豊郷

八日市から2両編成の近江鉄道にのって豊郷でおりた。そこから中山道の旧道を五個荘まで歩く予定だ。高校時代毎日乗っていた電車だが豊郷の駅でおりるのはこれが初めてである。当時豊郷について知っていたことといえば伊藤忠兵衛の故郷であることと、豊郷病院という、田舎にしては近代的な病院があることくらいだった。

駅で案内マップを手に入れて、旧道を高宮の方へもどる。駅をでるとすぐに「犬上の君遺跡公園」をよこぎる。古代からこの土地を犬上君とよばれる豪族が支配していた。なかでも犬上御田鍬は、614年に遣隋使として、また630年には遣唐使として派遣された有能者であったという。ふるい土地柄であることを記した記念碑があった。

旧道に出てこの1、2年マスコミでも話題になった豊郷小学校までたどり着いた。阿自岐(あじき)神社までいくべきだったが、すこし遠い。阿自岐神社は名からもわかるように渡来人を祀る神社である。近江は国一帯に渡来人の足跡がのこされているが、中でも湖東に多い。

豊郷小学校は昭和12年に、丸紅の番頭だった古川鉄治郎の寄付によってボーリスが東洋一といわれた鉄筋コンクリートの校舎を建てたものである。新校舎の建設にあたり、取壊し派と保存派の対立は町長のリコール問題にまで発展した。かってはまぶしいような白亜の建物であったろう校舎も今は薄汚れをみせて、両翼を地上に休める老鳥をおもわせる寂しさを漂わせていた。

街道をへだてた田んぼのそばに弓矢を天に向けたモニュメントをみつけた。
「やりこの郷」と書いた看板が興味をそそる。ここの地名が安食(あじき)で阿自岐とおなじだ。その神社にまつわる雨乞い伝承が伝わっている。阿自岐神社はぜひ見ておかねばならない。

集落の家並みにはいるとバス停の場所に
「一里塚の郷」の石標がたっている。もう少し先の交差点あたりに一里塚があったらしい。豊郷は中山道にあって、高宮宿と愛知川宿の間の宿だった。背後に見えるそれらしき盛土は演出だろう。そばにあるのは延応元年(1239)、京都の男山八幡宮から勧請したという八幡神社である。境内は那須与一の次男・石畠民武大輔宗信が築いた那須城の跡地であるらしい。

静かなたたずまいの町並みを歩いていくと、豊郷を代表する近江商人伊藤家関係の史跡がつづいて登場する。まず初代丸紅社長となった第7代
伊藤長兵衛家屋敷跡と彫られた顕彰碑が豊郷病院の駐車場の石垣台に建っている。昭和元年(1925年)、彼は多額の資金と敷地を寄付して「豊郷病院」を創設した。鉄筋コンクリート造りで左右対称な両翼をもつ箱型建物は、その11年後に同社専務が建てた豊郷小学校の建物を小ぶりにしたよう相似形になっていて、親子と思うほど似ている。

次に見えるのが黒塀に見越しの松を配した
伊藤忠兵衛の生家である。塀の内側には白壁土蔵が垣間見える。屋敷自体は切妻屋根で豪商の実家としては簡素なたたずまいにだ。ここに生まれた2代目伊藤忠兵衛は初代伊藤忠商事社長に就任した。初代伊藤忠兵衛は6代伊藤長兵衛の弟で、伊藤長兵衛家の分家にあたる。

その先右手に「又十屋敷」の大きな看板が見えてくる。屋敷の前に一里塚跡の石柱が置かれている。ここにもう一人の近江商人が住んでいた。名は藤野喜兵衛、屋号を又十という。藤野喜兵衛は、江戸時代から明治時代にかけて、蝦夷に渡り根室を中心とする道東・千島の漁場を開拓して財をなした。藤野家は昭和の初めに北海道に移住し、残された屋敷が「会豊館」として維持されている。休館日に拘わらず、前庭を掃除していた管理人のおじさんが館内を案内してくれた。晩年の藤野氏は彦根藩主井伊直弼と懇意にしており、直弼は藤野邸に宿泊している。玄関をあがると正面に、直弼から拝領したという鎧が飾ってあった。裏には「松前庭園」とよばれている立派な庭がある。この屋敷は天保飢饉のとき窮民救済の一策として二代目四郎兵衛が建てたもので「飢饉普請」といわれるものである。自分の屋敷のほかに、近くの日吉山千樹寺の改築も行った。

千樹寺の参道入口に「江州音頭発祥の地」という石碑が建っている。じつはちょうど40年に中山道を歩いたときにこの場所に立っており、はがれた土蔵と舗装工事中の参道の写真が残っていた。江州音頭の起源は天正14年(1586)に遡る。観音堂再建を祝う余興に、地元の老若男女が経文の二、三句を節面白く歌いつつ、手振り、足振り揃えて円陣を作り躍ったのがはじまりと伝えられる。弘化3年にも火災にあって、このとき藤野四郎兵衛は飢餓普請として漢音堂を改築した。

道は宇曽川にかかり歌詰橋を渡って愛知川宿に向かう。 


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愛知川


川をわたって堤防を右に入ったところの案内板に、「宇曽川」と「歌詰橋」という二つの一風変わった名前の由来が書かれている。「宇曽」は舟運の「運槽」から来たといい、「歌詰」は平将門伝説からきていて、藤原秀郷を追っかけてきた将門の首が、秀郷に歌一首を問われ、歌に詰まった将門の首は橋上に落ちたという。怨念の出会いでも形に雅をわすれない日本という美しい国の伝説だ。

まもなく、街道をすこし東にはずれたところに
「山塚古墳」がある。「将門塚」とも呼ばれているようで、歌に詰まって恥をかいた将門の首塚かもしれない。発掘調査はしていないが、掘れば貴重な副葬品がでてくるだろう、とのんびりしたものだ。絵本からぬき出てきたようなかわいい萱葺きの農家が道をへだてて建っている。周囲の瓦葺家屋がなければ古代住居の復元かとも錯覚しそうな、古墳の隣家にふさわしい佇まいであった。

愛知川宿にはいる手前は沓掛地区で、ここは五個荘小幡、八日市保内、蒲生石塔とともに四本商人とよばれた中世近江商人の拠点であった。四本商人は八風・千草両街道を通って鈴鹿山脈を越え伊勢と通商していたため、山越商人ともよばれている。

街道は中宿にはいり、木戸を模ったアーチの下を通っていくと左の角地に広大な敷地を板塀でめぐらせた屋敷が見えてくる。
「近江商人亭」という料亭だが、東京日本橋に本社をかまえる婦人服卸商社、「田源」の創始者田中源治の本宅である。通りはいよいよ町の中心にはいってきたようだ。交差点にポケットパークがあり、「高宮宿2里、武佐宿2里半」と刻んだ道標と、歌川広重の木曽街道にある「恵智川」「むちんはし」の絵が記念碑に描かれている。愛知川宿は、愛知川の渡し場として設けられた東山道時代からの宿駅で、江戸時代に中山道の66番目の宿場町として整備された。

八幡神社あたりが宿場の中心地だったのだろう。参道入口の常夜燈の脇に、高札場跡の石標があるほか、付近に脇本陣、問屋があった跡をしめす標石柱が建ててある。いずれも最近整備されたようで新しいものだ。洋館の日本生命の建物が本陣跡だ。本陣は弘世(ひろせ)家が勤めた。7代助三郎は「日本生命」の創始者である。歩をすすめていくと旅籠然とした建物があらわれた。屋根つき提灯には堂々とした墨字で「恵智川宿 旅籠竹の子屋平八」と書かれている。宝暦8年(1758)創業の元旅籠「竹の子屋」である。明治天皇が気に入って二度も立ち寄った。記念の明治天皇御聖蹟碑が立つ。4代目平八のとき「鯉のあめ煮」でしられる料理旅館として「竹平(たけへい)楼」に改称、現在7代目に受け継がれている。

街道はこの先で不飲川(のまずがわ)をわたり南口をでて国道に合流する。不飲川も将門伝説と関係があるらしく、川の水を飲まないのはなんでも水源の池で首を洗ったためといわれている。
国道8号の合流点に一里塚跡碑がたっている。国道をしばらくすすむと愛知川に架かる御幸橋に着く。「無賃橋」といわれた昔の木橋は少し上流、近江鉄道の鉄橋あたりに架かっていた。高宮宿の南、犬上川に架かる橋も「むちん橋」といわれており、地元有力者による出資で建設された無料の橋につけられる愛称のようだ。

「御幸橋」は明治11年天皇巡幸にあたり車馬が通れるように架け替えられたのを記念して名付けられた。橋の袂に大きな常夜灯が建っている。対岸、五個荘小幡の堤防にも常夜灯があり、それらを結んで「無賃橋」があった。

草むらに座って一両編成の電車が八日市方面から橋を渡ってくるのを待つ。

2008年5月)
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