甲賀

甲賀はたしかに琵琶湖に接しない内陸山間部で、独立した地域に値する。高島郡が湖西を独占するように甲賀地域は甲賀郡のみからなる。甲賀地区は甲賀、信楽、水口、土山といったところを含む広い地域で、その中央を東海道が真一文字に横切って鈴鹿峠に抜けていく。



信楽

11月24日の予定は午前を古代ロマンの旅にあて午後は妻の言うなりに窯元めぐりをする計画であった。
前日の朝刊一面にカラー写真入りの大きな記事があった。
「滋賀・宮町遺跡 紫香楽宮遺構と断定」「全長90メートル超す朝堂跡」
という見出しである。従来から、「史跡紫香楽宮跡」と言われている場所は実は甲賀寺跡であり、紫香楽宮跡は別の場所であると言われてきた。今般の宮町の発掘調査でそこが紫香楽宮跡であることが確定的となったのである。翌日25日に現地説明会があるという。私たちの旅に合わせたようなこの偶然に、なんとなく得意な気分になっていた。



紫香楽宮跡

信楽町黄瀬の林のなかに小さなお堂があった。その背後の広い敷地に257個もの寺院建築様式の柱の位置を示す礎石が点々として残っており、本堂、講堂、金堂の跡だと夫々に説明書きがある。聖武天皇がここに金剛大仏建立を企てたといわれている甲賀寺伽藍跡である。最近までここが聖武天皇の紫香楽宮跡地と考えられていたが、1994年の発掘調査の結果、およそ2km北の宮町遺跡が本当の宮跡であるとほぼ確定された。

一人、二人と朝の散歩にやってきた老人とすれ違った。あたりは紅葉の林に囲まれて静寂が支配している。ガイドブックにある写真と同じスポットに三脚を構え、時間をかけて写真をとる。

三人連れがやってきた。手に新聞の切り抜きをもって議論している。
「ここじゃない」
「もっとむこうだ」
「本当の紫香楽宮跡に行かれるのですか」
と話しかけると、一人が大きく笑みを浮かべてうなずいた。
紛らわしい。ここは甲賀寺跡である。



神宮神社遺跡

宮町遺跡に移動する途中、大蔵谷(おうぞうたに)といわれる場所にもう一つの遺跡が発掘中である。神宮神社遺跡といって2000年4月に第二名阪自動車道路工事中に発見されたものである。

秋の日差しを受けた山里の一角で、地元の農家の人達が20人ほど、地面に腰をおろしてのんびりと土を掘り起こしていた。世間話をしながら老人会のピクニックを楽しんでいるふうであった。たんぼのあちらこちらに丸くえぐられた跡が点在している。掘立柱建物の跡である。旧河道や橋脚も見つかっている。
――どのようにして見つけるのだろう。土の固さがちがっていたのかしらん。
――固さでなくて古さだろう。
にわか考古学ファンになったつもりで自問自答する。
「今から適当に溝を掘って、ここは昔川だったといってもわからないね」
と、縄文石器をねつ造発掘した藤村副理事長まがいの発想も頭を横切る。出土したヒノキ材の年輪年代測定からそれは天平16年(744年)5月に伐採されたものだという。千年以上前の時代の、月まで特定できるとは驚きである。

私たちをまじめな見学者だと認めて、若い調査員が
「プレハブの二階に発掘遺物がありますから見ていって下さい」
と、この遺跡の説明書をくれた。
建設現場事務所のような建物の二階にあがると一人の女性が出土した土器の破片をジグゾーパズルのように合わしていた。碗や壷や硯類が多い。発掘物をきれいに水洗いして表面の模様と切片と彎曲度を手がかりに原型を探っていく。気の遠くなるような作業だ。大きな立体状のものは石膏の型を作ってその表面にボンドで貼り付けているようである。
地球儀に大陸プレートだけが乗っていて、海の部分が白地のままに残されている。

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宮町遺跡

この場所は田園のど真ん中にあった。目印となる公民館と盛土を覆った青いビニールシートは遠くから見えるのだが車で行こうとするとなかなか近づけない妙な場所だった。
あぜ道を試行錯誤して公民館のグラウンドにたどり着き望遠レンズを取りだそうとしたとき、カメラバッグがないことに気付いた。レンズはまた買えばよいが永源寺の紅葉を撮ったフィルムは金に代えられない。置き忘れた場所はすぐに分かった。今日はまだ二ヶ所しか行っていない。バッグを担いだのは最初の信楽宮跡である。一時間ほど経っているがあまり人はいなかったはずで不安のなかにも安心感はあった。根拠もなく、ここが滋賀県であると意識することでさらに不安が取り除かれていく自分の心理がおかしかった。距離にして2kmもない道を急いでもどるとお堂のそばのベンチにぽつねんと茶色の皮バッグが残っていた。
ひとしきり妻の小言をきくのはやむをえない。

再び宮町発掘現場に着くと、先の神宮遺跡でであったおじさんが見学を終ろうとしていた。
「また出合いましたね」「お元気ですね」とエールを交換する。
二枚の田にまたがって斜めにロープが張られ、その中に白いチョークで囲まれた丸い柱跡が点々と続いていた。今回出土したのは全長90mを超す奈良時代中期の長大な掘立て柱建物跡一棟である。3‐4m間隔で並んだ柱穴が南北に22柱間91.5m以上、東西に4柱間12mの建物跡と判明。天皇や高官が儀式や政治を行った朝堂院の西脇殿と推定された。中心地はここより東側で、東脇殿や大極殿の発掘が期待されている。

紫香楽宮は奈良時代の742年、現在の京都府に恭仁京を造営中であった聖武天皇が、この地に造営した離宮である。745年の1月に正式の皇居と定められたが重なる山火事や地震におそわれわずか5ヵ月で聖武天皇は平城京へ戻った。地図でみると今朝見た三ヶ所はほぼ一直線上に並び、朱雀路で結ばれていたと推定される。神宮神社遺跡で出土した幅8.5mの橋は朱雀路に沿ったものであろう。朱雀路周辺には市がたち、役人や大仏造りの職人で賑わったことと思われる。

近い将来、今の「信楽宮跡」は「甲賀寺跡」に、そしてこの宮町遺跡が正式に「信楽宮跡」と書き換えられることであろう。薄命の都であったがそれが幻でなかったことがわかって嬉しい。

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信楽焼

信楽焼といえばまず、笠をかぶり徳利をぶら下げた脱腸気味の大狸を思い浮かべるが、そもそも信楽焼は日本六古窯に数えられる焼物である。古くは天平14年、聖武天皇が紫香楽宮を造営する際に、この地で瓦を焼いたのがはじまりといわれている。産業としての信楽焼きのスタートは鎌倉時代以後のことで、当初はすり鉢、甕、壷といった日常雑器類にかぎられていた。織田信長の時代にはいって信楽焼きは商品として多量に流通するようになり、茶の湯が盛んになり、千利休らが茶器として用いるようになると、信楽焼は全国的に知られるようになった。狸が生産されるようになったのは明治以降のことである。現在では、植木鉢、食器といった日用陶器や、建築用タイル、陶板、タヌキ、傘立て、花器、茶器、庭園陶器などをつくっている。宮町にある中井出古窯跡は室町時代後半に操業していた窯で、中世古窯の典型として県指定史跡となっている。

ちなみに日本六古窯とは、日本の中世期に生産を開始し、現代まで継続している陶器産地として選ばれた六ヶ所の窯業地であり、瀬戸・常滑・越前・信楽・丹波・備前の六窯を指す。



宗陶苑

307号線にもどり信楽町の中心まで進む。陶器の里という看板とたぬきの焼き物が目に入ってくる。21世紀を展望して、二人で今後の旅行計画を話しあった時、私は田舎の風景の写真を撮りたいといい、妻は全国の窯元めぐりをしたいと言った。信楽がその第一番めとなる。本に「日本一の登り窯」とあった、宗陶苑をたずねることにした。

信楽が観光地としても知られるようになったのはメディアに負うところが大きい。1977年の秋から「天の花と実」という3ヵ月の連続テレビドラマが始まった。信楽焼の窯元に奉公する女性と、青年陶工とのひたむきな純愛ドラマである。竹下景子がまだ素人ぽい頃で相手役は渡瀬恒彦であった。全国的にも人気があった番組だったと記憶している。ちなみに竹下景子はその後「一番お嫁さんにしたい女性」に選ばれ特に中高年男性の間で人気が高い。

細い路地を通ってたどり着く。観光バスが数台駐車しているからよほどの有名な窯元なのであろう。「天の花と実」で竹下景子が奉公していたのはこの宗陶苑である。その後もテレビや映画のロケに使われていて信楽の顔となっているらしい。2時に陶芸教室を一名予約して、それまで順路に沿って園内を見て歩くことにした。

圧巻は
日本最大級の登り窯である。雪国のかまくらのようなふっくらとした窯室が階段状に11室連なっている。基部の炊き窯の中は真っ暗で何も見えなかったがストロボで撮った写真には内部に棚がしつらえてあるのが写っていた。窯は上に登るにしたがって扇をやや開いたように幅が広がっている。各室には搬入口があり、そこを覗くと炊き窯にちかいほうの壁の下に通風口があいていて、そこから熱風が送られてくる。登り窯の仕組みを初めて知った。窯が炊かれるのは年に10回で、3日かけて室内の温度を1300度にまで高める。それ以上でも以下でもいけないそうだ。第1室と最後の第11室は同じ温度になるという。一回に800束の薪が灰になる。赤松が最もよいらしいが木資源が不足して、今は製作の大部分が電気窯によっているということであった。

2時から90分の予定で妻は陶芸教室に参加した。他に三組の若いカップルがいた。私はろくろの上で粘土をいじってもまともにできそうもないので撮影係りとして最初と最後の15分を妻の製作撮影に付き合った。指導員の補助を得て妻は抹茶碗を練り上げた。粘土を棒状にねりあげそれを巻いていく手法を手ひねりという。電気窯で焼くと2000円、登り窯の場合は500円高い。次回登り窯を炊くのは2月で、それまでまだらな灰茶色の焦げ目がついた完成品は待たねばならない。

21世紀にはいった年の2月末近く、妻の陶芸第一作が届いた。円形の一部がやや外に膨れた碗がほどよく焼きあがっている。ざらざらとした手触りが素朴で、信楽焼きの風情は一人前である。

2000年8月)
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