便となったため明治のはじめにここに移築されたのだという。この筒井神社は、かつて筒井公文所という名のもとで、全国各地の木地師たちを支配し、木札の印鑑や往来手形などを発行して木地師の身分を保証していた。公文所のことを別名、政所ともいう。茶の産地で有名な政所という地名はここからきたものらしい。

蛭谷の集落を離れ筒井峠の方向に向かう。道は小型車一台の車幅にすぎない。十分ほどいくと右手が開けて谷越えに色づいた山並みが連なっている。谷ぎわの空き地に炭焼き小屋がぽつりと建っていて、黒いトタン屋根の下から煙が盛んにたちのぼり風のなすがままにゆれあがっていた。小屋のそばには薪と、まだ青い切り取ったばかりの竹が束ねて積み上げられていた。モノトーンの小屋と煙を前景にして右半分の空間は多彩色の秋の色である。空は晴れて青かった。谷間の風景として申し分ない。妻を誘ったが「寒いから」と車から出てこなかった。カメラ二台を引き受けてしばらく一人の時間を過ごす。下から一台の軽トラックがあがってきて小屋の前にとまった。出てきた人は先程資料館で説明をしてくれた小椋さんだった。会釈を交わす。彼は小屋をひと回りした後炭の焼き具合を点検していた。「いい景色ですね」と一言声をかけて私は車に戻った。

さらに峠をめざしてしばらくいくと左手に駐車場があった。ここが惟喬親王のご陵である。林の入口の右手に、惟喬親王がコンクリートの台座の上であぐらをかいていた。西郷隆盛のように恰幅のいい人物で、とても平安時代の落人貴族とは思えない。
一筋の谷水に沿って落ち葉にうもれた小道が林の中に続いていた。逆光を受けて木立の大気がかすんでみえ、林からは幽玄な空気が漂い流れてくる。
道の向こうに「愛東町」という標識があった。そこが筒井峠であろう。

惟喬親王は歌人としても知られている。そこで紹介されている親王の経歴には、残念ながら木地師のことや小椋谷のことは出てこない。貞観14年(872)に、病を理由に出家し、山城国愛宕郷小野に住んだとある。親王は歌をよくし、在原業平や遍昭ら歌人と交流し、たびたび詩歌の宴を催した。寛平9年(898)、54歳で死去。京都市左京区大原上野町に親王の墓と伝える五輪の塔がある。その間26年間の放浪、隠遁生活のことはよくわかっていないところが味噌である。

在原業平の歌にも惟喬親王のことがよく現れているが、どこからも親王の小椋谷までの逃避行をうかがわせるものは見当たらない。親王と木地師との伝説はどこから来たのか。伝説のままにしておこう。 小野と永源寺を行き来していたのかもしれない。そのほうが「京の水」にも都合がいいというものだ。

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京の水

車を引き返し、蛭谷の町を通り過ぎて421号線のT字路にもどった。左におれて三重県境に向って八風街道を10分ほどいくと紅葉尾の集落を通り、そこからおよそ1kmのところの道端に「京の水」があった。山すその岩の間から湧き、竹筒をくぐって流れ落ちている。どんな渇水のときでも涸れることなく、台風のときにさえ濁ったことがないという。いつどのように広まったのか、この名水は地元の人か名水マニアの間でしか知られていなかった。

険しい山と愛知川の谷の隙間に3台の車がようやく停まれるほどの待避所があるだけである。夫婦づれがポリタンクを10個ほども集めて、竹樋から静かに絶え間なく流れ出る水を満たしては車に運んでいる。この近所の住民であろう。
「この水は名水らしいですね」
「おいしいですよ。この水を沸かしたお茶はうまいです。米もこの水で炊くとご飯の味が全然ちがうんですよ」

二人が立ち去るまでしばらく無駄な写真を撮って時間をつぶした。立て札にはつたない字で由緒が書かれている。「京の水」という見出しは、安っぽい口紅のようなどぎつい赤ペンキだ。ドライバーには見つけやすいだろうが、周囲の雰囲気には似つかずに一人浮き上がっている。立て札の左端には数人の若者らしきボールペンの筆跡が刻まれていた。名前だけを記したものや結婚の願いを刻んだものが読み取れる。樋から出る水を片手ですくって一口飲んでみると意外に生温い感触であった。水の味を見分けられるほどの特徴を見出せなかった。水温のせいかもしれない。

京の水とこの地域の人々との関わりは古い。昔、嫁入りしてきた女性は伊勢参りをする習慣があり、このとき必ず持参していったのが京の水であった。また、死期の近づいた人には、末期の水として飲ませる習慣もあったという。

この水の名は、いつとはなく旅人が名づけたものだそうである。江戸からの旅人が遠路近江に入り、もうすぐたどり着く京の都へ思いを馳せながらこの水で喉を潤したという話もあるが、中山道や東海道を通らず八風峠をこえて近江に入る旅人は余程物好きか、さもなければ近江商人であったろうと思われる。近江商人であれば京まで行かない。
いっそこれは惟喬親王が見つけたもので、親王は京の伏見の水を偲んで涙したとするほうがロマンティックだと思うがどうであろう。

全国利き水大会というのがあるらしい。 平成9年5月に実施された第四回大会で京の水は人気ベスト20のうち、堂々2位を獲得した。37都道府県47市町村が参加した大会であるからいい加減なものではない。ちなみにベスト3をあげておくと、次のようになる。

1位 栃木県 塩谷町 尚仁沢湧水
2位 滋賀県 永源寺町 京の水
3位 北海道 厚真町 厚真の湧水
 石川県 中島町 座主の水   岐阜県 久瀬村 清水川

もう少し公的な名水を知ろうとすれば環境庁推薦の名水百選があるがこれは全国各地からまんべんなく選ばれたもので順位はついていない。滋賀県からは彦根市西今町の湧水と坂田郡伊吹町大字大清水の湧水が選ばれているが「京の水」はみあたらない。利き水大会同率3位のいずれも同様に名水百選からもれている。
ちなみに百選の基準は1に「水質、水量、周辺環境(景観)、親水性の観点からみて、保全状況が良好なこと」、2に「地域住民等による保全活動があること」となっておりその上で「規模、故事来歴、希少性、特異性、著名度等」を勘案するとある。どうやら京の水は味においては申し分ないが水量と知名度において劣るということであろう。1位に選ばれた栃木県の尚仁沢湧水は環境庁の百選にも出ており堂々たる名水である。

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永源寺

蛭谷、京の水を先に見て、永源寺に戻ったときは三時近くになっていた。客も帰り始めていて駐車場はすぐにみつかった。他方で旗を掲げたガイドさんの後をついて入ってくる団体客もいる。彼らに慌てる様子がないのはこの地に宿泊するのであろう。

永源寺は末寺百余ヵ寺を統率する臨済宗永源寺派の大本山である。南北朝時代の康安元年(1361)、近江の守護職佐々木六角氏頼が寂室元光禅師をこの地に迎え、七堂伽藍を造立した。
もみじの名勝といわれるだけあってもみじ木の密度がちがう。秋は全山もみじに包まれ愛知川の流れを朱に染める。境内の上空は斜光にかがやく朱色の木の葉で覆われんばかりである。傾きつつある太陽と競争するようにシャッターをきる。三脚を構えたプロとおぼしきカメラマンやビデオカメラを肩に担いだ地方テレビ局のカメラマンもいた。

日本のもみじ葉は嬰児の手のようにつぶらである。赤い薄っぺらなコンペイトウのようでもある。永源寺にはまたイチョウの木も多い。黄色と緑色はよく溶け合う。アメリカのもみじはイチョウの葉くらいの大きさであったように思えてならない。アメリカでみた紅葉は別種であろうか、それとも私の勘違いか。

撮影会のようなせわしさでシャッターを切り続け、一息ついたときは4時をまわり日も陰って私の気持ちにも区切りがついた。写真のことを忘れると急に心が落ち着いてくる。 遅い昼食にありついた。境内の休憩所で甘酒と名物コンニャクの田楽をとる。櫛団子ふうのコンニャクは歯ごたえがあり口の中でコリコリとして歯と戯れる。ふんだんに山菜をもったうどんも食った。体が温まるとともに一日の疲れを一気に感じるようであった。山門、講堂、本堂、鐘楼など昔幾度となく見た風景の中に、芭蕉のコンニャクの
句碑は新たな発見である。

 
こんにゃくの刺身もすこし梅の花


こんにゃく(蒟蒻)

永源寺町の特産物でまずあげられるのがこんにゃくである。開祖寂室元光禅師が、中国から手法を伝えたのがはじまりとされている。僧の食事は精進料理で、こんにゃくが美味しく体に良いことがわかると、精進には欠かせない食材の一つとして重宝された。現在では、歯ざわりがよく、独特の風味があり、全国でも知られる特産品となっている。カロリーがゼロで腸を洗浄して便秘によい、「胃のほうき」「腸の砂おろし」とも呼ばれるダイヤット食品である。芭蕉が江戸で俳諧師匠としての地位を固めたころ、新春のくつろいだ気分で七草粥を食べながら次の句を詠んでいる。
 
 
蒟蒻に 今日は売り勝つ 若菜かな

私はコンニャクが大好きであるが、同時にコンニャクで苦労した思い出がある。
外国にいたころアメリカ人を家庭に招待するとまず典型的な日本料理でもてなすことが多い。アメリカ人には、刺し身は好き嫌いがあるので、すき焼きで始めるのが無難である。そういう場合を想定して主な日本食の英語名を用意しておいた。最近は「スシ」「テンプラ」「トーフ」「ショーユ」「ウドン」等、彼らにとっての外来語で通じるものが増えたが20年前はそういう訳にはいかなかった。

和英辞典で調べた英語がまったく通じなかったのが「コンニャク」である。正確には「糸コンニャク」であるが「糸」の部分は易しい。本体の部分にあたる英訳は、ある辞典で「devil's tongue」(悪魔の舌)とあった。そのまま使ってみたがその意味するところを理解してくれたアメリカ人はついに一人もいなかった。あとで思うに、言っている本人がなにを伝えたいのか判っていなかったのである。確かに角切りしたコンニャクは色といい、感触といいオカルト映画で舌の代用に使ってもいいかもしれない。しかし目の前にあるディナーの説明にはまずい訳語ではなかったかと思う。直訳に自信の無い時は一語ですませようとせず、説明すればよいのであるが、「ある種のイモから作ったものだ」と説明しても結局何の足しにもならなかった。

ある国語辞書には次のようにある。

@サトイモ科の多年草。インドシナ原産。渡来は古く、各地で栽培される。葉は球茎から一個出て、葉柄は太く長く茎のように見える。球茎をこんにゃく玉という。こにゃく。Aこんにゃく玉をおろすか粉砕したものに水を加えて練り、消石灰を加えて固めた食品。成分のほとんどが水分で、栄養価値はないが、その弾力ある歯ざわりが好まれ、田楽・白和え・おでんなどに用いられる。

誠意をつくしてこの全文を英訳して伝えたとしたら、説明する側もされる側もますます混乱に陥るのではないかという気がする。
 
帰路は同じ道を御園町までもどりそこで国道307号線を南にとって信楽に向かう。来る時みた柿の実はシルエットになってなおぶら下がっていた。307号線は北へとると多賀大社まで通じている。南は信楽をこえて大阪の枚方までとある。私が中学の頃この道の造成工事が始まった。そのころはたしか「産業道路」とよんでいた記憶がある。いまや県を越えて縦断する幹線道路となっていた。日暮れのなか布引山を越える。このなだらかな丘陵は子供の私にとって南限だったのだ。

布引山の手前で「瓜生津」という道標がでてきた。私の母の生まれ故郷である。この村には祖母の葬式以来訪れていない。山をこえると蒲生野である。ヘッドライトに照らされて「鬼室神社」という標識を認めることができた。この土地は日野である。更に南下すると水口にでる。東海道筋の宿場であり豊臣秀吉が築いた岡山城の城下町でもある。国道1号線を横切ってなおも307号線を南に進む。山が深くなって人家が途絶える。一山越えればそこが信楽である。

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五個荘

中山道の愛知川宿から愛知川にかかる御幸橋をわたったところを土手沿いに左に折れると、大きな常夜燈のふもとから中山道の旧道が南にのび、八日市・日野・土山に至る御代参街道の旧道が分岐している。このあたりが五個荘小幡で、近江商人の発祥の地ともいうべき場所である。小幡商人は琵琶湖を横切り九里半街道を通って若狭小浜と通商する五箇商人(小幡・八坂・薩摩・田中江・高島南市)に属すると同時に、八風・千草両街道を通って伊勢と通商する四本商人(小幡・保内・沓掛・石塔)も兼ねる唯一の商人団であった。しかし、織田信長が楽市・楽座を創設し街道の独占的通商権を廃してからは、交易拠点を基礎にした近代的商人が活躍するようになる。先陣をきったのは、信長が安土ではじめた楽市を継いだ八幡に興った八幡商人である。次いで江戸中期になって、既に伊勢、会津で活躍していた日野商人が北関東を中心に積極的な出店経営で大きな勢力を張った。近代的な五個荘商人が活躍したのは江戸後期から明治時代に入ってからである。

五個荘散策はこれら五個荘商人の里を歩く旅であった。常時公開されている4家の本宅を巡る。
まず小幡から一番近い距離に
藤井彦四郎邸がある。広い前庭の片隅に天秤棒をかつぐ近江商人像が立っていた。スキー毛糸の創始者である。中山道からさらに西南方向にはなれて、舟板塀と白壁をめぐらした土蔵屋敷がつらなる金堂地区がある。重要伝統的建造物群保存地区という肩書きをもつ町並みには鯉をはなした水流にそって商人の本宅が深閑と並ぶ。土産物屋ひとつなく、路地は掃いて清めたように清潔であった。

その一画に三軒の商家が集まって公開されている。私小説家外村繁邸とその本家外村宇兵衛邸、そして昭和初期朝鮮にて三中井百貨店を経営した
中江準五郎の本宅である。
どこの家にも奥座敷に古雛と、小幡人形という原彩色ながら素朴な土人形が飾ってあった。小幡人形はある時郵便切手に採用されて全国的に知られるようになった密かな郷土工芸品だが、今ではわずかに一軒だけが製作をつづけているという。

五個荘は中山道に沿ってあり、愛知川を挟んで愛知川宿と対峙している。正式な宿場ではないが、増水で川を渡れないときは旅人に宿を貸す旅籠もあったであろう。旧中山道をたどって五個荘から武佐に向かう旅は、日を改めて訪れよう。


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日野  

日野に商人が育った事情は八幡に似ている。信長の進歩的な商工業奨励策を受け継いだ城主のもとで有能な商人が育っていった。豊臣秀次の八幡であり、蒲生氏郷の日野である。日野の商人はあくまで村方(在方)として存在し、農間余業として商業をおこなった五個荘商人とは対照的である。八幡と日野でその商法に違いがある。江戸に大店をかまえた八幡商人とは異なった店舗戦略をとり、日野商人は地方の街道筋に小規模大量出店を展開した。さしずめ、現在の百貨店対スーパーチェーンといったところか。
また日野資本は北関東を中心として酒・味噌・醤油の醸造事業にも盛んに進出したことも特徴的といえよう。確かに「三方よし」の埼玉、栃木、群馬の各県には日野関係の酒店が多い。実際は債権回収の結果として醸造業に手を染めることになったという消極的な話も聞いた。

そんなもう一つの「てんびんの里」をレンタサイクルでまわってみた。同じ日野でも多くの商人を輩出した地区が二つある。一つは東(現在の中心部)の大窪・岡本地区で、
山中中井、矢野、矢尾等の家系が「日野屋」の屋号で組織化をはかった。それらの傍系は「近江屋」「桝(舛)屋」を使用した。岡本、清水地区には板塀、白壁の旧家の町並みが残っている。五個荘ほどに気取ってはいない。

他の一つは西方にある
北比都佐村(現猫田地区)で、藤崎、北西、田中家が地縁で「十一屋」の屋号のもとに結束した。傍系には「江州屋」と「土屋」がある。50軒余りの家があつまる静かな集落にはいると、左手にひときわたかい板塀をめぐらした豪邸がめについた。カメラを構えようとしたときに道を掃除する老人と目があった。日野商人と北関東に展開する酒造りの話を出すと、親切に話しに応じてくれた。表札には「藤崎」とあった。本人は明かさなかったが、私は藤崎ハ兵衛家の本宅の主人と会っていたのだった。

日野の中心部からすこし東に進んだ新町に、日野商人を語るとき忘れてはならない人物の本宅がある。地元で今も経営をつづけ当主はここに住んでいる。日野合薬の創始者、正野法眼玄三邸である。自宅は長い白壁と板塀をめぐらし、一部は道にそりでた格子窓を設けている。この窓は「桟敷窓」とよばれるもので日野祭りのときだけ開けられる。正野玄三も日野椀や茶・布を持ち歩いた行商人だったが母の病気をきっかけで医師を志した点で、他の日野商人とはすこし変わっている。日野駅からのバス通りの途中に日野薬品工業の本社屋があった。本宅の隣が旧店舗で、今は観光案内所となっている。店先に架けられた大きく「三方よし」とかかれた幕がいかにも誇らしげであった。中で日野菜を買った。

日野も五個荘から発し八日市を通ってきた御代参街道の道筋に当たる。江戸時代からの旧道を示す道標のそばに立派な常夜燈が建っている。地名も「伊勢道」という。詳しくは「御代参街道」を歩いたときに話そう。


2000年8月)
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